愛の蜜筆

文字数 1,944文字

私が出会った一冊の本の話をする前に、まず私の事を自己紹介しておこう。私はしがない読書家である。一応、通りいっぺん、巷で語られる小説については一通り語れる自信がある。しかし、だからこそ普通の読書体験に感動する事も少なくなってしまった。いやこれは玄人気取りの傲慢か。なにしろこの世界には未だ知らない良書が眠っており、私たちをひっ捕まえようと手ぐすね引いて、埃まみれの本棚の端で待ち構えているのだ。今からする本の話もそのような類のものだ。
その本は懇意にしている古書店の安売りのワゴンに眠っていた。タイトルは『愛の蜜筆』。筆者不明の、糸で綴じられた官能小説である。恐らく相当に古い時代の、自己出版の物だろうか。古書であるにも関わらず安売りされていたので、さほど期待せずにページを捲ったが、そこに描かれている世界は、私の想像を遥かに超える物だった。この本は概ね官能小説ではあるが、その根底に眠っているのは熱いスポ根の精神だ。
物語の当初、主人公の大観はとても嫌な人物として描かれる。商家のお抱え書家としての立場に慢心し切っており、大金を払って女遊びをして、それでも遊女からは「遊び方がみっともない」と嫌われる。商売道具である筆もたまに商家に呼ばれて使う以外は仕舞い込んで触らない。そんな訳だから、数年に一度、商家が威信をかけて戦う『筆比べ』にて、新進気鋭の書家にあっさり負けてしまう。それで大観は地位を失って身を持ち崩してしまうのだが、彼は変わらず女遊びをしてとうとう借金まで拵える。堕ちる所まで堕ちきって、働いて借金を返すか命で償うかの瀬戸際まで追い込まれて、そこでようやく大観は自らを省み始める。
それで金貸しの男に斡旋された仕事が『女書道』なのだが、これも初めは上手くいかない。何せ普通の書道とは違って、『女半紙』に書を描くという事さえ守っていれば、筆も墨も、どんな物を使ってもいいのだ。その画材の豊かさは、大観にとって未知の世界である。今までの経験の蓄積でそれなりの物は描けても、女半紙のお鶴さんからは「あんたの書には艶が足りないョ」と叱られてしまう始末。
だがここからはとてもスポ根らしくなってくる。大観は小僧扱いされる事に腹を立て、やがて『女の玉肌に大観あり』と言われるほど女書道で名を上げるわけだが、その過程で血を吐くような努力をして、自らの道を見つけていく。それが読んでいてとても爽快だ。女半紙のお鶴さんを筆跡涼しげな真一文字で悶絶させるシーンはそれまでの蓄積もあって「やったな、大観」と思わず呟いてしまった。しかし、女書道の大家となって物語は終わりではない。大観が女書道の世界で上り詰めてからほどなくの事だ。彼は一枚の春画を見てわなわなと震えた。それこそが葛飾北斎あいや鉄棒ぬらぬらが描いた名画『蛸と海女』だ。江戸は既に女書道の時代から蛸の時代に移ろうとしていたのだ。
だが成長した大観はもはや油断をしない。持てる技術とコネクションを全て引き出し、江戸の春画界の覇権を懸けて、蛸と勝負に売って出る。今で言うところのライブペイントである。
ここが作品のハイライトであり、集大成だろう。蛸のぬめぬめとした触手を避けつつ女の肌に筆を走らせる。過去の出来事が走馬灯のように過ぎる。書道家として死んだ日の事。女書道家として生まれ変わった日の事。墨に蜂蜜を混ぜ、『女半紙』に溜息を吐かせた日の事。くねる身体に般若心経を描き切った日の事。全ての経験が今の大観を形作っていた。そして今、あの『筆比べ』の日のように自分の地位を追う者と争い、ギラギラとしながら自分の最高傑作を作り上げる、まさに人生の絶頂だ。
もう少しで書き上がる、しかしその時大観に不運な事が起きる。小姓が墨をこぼしてしまうのだ。ここからの展開は涙無しでは見る事ができなかった。
蛸が墨を吐いたのだ。
そして大観は蛸の墨で書を書き上げた。勝敗は?それは分からない。話は満足そうに目を閉じる大観の姿で締め括られている。
世の中にはたまにこういう事がある。蛸と大観はその日初めて出会った。しかし、僅かだとしても二人が今までの人生で一番濃密な時間を過ごしたであろう事は想像に難くない。そんな時間を共に過ごした人は、時に家族よりも深く結びつく。
大観はこの小説の中で様々な苦難に遭い、様々な人と出会う。そして最後に、通じ合える蛸と出会った。
物凄い話である。だが、男として非常に羨ましい話でもある。技術を切磋琢磨し、高めあい、理解し合う。そこには打算も何もない。シビアに争いながら、一方で助け合う。大観は物語の最後に、誰よりも通じ合う友を得たと言える。心地よい読後感の中で、私は読破したその本をワゴンに戻した。
良書だが購入はしたくなかった。家族に品性を疑われる。
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