第1話

文字数 3,545文字

 ゴリラッパンツのゴリラに初めて会ったのは5歳の時だった。それから26年が経ってまた会うことになるとは夢にも思わなかった。この26年間、ゴリラッパンツのゴリラが頭の片隅にいたことなどただの一度もなく、彼に会ったことはおろか(そう、彼の性別は男だった)、彼の存在すらすっかり忘れていた。忘れていたというのもおかしな表現で、きっと僕の脳がゴリラッパンツという言葉も存在も、彼に会った記憶も何もかもを消去していたに違いない。だいたい、ゴリラッパンツのゴリラって何なんだ?でも僕は彼に再び会った時に彼が誰だか分かった。ということは、やはり僕は彼に会ったことがあり、それは5歳のときであり、脳はその記憶を消去しきれてはいなかったのだ。
「ゴリラッパンツのゴリラです。どうもお久しぶりです」と言ってゴリラは深々とお辞儀をした。「どうもお久しぶりです」と言って僕も深くお辞儀をした。この時点ではまだ彼のことを思い出してはいなかった。お互いが顔を上げ、無言のまま見つめ合った10秒の後、僕は彼のことを思い出した。「どうもお久しぶりです」と僕は改めて挨拶をした。「お久しぶりです」とゴリラは返事をした。
「暑いですね。ほら、私は毛におおわれていますから余計に暑い」
 彼は26年分しっかりと年をとっていた。体毛には白いものが混じり、顔には小ジワがちらほらと見え、視力が落ちたのか、眼鏡をかけていた。それでも体は全体的に引き締まっていた。
「私もついに老眼が来ましたよ。くるくるとは聞いていましたが本当に来るんですね。歳には敵いませんよ。本当はマスクもするべきなのですが、眼鏡が曇ってしまうので。そうかと言ってコンタクトにはどうも手が出ませんで」
「よく分かります。僕も運転する時だけ眼鏡をかけるのですが、曇ってしまうので運転中はマスクを外すようにしています」
「いやーそれにしても暑いですね。今日は38度まで上がるらしいですよ」
「みたいですね」
「こんな炎天下の中よく畑作業ができますね」
「仕事ですから」。僕は畑でナスの収穫をしていた。
「これはナスですよね?」
「ええナスです。今日明日で大量の注文が入ってるものですから、とれるだけとらないといけないんです。炎天下だろうが大寒波だろうが関係ない。大変な仕事に就いたものですよ、ほんとに」
「水分補給だけはしっかりして下さい。私は歳をとったせいか、あまり喉が渇かなくなりましてね。これが危ないらしいんですよ。意識的に水分をとるようにしなさいと主治医からは口酸っぱく言われてます」
「それは本当に気をつけて下さい。僕もこの前は休憩も食事もとらずにぶっ続けで作業してたらさすがに気分が悪くなりましたから」
「ご自愛ください」とゴリラは言った。それから、収穫をしてみたいと言うので、二人で収穫をした。ナスの収穫はヘタを鋏で切って行う。予備で鋏を二本持ってきておいてよかったと思った。収穫後の鮮度を保つためにヘタは長めに切る。傷みがひどいものはその場に捨てる。もったいないとは思うが、持ち帰っても商品にはならないし、畑に捨てれば土に還る。捨てるのならばもらってもいいかとゴリラが聞くのでどうぞと言うと、パクリとかじった。その場で食べるナスはおいしいと嬉しそうに完食した。  
15分ほどで約30キロのナスを収穫することができた。彼は、ひとつ15キロあるコンテナを二段重ねにし、それを軽々と持ち上げて楽々と軽トラックの荷台に乗せた。
僕は水筒の麦茶をごくごくと飲んだ。彼は持参していたアクエリアスをちびちびと飲んだ。よく草の刈られた畔の斜面に二人で並んで座った。二人とも体育座りで、ゴリラの体育座りは新鮮でなんだかおもしろかった。
「助かりました。一人で収穫するのは大変でしたから」
「こちらこそ初めての体験ができて良かったです」
「僕に会いに来たというのは何か話があるからなのでしょう」と聞くと、「聞いてほしいことがあるのではないですか?」と返って来た。「何か悩みがあるのでしょう。それを聞くためにやってきました」
「悩み、ですか」。すぐに思いついた悩みが二つがあった。「二つ、あります」
「どうぞ」
「最近無性に泣きたくなるんです。なぜだかは分かりません。仕事をしていて、周りの人が帰って一人になった時、なんだか寂しい気持ちになって泣きたくなる。周りに人がいないことが寂しいのでも、一人になったことが寂しいのでもありません。というより、寂しいのかどうかも定かではないです。ただただ泣きたくなる。でも泣けないんです。涙が出ない。泣けと自分で自分に言ってみてもダメ。なんなんでしょう、これは」
「なんなんでしょう」とゴリラは反復した。「相当疲れているのでしょう」
「それはそうだと思います。何せ毎日13時間も14時間も働いていますから。疲れているなんてもんじゃない。でもそれは今に始まったことじゃありません」
「前々から疲れてはいたが、泣きたくなることはなかったと?」
「ええ」
「そうですか」と言って彼は空を見た。僕は草むらを見た。歩いていたテントウ虫を手の平にのせると足を引っ込めて固まった。
「いっそのこと、思いっきり泣けたらいいのにと思います。自転車みたいに一度乗り方を覚えたら忘れないというのではないみたいです。泣き方を忘れたらまた覚えなおさなければいけない」
「どうしたら泣けるんでしょうね」と言って彼は僕を見た。
「たぶん、そんな優しい表情で抱きしめられたら泣いてしまうんじゃないかな」
「私でいいんですか?」
「ダメです」
「抱きしめてほしい人がいるんですね」
僕は何も言わなかった。手の平のテントウムシは羽を広げて飛んで行った。
「最近、社会とは何かについて考えているんです」と僕は言った。
「二つ目の悩みですか?」
「いいえ違います。これは僕の個人的な研究テーマであって悩みではありません」
「聞かせて下さい」
「今僕がしている仕事は僕じゃなくてもいいと感じるんです。誰かがやらなければいけないことをやっているのが自分というだけであって、僕である必要がない。僕にしかできないことは何なのか。僕がやらなければいけないことはこれじゃないんじゃないか。まあ、それは一旦置いておくとして、実際僕がいなくても仕事は回っていくし、回っていかなければいけない。仕事とはそういうもので、そしてそれが社会なのではないか、と。あなたがいなくても回っていかなければいけないものがある。それが社会であり、それを受け入れることが社会性なのではないか。でもそれは決してネガティブな意味ではありません」
「ええ分かります」とゴリラは言った。「それは、あなたはいなくていいということではない。あなたはここにいていい。あなたにここにいてほしい。という言葉と両立する」
「そうです。それでも私がいなくても回っていかなければいけない世界に私はいる。なんだか寂しいですが、それを受け入れた時初めて僕にしかできないことと出会えるのではないか」
「その寂しさにあなたは今触れているのでしょうか」
「泣きたくなるのは涙がそれを受け入れろと言っているということですか?どうなんでしょう。そこまでは分かりません。僕にはロマンチック過ぎます」
「抱きしめられたいと思っている時点でロマンチックですよ」と言ってゴリラは笑顔を向けた。
「僕にしかできないことが社会にとって必要なことであるならば、それは僕にしかできないことであってはいけない。僕がいなくても回るように、誰かにつながないといけない。その責務を果たすために、寂しいなんて言ってられない」
「それでもやはりまずは泣くべきですよ。あなたはあなたにしかとって代われないことをするべきです。その責務を果たすためにも、社会の寂しさの中で生きるためにも、あなたの言うように、あなたにしかできないことと出会うべきです」
「抱きしめてくれますか?」
「ダメです。それは私にしかとって代われないことではありません。あなたが一番分かっているはずです」
僕は姿勢を崩して足を伸ばした。長袖のシャツを腕まくりした前腕には汗の玉ができていた。ゴリラは体育座りのままだった。僕は立ち上がって「そろそろ戻ります」と言った。彼も立ち上がって「一緒に行きましょう。荷物を下ろすところまで手伝います」と言った。
「いいですよ。ゴリラと一緒に戻ったらみんなびっくりしますから」
「それもそうですね」
別れの挨拶をして僕は軽トラックに乗った。窓を開けてもう一度さよならを告げた。彼も汗をびっしょり掻いていた。毛に覆われている分余計に暑そうだった。「あなたから抱きしめることですよ。それがあなたにしかとって代われないことです」と最後にゴリラは言った。その日の夜、僕は思いっきり泣いた。

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