第1話

文字数 1,962文字

 あんな言い方ってないじゃないか。私はスマホをぎゅっと握りしめた。トイレの個室にこもり10分は過ぎた。まだデスクに戻る気にはなれない。ミスしたのが悪い。そりゃそうだ。だけど、大した指導もないまま見て覚えろは時代遅れだ。
「あいつに任せなければ良かった。ベテランの事務員が休みだったんだよ。そう、コロナでな。え? そっちも? 休んで欲しくない人の方がかかっちゃうもんだよなぁ」
 電話の相手は別部署の上長あたりか。あからさまな言い方に、思わず課長を見た。周りの気まずそうな視線に気づいて、たまらずトイレに逃げ込んだ。
「私じゃなければよかった? 何それ。ちゃんと指示しなさいよ。上司なら教育しなさいよ。あんなやつ上司なんかじゃない」
 その時、持っていたスマホが震えた。届いたのは差出人不明のメール。無視しようとしたが、タイトルが気になり開いた。
「絶対服従アプリ。ハラスメントに悩むあなた。理想の上司を育成しませんか? 何それ」
 それはハラスメントを行う上司を失脚させ、代わりに理想の上司を作り上げていくシミュレーションゲームらしい。なんとなく興味を惹かれ、インストールした。
 ゲームの中のハラスメント上司は現実世界の課長にそっくりで、私はすぐに懲罰を与えることにした。
「別部署に飛ばすか、降格させるか……」
 別部署に飛ばすのボタンをクリックすると、ゲームの中の上司は地方の営業所に異動になった。そして次にくる上司を選ぶ。教育熱心な上司と寡黙な上司、どちらかしか選べない。きちんと指導されたい気持ちから、教育熱心な上司を選んだ。と、そこで時計を見て気づいた。トイレにこもってからかなりの時間が経っていた。長い間離席していたら、また何を言われるか分かったもんじゃない。慌てて席に戻ると、フロアの様子が変わっていた。パソコンに向かい、作業する同僚の姿は変わらなかったが、端にある課長の席に主の姿がなかった。
「どこか行った?」
 隣の社員に尋ねると、首を傾げた彼女は、分かんないけど突然出て行ったよ。と前を見たまま答えた。業務に戻りしばらく経った頃、フロアに男性が二人入ってきた。一人は部長で、一人はどこかで見たような顔をしていた。
「山田課長の異動に伴い、今日から新しく就任した川原課長だ」
 部長に紹介された川原は日焼けした肌から白い歯を覗かせて、
「今日から、営業成績アップのためにみんなで頑張っていこう」
 と、表情を輝かせながら言った。
 川原は、社員の能力を高めるような取り組みをする有言実行の人だった。もちろん業務の指示や指導も的確だ。前の課長とは大違い。しかし日が経つにつれ、少しずつ川原と温度差が生まれ始める。前のめりに突き進んでいく川原とそのスピードについていけない部下たち。
「お前たちは根性が足りないんだ。私が若い頃は地獄の特訓をしたもんだ。炎天下、幹線道路を挟んで立って社歌を歌うんだ。声が聞こえなかったらやり直し。これで精神力が鍛えられたもんだよ。そうだ! 今から地獄の特訓をやろう。みんなの精神を鍛え直すいい機会になる」
 熱心ならなんでもいいわけじゃない。私は慌てて席を立った。一刻も早くここから離れなければ。フロアを出ようとした私の肩を誰かが掴む。
「いやあ、君は熱心だね。誰よりも早く特訓に向かおうとしている」
「すみません、お手洗いに」
 川原が掴んだ肩を優しく撫でた。
「私に指導されたいと望んだのは君じゃないのか?」
 顔を近づけて言った声に、背中が粟立つような感覚がした。そうだ。思い出した。川原は、アプリで選んだ上司にそっくりだ。
 川原に引きずられるように連れて行かれ、道端で社歌を歌わされた。
「聞こえない! もう一度!」
 照りつける真夏の日差しは攻撃的なまでに強く、数分と立っていられない。しかし、何度もやり直しをさせられる。頭が朦朧とし、目がかすむ。もう、限界だ。その場から離れようとしたが、足がもつれて転倒した。逃げるのか? 逃げたら懲罰だぞ。川原の声がした。
 このアプリのせいだ。スマホを取り出し、起動させる。上司選択画面で、リセットボタンを見つけた。リセットの下に課金10万円とある。
「高っ! でも、まだ前の課長の方がマシ……」
 意識が薄れる中、リセットボタンを押す。支払手続きを完了したところで気を失った。
 気がつくと、トイレの中にいた。訳が分からず、フロアに向かう。
「おい、一体どこに行ってたんだ」
 課長の席には異動したはずの山田の姿があった。
「飛ばされたはずじゃ」
「何失礼なことを言ってるんだ。早く席に戻れ」
 不思議な気持ちでスマホを開くが、なぜか画面から絶対服従アプリは消えていた。
――あれは夢だった?
 すっきりしなかったが、私はまた日常に戻った。しかしその翌月、通帳からしっかり10万円引かれていた。
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