第1話

文字数 1,984文字

 コウタロウ兄ちゃんが始発で帰ってくる。
 そんなの、聞いてないよ。
 お母さんの目を盗んで、走った。奈々ちゃんの家へ。

 奈々ちゃんは、土曜の朝、必ず、猫を庭で遊ばせる。モルというしましまの猫だ。もう随分おばあちゃんなので、遊ぶと言っても、ただお日様を浴びて丸くなるだけだけど。僕が行くとすぐに気づいて、うるる、って鳴く。ねこ仲間だけど、モルの言葉はよくわからない。
「あれ、ハッチ。おはよう。早いね」
 寝間着のままの奈々ちゃんは、猫にも気さくに挨拶をしてくれる。にゃあん。おはよう。夏が終わったみたいに涼しい朝だね。
「また、モルのご飯を食べに来たの?あれはおばあちゃんねこ用だから、あんまり美味しくないと思うんだけどな」
 知ってるよ。ちょっと薄味だけど、なかなか悪くないおあじだと思うよ。
 奈々ちゃんのおうちはモルをとても大事にしていて、いつもしっとりしたご飯なので、僕はそれを目当てに毎回脱走をかましている、と思われているふしがある。このおうちの人は皆ねこに親切だけど、そのなかでもひときわ優しい奈々ちゃんは、「ちょっと待ってね」と、ご飯をよそいに行ってくれる。そのついでに、うちに電話をかけてくれる。ご飯を食べ終えたくらいにお迎えが来るように。
「不思議。いつも土曜の朝に脱走してくるの。土曜の朝はモルとお庭で遊ぶの、ハッチは知ってるのかなあ」
 知ってるよ。
 君のそういう、自分との約束事に誠実なところが、好きなの。

 土曜の朝、お友達との予定も、部活もないのに、奈々ちゃんがお庭に出てこなかった事がある。コウタロウ兄ちゃんが、野球の道具を一切合切持って、アイチケンに行ってしまった日だ。遊びに来たら、天気は良いのにお庭はしんとしていて、ぴったり閉まったガラス窓の内側からお庭を見ているモルと目が合った。言葉が通じなくてもわかるくらい、モルは困惑していた。
 その日の夜、暗くなった庭で、モルをぎゅっと抱っこして小さくなっている奈々ちゃんを見た。
「コウちゃんは、みんなのヒーローになるんだって。私の事なんか忘れちゃうね」
 モルに話しかける言葉が、涙みたいに滴っていた。
 奈々ちゃんの感じる寂しさは、冷たい水にさわるように、僕の体の毛をしゅくしゅくに濡らして、じんと体の芯にまでしみとおった。けれど、それよりも、月を閉じ込めて、さみしく散るような綺麗さに、僕は見とれた。
 
「ハッチは、コウちゃんが帰ってくる日だから、私に教えに来てくれたの?」
 そんなことないよ、にゃあん。と鳴いたものの、うわずって無かったかな。なんで知ってるの?
「今日、始発でコウちゃん帰ってくるんだって。ハッチのお母さんが教えてくれたよ。お土産があるから、持って行くって」
 にゃあん、駄目だよ。来ないで。
 コウタロウ兄ちゃんなんか、会う必要ないと思うな。あれから二回こたつの季節がきたけど、何も変わってないよ。きっと、始発で帰ってくるから寝癖のままで、いつものジャージでやってくる。だから会わなくていいよ。お土産だって、もう何度も何度も買ってきたお菓子。お母さんがもうやめてって言っても、何も考えてないから、また買ってくるよ。
 ねこなりの熱弁は、伝わったかな。見上げると、意外にも奈々ちゃんは笑っていて、「大丈夫よ、ハッチ」と言った。
「大丈夫よ」
 繰り返した奈々ちゃんの大きなガラス玉みたいな瞳が潤んだ。見る間に、笑顔がくしゅくしゅに歪んで、こぼれた涙をパジャマの袖で隠した。

 雪でぐずぐずに腐りはじめた枯れ草に一生懸命寄り添いながら、いつ、この寒くて辛いのが終わるのか、我慢していた。そんなちっぽけな僕を拾い上げて、しっとりしたご飯をくれたのが、奈々ちゃん。あの時のこたつの暖かさが忘れられない。このおうちにはモルがいたから、奈々ちゃんの幼なじみのコウタロウ兄ちゃんのおうちに、ぼくは住まわせて貰う事になった。
 コウタロウ兄ちゃんをヒーローだって言っていたけど、僕にとっては奈々ちゃんのほうがヒーローだ。コウタロウ兄ちゃんはがさつだし、勝手に炊飯器の中のご飯を食べ尽くしちゃうし、鞄の中に脱いだ下着を入れたまま忘れちゃうからいつもくさい。
 今日だって、きっと、始発で帰ってくるから寝癖のままで、いつものジャージでやってくるし、いつもの食べ飽きたお菓子をお土産に買ってくる。でも、一人じゃ無い。寝癖を直してくれる子が一緒なんだ。会った事はないけど、優しい子なんだ。食べ飽きたお菓子も、はじめて食べるみたいに喜ぶんだろう。
 寒くてさみしいのが辛いこと、僕はとてもとてもよくわかる。奈々ちゃんが、そんなさみしさを感じるなんて、嫌だよ。さみしいことは、ずっと遠くに見つめて、さわらないように通り過ぎるしかないんだ。冬の寒さが行き過ぎるのを、こたつの中で静かに待つみたいに。
 コウタロウ兄ちゃんになんか会わないで。
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