第1話

文字数 4,010文字

低い空に薄雲のかかった快晴であった。常緑樹だか紅葉樹だかわからないが僅かに葉を残した木がいくつも並び立ち、乾いた風に揺られてカサカサ共鳴していた。大学の構内は冬の寒さにも関わらず人が行き交っており「今日の授業がなんだ」とか「飲み会はどうする」だとかたわいもないことが聞こえてくる。それらがまた柔らかい午後の日の差す小春日和を形づくっていた。私は一日の授業を終え、大学のすぐ東側にあるアパートへ帰る途中であった。冬の太陽の光の心地よさを薄目でいっぱいに受けながら多くの人が足早にすれ違っていく中、1人ユッタリと歩いていた。すると、行き交う人の中に憶えのあるひよろっと背の高く痩せた男が目に入った。私はすこし顔を歪めた。目の悪さのために遠くがぼんやりするのでしばらく注視したのちにそれが元恋人であることを認め、自分の機嫌が悪くなるのを感じて足早にすれ違おうとした。もちろん、同じ構内にいる訳だからその時が2人が別れてから初めて顔を合わせるわけではなかったが、会うたびに恨みやら妬みやらがぶり返して、その男をキリと睨みつけてながらも無視を決め込んですれ違うのが私の癖となりかけていた。するとどういうわけか「あのさ、、」と男がこちらに声をかけてきたのだった。もちろん例にならって無視を決め込もうとした。しかし、男の顔が視界に入るとぎょっとしてまじまじと顔を見つめてしまった。ひどく青く白い顔だった。浅黒く日焼けをした痩せた男であった恋人は余計にカリカリと痩せて影の目立つ二重の目だけがギョロとこちらを見つめていた。私はなぜだかその元恋人がひどく憐れで見捨てられぬ存在のように思えてきてしばらくボゥとした末に「何か用でもあるの」とついに答えてしまったのだった。私という女は意志の弱い女である、こうしてこの男の要望というのを一度聞いたらなんだかんだ叶えてやってしまう性分であった。男はいつまでも私の顔をギョロと見つめながら「いや、たいしたことじゃないんだけど少し話せないか」などと聞いてきた。私たちは立ち話ではなんだからと構内の小さなカフェテリアに向かって歩き出した。どうして断らずにこの男についてきたのか、この男の憐れに変わり果てた見た目に同情したのか、それともチリのように残った愛情の残りカスによるものか、私には判断がつかなかった。いや実際のところは判断をしたくなかったのかもしれない。私たちは無言で歩いた、向かうカフェは2人が恋人同士であった時によく通ったものであったので会話などする必要もなかった。カフェといっても学生の使う小さく質素なもので昼下りのこの時間帯では授業の終わった学生たちで十数席しかない暖房の効いた室内はすでに満席であった。私はホットカフェラテを頼み、男は何やら店員と話をした挙句冷たく苦そうなコーヒーを砂糖も貰わずに買ってきた。私たちは仕方なしに外に簡易のように設置してある錆の入った白いガーデンテーブル見つけ無造作に置いてあるガーデンチェアを適当に2つ向かい合わせに並べて座った。「元気だった?」男はやっとのことで喋り出した、そのらしくもなくおどけた様子が私をひどく腹立たせた。「そっちはどうなの」私はひどく男を睨みつけながら当たり障りのない返事をした。そうすると男は私の機嫌の悪い目つきにも気がつかない様子で張り詰めた緊張がドッと解けたように自分のあれこれをくどくど話し始めた。
 相変わらずガリガリの見た目に似合わず虚栄心だけがでっぷりと太った男であった。
 そもそもこの元恋人というのは情けない男だった。しかし、愚かな私は今は青白く乾かした納豆のようにこけた浅黒の顔も初めて見た時は健康的な青年のように見えたし、人よりひと回りヒョロと高い背と長い足に惹きつけられた。なにより、今は見るとギョッととりだの立つような影の目立つ二重とその瞳がこの世界の何より魅力的に感じていたことを自白しなければならない。そうして私は願ってその男と恋人になった訳だが、その恋人というのは私につゆほどの興味もなかった。男の行きたいところ、食べたいもの、したいことにアクセサリーのように引き連れ回され、あげく私は愚かな愛情によって男の財布と成り果てた。私が何かを話しても男は始めこそそれらしい相槌をして話を聞くが結局は男の身の上の自慢話になり変わるのだった。そのうえその男というのはくだらない嘘を話に盛り込む癖があった。例えば彼の祖父は、ある時は東京大学出身の小説家であったし、またある時は一橋大学出身の羽振りのいい商社マンであった。また、彼の叔母は数週間余りの留学をした"キコクシジョ"であることも雄弁に話してくれた。その頃の私はこうした恋人の話の非現実さにも目を逸らし、ただ今となっては恥ずべき愛情がゆえにただ一身に男の話が生み出した虚構に感激し、感銘し、尊敬の念さえ抱いていた。しかしやはり本来は真実と現実を愛する私はついに耐えられなくなり別れを切り出した。すると男は待っていたかのようにすぐに新しい恋人を作った始末であった。
 私はそうした苦い過去を思い出して、いっそう目の前で雄弁に喋る元恋人に耐えがたい憎しみを感じた。ただ、私が回想に耽っていた間にもつらつらと続いていた男の身の上話はクライマックスに差し掛かっているようだった。その内容などはボゥとしていてよく聞いていなかったが彼の祖父というのはついにハーバード大学を出て世界で評価される論文を書いた経済学者にまで成り上がっていたことはハッキリと聞き取れた。ひとしきり話を終えると男の恍惚とした表情は消えみるみると現実のものとなった。そしてジッとこちらを見つめてなにかモゴモゴと言い出そうとしている。どうやらこちらが本題のようである。私なぜかじわと寒気がしていっそう機嫌の悪化を感じ取った。「君は今恋人はいないのか」と真剣な顔をして男は重たく口を開いた。じわと鳥肌がたった。先ほどの寒気はいっそうひどくなって吐き気までもよおしてきた。男の痩せた顔はまっすぐこちらを向いてギラギラと私の目を見つめている。男の問いに答える気にはならなかった。ただ反抗の目だけを男に返して私は冷めかけたカフェ・オレをグッと口に含んで喉が鳴るほどに飲み込んだ。「恋人がいたほうが安心だよ、お前にとってもそのほうがいい」男はようやっと私の不機嫌に気づいたようで早口に場を繋いだ。今度は私もなんとか口を開く気になった、多分この男の「お前」という言い方に親しみと軽蔑が含まれてる気がしたことにひどく腹が立ってなにか喋らずにはいられなかったのだと思う。「あなたにそうやって言われる義理はないわ」私はギリと男を睨みつけた。すると男は初めて私に向かってそのギョロギョロとした目で睨み返した。その瞳には私への軽蔑が確固として表れていた。「関係ないことはない。先からお前は俺をにらみつけているのに気づいてないと思ったのか」男の語気はだんだんと強まっていた、男の瞳に映っていたのは私ではなかったようだ。「俺だけならいい、俺の恋人まで睨みつけるのはやめてくれないか」男の瞳に映っていたのは私の瞳に反射して映る己が信じて疑わない正義への恍惚であったことにようやく気づいた。その途端顔全体に冷たい汗が湧き出るのを感じた。脳みその上の方に血が昇ってきてくらくらと目の前が廻り出しそうであった。ただこの男の欲望を満たすがためにここに存在している私という人間の、女の、愚かさに何か通り越して悪寒も吐き気もすっかりおさまった。むしろカラカラと乾いた笑いすらこみ上げてきそうであった。私はそれを悟られまいと必死に装った。ただもう男を睨む気力も自身を弁護しようという自尊心も奮いあがってはこなかった。ただ、視界の片隅に映る、カサカサと風に揺れて僅かに残った枯葉すら今にも落とそうとしている哀れな木たちを黙って見つめた。どのくらいだったは私には分からなかったがしばらく沈黙が流れた。
 「ごめん、おまたせ」その沈黙を破ったのは私でも男でもなかった。現れたのは男の新たな恋人である女だった。女は私の方へ向かうと怯えたようにこちらに会釈した。なんとも愛らしい女であった。肌の白さが何よりもまず目に入った、そしてスラリと伸びる手足と清潔な瞳が周りの目を引くそんな女であった。浅黒い男の隣に並ぶとその女の厚着から垣間見える雪のような純白の肌がよく際立った。私は挨拶を返す代わりにその女をまじまじと見ていた。しかしそこに嫉妬や憎しみの念など微塵もなかったことを誓おう。私はただ先ほどまで男の後ろにそびえている枯れ木を見つめていたのと同じように、そのままのピントで、ただ視界に映る女を見つめていた。男と女はなにやらボソボソと恋人同士で話し合っていたようだった。女は自分より少し高い位置にある男の顔だけを一心に見つめていた、その清潔な瞳には愛情だけが鮮明に写されていた。しばらくの間、男は私という存在を無かったようにしていたが思い出したようにまたギョロと私と睨んで「もうやめてくれよ、一度忠告したからな」と念押しした。女は自分の恋人あまりの怒号を咎めて声をかけていたようだが女が申し訳なさそうに見つめているのはやはり、私ではなく男であった。そうしてひと通り私を威嚇し切った男は女の手をとり、僅かに残ったコーヒーのカップをテーブルに残したまま歩き去っていった。私は男の残したコーヒーがオレンジに変わりはじめた日の光を浴びてキラキラと反射するのをしばらく見ていた。視界の隅に手を繋いで歩いていく男と女の姿が映ったがすぐにぼやけた。私は2、3分そうしてボゥとした後に残されたコーヒーカップを中身をこぼさないように小さく折ってたたみ、飲み干したカフェオレのゴミと一緒にまとめて、そばにあった薄汚れた青バケツにビニールがかけられただけの簡易ゴミ箱に捨てた。
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