歴史の話 3 尾崎秀実 (ソ連のスパイ)

文字数 2,821文字

この作品では将来国家を転覆させるためのエリートを学生の段階から
教育することを目的にする、『学園』を舞台に話が進んでいる。

例えばエリート育成機関として諜報広報委員部があるわけだが、
その中には敵地(政府内や軍部)に潜入工作をするための
訓練を受けている人もいるわけだ。

こういう生徒は、だいたい成績が上位の者が選ばれる。
実際にスパイとして活躍した人が、どんな人物なのかを示す
分かりやすい例として歴史上の人物に尾崎秀実がいる。



主にwiki からの引用が中心になる(いつものことだが……)


尾崎秀実
おざき ほつみ

生誕 1901年(明治34年)4月29日
  日本・岐阜県加茂郡白川町

死没 1944年11月7日(43歳没)
日本・東京都豊島区巣鴨拘置所

国籍 日本(帝国)

出身校 東京帝国大学法学部
職業 評論家・ジャーナリスト・内閣嘱託・ソ連のスパイ・扇動者

配偶者 尾崎 英子
親 尾崎 秀真(父)


尾崎 秀実は、
日本の評論家・ジャーナリスト・共産主義者、ソビエト連邦のスパイで扇動者。
朝日新聞社記者、内閣嘱託、満鉄調査部嘱託職員を務める。
近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論界に重要な地位を占め、
軍部とも独自の関係を持ち、日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)
開戦直前まで政治の最上層部・中枢と接触し国政に影響を与えた。

共産主義者であり、革命家としてリヒャルト・ゾルゲが主導する
ソビエト連邦の諜報組織「ゾルゲ諜報団」に参加し、スパイとして活動。

最終的にゾルゲ事件として1941年(昭和16年)発覚し、
首謀者の1人として裁判を経て死刑に処された。
共産主義者としての活動は同僚はもちろん妻にさえ隠し、
自称「もっとも忠実にして実践的な共産主義者」として、
逮捕されるまで正体が知られることはなかった

1927年。
大阪朝日新聞の上海支店で勤務する。
彼は現地で外国人のスパイ仲間と交流する際に、相手の目を全く見ず、
背中越しにドイツ語や英語で会話して情報を得ていたそうだ。

1928年(昭和3年)ゾルゲ(暗号名:ジョンソン)と知り合い、
彼がコミンテルンのメンバーであることを知る。尾崎は彼と協力関係を結ぶ。

1932年(昭和7年)2月末に大阪本社から帰国命令を受けて日本に戻り、外報部に勤務。
6月初旬にゾルゲと再会、彼から諜報活動に従事するよう要請されて、
全面的な支援を約束、ゾルゲ諜報団の一員として本格的に活動するようになる。
暗号名は「オットー」である。

1937年(昭和12年)東京朝日を退社し、
総理大臣秘書官の牛場友彦の斡旋で第1次近衛内閣の内閣嘱託となる。
同時に、近衛主催の政治勉強会「朝食会」に参加、
この関係は、第2次近衛内閣、第3次近衛内閣まで続いた。

1939年(昭和14年)6月1日、満鉄調査部嘱託職員として
東京支社に勤務。ゾルゲ事件で逮捕されるまで、同社に勤務する。

評論家としては、中国問題に関して『朝日新聞』『中央公論』『改造』で論陣を張った。
彼は世論を対中強硬姿勢へと傾かせ、日中戦争を長期化させることを狙った。

アメリカ国内においてもソ連による反日工作が行われており、
後の対日政策に影響を与えた(「ベノナ文書」も参照)
これら一連の動きは、日中の講和を阻害し、日本軍を中国に張り付け国力の
消耗を狙ったものだった。

ゾルゲ諜報団は独ソ開戦で日本の対ソ参戦の可能性が高まった1941年には
尾崎の提言により対外政策を南進論(南部仏印進駐)に
転じさせる働きかけを積極的におこなったとされている。

ソ連には日本海軍を倒すためのいかなる力も
存在しなかったが、アメリカをけし掛けて日本と戦争させ、
最終的に日本海軍を地球上から消し去ることに成功したのだ。

真珠湾奇襲攻撃に至るまでの裏の事情にソ連のスパイが関与していることを
多くの日本人は知らない。ちなみに当時の米国財務省の財務次官補、
ハリー・デクスター・ホワイトがソ連のスパイだったのは有名な話である。

彼は大統領の様々な提言をしてソ連を助けた。
ソ連への武器貸与法(対独戦を支えたレンドリース)
ハルノートの原文作成(日米交渉決裂の決定打)


・スパイとして処刑。

1941年(昭和16年)10月15日にゾルゲ事件の首謀者の一人として逮捕された。
訊問には積極的に答えたので、28回分の検事・司法警察官訊問調書、
また、28回分の予審判事訊問調書などの、膨大な量の資料を遺した。

この時拘置所で一緒だった伊藤律は、回想録で恰幅の良かった尾崎がやせ衰えていた事、
別件の調査で尾崎に面会した予審判事の小林健治は総白髪になっていたことに
驚いたと記している。また、近衛は尾崎の正体を知った際に驚愕し、
「全く不明の致すところにして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候」
と天皇に謝罪している。

逮捕後の取調べでは、
『我々のグループの目的・任務は、狭義には世界共産主義革命遂行上の最も
 重要な支柱であるソ連を日本帝国主義から守ること』と供述している。

1944年(昭和19年)、ロシア革命記念日にあたる11月7日に、
国防保安法違反、軍機保護法違反、治安維持法違反により
巣鴨拘置所でリヒャルト・ゾルゲと共に絞首刑に処された。

戦前、理想郷を夢見て渡航した多くの日本人コミュニストたちが、
大粛清の渦中に巻き込まれ、利用価値がないとしてソ連当局により
裏切られ残酷に殺害されていったのとは対象に、
ゾルゲ諜報団の面々は稀有な存在であると言える。

彼らはソ連のスパイとして働いた功績からソ連政府から勲章と表彰状を
受けたとされていたが、『近年その存在が確認された』
それを受けて、ロシア政府は親族からの申し出があれば勲章と賞状を
授与すると2010年(平成22年)1月発表している。

また尾崎と共に活動し投獄、獄死した宮城与徳の遺族は、勲章と表彰状を受領した。

尾崎の墓は多磨霊園にある。また、妻宛の遺書が青空文庫に納められている。



筆者は映画『スパイ・ゾルゲ』を大学時代に大学の図書館で視聴した。
尾崎が特別高等警察によって拷問を受けるすさまじい姿は、
当時19歳の若者だった私の脳裏に深く刻まれた。
同時にソ連の歴史に興味を持つ強いきっかけにもなった。

同じく大学で視聴した映画「203高地」では、
ロシア帝国の旅順要塞へなんども突撃を繰り返し、
機関銃の連射で皆殺しにされていく日本兵が幾度も描かれていた。

高校を出たばかりの頃の私には、ここまでむごたらしく人が
死ぬ映画を見たことがなかった。当時は衝撃のあまり過呼吸になってしまった。
34歳になった今でも、筆者がここまで涙を流せる映画を他に見つけられなかった。

私はロシアが大嫌いになった。ロシア人など顔も見たくなかった。
日露戦争を引き起こす原因を作ったロシア皇帝を深く憎むようになった。

そして社会人になり資本主義の奴隷として働くうちに、
私は大学時代の図書館で学んだソ連の革命を思い出し、
今では常日頃からロシア革命のことを考えるようになった。
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