第5話

文字数 1,381文字



 抱いた犬を起こさぬように、こどもは寝床から這いだした。

 魔女はデッキの揺り椅子にもたれて、まぶたを下ろしていた。
 ゆら、ゆら、静かに揺れる彼女の、近づきがたい美しさ。
 こどもは畏れて足を止める。

 闇と同じ色のローブが、そのまま黒い河とひとつに溶けてしまいそうだ。
 
「なんだい、眠れないのか?」

 こどもは、まぶたを持ちあげた彼女にほっとする。
 なのにろくに顔も見られぬまま、おずおずと近づき――、

 壊れたハチドリを、両手で差しだした。

「こどもが壊した。ごめんなさい」

「おやまぁ」
 魔女はハチドリを受けとり、壊れた翼の破片を検分する。
「わざとじゃない。そうだろう?」
「……うん」
「おいで」

 魔女は犬にハチドリをくわえさせ、「机にもどしておくれ」と頭をなでる。
 犬が尻を向けると、魔女はこどもを膝に抱きあげた。

「心配することはない。私は外側なら直してやれる。そう言ったろう」
「ハチドリ、まだ直る? ぜんぜん動かないの」
「ハチドリってのは、死んだように眠るもんなのさ」

 魔女の胸にもたれて、こどもは大きな息をつく。

「よかった」
「おやすみ。こどもも、犬も」

 おつかいを終えて戻ってきた犬まで、魔女の膝に乗り上がる。
 魔女は重たいねぇと笑った。

「このコ、おうちにかえりたいの。かえれないの、かわいそうだ」
「……そうだねぇ。だけど、犬。おまえはもう、あれはいらないだろう?」

 そうですねと応えるように、犬はこどもの顔に鼻をすりつける。
 あまえた声で鳴く犬に、こどもは硬い毛の首を抱いた。

 魔女は、こどもの知らない言葉の歌を口ずさむ。
 河の流れと同じリズムの、寂しい歌だ。
 魔女と犬のぬくもりに挟まれて、こどもはとろけるように深く眠った。





 こどもが目を覚ましたときには、犬は冷たくなっていた。

 きのうは確かに濡れていた鼻さきに、最後のキスを落とす。
 花の冠で飾った犬のからだは、黒い河の流れに、ゆっくりと沈んでいく。

「命は、いつか必ず失うものだ」
「うん」

「あの犬は、おまえのそばで死ぬことを選んだ。だからおまえが、覚えていておやり」
「……うん」

 犬の体が、霧のむこうに見えなくなる。

 しゃがみこんで動かないこどものとなりに、魔女は凛と立っている。
 その人差し指を、こどもはきゅうっと握りこんだ。

「魔女は、こどものママみたい」
「わたしが?」

 魔女は笑う。
 その横顔が、みるみる男の輪郭になっていく。

 こどもは幾度も目を瞬いて、美しい男を見上げた。

「じゃあ、パパ?」
「どうかな」

 まばたきする間に、今度は同い年くらいの少女の姿になっている。

「どれがほんと?」
「どれだか、もう忘れてしまったな」

 少女がきちんと並んだ白い歯を見せて笑う。

「なら魔女は、こどものママでパパで、お友だちにもなれるね」
「私はおまえのどれでもない」
「どうして? ケチんぼ」
「こどもはいつか、還るのだから」

 こどもが黙ってしまうと、魔女はこどもの頭に手のひらを置いた。
 くしゃくしゃの柔らかい髪。
 しなやかな命に満ちた髪だ。

「さぁ、これから、ハチドリを直してやらなきゃね」
「直る?」
「おまえが壊したんだから、おまえが直すんだよ。教えてやろう」
「ホント!? すごい! うれしい!」

 黒い河のうねりに背を向け、ふたりは笑いながら家へ帰る。
 部屋の明かりが細い帯を作る。

 錆びた蝶番がきしむ音をたて、扉がしまった。
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登場人物紹介

「失せもの」の子ども。魔女に拾われた。

最果ての森で、失せものの河を守る魔女。子どもをひろった。

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