あの花
文字数 1,940文字
それはまだ寒い朝のこと。ちらほらと咲き始めた花の蜜をもらうためオレはいつも行く公園の方へと向かっていた。そんな時ふと声が響いた。
「ねえ、蜂さん。ぼくさ、春になったら綺麗な花を咲かせるから蜜、取りに来てね!」
誰もが煩い声に耳を傾けることなく花へと向かう。そんな中、草はそう言い続けていた。
それは次の日も、それから次の日も少しずつ暖かくなる空気の中ずっと続いていた。どうせ誰も反応しないのに。それなのに草は今日もいきいきと煌めいていた。どうして、そんなにいきいきとしていられるのだろう。オレはそれがまた気に食わないで仲間たちのようにそ知らぬふりをした。
春の気配が一転、また寒くて仕方ない日が来た。それでもオレ達は変わらず蜜を求めて辺りを彷徨う。公園の辺りでまたあの声が響いた。
「ぼくはきっと大きくて綺麗な花を咲かせるんだ! だから、きっと蜜だっておいしいよ」
公園から少し離れた街路樹の下。鳥が運びでもしたのだろうか。ぽつんと違和感のある草が生えている。初めて、仕事を抜けてこの声の元へ羽を運んだ。それはこの寒い中いつもの陽気な声が一層煩わしく聞こえたからであろう。
「あ、蜂さん!」
ようやく気に留めてもらえたのが嬉しかったのか声が上ずっていた。オレは煩いと文句の一つでも言ってやろうと思ったのだがその様子になんとなく言い出せなくなった。
「あのね、ぼく春になったら花を咲かせるから、春になったら蜜をもらいに来てほしいんだ」
また、あの煩い声が響く。でもその言葉はこの寒さに暖かく沁みて……心が熱く感じた。どうしてかそう思った。
気が付けば次の日もこの草のもとに来ていた。草はオレが来るとまた嬉しそうに揺れた。それでこう言った。
「ほら、これみて。つぼみだよ」
よく見ると葉の陰に隠れてまだ緑の蕾が顔をのぞかせる。オレはいきいきしてる草を見てふとこう尋ねていた。
「どうしてそんなにいきいきしているんだ?」
草は少し驚いたようだったが満面の笑みを浮かべ
「君が来てくれたからだよ!」
と言った。オレとしては無視されても希望を語っていた時のことが気になって聞いたのだが草が楽しそうにするので聞きなおせなかった。
「ねえ、蜂さん。花が咲いたら僕の蜜もらいに来てくれる?」
それから少したった頃。オレはちょくちょくここを訪ねていた。もうずいぶん春めいてきた空は今日も朗らかに輝いている。そんな空の下、突然草がそう言った。オレは
「もちろん……何なら春一番に蜜をもらいに来てやるよ」
と言った。それは何の気なしに言ったわけじゃない。ただ、心から草の力になりたいと思って言ったのだ。草が笑う度自分も嬉しくなった。楽しそうにしていればこっちも楽しくなる。そうだ、草には生きることがどんなに素晴らしいか気づかされたようだ。ただ、生きるために生まれたわけじゃない。幸せでいればそれだけで生まれた意味があるのだ。少なくとも今はそう感じられた。自分勝手かもしれないけれど、それが一番大事に思えた。だから、いつの間にかオレに幸せを与えてくれた草が喜んでくれるならオレはきっとどんなところにだって蜜を取りに行くだろう。オレの言葉を聞いて草は笑った。嬉しそうに笑った。
それから春風が吹きやがて暖かくなった。蕾が膨らみ白く色が付いて二人して喜んだ。
しかし、それからずっと蕾は花を咲かせなかった。今は春の半ば。草は静かにこう言った。
「ごめんね、蜂さん。ぼくには花が咲かないんだ。だから、他の花の所に行くといいよ」
そう優しく笑う草が悲しく見えた。オレは強くこういい返す。
「春一番に蜜をもらいに来るって言っただろう? それに、信じてなきゃ咲く花も咲かなくなっちゃうってもんだよ」
草ははっと息をのみ
「そうだね、信じなきゃね」
と言った。
「ぼくは、春になったら綺麗な花を咲かせるんだ」
やがて春の長雨が降る頃、草は茶色くなって枯れた。最期にこう言い残す。
「ぼく、蜂さんと出会わなければずっと一人だったよ。蜂さん前に聞いたよね。どうしてそんなにいきいきしているんだって。ぼくね、蜂さんと出会ってからなんだ。いきいきしてるって思えたの。ぼくこんなところに生えちゃったからこのままずっと一人なんだって、そんなの悲しくて。だから綺麗な花を咲かせて誰かと仲良くなろうとしてたんだ。そこに君が来てくれた。まだ、花も咲いていないのに。ぼく本当に嬉しかったんだ。だからね、ぼく、花は咲かなかったけど本当に幸せだった。ありがとう蜂さん。それと、ごめんね。花を咲かせられなくて……」
草は最期にふっと笑った。それはまるで花のように見えた。そして草はそのまま土に埋もれるようにして眠った。
蜂はどこへも行かずに待ち続けた。またあの花が咲くその日を。