第1話

文字数 2,013文字

(以前通っていた書評講座に、2022年3月提出した課題です)

 人類、本当に進歩がない。海外では宗教の原理主義者が延々と人権を抑圧し続けている。国内に目を向けると、以前は政権批判の担い手である記者達が忖度したり、提灯持ちに回ったりと、言論の自由が徐々に切り崩される状況に恐怖を覚える。
 言いたいことも言えないような言論の自由のない社会は、必然的に滅びに向かう。そんなことが書かれているのが17世紀の哲学者スピノザの『神学・政治論』だ。
 『神学・政治論』はそんな毒に満ちた世の中の処方箋、と言いたいところだが出版された1670年当時は無神論の烙印を押され全方面から叩かれまくった上、現代に至るまで誤解がつきまとう、難解極まりない本である。そこでおすすめしたいのは、シリーズ・哲学のエッセンス『スピノザ 「無神論者」は宗教を肯定できるか』(上野修著・NHK出版刊)という小冊子。講義の息づかいが感じられるいきいきとした文体で、スピノザの主張を復元していく。
 前半は、17世紀オランダで起こっていた信仰と理性の深刻な対立に対する応答になっている。デカルト哲学が勃興していた当時、聖書は哲学の視点から見ると荒唐無稽で矛盾だらけの書物にならざるを得ず、保守的な神学者はデカルト哲学を不敬虔と非難した。デカルト主義者は神学と哲学の分離の原則を唱えはするが、それでも衝突は避けられず、総督派と結びついた神学者はデカルト主義的主張をした人間を獄死させるという事件も起こった。
 そうした状況に直面したスピノザはこう主張した。聖書は真実を教えず、ただ愛と正義への服従を教えるものだと。哲学の目的は真理であり、信仰の目的は服従と敬虔なのだから神学と哲学の間に相互関係はなく、互いに口出しできるような要素はない。
 聖書はひとりの人間が書いたものではなく、多くの人が書き加え、編集した断片の集積で、おまけに当初は母音も句読点もなかったような書物だ。頭から真理が書かれていると決めてかかると解読は困難を極め、謎が謎を呼ぶ本になってしまう。むしろ、この本は伝えたいのは真理ではなく、よく生きること、正しく生きることであり、だからこそいくら改竄や写し間違いがあっても隣人愛などといった誰にも反論できないメッセージは残り続けた。「神が存在する」から「神は悔い改める者を許す」まで7箇条の「普遍的信仰の教義」、それを知らなければ信仰が絶対不可能になる教義を、上野は「敬虔の文法」と呼ぶ。聖書の神のことを考えると万人が一致して従ってしまう規則だ。
 後半は政治論が語られる。哲学的思考をはたらかせて聖書を読解したことが神学者の目には不敬虔に映るというが、自由にものを考えて言うことは本当に悪いことなのか。
 正義をなされる状況を実現するには強大な第三者が全員の上に君臨して、守るべき権利を法として宣言し、守らせることになる。社会契約である。正義は最高権力が決定し、最高権力の決定に対して自分の了見で行動することが不敬虔、なかでも社会契約を無効化させるような意見は「反逆的意見」となる。神学者が市民政府の決定に不敬虔を理由にたてつくのは統治権を奪おうとする反逆的意見となってしまうのだ。不敬虔と言う者の方が不敬虔となる逆説。
 ただ、最高権力は何でもできるわけではない。机に草を食べさせるなど、自然の性質に反することは無理だ。人はものを考えることをやめることはできない。自分の信じることを不敬虔とされた人は信念に殉じかねないし、そうした真摯さは後に続く人を生む。言論の自由を制限すると国が不安定になる、法の枠内なら何を考えても言っても不敬虔ではないというのが『神学政治論』の結論だ。
 こうした『神学・政治論』の概観から議論のポイント、出版後の影響まで上野はきわめてコンパクトに、かつ語りかけるようにまとめていて、最初の一冊はこれしかないとおすすめできる。続いて光文社古典新訳文庫で出ている実物もぜひどうぞ。

(※『スピノザ 「無神論者」は宗教を肯定できるか』は現在Kindle版のみ発売。現在は『スピノザ『神学政治論』を読む』(ちくま学芸文庫)に収録されている)

(ちなみに、私がこれまで読んできた本の中で最も好きな本は上野修『哲学者たちのワンダーランド 様相の十七世紀』(講談社)です。講談社のPR誌『本』の連載をまとめたもので、デカルト、スピノザ、ホッブズ、ライプニッツが上野先生の語りで大暴れする冒険活劇です。中学生以上の人全てにおすすめしたい。私はこの本をメモを取って丁寧に読まれた挙句に借りパクされ、別の時には買ったその日に飲み屋で出会った大学生にあげてしまい、後日ツイッターでめちゃくちゃ読んでいる様子が報告されたという‥…。人に夢中で読ませる魅力がある本のようです。確か、紙では絶版、Kindleで販売されているのですが、私は紙版のデザインと質感が大好きなのです)
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