第1話

文字数 1,897文字

「なぁ、裏山に湖があったの覚えてるか?度胸試しの」
「ああ、小学生の頃だっけ。よく行ってたな」
「今さ、あの湖、大人が飛び込んでるらしいぜ」
「大人が?なんで?」
「なんでも、飛び込む瞬間に別の世界が見えるんだと。生まれ変われるってもっぱらの噂よ」
「はっ、そんなので生まれ変われりゃあねぇ」
「まぁ、でもわからんでもない。こんな世の中じゃあ、生まれ変わりたくもなるわ」
「俺は生まれ変わるより、さっさとこの世からおさらばしたいね」
「俺はそこまでじゃないけど……このまま生きててもなってのはあるわな」
「……なぁ、湖に飛び込むのってルールとかあんの?」
「えっ、どうだっけな……日の出を確認してから飛び込む……あ!あと全裸!」
「はぁっ!?全裸!?」
「そうそう。全裸全裸。てか、何?お前やる気なの?」
「いやぁ、それで本当に生まれ変わって前向きに生きれるならってちょっと思っただけ。ただ、全裸はないわー。このご時世でハードル高すぎ。学生ならバカ学生がやっちゃいましたで済むけど、社会人は終わりだろ」
「まぁ、ハードル高いからやる価値があるんじゃねぇの?俺は絶対しないけど」

翌日、酒の残る頭と体で久々に裏山へ行った。
小学生の頃は嬉々として駆けていた獣道も、今では何の感動もない。
土のにおいと青臭さ、足場の悪さと足の重さだけが感じられる。
気まぐれで来るもんじゃなかったと後悔し始めた頃、ようやく湖が見えてきた。
思っていたよりも小さい……いや、自分が大きくなっただけか。
湖岸には相変わらず草花が生い茂っていたが、一か所だけ土が露出しているところがあった。
よく見てみると足跡がいくつもある。
なるほど、飛び込んだ人間は皆ここから這い上がってくるらしい。
上を見上げると、飛び込めと言わんばかりに岩場がせり出している。
ここまで来たらもう同じか。
大きく息を吐くと、岩場を目指すことにした。
「きつい」「やっぱり引き返すか」「いや、ここまで来たら……」
頭の中で堂々巡りを繰り返していると、いつの間にか結構な距離を進んでいたらしい。
飛び込み台となっている岩場が見えてきた。
ちょうど助走がつけられるように緩やかな下り坂になっており、その先に岩場がある。
岩場から改めて湖を見下ろしてみると足がすくんだ。
こんなに距離があるのか。
透明度が高いからなのか、ちょうど落下する位置のまるで誘い込むかのような深い青緑色に恐怖を感じる。
自分も小学生時代は飛び込んでいたわけだが、今までよく死人が出なかったものだ。
しばらくぼんやりと湖を眺めていたが、はっと我に返り、来た道を急いで戻った。

家に帰ると学生時代に使っていたスポーツバッグを引っ張り出した。
埃っぽいにおいに思わず笑ってしまう。
バスタオルを多めに詰め込むと、目覚ましを夜明け前にセットする。
それから部屋でだらだらと過ごしていると、いつの間にか眠っていたらしい。
目覚ましの音で全身が小さく跳ね上がった。
万全な状態ではなかったが、スポーツバッグを肩にかけてまた裏山へ向かった。
湖岸にたどり着くと、そこで身に着けているものを全部脱いでスポーツバッグに詰め込んだ。
どうせ自分以外は誰もいやしない。
バッグをその場に置いて、今度は全裸で岩場へ向かう。
草木が肌に当たる。
じわっと痛みが残っているあたり、傷になっているのだろう。
虫が体を這う感覚も、小石や枝が足の裏にめり込む感覚もすべてどうでもよくなっていた。
ようやく岩場に続く下り坂のところまで来た。
ちょうど空も白んできて、日の出を迎える。
日の出のその瞬間、全力で駆け出した。
全力で地面を叩く足の裏が痛い。
顔や体にあたる葉や枝も痛い。
すべてを感じながら、岩場から飛んだ。
何にも支えられない浮遊感と落下していく恐怖感。
さっきまで自分のいた岩場がスローモーションのように遠ざかっていく。
背中にすさまじい衝撃を受けるのと同時に、湖の水が全身を這ってくる。
鼻や口にもお構いなしに水が入ってくるが、どうやら思ったほど綺麗な水ではなかったらしい。
歪んでいく視界の中でも空の色を目指して水をかくと、どうにか水面に出た。
膨らんだスポーツバッグが視界に入り、必死でそこに向かって泳ぐ。
湖岸に上がるとまるでタイミングを見計らっていたかのように、鹿がバッグを持ち去ろうとする。
今はただただ休ませてくれというくらいに疲れ切っている体で、必死に鹿からバッグを取り上げる。
大して興味もなさそうな顔で鹿が帰ると、笑いがこみ上げてきた。
社会人にもなって、裏山で全裸になって何をやっているのか。
別の世界が見えるわけもなく、生まれ変われるわけもなく。
「あーあ……」と声を漏らし、見上げた空は綺麗だった。
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