第1話

文字数 2,000文字

 発端は、辺境の地でみつかった未知のウィルスだった。
 そのウィルスがもたらした世界の混乱はそれまで均衡を保っていた国際社会を分断した。世界中でいざこざが勃発し、ついにひとつの国が禁断のボタンに手をかけると、列強諸国が狂ったように自国のボタンを押した。
 世界中にあられのように降り注ぐ破滅の雨。人々から笑顔は消え、平和な空は一瞬にして恐怖に変わった。
 人々は生き残るために地底へと逃げた。文明など存在しない闇の世界へ。

 やがて世界の混乱は終息した。だが、汚染された焦土で生きることは叶わなかった。
 私が身重の妻と運よく地底へと逃げ延びることができたのは、巨大な不発弾が、地中深くに続く避難路を開けてくれたおかげだ。
 こうして私たちは地底での生活を始めることになった。しかし、着の身着のまま潜り込んだ地底の生活は不自由だった。水脈を求め、食料になるモグラやミミズを探し、ひたすらトンネルを掘り続ける日々。それでも、いつかまた地上のどこかで生きるという希望だけは失わないようにしていた。

 時は流れ、あのとき妻のお腹にいた娘も六歳になった。普通なら小学生だ。
「パパ。お外の世界には四季があるんだよ」
 娘が絵本を片手に話しかけてくる。何度も読んだ絵本は手垢にまみれ、ボロボロだ。
 いつまでこんな暗い生活を続けるのか。見通しは立たない。来る日も来る日も光の届くことのない地底での生活。木の皮で作ったローソクの明かりだけを頼りに細々と生きている。
「パパ。春に咲く桜の花はピンク色なんだって。どんな色なのかな? パパとママは見たことあるんでしょ?」
「う、うん……」
 娘にも見せてあげたい。
 娘の言葉に心を動かされた私は、希望という光を求めて地中を掘り続けた。どこに向かうわけでもない。暗闇の向こうにある光を求め、モグラのようにひたすら前を向いて掘り続けた。
 いつか必ず太陽の下で、妻と娘の手を取り、大地を踏みしめたい。
 毎日毎日、体力が続く限り、私は掘り進めた。その距離は長く、トンネルとして自由に歩くことができたし、そのおかげで他にも同じように地底に逃げ込んだ人たちに出会うこともできた。
 おじさんもそのひとりだった。
 とても気さくな人で、ひとりで暮らしていた。地底に逃げ込む前に家族を失くしたという。そんな暗い過去を持つおじさんだったけど、私たち家族を明るく迎えてくれた。
「ようこそ。男やもめの汚い穴倉だけど、あがって行ってよ。獲ったばかりのモグラで鍋ができたところだったんだ。ひとりで食べるより大勢で食べたほうがおいしいからね」
 おじさんが住む穴倉は、ひとりで住むには十分な広さだった。入り口にはちゃんと玄関があって、私たち家族三人の靴を並べるといっぱいになった。
「私にも娘がひとりいてね。ちょうどあなたたちの娘さんと同じぐらいの歳だった。可愛がりすぎたせいか、甘えん坊でね……」
 私と妻の靴に挟まれた娘の靴は、妻が木の根で作ったものだ。娘の小さな靴を見て、おじさんは涙ぐんだ。
 それから「乾杯しよう」と、どこで手に入れたのか、おじさんは酒の瓶を出してきた。さらに娘には果物が入ったジュースの紙パックを差し出した。
「奇跡の出会いに乾杯」
「乾杯」
 やみくもに地中を掘り進め、おじさんの穴倉に繋がった。まさに奇跡の出会いだった。
「もう一度、太陽を見てみたいかい?」
 酔ったおじさんが唐突に聞いてきた。
「もちろんです。そのために掘り続けているのですから」
 私が答えると、
「以前、ここにたどり着いた人が話していたんだけどね」
 そう前置きして、おじさんは話し始めた。
「ここから北に十キロほど行ったところに、被害に遭わなかった都市があるらしい。そこでは肥沃な大地に食物が実り、人々は文明を維持して生活しているみたいだ。実は、この酒とジュースもその人がくれたものなんだ」
「え、そんなところが残っていたんですか。もしそれが本当なら、この世の楽園じゃないですか。おじさんも一緒に行きましょう」
「いや。私はこのままでいいんだ。でも、あなたたちはこんな穴倉にいてはいけない」
 おじさんは寂しそうに笑った。

 ひと眠りしたあと、おじさんに見送られ、穴倉を出た。ふたたび掘り進む。
 ザクッ、ザクッ。いつものように、いや、いつも以上に力強く、尖った石を突き立てる。
 何日か過ぎた。カツン、という空気を震わせる音が暗いトンネルに響いた。同時に一筋の光線が迸る。
「光だっ」
 うわずった声を漏らしながら妻と娘を振り返る。
「あなた、やっと外に出られるのね」
「パパ。お外に出たら桜の花を見に行きたい」
「ああ、行こう。ここを出て、地上で生きよう」
 渾身の一撃を、一筋の光に向けて打ち込んだ。刹那、眩い光が私たちを包み込む。
 地底から地上につながる穴が開いた。綺麗な空気が流れ込む。
 暗く長いトンネルを抜け、ようやく私たちは希望に向けて一歩を踏み出した。
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