行方不明の友人

文字数 12,838文字

 世間の上では科学者と呼ばれる職業に就いている私だが、非科学的な事象や現象を実際に体験し、部分的にであれ、それを事実として認めている同業者は恐らく私ぐらいであろう。世の中には常識の範疇に囚われない不可思議な事物が存在する事を、私はすでに知っている。それは時として、人々の口によって、オカルト、超常現象、黒魔術、錬金術、悪魔崇拝などと様々な形に言葉を変え、限られた集団とそこに属する人間のみにその真意が伝わるものだ。世の中のごく一般的な人がその神秘に触れたとしても、ただ好奇心と知的探究心を満たす一時的な退屈しのぎとして弄ぶばかりで、その奥底に隠された真意には誰も到達し得ない。あるいは、賢明なる人々は潜在的な意識の中である種の防衛本能を働かせているとも言えよう。陽の光も届かない暗黒の深海へ放り出される夢を多くの人が恐れるように、現実の世界でそこへ至った者がどのような末路を辿るのか、それを理解しているからである。
 今から三ヶ月ほど前まで、私は生まれ育った州の町にある大学に勤めていた。他の科学者と同じく最も興味のある分野の研究に没頭し、社会的かつ科学的価値のある成果を残せるように活動している一方で、私は科学者達の忌み嫌う隠秘学にも手を付け、物理学や生物学などの自然科学の視点から隠秘学を解明できないものかと常々思考を巡らせていた。そのため、大学内外に関わらず、いわゆるオカルトに深い造詣を持つ人物とも積極的に交流し、そういった意味では隠秘学の研究を第二の仕事としていた事は紛れもない事実である。幽霊の目撃情報があればそれに詳しい知人と共に現場を訪れて、その痕跡や証拠を収集した上で私なりの立場と知見から幽霊の存在を徹底的に考察したり、悪魔召喚の儀を行う一団があるとの話を聞けば彼らと繋がりのある人物に口利きをしてもらって、一通りの儀式と道具を注意深く観察した上であくまで科学的な説明を加えようとしたりなど、我ながら意欲的に活動していたと思う。
 そんな活動の中でも、特に私が頻繁にやり取りを交わした男性が一人いる。私と同じ科学者であった彼とは大学で知り合い、互いに友人と呼べるほど親しい仲にまでなった。そのきっかけはもちろん隠秘学に関する話題であって、会話を重ねるにつれて彼はそれに対して抱く強い関心と病的な執着心を打ち明けるようになり、いずれは科学者の間で禁忌とされる隠秘学を自然科学と同等の地位かそれ以上に価値のある分野へと押し上げるつもりだと語っていた。その夢を実現させるために科学者を志したと言う彼も、自分の立場でそれを成し遂げるには限界があると薄々悟っていたようで、ある時きっぱりと職を辞してしまったのだ。さらにそれまで生活していた立派な住まいも引き払って、隠秘学の研究に集中するためだと言って、町外れの海沿いの崖に打ち捨てられていた二階建ての古びた一軒家へと移り住んだのだった。私の家から車で三十分ほどかかる距離であったものの、それによって私と彼の交流は途絶える事なく、かえって以前よりも足繁く互いの家を訪問して、何時間にも及ぶ意見交換や議論を行うようになっていた。私としても、隠秘学に関する豊富な知識と類まれなる熱意とを持つ彼と疎遠になるのは避けたかったし、度重なる交流の中で私と似たような一面も垣間見えて親近感が湧き、彼が生活に困っている時には惜しみない援助をしたものだ。
 繰り返しにはなるが、彼の隠秘学への直向きさは尋常ではない。それを示す例をいくつか挙げるとすれば、著者の妄想と狂気の沙汰から生まれた独自言語と世界観によって綴られた翻訳不可能とされる稀覯本について、彼はその全てを翻訳して隅々まで明らかにしようと、時には狂気に満ちた表情を伴って躍起になっていた。母国語である英語はもちろん、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、アラビア語、ロシア語、日本語、中国語など幅広い言語を参照して、その稀覯本の文章から翻訳の糸口となる意味を持った一つの単語を見出そうとする様を、この目で見た際には息を呑んだものだ。また、約二十時間にも渡る地底探検の映像が収められたカメラの存在について、彼はその洞窟の所在を特定するつもりでいる。地底生物の存在を仄めかす映像内の壁画にとりわけ心惹かれるようで、なんとしても自分の目でそれらを確かめたいと、映像越しに窺える洞窟内部の構造や地質を手掛かりに、いくつかの州にその洞窟が実在するのだという可能性を事細かに説明し始めた時には、私はただただ感嘆するばかりであった。その他にも、ある街に根付く土着信仰と『地球が身籠った聖なる神の御子』に関する調査結果を手記に書き残した男性が突如病室から失踪してしまった一連の不可解な事件について、彼は実に見事な考察を述べた。その街に赴いていないにも関わらず、『地球が身籠った聖なる神の御子』の正体を生々しい絵で表現し、病室から失踪した男性の生死と居所を説得力のある根拠を以て語るものだから、さすがの私も目と耳を塞ぎたくなった事を覚えている。こうした僅かな例を挙げただけでも、その私の友人が常軌を逸した隠秘学者だったのだと理解してもらえるだろう。
 彼が町外れの一軒家へ移り住んでから六ヶ月ほど経った頃、誰もが寝静まった深夜に、彼は私の家の戸口を叩いた。当然ながら私も深く寝入っていた事から、こんな夜更けに誰が訪ねてきたのかと半ば警戒しながら、寝ぼけた思考をある程度はっきりさせてから戸口を開けて、そこでようやく彼の姿を認めたのであった。彼は酷くやつれた顔をしており、肩を上下に動かして息を荒らげていた。といっても、それは彼にとって何かの異常を知らせるものではなく、顔がやつれているのは隠秘学に関する研究を連日徹夜で行っていたからであり、呼吸が荒いのは単なる運動不足に起因する心肺機能の低下が表れているに過ぎない。普段から彼の非常識な言動に慣れていた私は冷静に来訪の理由を尋ねる。すると、彼はやや興奮気味に「今日から三十日間、君の家に泊めて欲しい」と頼み込んできた。ひとまず彼を家に招き入れて、順序立て聞いた彼の事情はおおよそ次の通りである。
 彼は三ヶ月前に知人の紹介で悪魔崇拝者を名乗る人物と知り合った。その人物は顔を合わせるなり、自分こそが唯一この世で本物の悪魔を召喚できる術を知る者だと言い、悪魔召喚の儀について記された書物と自分の住所を書いた紙片を我が友人に手渡し、その場では多くを語らなかった。実際に会ったのはその一回きりであり、その後は手紙を通じて様々なやり取りをしたという。手渡された悪魔召喚の書物を事前に読み込んでからその人物と文通を始め、悪魔と人間の関係性や悪魔が人間に求めるもの、悪魔を召喚する上で怠ってはならない注意点などを聞き取り、書物に記されていた悪魔召喚の儀を行った。しかし、そこに書かれていたどの儀式もまったくの出鱈目であり、いかにもそれらしい手順と雰囲気を醸し出しておきながらも肝心の悪魔を召喚する事はできなかったのだ。熱心な隠秘学者である我が友人は悪魔崇拝者を名乗る人物に憤り、三十枚にも及ぶ非難と五十枚にも及ぶ悪魔崇拝の本質を認めた、計八十枚の手紙をその人物へ送り付けた。それ以降、悪魔崇拝者を名乗る人物からの返信は一旦途切れたようである。手紙上でのやり取りのため、その人物が友人の書き綴った分厚い手紙を読んでどのような感情を抱いたのかは分からないものの、恐らく相当気分を害したのであろう事は想像に難くない。それから一ヶ月半後、突然彼から我が友人宛に一通の手紙が返ってきた。手紙の内容には挨拶や世間話が一切なく、悪魔召喚の儀に関する手順らしい文章が不安定な行間で書き並べられていた。我が友人の受け取った実際の手紙を読み上げると、『まず、手か足のいずれかの指の爪を剥げ、次に、その剥いだ爪を、水で満たした鉄製の半球体の器へ浮かべ、そこへ汝一滴の血を垂らせ。その器を持って、汝棲家の入口より最も遠きにある扉の内に置け。これより日を隔てる事三十、何人も汝棲家を訪れてはならない、三十の夜が明けた後、汝一人で棲家へ入り、最も遠きにある扉を開け。さすれば我……』とある。『さすれば我……』の後にも何らかの文字らしき書体が短く続いているものの、酷く書き崩した筆記体なのか判読不可能であった。我が友人はこの文章を読んでそれこそ悪魔に取り憑かれたように戦慄したが、ほとんど直感的にこれぞ隠秘学が自然科学以上に実体を持った価値ある分野だと立証する証拠だと確信し、早速この手紙に書かれた内容を実行したという。手紙に書かれた手順によれば、悪魔召喚には三十日の時が必要らしく、その間は儀式に使用した家の住人も含めて誰も家の中へ入ってはいけないようだ。この事からどこへ身を置けば良いものかと考えた結果、彼は自分をよく理解して何度も生活の援助をしてくれた私に絶大な信頼を寄せて、こうしてここまでやって来たという訳である。
 私は彼の頼みを全面的に受け入れて、三十日の間あまり使っていない一室を貸してやる事に決めた。ともすれば孤独になりがちな科学者にとって、彼のように思想を同じくする友は得難い存在であり、自分を理解してくれる友人の信頼には可能な限りで応えるべきだと私は考えていたからだ。また、彼が言うには、悪魔崇拝者を名乗る人物から受け取ったこの悪魔召喚の儀に関する手紙には得も言われぬ魅力があり、一見奔放で不恰好な文章にもある種の統一感が備わっていて、隠秘学を隠秘学たらしめる隠匿された真意が行間の端々に窺え、なかんずく最後の判読不可能な書体こそこの手紙の最たる真意に違いないと断言していた。彼をここまで突き動かす悪魔召喚の儀には私も抑え切れない興味を覚えて、その儀式によって生み出される悪魔と世の中に対する影響を見届けたかったのだ。
 三十日の間、我が家で友人と過ごし、互いの持てる限りの言葉と論説を語り尽くした事は極めて有意義であった。しかし、ここで伝えるべきは彼と私の議論の中身ではなく、日を追うごとに変化していった彼の言動そのものであろう。あらかじめ注意して頂きたいのは、今から述べる事の全ては堪え性のない彼の興奮と焦燥とがもたらした有様であると、彼の良き理解者たる私が結論付けている点である。
 彼の言動に目立った変化が表れ始めたのは、儀式が完了するまで残り十五日を切った頃だったと記憶している。私と隠秘学に関する討論を行っている最中、彼は自分の思考と他人の言葉に集中できなくなる瞬間があったのか、何度か不自然な間を入れる事があった。また時折、儀式のために爪を剥いだのだと思われる包帯の巻かれた左手の小指をじっと見つめて、心なしか落ち着かない様子で深い呼吸を繰り返すものだから、私がその小指に痛みでもあるのかと気遣って声を掛けると、彼は人間を見つけた猫のようにぱっと顔を上げて、大丈夫だと言いたげに首を横に振るのだった。それから残り十日を過ぎると、彼は食事の際や就寝の際にも町外れの海沿いの崖に建つ自分の住まいがある方角へしきりに顔を向けて、居ても立っても居られないという風に細かく体を揺すり、爪のない左手の小指を撫でるようになったのだ。それが特に悪化した時には、私の見ている前で我慢できずに戸口の方へと向かっていく事があったため、私は慌てて彼を引き留めたのだった。それでもなお私を振り払って戸口を目指そうとする事もあって、先回りをした私が彼の前に立ち塞がり、儀式には厳格な精神と正しい手順を以て臨まねばならないと言い聞かせ、科学実験においてもその対象となる物質の性急な取り扱いが悲惨な事故を招いた例はいくつもあり、それは隠秘学における儀式も例外ではないだろうと言葉を尽くしてようやく、自分の住まいへ戻りたいと逸る彼を踏み留まらせたのである。彼の性格を考えれば、これらの傾向は決して異常ではなく、少なくとも彼を知る私にとっては想定かつ許容し得る範囲内に収まっていたと言える。事実、来るその時まで三日を残すばかりとなった頃には熱心な隠秘学者らしい堂々とした佇まいを取り戻して、この悪魔召喚の儀は我々にまったく新しい衝撃を与えるだろうと覚悟を決めていた。
 そして、ついに三十日の夜が明けたその日、私は彼を車に乗せて、町外れの海沿いの崖に建つ友人の家へと向かった。その二階建ての古びた一軒家から少し離れたところで車を降り、いつにもまして古風に見える玄関の前に立つと、彼は私に無線機とマッチの小箱を手渡したのだった。かの悪魔崇拝者を名乗る人物の手紙によれば、儀式の完了に際しても執行者は一人で家屋に入る必要があるとの事だが、通信機器による外部との連絡は確かに禁じられていない。そこで万が一に備えて、家屋内での出来事を逐一報告し、有事の際には私に後始末をつけて欲しいと、彼はそう打ち明けるのだった。神秘の奥底に隠匿された真意を探究する同志として、何よりも自分の良き理解者である友人の私を信頼しての発言だと察して、今ここに立った私はそれを断る訳にはいかなかった。マッチと無線機を受け取った私に向かって、彼は感謝の言葉を口にしてから、玄関の扉を慎重に押し開いて中へと入って行ったのだった。玄関の扉が閉められてすぐ、私の無線機には彼の声が届き、気持ちの高ぶりを押し殺すような息遣いが入る。
「……なんとも奇妙だ、私はまだ家に入ったばかり、……そう、背後の扉を一枚隔てたそこに君がいる、そんな状況だというのに、私はもはや、君の目の前にある玄関の扉の先にはいないようだ。……ああ分かっているとも、無線機が通じているという事は、それは私の錯覚に過ぎない。これは、君にも伝わっているかは分からないが、私の家が脈打つのを感じている。……いや、地面の揺れではないし、この家を支える崖が荒波に打たれているからでもない。とにかく、私以外の存在を……、いや、まだそう断言するのは早い、今から前に進もうと思う。私の爪を浮かべた例の器は、廊下を抜けて、食堂に入り、階段を上って、真っ直ぐに突き当たった寝室のクローゼットの扉を開けたところにある。そこが、この家で最も遠きにある扉だ。それにしても、私の体は妙な感覚を覚えている、これはそう、夢の中で走ろうとしても上手く走れないような、一歩一歩がとても緩慢としていて、もどかしいほどの空気の抵抗感だ。……やけに温度と湿度が高い気がする、もし君なら、それは一ヶ月近くも海沿いの家を放置した事による、湿気と黴のせいだと、そう説明するだろう。だが、そうではない、これは断じて潮風の影響によるものではないのだよ。……たった今、食堂に入った、もう階段は見えている。君が気の長い友人で良かったよ。……待て、食堂の窓から見えるもの、あれは何だ? ウミネコにしては気味の悪い形だし、それに、おおよそ鳥類の行う飛行とはかけ離れた飛び方をしているではないか。……いや、すまない、空があまりにも吐き気を催す色をしていたものだから、何かと見間違えたのだろう。この歩みの速度では、あの窓に近付いて、外をよく観察する余裕などない。……ようやく階段の一段目を踏んだ。なんというか、これは君にとって興味深い事なのかもしれないが、この階段は私が上がっている事実を感じ取っている、私には分かるのだ、私の足の裏を通じて彼が答えているのだよ。ああ、私の声が、君の理解できる言葉を話せているように願う、さっきから不快感の強い頭痛が、頭の中で木霊しているのだ。もしや、君は玄関の扉をノックしているのか? そうだとするのなら、そのような意味のない行為は今すぐ止めて欲しい、私はすでにその扉の先にはいないのだから。……やっと階段を上り切った、あとは寝室に向かって真っ直ぐに進むだけだ。とても長い時間が掛かったように感じられる、遥かな悠久の時を経て、私はようやく神秘の奥底に隠匿された真意を暴き、それまで判然としなかった隠秘学の地位を、揺るぎ無い証拠と現実を以て確立するのだ。家が脈打つのに合わせて、私の体も共鳴し、歓喜を抑えられずに打ち震えている。できる事なら、私がもうじき目にするであろう隠秘学における歴史的な瞬間を、君と共に目の当たりにしたかったよ。……さあ、君を随分と待たせてしまったが、私はすでに寝室の中に入った。寝室の窓の、閉め切ったカーテン越しに、青とも赤とも黒とも分からない、少なくとも自然界には存在し得ない極彩色染みた光が室内を照らしている。先程よりは私の歩みを妨げる空気の抵抗感が薄れて、いとも容易くクローゼットの前に立つ事もできた。正直に言おう、君は笑うだろうが、私はここまで来て、不意に心の奥底から湧き出した恐怖と興奮と期待と困惑とが混じった感情に支配されて、クローゼットの扉を開けるかどうか迷っている。ああ、分かっているとも、私はクローゼットの扉を開けなければならない、神秘の奥底に隠匿された真意を暴くために。……ああ、なんという事だ! 私が……、私がこの手で生み出してしまったものは、これほど禍々しくも醜い悪魔だったというのか! 我が親愛なる友人よ、よく聞いて欲しい、私の持てる隠秘学の知識から推察するに、この悪魔は今すぐにこの世から抹消しなければならない。そして、それが行えるのは君しかない。何故ならば、私はもうじき……」
 そこで彼の声は何かに遮られたように消え失せ、溺死寸前の人間が水中で藻掻いているとしか表現できない不快な物音と、赤ん坊の泣き声を模倣するような喉奥を鳴らす声が聞こえ、その直後に無線機の通信が途絶えてしまった。私は彼に呼び掛けたがまったく応答しない。
 友人の身に何かが起こったに違いないと判断した私は、目の前の玄関の扉を蹴破る勢いで開け放ち、彼のいるであろう寝室に向かって走り出した。家の中に入ると、なるほど彼の言っていたように体の動きが微かに鈍化し、地球上とは別の異なる重力に縛られているような感覚があり、自分の体内から耳の鼓膜へと伝わってくる心音とは違った脈動も感じられる。これらは科学的にも隠秘学的にも非常に注目すべき点であったものの、今は足を止めて熟考している場合ではなく、一刻も早く友人の元へ駆け付けるべきであった。隠秘学に関する意見交換のために何度も訪れた彼の家の間取りは正確に把握していたため、少しも迷う事なく食堂へ入って階段を上がり、通路の一番奥で扉の開け放たれたままになっている寝室へと突入した。寝室のクローゼットの前まで駆け寄って、その床の上に転がっている物体を見た時、私は驚愕のあまり言葉を忘れて息を呑んだ。
 それは健全な人間の目にして良い物体ではなく、忌々しく邪悪な見た目をしており、本来であれば人類の手の届かない深海の底にでも封じられるべき存在に他ならない。筆舌に尽くし難いその外見を表現するには、現代において我々人類の用いるどの言語でも困難を極めると断言できるが、隠秘学を探究する科学者である私にはこの目で見た物を記録に残す責務があり、これを放棄する訳にはいかないだろう。ごく一般的な人が備えている無意識の防衛本能を刺激しないようにしつつ、また理性を崩壊させる恐れのない表現に置き換えるよう配慮すれば、その物体は未成熟の子供の後頭部をおよそ三倍に肥大化させたような大きさと形をしており、その表面は薄汚れたコンクリートを思わせる色合い、それでいて実際に触れずとも分かる、何らかの細胞組織の集合体だと断定できる質感を兼ね備えている。目、鼻、口、耳に相当する器官はどこにも見当たらず、頭部、胴体、手足を区別する境目や節も一切ない。ただ、体表から粘着性の高い液体を滲ませながら緩やかに蠢いている様を見る限り、その物体独自の生命活動を行っているものと考えられる。物体のすぐ近くの床には我が友人の持っていたものであろう無線機が転がっていたが、その持ち主である彼の姿はどこにもなかった。つまるところ、この状況から推測するに、私の眼下で微動する物体こそが友人の行った悪魔召喚の儀によって生み出された存在であって、私の友人はもうこの世にいない可能性が高い。
 私は友人から手渡されていたマッチの小箱を取り出し、全てのマッチの棒を使い切るつもりで次々に火を着けた。室内に充満する妙にべたつく湿気のせいか、最初の一本は着火するまでに少々手間が掛かったものの、その火を忌々しい物体へと放った後の二本目以降は同じ手間を必要としなくなっていた。科学によって作り出された赤い火に包まれた物体が苦しむように身を捩っていたが構わず、私は手早くマッチの火を着けては寝室のあちこちへ放り投げて、この家を丸ごと燃やし尽くそうとした。我が親愛なる友人から託された、隠秘学者としての責任を果たすために必死だったのだ。もうじき、辺り一面は私の逃げ場すらも無くしてしまうほどの火の海と化すだろうと思われたその時、不意に不気味な叫び声――皮膚を裂き、肉を抉り、骨を削るような音が混じり合った唸り声――が室内を揺るがさんばかりに鳴り響いた。耳を劈く正体不明の声に視界が霞んだ私は両耳を塞いでその場に蹲ったと記憶している。
 次に目が覚めた時、私は友人の家からそう遠く離れていない浜辺でうつ伏せに倒れていたのだった。直前まで友人の家の寝室にいたはずなのに、ふと気付けば浜辺の上に横たわっているという状況の変化には戸惑ったものの、自分の衣服や髪が海水で濡れている事を知り、きっと炎上する室内から逃れるために寝室の窓から外へ飛び出し、その勢いのまま崖の下にある海へと転げ落ちてしまったのだと考えた。寝室は二階であった事、崖の下の海面には岩礁が露出している事など、私の浅はかな結論には無視できないそれらの疑問点を残していたが深く追究せず、とにかく自分がまだ生きている確かな事実を最も重要視したのである。どれだけの時間を気絶していたのかも定かではなく、そこでじっと考えを巡らしても無駄であった。私は今頃燃え尽きて灰となっているであろう我が友人の家をこの目で確かめるべく、浜辺沿いに崖のある方へと向かった。崖の上へと通じる道に回り込み、私の車の横を通り過ぎて、遠目からでもそうではないかと薄々勘付いていたその光景を前にした私は言葉を失ってしまう。
 我が友人の家が跡形もなく消えていたのである。それはそのままの意味であって、本来家が建っているべき場所には木片の一欠片も残っていなかったのだ。燃え盛る炎に包まれた家屋が炭や煙すらも残さずに消え失せてしまった原因はまったく不明であり、仮に崖の上で発生した火事を吹き飛ばすほどの突風が私の気絶している間に起こったのだとすれば、極めて強引ながらもその可能性を説明する事はできるかもしれないが、それならば何故私の車は飛ばされずに済んだのかと反論する者が現れるだろう。そこに一軒の家が存在していた事実――崖の上の地面の一部が長い間潮風に晒されていなかった事を示す痕跡――はあるにも関わらず、その家が消失してしまった原因――あるいは焼失した事――を立証できる証拠が存在しなかった。このような非科学的な状況を生み出すには、言い換えると隠秘学的な状況を生み出すには、炎上している家を上空へと持ち去るか、家が自ら崖の向こうにある海へと飛び込むか、そのどちらかが行われる必要があるだろう。そして、事実が何にせよ、私は親愛なる我が友人を一人失ってしまったのだった。
 車に乗り込んだ私は人気のある町中に入って、自分の知る限りで我が友人宅から一番近い警察署に立ち寄り、友人が行方不明になった事を伝えた。公的権力の及ばない未知の出来事だと理解していたものの、目撃した事件や事故を通報するという国民としての義務を怠る訳にはいかず、また偽証や隠蔽を行わないと国教に誓っている以上、真実を包み隠さずに報告しなければならない。崖の上に建つ家で行われた悪魔召喚の儀、それを執行した友人の身に降り掛かった災い、私がその災いを取り除くために火を放った事、目覚めると友人の家が消失していた事などを打ち明けた。話の途中から、警官らは私を気の違ったカルト信者か何かと思ったようでまともに取り合わず、評判の良い精神科医を勧めようと言って宥めてくる一方、彼らの内の数名はどうせ暇なのだから付き合ってやろうと言い出して、ついには私の引率の下で現場へ向かってみる事に決めたのだった。私と共に二名の警官が町外れの崖の上まで来ると、そこにあるはずの二階建ての古風な家屋が忽然と姿を消している事実を認めて、愕然としている様子であった。彼らもその家屋に住んでいた我が友人の奇妙な噂は耳にしていたらしく、彼と家の行方について再度説明するよう私に求めてきた。彼らの呼んだ応援が到着すると、私はもう一度警察署へと送られて、より詳しい事情聴取を受けた。その翌日からは本格的な調査が始まり、当時現場付近には私と友人以外の人物が立ち入った形跡のない事を明らかにし、殺人事件の可能性も視野に入れて、真っ先に私へ疑いの目を向けたのである。しかし、それを裏付ける証拠が当然見付からず、お互いに良き理解者であると同時に良き友であった私達に殺し合う動機もなく、その疑いはすぐに晴れた。四日も経たずに調査は行き詰まったため、最終的には『突発的に発生した高波によって崖の上の家が海に攫われて、その中にいた私は奇跡的に近場の浜辺へと打ち上げられたが、不幸な友人は家屋と共に海の底へと沈んだ災害事故』と警察は公式に発表したのである。私はその発表を肯定しなかったが憤りもなく、一般世間を納得させるには十分な役割を果たす最もらしい見解だとして受け入れた。
 その忌まわしい出来事から六日ほど経った日の事、私の自宅に一本の電話が入った。警官を名乗るその人物が告げた内容を聞いて、私がどれほどの恐怖に慄いた事か。行方不明となっていた友人が町外れの崖の近くにある浜辺で発見されたと言うのだ。しかも、信じられない事にまったくの無傷で息がある状態だったとも言う。電話越しの警官から友人の搬送された病院の名前と住所を聞かされた私は、面会可能となる次の日にその病院へと向かい、看護師に案内された病室へと入った。
 寝台の上で身を起こして私を見るその人は、間違いなく我が友人であった。顔の輪郭、瞳の色、体格など、私の記憶にある彼の身体的特徴とは寸分違わず、彼独特の抑揚や言葉選びといった喋り方、仕草や癖も彼が本人である事を証明していた。より念入りに確認するため、私が隠秘学に関する議論や互いに共通としていた持論を持ち掛けると、彼は少しの淀みもなくそれに応えて、私の疑念を尽く打ち払った。それでも彼が親愛なる我が友人であるとの確信を持てず、私が次の話題に迷って黙り込んでいた時、彼はこう話し始めたのだった。
「我が良き友よ、そう気に病む事はない。責任感の強い君の事だから、私の家と財産とを全て焼き払ってしまった事で、私にどう謝罪したら良いものかと頭を捻っているのだろう。あれは君のせいではない、私のせいなのだ。私が君の信頼に甘えて、『自分に万が一の事があれば後始末をしてほしい』と焚き付けたから、君は私達の友情に従って行動したに過ぎない。君の知っての通り、私は別に家や財産には執着していないし、あの家に保管していた隠秘学の知識も私の頭の中に一つも漏らさずに記憶している。もちろん君に対する数々の恩、生活に窮する度に惜しみない援助をしてくれた事や、誰もが忌避する隠秘学のより複雑な探究に付き合ってくれた事も忘れていない。それを思えば、こうして我が良き友である君と再会できた事以上に何を望もうか。ただ一つ惜しむらくは、かの悪魔召喚の儀によってこの世に呼び出した存在、つまり我が念願ともいえる隠秘学の確たる証拠を紛失してしまった事だ。あの時、私は凶々しい悪魔に襲われて、身を守るために二階の書斎へと逃げ込んだ。私の体にへばり付く悪魔を振り払う際に無線機を落としたのだが、それを取りに戻るのは危険だと判断し、状況が落ち着くまで書斎に身を隠しておこうと決めた。しばらくすると、悪くなった薪を燃やした時に出るような煙の臭いが立ち込めてきて、足の裏に緩やかな地震の訪れを感じ取った直後、この世ならざるものの苦痛に苛まれる叫び声が聞こえてきた。恐ろしくなった私は両耳を塞いで、その場に蹲った。そこでどうやら気を失ってしまったらしく、そこからの記憶は曖昧としている。次に目が覚めた時、私はこの病室の寝台に横たわっていて、見知らぬ警官から大まかな事情を聞かされたのだ。『あなたは一週間ほど前に行方不明となっていたのです。しかも、あなたの家と一緒にね。恐らく、崖よりも高い波が局地的に発生して、不幸にもあなたを家ごと海へ呑み込んでしまったのでしょう。それから何日も経って、もはや生存の可能性も極めて薄かったのですが、今朝になって浜辺に打ち上げられているところを発見されたのです。ああ、その発見者は私ではなく、ちょうど浜辺を散策中であった一組の若い男女です。また、病院の検査の結果によれば、外傷もなく健康そのものだとか。生きて見つかった事は神のご加護によるものに違いないと医者が驚いていましたよ』と。私は幸いにも記憶を失っておらず、自分の名前と住所をはっきりと述べる事ができたから、警官も私の身元を照合するのに手間取らなくて助かったとも言っていたよ。ところで、私が無事退院したら、君に是非頼みたい事がある。ああ、そうだとも、私の代わりにあの悪魔召喚の儀を行ってもらいたいのだ。手順は覚えているから何も心配いらない。今度こそ隠秘学の確たる証拠をこの手に収めようではないか」
 私は細心の注意を払って、彼の話す言葉に耳を傾けていたが、そこに彼を否定する事のできる失言を一語も見出せなかった。彼の話を聞いて、彼の声を耳にする内に、私は底知れない恐怖と身の危険を感じ始めていた。一刻も早く、彼と距離を取らなければならない。そう直感した私は額に滲ませた汗を気取られないよう平静を装いながらも、後日改めて様子を見に来ると約束して、ごくありふれた言い訳をしつつ病室から抜け出した。そのまま自宅へと帰り着いた私は家の中に入るや否や荷造りを始めて、別の州にある科学研究所で働いている知人に宛てた手紙を認める。以前よりその知人からはこちらの研究所で共に働かないかと何度も打診を受けていたのだ。これまでは何かと理由を付けて濁した返信しか送ってやれなかったが、今度ばかりは彼を喜ばせる返信になる事間違いなしであった。必要最低限の手荷物と知人宛の手紙を持って、もう二度と戻る事のない家から出て車に乗り、途中で郵便局に寄って知人宛の手紙を速達で送った後、私は頼るべき知人のいる州へと向かっていったのだった。
 そうして現在、私は知人の家に身を寄せて、彼の所属する科学研究所で働いている。あの忌まわしい出来事から約三ヶ月が過ぎていた。私は本能的にあの出来事から逃げ出したが、隠秘学に深く関わってきた者が行き着く末路からいつまでも逃れられるとは思っておらず、いずれ我が親愛なる友人と同じ運命を辿るであろう事は覚悟している。その証拠に、今朝方この科学研究所に私宛の手紙が一通届いた。差出人は不明であったものの、誰がその手紙を書いたのか私はおおよそ見当が付いている。何故ならば、その手紙には、あの忌まわしい出来事の発端となった悪魔召喚の儀を行う手順が綴られていたのだから。

                                       了
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

●私(主人公)……

 地元の州大学に勤めている科学者。

 自然科学を研究するかたわら、物理学や生物学などの自然科学の視点から隠秘学を解明しようとしている。幽霊の目撃情報や悪魔召喚の儀などのオカルト話を仕入れると、個人的に調査している。

●友人……

 主人公の友人である科学者。主人公とは同じ大学で知り合う。

 隠秘学に対して強い関心と病的な執着心を持っている。いずれは科学者の間で禁忌とされる隠秘学を自然科学と同等の地位かそれ以上に価値のある分野へと押し上げる野望を抱いている。

 

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み