第1話

文字数 2,150文字

一般的な他者への働きかけの世界で生き過ごしている人が政治運動への呼びかけや、棘のあるメッセージを警戒するのは、朝起きて夜寝て規則正しく働くという生活の中にある歪みについて考えたり、疑問符を持つことへの罪の意識がある。男女間の縁がその働きかけの世界で得られる以上、その世界に疑問を持つことに厭世的なものを感じるのです。

自分が働きかけられないと困る存在だと知るのが、その働きかけの世界の歪みに耐えかね、疲れて抜け出した人々です。そこでまた、同じ社会復帰を目指すのですが、歪みに疲れて抜け出したのに、歪みへの認識を消化できないまま、矯正を促され、不信を捨てきれずに、また社会復帰を目指すことに抵抗心を持つ人もいるはずです。

働きかけへの不信に、選択肢を与えれらないことがあると思う。

案ずるより産むが易しという教えがありますが、私は、案じた末に産む必要に迫られた末に産みたかった。それは、個人の欲望実現は、私欲を肯定する必要に迫られた時に求める物だという、至って物事を真剣に捉えがちの人間の考えることです。
芸術がその精密なロジックを手放してしまうのは、人間が猿としてそのロジックを手放したということで、法の論理である弱者を守るという理屈への危機が目前に迫った時に、またそのロジックを人間が人間であるために、求め始めるのではないか? それは、歪みに耐えかねて働きかけの世界から抜け出した人々が増え始めた時。つまり、失業者が増えた時。

働きかけの世界での規則的な生活に歪みがあるのは世の常です。それを黙ってしまうのは、まだ少し余裕がある時代。その余裕が弱くなった時、初めて需要が生まれる。

私たちは誰のためにでも生きている存在ではない。働きかけの世界は、外の世界にある煩悩。煩悩が、働きかけの世界の扉を開くのであれば、禁欲に意味はないと説いた、ニーチェの言葉は正しいことになる。外の世界にある煩悩をすべて認めることが、健康的な社会生活を送る近道です。
慰めや優しさの裏側にある怒りや憎しみ。全ての煩悩を認める。すると真の寛容が内側に生まれます。

私欲の肯定が、子供を産むなら、それを煩悩と呼ぶべきか? その煩悩への無邪気な肯定が悲惨な結果を生んだことが、文化を産んだのなら、我々人類は、文化誕生以来、初めてその文化崩壊の危機を迎えております。

私欲は肯定しなければいけない。その上でそれをコントロールする必要がある。

そこで教え学び広めることが必要になる。

私を本当に好きか嫌いか? と女性が男性に問う時、それは煩悩であり私欲であるから、分からない。
認められたくないのか? 有名になりたくないのか? 他人を支配したいと思わないか? 全て私欲である以上、分からない。

男女の縁のほつれやうまくいくいかないが増えたことも、文化が誕生した末に、崩壊へと向かいつつある証拠です。

あるといえばある。ないと言えばない。それが煩悩だから。それに唖然としてしまうのが女性です。
求めてくれなければ困る。女性には、子供を産みたいという願望がある。男への愛は、男の子への愛でもある。

文化文明により人間は私欲をコントロールしたと言いながら、コントロールし過ぎた結果、子供が生まれない世の中になった。それが文明の辿る必然なのです。必要悪というのがある。この子供を産むための煩悩を悪と捉えるのならば、この悪を巡っての全ての争い事が、外側にある世界。

最も純粋で素朴な感情。それは嫌だという感情です。嫌じゃなければ、子供は外へ出ない。

火が燃え始めたら、逃げる。それは、自分が燃えるのが嫌だからです。その時に、火に燃えることが好き! と言う思いを優先出来ますか? 火に燃えることが好き! これが煩悩です。女とセックスしたいと変わらない? しかし、これは非合理です。狂った願望なのです。教育の結果や外側の環境の歪みを受けないと、この非合理性を受け入れることはしづらい。

女を求めるのは、動物的合理性の結果です。動物的に非合理でないものとあるもの。その動物的に合理的な煩悩をどう処理すればいいか? それを選別して、教えるのが教育なのです。

女性の多くが、動物的に素朴で子供を産みたい授かりたいという動物的合理性を選んでいる。男はそこへ向かうために、社会の扉を開ける必要がある。全ての男がではない。寛容さやグループワーク、社会ハーモニー、それが役立たずを認めることが有益であるという答えに辿り着かなければ、文化文明は崩壊する末路を迎える。それは弱者を認めることにより文化文明があるという前提が崩れるからです。

その視野の広さを持てなければ、文明の崩壊は免れないでしょう。

私が自分を大層な人間だと思ってしまうのは、仕方ない。文明的なものを猿から脱却した証拠だというならば、その猿からの脱却を幼児期に終えていたのが私だからです。私はもう一度猿に戻るべきか悩んでいる。私が猿に戻らなくても、子供が生まれる社会が崩れなければそれでいいのです。それが知性と論理で物事を考えられる人間の結論なのです。その私を貶めるような言論に対し、口封じをするのは、文明の崩壊を文化の世界に生きる人間が勧めるようなものです。怖いのは、封じている自分達。いくらでも表で言う勇気があるのなら言うべきなのです。
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