私を創る人

文字数 1,917文字

 見られている。気づいたのは秋のことだった。

 私は学校の帰りによく、バス通り沿いにある純喫茶に行く。もう六十年以上も同じ場所にあり続けているお店だ。ざわざわしているのは苦手だし、友達とわいわいするのも好きじゃない。だから高校生なんかが絶対に来ないような、その純喫茶がお気に入りだ。お客さんのほとんどはおじさんで、ランプシェードに塗りこめられたヤニのおかげでお店の中はいつでもほの暗い。いつも一人で行くけれど四人掛けのテーブル席を使う。分厚い固めのレザーで板チョコみたいにごつごつに仕上げてあるソファに沈んで、カフェのものよりもはるかに真っ黒な珈琲を飲みながら持ち歩いている本を読む。

 私の手が、視線を感じた。そこだけほんのりと熱を帯びるような感じがした。わずかに緊張した。なぜだかすぐにその視線の来る方を見てはいけないような気がしてそのまま本に集中しようとした。でも手が、どうしようもなく視線に焼かれる。私は文字をぜんぜん読まないまま、見られていることをめいっぱい意識している手でページをめくった。お芝居をしているような気分だった。少しだけ大きく息を吐いてから、開いていたページに(しおり)を挟んで本を置いた。右手で髪を耳にかけてから珈琲を一口飲み、カップを戻しながら視線の来た方に目をやる。

 通路を挟んだ向こう側の、奥の方の二人掛けの席から私を見ていたのは、着流しを着た、ひどく痩せた男だった。着流しなんていうものが実際に着られているのを見るのは初めてだったのだけれど、時代に取り残されたようなお店の雰囲気に溶け込んでいて、まるでお店の演出としてそこに用意された舞台セットの一部みたいに見えた。それから何度も、彼と居合わせた。私がどの席に座っても、気づくと彼は私を見ていた。ある時私も見返してみると、彼と目が合うことはなかった。彼は私の、手だけを見ていた。私は右手を顔の前に持ってきてゆっくりと指を開き、そこに視線を乗せて送った。やっと、彼と目が合った。
 その日、会計をしていると彼も立ち上がり、私のすぐ後から店を出てきた。
「いつも私の手を、見ていますね」
「ええ」
「なぜ、ですか?」
 私は自分の手を見ながら聞いた。
「完璧だからです」
「この手が?」
「手だけではありません。ぜんぶです」
「ぜんぶ?」
「ええ。他の部分はもう見ましたから。最後に手を、見ていました」
 驚いて見上げると、ガラス細工のように淡く澄んだ灰色の目が私を見ていた。
「見に、来られますか?」
「なにをです?」
「アトリエです」
 そう言うと彼は私の答えを待たずに歩きだした。私は自分の意思がわからないまま、気づくと彼の後を歩いていた。

 住宅街の道をあちこち折れながら歩くと、背の高い生垣がうっそうと茂る一角があった。垣根に埋もれるようにして古い門があり、そこを入ると外からはほとんど見えない平屋の建物があった。すりガラスの引き戸を開けると土間になっていた。彼はそこに下駄を脱ぐと高い上がり框をまたいで入っていった。私は戸惑う暇もなく、土間に靴を脱ぎ棄てて彼の背を追った。長く暗い廊下の先に、アトリエがあった。そこに一歩踏み込んだ私は息を呑んだ。
 ガラス戸のついた棚には少女がならんでいた。透き通るように白い肌、ほんのりと体温を感じさせる唇、深く広がる瞳、濡れているように艶やかな髪。

「人形?」

 手足のあるもの、ないもの、服を着ているもの、着ていないもの、胸までしか無いもの、腰まであるけれど肋骨から骨盤まで皮膚がなくて内側が空洞になっているもの。いくつもの球体関節人形がならんでいた。
「人の身体にはあらゆる部分に少しずつずれがあって、それが美しさを生みます」
 彼はそう言うと私の手をとって部屋の中央へ導いた。
 大きな作業台の上に、私が座っていた。なにも言われなくてもわかった。私だ。その私は服を着ていなかった。彼はあの喫茶店で本を読んでいる私を見ていただけなのに、その人形の身体は完全に私のものだった。浅めに浮き出る鎖骨、小ぶりな乳房、わずかに見えるあばら骨、縦に長い臍、浮き出た腰骨。私の見慣れた、私しか見慣れていないはずの身体がそこにあった。味気ないと思っていた真っ黒な髪と目、あまり気に入っていない鼻、唯一自慢の耳。手は、まだ取り付けられておらず、身体の周りに並んでいた。表情の異なるいくつもの手。
「これから色を塗るんですが、そのときにほくろを描きこみます」
 作業台の上の私と目を合わせたままで彼の言葉を聞いた。
「ほくろを描くんですね」
「ええ」
 私は着ていたものを一つ一つ床へ落とした。
《了》
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