第1話

文字数 6,033文字


「彼は自殺したの」と彼女は言った。ひどく淡々とした口調だった。あるいは二年経った今でもその光景は彼女の目に鮮明に焼き付いているのかもしれない、と僕は思った。だからこそ、むしろこのように感情を押し殺そうとしているのではないか? 僕は本能的にそう感じた。

「どのような状況だったのか、もしよろしければ教えていただけませんか?」と僕は言った。

 彼女は一度窓の外を見て――空は青く晴れ渡り、近くの木の上で鳥が気持ち良さそうに鳴いていた――視線をもとに戻した。もっともこちらの目を直視してはいないが。

「あれはよく晴れた日曜日の朝だった」と彼女は言った。その口調にはほんの少しだけ哀しみの色が混じっていたが、話しているうちに次第にそれも消えていった。僕はただ耳を傾けていた。

「いつもと何の変わりもない。ただそうね・・・。ちょっと天気が良過ぎたかも知れない。ちょうど今と同じ五月の始めで、お日様が気持ち良さそうに輝いていた。彼は私よりもずっと早く起きて、犬の散歩に行った。ねえ、彼は犬の散歩に行ったのよ? 普段と同じように。どうしてあんなことが起こるって想像できる? 少なくとも私にはできなかったわ」

 僕はそこで彼女が何を感じていたのか、想像してみる。普段と同じ日曜日の朝。空は晴れ渡っている。気持ちの良い風が吹き抜けていく。庭の芝生は、昨日夫が()ってくれた。その彼はついさっき犬の散歩から戻ってきた。そして一緒に朝食を食べる・・・。

「朝食のときも、普段と変わった様子はなんにもなかった」と彼女は言った。「トーストと、果物。私は二人分のコーヒーを注いだ。彼は新聞を読んでいた。私はテレビを点けて、すぐに消した。だってとても静かで素敵な朝だったんだもの。アナウンサーの退屈な声で、その穏やかな雰囲気を乱されたくなかった」

 僕はただ話を聞いていた。鳥がどこかに飛び去るのが分かった。

「彼は地方版の記事を見て、何かを言った。待って。今何の記事だったのか思い出すから・・・。ええと、あれは・・・。そうそう、たしか地方議員の汚職のことだった。私はそんなことにはまったく興味がなかったのだけれど、ただ彼の話を聞いていた。『この人だって本当はそんなに悪い人じゃなかったはずだ』と彼は言っていた。『そうね』と私は言って、コーヒーを飲んだ」

 彼女は一度目を閉じ、そのときの光景をありありと思い出していた。僕は一瞬、()れたてのコーヒーの匂いを()いだような気がした。

「あら、ごめんなさいね」と突然口調を変えて彼女は言った。「飲み物も出さないで。コーヒーでいいかしら?」

 飲み物は要らない、と慌てて僕は言った。僕としては話の流れが中断されてしまうことの方が嫌だったのだ。彼女には彼女のペースで話し続けてほしい。

 僕が断ると、彼女は起こしかけた身体をまた椅子の上に下ろした。六十を過ぎて、身体に肉は付き始めていたが、不思議と若々しい印象のある人だった。同年代の人と比べても、声に張りはあるし、なによりも目に生気が(みなぎ)っている。しかしあんな形で生涯の伴侶(はんりょ)を失うことになるなんて。

 彼女は一旦切れてしまった話の尻尾をなんとかして手繰(たぐ)り寄せ、もう一度同じ口調で話し始めた。

「ええと、どこまで行ったかしらね・・・。そう、朝食を食べていたところ。それで、私たちはそんな風にして食事を終え、彼が食器を洗った。彼はいつもそうやって率先(そっせん)して家事を手伝ってくれた。私はその仕事を彼に任せ、床に掃除機をかけた。それがいつもの日曜日の決まりだったの。

 洗い物が終わると、私がまだ掃除をしている最中に、彼がソファに横になった。そんなのは普段はあまりないこと。彼はいつも活動的な人だったし、食事を終えたら基本的にはいつも外に出ていた。そして庭仕事をしたり、(まき)を割ったり、そんなことをしていた。たまに車で図書館に行くこともあったけれどね。そうやって引退後の余生を過ごしていたの。

 そう、本当に正直にいえば、私たちにはそれなりの(たくわ)えがあったから、もっとお金のかかる趣味を持ってもよかった。旅行に行くとか、たとえば彼ならゴルフに行くとかね。でも私があまり外出を好まないせいもあって、彼も基本的には家にいてくれた。今思えばそれがあまりよくなかったのかしら? ねえ、あなたどう思う?」

 僕にはよく分からない、と僕は正直に言った。でも静かに家で過ごすのもさほど悪くないのではないか?

「まあね。こんなことまだ若い人に訊いても仕方ないわね。年寄りの引退後のことなんか。まあいいわ。とにかく彼はそうやって基本的には家の周辺で過ごしていた。一度だけ遠出したこともあったけれど――昔の仕事仲間と温泉に行ったの――それも一晩だけですぐに戻ってきた。そしてやっぱり家が一番だ、と言っていた」

「仲が良かったんですね」と僕は言った。

「ええ。たぶんそうだったんだと思う。なにしろ四十年近く一緒にいたんだから。ねえ、私たちが出会ったときのこと、話したかしら?」

 いや、まだ聞いていません、と僕は言った。

「あれはたしか私が二十二で、彼が二十七か八か、それくらいの頃だった。私は当時デパートで働いていたの(結構採用されるの難しかったのよ)。それで、彼は運送会社で働いていた。もっともドライバーとかじゃなくて、商品の搬送の手伝いをするの。それで、毎日のようにチラリと顔を合わせていたわけ」

「彼が最初にアクションを起こしたのですか?」

「そう。もちろん。私はびっくりしてしまった。だって良い人そうだとは思っていたけれど、まさか私のことを好きだなんてね。そういう手紙をもらったのよ。顔を真っ赤にしてね。もしよろしければご連絡をください、って書いてあった」

「それで、連絡したのですか?」

「まさか」と言って彼女は笑った。若い頃の面影が(おそらく)そこには残っていた。「そんなことしないわよ。最初はただ迷惑に感じていただけだったんだから。それで、できるだけ距離を取ろうと努めていたんだけど――あえて目を合わせなかったりね――しばらくして急にまた彼が手紙をよこしたの。僕はこの仕事を辞めます、って書いてあった。私としてはそんなこと知ったこっちゃないわよ、って感じだったんだけど、いざ彼がいなくなると思うとちょっと寂しくなってきてね。それで連絡を取ったの」

「その後付き合うようになった」

「付き合うっていっても当時のことだからね。大したことはしないのよ。一緒に食事に行くとか、それくらい。彼の方は緊張しちゃっていつも顔を赤くしているだけだったしね。なんかいつも私が一人でしゃべっていた感じ」

「でも気は合ったんでしょう?」

「そうね。たしかに彼といるとすごくリラックスすることができた。本当はもっと顔の良い人が好みだったんだけど、なんか彼といると『この人でもまあいいか』とか思っちゃうの。そういう天性の優しさみたいなものが彼にはあったのね」

「彼はその後別の会社に行ったわけですね」

「そう。それは彼にとっては大きな冒険だったみたい。慣れない営業の仕事をやらされて、いささか疲れ気味だったけれどね。でも私と結婚して、一緒に家庭を持ちたい、というのが彼の大きな希望になっているようだった。私もだんだんその気になってきていたしね」

「そのとき事件が起きた」

「まあ事件というほどのものでもないんだけどね。つまり彼には昔私のほかに付き合っていた人がいて、うまくいかなくてずいぶん前に別れてはいたのだけれど、その人が急に亡くなったの。それが奇妙な状況でね・・・」

「ちょっとしたニュースになったと母から聞きました」

「そう。マスコミなんかが騒いでね。彼女はたしか彼と同い年で、妊娠していた。それももう七カ月か、八カ月にはなっていたんじゃないかな・・・。もっとも結婚はしていなくて、誰が父親なのか、ということも固く口を閉ざしていた。実家で暮らしてはいたのだけれど、本人はそこを出て一人で生活したがっていた。両親がなんとか止めて――だって一体どうして妊娠している未婚の母親が一人で生きていけるっていうの?――自分たちのところに留めていた。彼らは最初はカンカンに怒ったのだけれど、でも娘の口が固いものだからもうあきらめていた。赤ん坊の父親はどこかに消えたのだ、と。大変ではあるが、自分たちでなんとか育てていこう、とね。

 そこまではよかったんだけど、ある日突然娘がいなくなった。たしかに最近塞ぎ込みがちだった、と父親は言っていた。でもまさかあんなことになるとは、と」

「彼女は一人で山に入ったのですね」

「そう。一体どうやってそこまで行ったのかも分からない。でもなんとか行ったのね。ヒッチハイクでもしたのかしら・・・。でもとにかくその山梨の山中で、彼女は死体で発見された」

「とても美しかった、という話を聞きましたが」

「そう。彼女はとても美しい姿で発見されたの。岩と岩の隙間の、暗いところでね。外傷はなかった、と警察は発表した。でも彼女は全裸で、そして



「症状としては一酸化炭素中毒に近かったそうですが」

「そうらしいわね。でも火が燃やされた形跡はまったくなかったそうよ。そこはおそらく熊が冬眠に使う穴だった。彼女はなぜか一人でそこに行って、そして死んだの。美しい姿で」

「マスコミが騒いだのは、子どもが消えてしまったからなんですね」

「そう。たしかに出産した形跡はなかった。しかし彼女の子宮から、子どもだけがきれいさっぱりいなくなっていた。切れたへその緒だけがその名残(なごり)といえるものだった」

「あるいは自殺したのではなく、誰か変質者に襲われた、という可能性はなかったのでしょうか?」

「そうね。警察もそう思ったみたい。でも有力な目撃情報はなかったし、身体には傷一つついていなかった。あまりにも安らかな顔をしているから、最初に見つけた地元の人はただ眠っているだけなのだと思ったそうよ。でももう呼吸はしていなかった。もしその人が

見つけなかったら、そのあとずっとそこで眠っていたんじゃないかしら」

「たしかキノコを採っていたんでしたね」

「そう。その辺は良いキノコが採れるらしいのよ。もっとも厳密にいえば山の所有者のものだから、第一発見者のおじさんはそのことを公表してほしくなかったらしいけどね」

「それで、とにかく彼女は死体で発見された。しかし赤ん坊はいなくなっている。その後も見つからなかったんでしたね」

「そう。彼女の父親の捜索(ねがい)を受けて、何百人という態勢で、赤ん坊の捜索がおこなわれた。でもどこにも見つからなかった。そりゃそうよね。もし産まれたとしても、自分でよちよち歩いて行けるわけじゃないんだから。とにかくそのようにして事件は終わった」

「それであなたの夫はショックを受けた」

 彼女は頷いた。「そりゃひどかったわよ。何日もろくに食事も取らないで、不精(ぶしょう)(ひげ)も生やしてね。それで数日後に言ったの。『あの赤ん坊の父親は俺かもしれない』って」

「本当に?」と僕は驚いて言った。そのことは知らなかった。「それは・・・どれくらい信憑(しんぴょう)性のある話だったんですか?」

「正確なところは彼にしか分からない。でも時期的に合っているんだ、と彼は言った。今思えばそんなこと付き合っているガールフレンドに言うものかしらね。もともと正直ではあったんだけど・・・。たぶんかなり動揺していて、誰かにその話をしないわけにはいかなかったんだと思う」

「彼はその時期に彼女と寝たわけですか?」

「それがなんだかはっきりしないのよ。私としても自分と付き合う前の話だから、それほどきつく問い詰めるわけにもいかないじゃない。それにあんなに動揺していて・・・。でも一度彼がこう言ったのを覚えている。『あれは夢じゃなかったのか』って」

「彼は夢の中で彼女と寝たと思っていた」

「そうなのかもしれないわね。もともとちょっと不思議なところのある人ではあったんだけど、夢の中で寝た相手に

子どもができるなんてね。本当にそんなこと信じていたのかしら・・・。でもとにかく私たちの間ではそれ以降その話題は一度も出なかった。彼はなんとか自分を取り戻し、新しい会社で働くことに意識を集中した。私たちはその二年後に結婚した」

「その件は、あなたに結婚を思い留まらせなかったのですか?」

「実はちょっとそういう部分もあったのよ。この人は純朴そうに見えて、実は私の知らない闇のようなものを抱えているんじゃないかしら、って。それで二年もかかったの。でもあの事件がとりあえず収束してからは――結局赤ん坊は見つからなかったけどね――彼に異常なところはまったく見受けられなかった。誠実で、ちょっと真面目過ぎて、でもときどき変な冗談を言う。正直彼と結婚しない理由を私は思い付くことができなかった」

「その後は特に問題もなく?」

「まあ問題というものはなかったわね。もちろん子どもができない、ということはあった。私はそれほどでもなかったんだけど、彼の方が子どもを欲しがったの。俺は父親になりたいんだって。もしかしたらあのときの罪悪感みたいなものもあったのかもしれない。だって彼女の子どもは死んでしまった可能性が高いわけでしょう? 今度はきちんと俺の手で育てるんだ、ってね。

 でもご存じの通り、どうやら私の方に先天的な問題があって子どもができなかった。不妊治療とか、試してみたんだけどね、うまくいかなかったの。彼は焦らなくていいよ、とは言ったけど、だんだん歳を取ってきて・・・。ねえ、一度養子をとらない? って訊いたことがあるの」

「彼はなんと言ったんです?」

「『いや、それは間違っている』と。『俺は血のつながった子どもが欲しいんだ』と。正直なところ、私は意外に思った。というのも彼はそういった――つまり血のつながりみたいな――ことにはあまり興味がないと思っていたのよ。良くも悪くも穏やかというか。何かに固執(こしつ)したりしない、というか。でもその点に関しては彼の意思は固かった。私は養子をとって幸せに暮らしている人たちのことも知っていたから、そのことについても言ったんだけど・・・」

「彼は首を縦には振らなかった」

「そう。それで子どものことは結局あきらめることになった。たしかにそれについてはちょっと寂しいと感じることはある。この歳になって、夫も、子どももいない、ということはね」

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