第19話

文字数 3,056文字

 夏になった。フォグブリッジは公開され、硯木は、時々、花咲に出向くようになった。
 休日、硯木は新しい友人と旅行に出かけた。出不精の硯木にしては珍しい選択だったが、さらに珍しいことに、旅行に誘ったのも硯木からだった。
 旅先は有名な観光地で、硯木たちは現地の駅で待ち合わせた。駅はひどい混みようで、そのほとんどが硯木と同様、観光客だった。硯木は、友人と合流したあと、地下鉄で数駅ほど北に向かった。電車は満員で、硯木は、こんなところまできて窮屈な思いをするのかと少なからずげんなりしたが、下車した駅から地上に出ると呆れるほど明るい日差しに迎えられて、どうでもよくなった。
 有名な観光地だったが、友人は、一度も訪れたことがなかったと話した。今は、物珍しそうに辺りを見回している。今回の旅行は、硯木が案内役を務めることになっていた。硯木にとっては、何度も訪れたことのある馴染み深い土地だった。
 小さな駅の近くには街を縦断する川が流れていて、硯木たちは川沿いの道を南にのんびりと歩いた。
 「修学旅行とかなかった?」硯木は、友人に尋ねる。
 「それはなに? 聞いたことがないな」
 そう答えた友人は、川を興味深そうに眺めている。硯木が友人の視線の先を見ると、川の真ん中で、一羽の鴨が泳いでいた。
 「この川は、鴨川という名前なんだ。大昔からあるらしい」硯木は、観光案内人としての責任を思い出して、友人に説明した。硯木の雑な説明に、友人は興味深そうに「ふうん」と応えた。
 川沿いを歩いたあとは、観光名所として知られる寺を見て回った。硯木は、巡ったすべての寺について「大昔からあるらしい」程度の大雑把な解説をした。そのためだろう、寺社巡りの後半になると、友人は硯木の解説そっちのけで、その場に設けられた案内看板を読むようになった。硯木も途中から解説を諦めて、一緒になって看板の案内を読んだ。
 夜になった頃、再び、最初の川に戻った。硯木たちは今度は川を北上した。街を離れ、人混みを離れ、山のほうへと延々と歩いていった。
 最初に歩いたときとは違って、夜の川は静まり返っていた。硯木たちは、山の麓まで歩いていた。道端のベンチに腰掛ける。虫の鳴き声が聞こえていた。長時間、色々な場所を巡ったため、疲れたようだ。数秒ほど沈黙があった。
 「京都は、どうだった?」硯木が沈黙を破った。
 「興味深かった。花咲とは訳が違う場所だ」友人はそう答えて微笑む。
 「そう、それは良かった」
 それからまた沈黙が流れた。蝉が鳴いていることにあらためて気付かされるには、充分な時間だった。
 「駅までテレポートでひとっ飛びに帰りたいね」友人が座ったまま足を伸ばして言う。「ポチッと一瞬でさ」
 「やってみたら?」硯木は冗談っぽく言った。
 「いや、もしそんなことをしたら興が削がれてしまうだろう?」友人は笑って応える。
 硯木は、隣に座った新しい友人の横顔を盗み見た。なにを考えているのか分からない、というのが、硯木の友人に対する評価だ。それはつまり、この友人の頭の中には、硯木には想像できないような思考回路があるということだ。しかし、それはお互い様だろう、とも思う。お互い常識が違うのだ。硯木にしてみても、自分で自分がなぜこんなことを考えているのだろうかと思うことが時々ある。自分というものについても、現実というものについても。そして、あるいは、仮想というものに対しても。
 「フォグブリッジはいい感じ?」硯木は、何気なく尋ねた。
 「なんのこと? 関係のない話をしないで欲しいな」
 友人は少し怒ったように応えたが、硯木には、惚けていることが分かった。友人の表情には、含み笑いが浮かんでいた。
 「なぜ、あの時、アカウントを削除したんだ?」硯木は、ふと思い出して尋ねる。それは半年も前の出来事だったが、硯木の中で未だに引っかかっていたことだった。
 友人は漠然とした質問から、硯木の聞きたいことを察知したようだった。淡々と答えた。
 「あれは、ワタナベが、ヒラツカに自分のアカウントを削除してくれと頼んだからだよ。ワタナベは、花咲出身であることを隠しているから、君にそのことを知られたくなかったんだろうね。だから、ヒラツカはワタナベの意を汲んで姿を消すことにした。そういうことじゃない?」
 「なるほど。微妙な関係なんだな」硯木は頷く。
 「いや、あくまで想像だけどね。真実が知りたければ、本人に直接聞けばいい」
 「まあ、そうだけどさ」
 硯木はそう答えたが、内心では、ワタナベにしてもヒラツカにしても、彼らの歴史を知るのはそう容易いことではないと分かっていた。聞いたところで、返ってきた言葉がそのまま歴史になるわけではない。当然のことだ。彼らには彼らの事情があるのだ。
 その後、硯木たちは最初に待ち合わせした街の中心駅まで戻った。電車から降りると、外では雨が降っていた。硯木は夜の中を降る雨を見て、誰がこんなものを作り上げたのだろうと、その出来栄えに関心した。雨粒の感触を確かめようと駅構外に手を伸ばそうとしたが、背後から友人に呼ばれて中止した。
 「どうしたの?」硯木は振り返って尋ねる。
 「ショッピングモール二階に『いんしょうや』だってさ」友人は、手に持った駅の案内書を指差して言った。
 「あれ、意外だな。『いんしょうや』は知っているんだ」硯木は驚いて言う。
 「もちろん知っているよ。そういう君こそ知らないんじゃない? 『いんしょう』が花咲で作られていることを」
 「え、そうなの?」
 「嘘じゃないよ。『いんしょう』は、花咲の特産物だからね」友人は少し自慢げに言った。
 硯木は驚いたが、すぐに腑に落ちた。半年前、『いんしょうや』を初めて訪れた日のことを思い出す。まだ寒い冬の頃で、硯木は、花咲のことなんてまったく知らなかった。店頭のテーブルに堆く積まれた『いんしょう』。そういえば、あれは箱型で、銀色の透明な正六面体だった。硯木は、もうひとつの記憶を思い出す。ヒラツカに案内されて訪れた月面のような町。ヒラツカが生家の映像を見せるために宙に放り投げたあの箱。あの箱と『いんしょう』は形状が同じだ。だから、あのとき、あの箱に見覚えがあったのだ。
 硯木は、あらためて、今までのことを振り返る。つまり、自分は、花咲を知る前から花咲と間接的に繋がっていたということだ。『いんしょう』という浮ついた装置によって、仮想拡張で製作された花咲というコミュニティと、知らぬ間に、思わぬ形で繋がっていた。偶然とは言え、なんだかそれは、さもありなんという感じだった。人の頭がなにかを連想するように、自分は他のなにかと連なっている。
 「今日は楽しかったよ、ありがとう」
 友人とは、そのまま駅で別れた。別れた後、硯木はすぐには帰らなかった。外の雨を少しだけ眺めていた。雨を眺めていると、また雨をつくりたくなった。今度の雨は、今までとは少し違ったものになるかもしれないと少し期待しながら、硯木は家に帰った。
 そして、夏が過ぎ、秋が過ぎ、また冬が訪れた。
 年が明けて、正月。硯木はヒラツカと凧揚げをした。ヒラツカは、鳥を模した変てこな凧を自作して持ってきた。ヒラツカの凧は空へと舞い上がり、綺麗な飛行を見せた。空をそよぐ風は硯木がつくったものだ。自分がつくった風の中、凧揚げをするのはなかなか楽しいものだった。意外にも、風情があった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み