第1話

文字数 2,021文字

 少年は長さがランドセルの二倍はあろうかという大きなリュックを背負い、食パンを口にくわえて家を飛び出した。家を出て二つ目の信号の所で着物姿の老婆が苦しそうに座りこんでいた。大丈夫ですかと声をかけると老婆は救急車を呼んでくれと頼んだ。少年は携帯電話を持っていない。辺りを見回すが人がいない。近くの地理に詳しい少年は公衆電話のある場所まで走った。救急車を手配した少年は老婆の所まで再び走った。救急車は五分後に到着した。駆けつけた救急隊員が老婆の容態を確認するとどうやら命に別条はないようだ。老婆は少年にお礼を述べ、名前を尋ねた。少年は名乗る程の者ではありませんと丁重に断りを入れた。救急車が走り去るのを見届けると少年は学校へと急いだ。何せ今日は修学旅行の日なのだ。
 学校に到着するとバスは既に出発した後だった。嘘だろ、と少年は思った。いくら遅刻が許されないとはいえ、さすがに修学旅行の日に生徒を置き去りにするとはあまりにも不道徳ではないか。と、これは筆者の考えである。
 あーそうですか、そっちがその気ならこっちも自由にやらせてもらいます、と少年は開き直った。学校に一泊してやる。そのためには誰にも見つかってはならない。なかなか面白いゲームじゃないか。修学旅行ではまず味わえない代物だ。
 校舎に入るや否や「おい誰だ」と声を浴びせられた。驚き慌てた少年は一目散に走り出し音楽室に忍び込んだ。ふーと息を吐き出したその時、「何やってるの?」と声がした。反射的に教室を出て行こうとした少年を「ちょっと待って」とその声が引き留めた。少年は足を止めておもむろに声のした方に振り向いたが誰の姿もなかった。安堵から少年は腰が砕けるようにその場に座り込んだ。幻聴を聴く程焦っていたのだと自分に言い聞かせた。
「今日は修学旅行じゃないのかい?」とまた声がした。やっぱり幻聴なんかじゃない。
「誰?」と少年は恐る恐る声を発した。
「こっちだよ」とその声は言った。
その声の先にあるのは名だたる音楽家達の肖像画だった。そしてその声の主はベートーベンとバッハの間にある肖像画であった。少年は肖像画の前まで移動した。
「さっきから話しているのはあなたですか?」と少年は訊ねた。
「そう、私の名前はロパロパフィパパ。君の名前は?」
「川端ポンティ」と少年は名乗った。名乗るまでに一瞬間が空いた。
「珍しい名前だね」
「うん、でも気に入ってる」
 少年は誰にも見つからないことを信条としたため本名を名乗るのは控えようと思った。そこで父親の書斎で見かけた隣り合った二つの書物から名を借りようと思い至った。
「そうなんだ」と川端ポンティは言った。「修学旅行だったんだけど、置いて行かれちゃったんだ」
「先生には言わなかったのかい?」
「生徒を置いて行くような先生に何かを言ったって仕方ないじゃないか」
「じゃあどうするんだい?」
「ここに泊るよ」
「それは難しいと思うよ。君が来ていないことを学校側はおそらく家に連絡しているだろうし、当然親御さんは君が学校に行ったと言う。そうなれば誘拐の話が持ち上がるのが事の成り行きだ」
「誘拐されたかもしれない生徒を置いて行くなんてもってのほかじゃないか」
「君が腹を立てるのはよく分かるよ。でもいずれにしても職員室に行くか家に帰るか、どちらかにした方がいい」
「どっちもしない、今日はここに泊ると決めたんだ」
やれやれとロパロパフィパパは思った。
「だからロパロパフィパパさんも僕に協力してよ」と少年は両手を合わせて哀願した。
「分かったよ、協力する」とロパロパフィパパは請け合った。
「でもここは一つ中をとろう。君がここに泊ることには手を貸す。でも君が誘拐されていないという事はやはりはっきりさせておかないといけない」
「やっぱり職員室に行くか家に帰れって言うんだね?」と少年は怒りを込めて言った。
「そうじゃない。職員室には行かないし家にも帰らない」
「どういうこと?」と少年は訊いた。
「君はここに居ながら修学旅行にも向かう」
少年は目を丸くして固まっている。
「少々難しい話になるけどね、肉体としての君は修学旅行に向かい、精神としての君はここに残る、つまりね、川端ポンティ君が分裂するんだ。それで先生は『こちらの確認違いでした、川端君はバスに乗ってました』と親御さんに連絡をする」
「そんなことできるの?」とワクワクした様子で少年は尋ねた。
「できるよ」
 ロパロパフィパパはそう言うと早速分裂作業に取り掛かった。何やら呪文めいた言葉をかけ川端ポンティを肉体と精神とに分裂させた。そして肉体をバスの中へと飛ばした。音楽室から出ていく自分の体を目の当たりにした川端ポンティは興奮してロパロパフィパパに「すごいね」と声をかけたが、肖像画は一切反応を見せなかった。
その時、教室のドアが開いた。少年は身を隠す余裕もなく立ち尽くしたままであったが、中を確認した教師は何事もなかったようにドアを閉めて立ち去った。
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