第1話

文字数 1,977文字

 自他共に認めるヘビースモーカーである。喫煙と気胸や癌の発生率上昇の因果関係が気になる年齢を過ぎたので何度も禁煙しようとして達成できなかった。二度目の東京オリンピック辺りから禁煙あるいは分煙の意識が高まり、喫煙場所が限られてきた。人の目も厳しくなり、喫煙者は肩身が狭い。
 初めて訪れた街でひと仕事終え、喫煙場所を探している時だった。その店のドアを開けたのは驚きと懐かしさからだ。昭和には街中によくあった店の脇やビルの角に開いていた対面式の煙草売り場の横にドアがあった。人ひとり応対できる幅の窓口のショーウインドーには数種類色とりどりの煙草がきれいに並べられている。店番はいないし公衆電話もなかったけれどタイムスリップでもしたかのようだ。
 入ってみると喫茶店で拍子抜けした。店の片隅にあった煙草売り場を残してリフォームしたのか、煙草を売っているわけではなく、どうやら喫煙席らしかった。ショーウインドーの上、小さなイーゼル形スタンドに飾られた煙草の箱を喫煙者は見逃さなかった。あり合わせの木切れで組み立てた風のスタンドはいかにも手作りで、文字表示せず、煙草の箱をひとつ置くだけというのは洒落ている。窓口を開いて換気するのだろう。椅子は一脚のみで本格的な分煙ではないけれど、孤独な喫煙者ひとりぐらいは受け入れてくれそうだ。
 壁と反対の入口側には背の高いパキラと棕櫚竹、木製のボックスが店の奥側との境になっており、上にサンスベリアが並べられている。よく伸びた観葉植物に囲まれた居心地よさそうな隙間にありがたく滑り込んだ。
 嬉々として煙草とライターをショーウインドーに載せる。上着を脱ぎながら灰皿を探す。見あたらない。置き忘れか、注文の時に持ってきてくれるのか。大丈夫、携帯用灰皿はいつも持っている。
 脱いだ上着を後ろの木製ボックスに備えられている籐の籠に入れようとして驚いた。籠は二つ、ひとつは空で、ひとつには茶色の毛皮がみっちり詰まっていた。猫である。頭がどこにあるのかわからないほど丸くなって寝ている。
 確かに猫の好きそうな隙間である。ここで煙草は吸えない。猫は煙草の煙が大嫌いだ。故に今まで猫に好かれたことはない。こんな素敵な隙間でかち合うなんて、ついていない。
 出ようとしたタイミングで店員に水を出され、注文を聞かれた。コーヒーをホットで、と頼んでしまう。コーヒー一杯速攻で飲む間ぐらい煙草を吸うのをがまんしよう。猫のほうで去ってくれるのがベストだ。
 私の焦った動きにも店員との会話にも動じず、猫は寝ている。丸くなった横腹の辺りが規則正しく上下する。熟睡だ。あきれて肩の力が抜けた。一脚だけの椅子は座り心地がよく脱力に拍車をかける。
 ショーウインドーに置くのにちょうどよい幅と長さの木製トレイに載せてコーヒーが出された。好みの深入りで香り高い。コーヒーの苦みを味わう。窓の向こうを眺める。街路樹が風に揺れ、木漏れ日が輝いている。店番でもしている気分だ。今にも煙草を買いに誰か来そうだ。来られても困るが。
 喫煙席ではなかったのか。改めて、ショーウインドーの煙草の箱を見てみる。薄黄色の地に茶色のヒトコブラクダのデザイン、キャメルだ。2022年にラインアップの大幅見直しがされ製造販売中止になったもののひとつが未開封のまま置いてあった。今では小さなシルエットとなって上部に印刷されているだけのヒトコブラクダが、ピラミッドとヤシの木を遠景に、眠そうな目や毛並みまで描かれている。喫煙席でなく、レアな煙草を見る席なのか。気にとめていなかったけれど、脇に小さなテーブルヤシが置いてあるのも演出なのか。
 見るだけでなく開けて吸ってしまう者がいたらどうするのだろう。そのまま持って行ってしまう不埒者がいるかもしれない。誘惑と戦う席なのか。とりとめもないことを考えながらコーヒーを飲み終えた。当初の予定より時間がゆっくり流れていた。
 なるべく静かに上着を取った。先ほどまで熟睡していたくせに猫は起きて大あくびをする。伸びた口元とまだ眠たげな目がラクダのようで声を出して笑ってしまった。猫は機嫌を損ねそっぽを向く。ほっそりとした首に小さめの頭、洋猫のようである。ア、とかビ、とかいったか。
 ショーウインドーの上のキャメルと猫を見比べる。猫の毛並みはいわゆる茶トラの茶色というよりキャメル色に近い。そうか、煙草と同じ名前を持つ猫と過ごす席だ。
「キャメル」
 毛づくろいを始めた猫は見向きもしない。気負って呼んだので恥しい。外したか、がっかりだ。ひらめいた。
「ジョー」
 振り向いた猫が図体に似合わぬ高くかわいい声でニャーと返事をする。
 なんとも愉快な気分だ。
「そうか、ジョーか、いい名前だ」
 キャメルのパッケージに描かれたヒトコブラクダには名前がある。
「オールドジョー」という。
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