警報音

文字数 1,923文字

 この部屋は往来する人の話し声や車の排気音のみならず、すぐそばにある踏切の音が聞こえてくる。幹線道路沿いに立つマンションの三階、空に吸い込まれてゆくあらゆる外界の音が、ベランダに面した掃き出し窓に立ち寄っては消えていった。
 路地を一本入った静かな環境で育った私は、どこかのおばさんの呼び声や、救急車のサイレンが聞こえるたび、初めのうちこそ、どきりとして敏感に反応した。すぐに麻痺し、少々の音はやり過ごすことができるようになったが、踏切の警報音だけは最後まで慣れるということがなかった。
 人の注意を喚起するための音だから当然、心に訴えかける音でなければならないのだろうが、電車が来ると警告される度に、迫り来る危険を感じるようで、私は身が縮む思いがしたのだ。
 大学を出て就職して、家を出た。就活を頑張った私は、自ら望んだ業界に身を置くことができた。広々とした1LDKは快適で、一人暮らしは自由気ままで、私は社会人生活を謳歌する、はずだった。
 やりがいや達成感を感じる間もなかった。残業すれども終わらない業務に休日、夜間お構いなしに鳴るスマホ、ボーナスまでは……、この繁盛期を乗り越えたなら……、推しのライブを楽しみに……と騙し騙しやってきたものの、冷蔵庫の底に転がる古いアボガドみたいに心はどんどん傷んでいった。三年経って、あらゆる手段を用いても自分を欺くことができなくなり、追い詰められバグった優先順位で一位に押し上げられた仕事以外のことを、私は放棄するようになった。
 勤務終了後、這うようにして部屋にたどり着く。何を買ったのかさえ思い出せない梱包されたままのネットショップからの荷物、脱ぎ捨てたのか、洗濯して取り入れたのか不明のくちゃくちゃの衣類、飲みかけのペットボトルなどが埋め尽くす床上を、私はペンギン歩きで砕氷船(さいひょうせん)よろしくものを蹴散らし奥へ進む。かろうじて人の形にくり抜かれ姿を現すラグの上、定位置に寝転がるとスイッチが切れたかのように一切の活動ができなくなった。食べることもシャワーを浴びることもせずに、ただ一度出ると止まらなくなる涙を流れるままにする。泣き疲れうつらうつらしては目を覚ます、を繰り返すうち空が白み始めるのだった。
 やがて、踏切の警報音が聞こえなくなった。実際の警報音が鳴るよりも大きな音で、頭の中で鳴り響く警報音が止まらなくなったのだ。
 真面目で頑張り屋なことだけが取り柄だった。吐くまいと厳しく律していた弱音を凌駕する勢いで鳴り響く警報音が、私に限界を知らせた。黄黒の遮断棒を超えないためにも、私はおかしくなどない、まともな私とは無縁だ、という偏見のハードルを超す必要があった。いよいよ私は心療内科の門をたたく。
 医師からもらった適応障害の診断書を片手に、窺い続けた機会を捉えてやっとのことで上司に申し出た頃には、診断書も私の身体もくたくたの古新聞のようになっていた。そもそも人手不足を起因とする激務だったから、人員が減ることを何としても避けたい会社側からは休職や配置換えなどを提案され、強く慰留されたが、警報音に従った私が選んだのは、退職することだった。
 明日引越しのトラックがくる。私は部屋を引き払って実家に帰る。荷造りのついでに仕分けすると、部屋は不要なもので溢れていた。好きなものや欲しいもの、ときめくものを見極める感性も枯れていた。あのままだったなら私はどうなっていたかわからない。
 頭の中で鳴り響いていた警報音はすっかりなりをひそめた。今ならあれは、不安を煽ったり、日常を(おびや)かすためのものではなかったということがわかる。音が鳴り、遮断機がおりる。ここから先はいけません――それはここで抜けるわけにはいかない、迷惑をかけてはいけない、という仕事に伴う押しつぶされそうな責任や、新卒カードで勝ち取ったネームバリューのある勤め先を失いたくない、次の就職先が見つかるとは限らない、といった仕事を辞めることに伴う将来への不安、そのようなものより何が大切かを私に教えた。危険を回避し、安全を確保するための念力が私を運び、退職へと踏み切らせたのだ。
 割れ物を保護シートで優しく包み、段ボールの中につめていく。時々踏切の音が届く。この部屋での暮らしと切っても切れぬ、不定期に届く慣れることのなかった慣れ親しんだ音。
 人々を乗せた電車が通過して、また遮断機が上がる。私は休まず手を動かし、厳選されたお気に入りたちを梱包しながら警報音を聞き納めている。守られていたような気がする。少しずつスッキリと片付いていく部屋で、不意に訪れては繰り返される、止まりなさい、ここにいて、ご注意くださいね、はい、進んでOKですよ、を聞いている。
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