第一話:『転職』
文字数 3,192文字
船から下りたのに、地面が揺れている――ような気がしていた。
確か、陸酔いというんだっけ。
吐き気をこらえながら、そう思う。
南の島の、客船ターミナル。
ほかの乗客はみな、ホテルや民宿などの迎えなどで移動しており、ここには俺しかいない。
幸いというかなんというか、まだ待ち人は来ていなかった。
それをいいことに、俺は待合用の長いすの上で横になることにした。
やはり、横になるとだいぶ楽に――。
「ごめんなさい、遅れました!」
明るい女の子の声が響いたのは、まさにそのときだった。
「あの、応募された方ってあなたですよね?」
「は、はい。そうで――うぷっ!?」
慌てて起き上がってしまったため、『それ』がくる。
幸いになことに、戻しはしなかった。
■ ■ ■
――そもそもは、二年ほど勤めていた会社を辞めて半年が過ぎたときのことだ。
ぼんやりと求人サイトを眺めていたとき、ふとある求人広告が目に入った。
『南の島で、働いてみませんか?』
業務内容は運送会社の事務全般。つまりは、雑用だろう。
給料の方は、このご時世なら悪くはない。
勤務時間も――この手のものはだいたいあてにならないのだが――常識的な範囲だ。
これなら、応募者が殺到するだろう……と思ったのだが、次の一文にはこう書いてあった。
電気・ガス・水道あり。テレビ・携帯電話・インターネット制限あり。
勤務地の住所で検索し地図を呼び出してみると、絶海の孤島が表示された。
なるほど。娯楽と通信のインフラが整っていないのはつらいだろう。
……普通なら。
しかしこちとら毎日の『痛勤』と莫大な仕事量と、同僚の嫌がらせが嫌になってドロップアウトした身である。
悪くは、ないかな。
そう思って、応募のメールを送る。
返事は、すぐに来た。
『面接をしたいので、島に来ていただけないでしょうか。乗船券は添付いたします』
添付ファイルを確認すると、本当にQRコード付きの乗船券が用意されている。
ここまで来て、やめるという選択肢はないだろう。
そう思い立って、俺は近日中に伺う旨の返信を送り、今のアパートを引き払う準備を始めた。
仮にこの面接でだめだった場合は——郷里に帰ろうかと思ったのだ。
■ ■ ■
「大丈夫ですか?」
「ええ、まぁ……」
背中をさすってもらいながら、俺はかろうじて声を上げる。
客船ターミナルに駆け込んできたのは、十代後半くらいのの女の子だった。
長い黒髪をそのままにし、ランニングウェアに身を包んでいる。
そして手には、大きめのボストンバッグを提げていた。
「これ、飲んでください。楽になると思いますので」
腰のポーチから今時珍しい薬包紙を一服分とりだして、女の子はそういう。
多少怪しかったが言われるままに飲んでみると、不思議なことに薬特有の苦みはなく、代わりに爽やかな香り——草餅をもっと強くした感じ——が、鼻の奥を抜けていった。
とたん、あれだけ気持ち悪かった陸酔いがあっさりと治る。
「うん?」
気のせいかと思いながら立ち上がる。
が、さきほどまで揺れていた感覚がまったくない。
「よかった、ちゃんと効いたみたいですね」
うずくまっていた俺に合わせて膝をついていた女の子が、嬉しそうにに手のひらをあわせる。
「ありがとうございます。助かりました」
今のは酔い止め薬なのだろうか。
こんなに効くのが速い薬を飲んだのは、初めてのことだった。
「えっと、それでは改めて——ギョウブリロウさん……でいいんでしょうか?」
「刑部理朗。オサカベヨシロウです」
よく間違えられるので、漢字ひとつひとつから説明する。
「理朗さんですね。覚えました! わたしは、榊々木詩穗です。よろしくお願いします!」
「ああ、こちらこそよろしくお願いします……ん? ささきしほ……?」
その名前には、覚えがあった。
メールを送ってきた、雇い主(予定)の名前だ。
とすると、この子は雇い主の使いとかではなく、本人と言うことになる。
「失礼ですが、面接をしたいってメールを送ってきたのは」
「はい、わたしです。……あ、暑いですから、ネクタイはずしてもいいですよ?」
「では、お言葉に甘えまして——」
正直、すごく助かる。
面接だというので、スーツを着ていたのだが完全に失敗した。
夏用で通気性のいいものを着ていたが、それでも暑い。
よくよく地図を見れば、沖縄と同じくらいの緯度なのだから、当然の話だった。
「ここではなんですから、仕事場まで案内しますね。こちらです」
詩穂さんに導かれるまま、客船ターミナルの外に出る。
到着したのは昼過ぎであったが、陸酔いでぐったりしていた時間はけっこう長かったようで、もう夜の帳がおりかけていた。
それよりも——。
「その仕事場まで、ここからどれくらいなんですか?」
「二キロくらいでしょうか」
「にきろ!?」
三十分もあれば歩けるだろうが、陸酔いとはいえ病み上がりには少し厳しかった。
「それはなんというか……」
「ちょっと辛いですよね。なので、これを使います」
そう言って、詩穂さんは手に提げていたボストンバッグを開けた。
中に入っていたのは、カメラの撮影に使う一脚と、懐中電灯、そして卓上箒だった。
「それでいったいなにを?」
「みていてください」
そう言って、詩穂さんは一脚を延ばすと、片方の端に懐中電灯をとりつけ、もう片方の端に卓上箒をねじ込んだ。
そうしてみると、まるで——。
「折りたたみ式の箒みたいですね」
「はい。まさにそれです!」
組み上がった箒を槍のように立てて、詩穂さんは自慢げにそう言う。
「でもそれでどうするんですか? お話に出てくる魔女じゃあるまいし」
「その魔女だっていったら、理朗さんはどうします?」
「……え?」
「まぁ、だまされたと思って後ろに乗ってください」
そう言って、詩穂さんは魔女のように箒にまたがる。
「う、うしろって」
「わたしの後ろです。箒にまたがったら、両手で私を抱えるように掴まってください。でないと振り落とされちゃいますから。あ、荷物はこちらで預かります」
先ほどの薬以上に怪しいことこの上なかったが、荷物を預け、おそるおそる箒にまたがり、詩穂さんの腰に手を回す。
ほっそりとしていたが、意外にも弾力がある——って大のおとながいうことじゃなかった。
「準備できましたけど——」
「理朗さんの荷物も格納よし、と。それじゃ行きます!」
途端、俺の両脚が地面から離れた。
正確には、箒が宙に浮いたのだ。
「本当に飛ん——!?」
続く急加速に、俺は慌てて舌を噛まないように口を閉じる。
詩穂さんの操る箒は一度海にでると、海岸線沿いに低く飛んだ。
その光景は——。
「すげぇ……!」
夜の闇に沈みかけている島の上を、まるで自転車やバイクのような気軽さで飛んでいる。
「いまさらなんですけど−!」
箒を巧みに操りながら、詩穂さんが大きな声を上げる。
前から後ろに話を伝えるためには、風が強いので声を大きくしないといけないのだ。
「このこと、内緒でお願いしますねー!」
「もちろんです!」
こんなこと、誰に言ったって信じてもらえやしないだろう。
「見えてきましたっ! あそこがわたしたちの仕事場です!」
詩穂さんが指さす先には、一軒の古い日本家屋があった。
そこに向かって、俺たちはゆっくりと降下していく。
正面から吹き付けてくる潮の香りと、下から吹き上げてくる草の香りが、妙に心地よかった。
確か、陸酔いというんだっけ。
吐き気をこらえながら、そう思う。
南の島の、客船ターミナル。
ほかの乗客はみな、ホテルや民宿などの迎えなどで移動しており、ここには俺しかいない。
幸いというかなんというか、まだ待ち人は来ていなかった。
それをいいことに、俺は待合用の長いすの上で横になることにした。
やはり、横になるとだいぶ楽に――。
「ごめんなさい、遅れました!」
明るい女の子の声が響いたのは、まさにそのときだった。
「あの、応募された方ってあなたですよね?」
「は、はい。そうで――うぷっ!?」
慌てて起き上がってしまったため、『それ』がくる。
幸いになことに、戻しはしなかった。
■ ■ ■
――そもそもは、二年ほど勤めていた会社を辞めて半年が過ぎたときのことだ。
ぼんやりと求人サイトを眺めていたとき、ふとある求人広告が目に入った。
『南の島で、働いてみませんか?』
業務内容は運送会社の事務全般。つまりは、雑用だろう。
給料の方は、このご時世なら悪くはない。
勤務時間も――この手のものはだいたいあてにならないのだが――常識的な範囲だ。
これなら、応募者が殺到するだろう……と思ったのだが、次の一文にはこう書いてあった。
電気・ガス・水道あり。テレビ・携帯電話・インターネット制限あり。
勤務地の住所で検索し地図を呼び出してみると、絶海の孤島が表示された。
なるほど。娯楽と通信のインフラが整っていないのはつらいだろう。
……普通なら。
しかしこちとら毎日の『痛勤』と莫大な仕事量と、同僚の嫌がらせが嫌になってドロップアウトした身である。
悪くは、ないかな。
そう思って、応募のメールを送る。
返事は、すぐに来た。
『面接をしたいので、島に来ていただけないでしょうか。乗船券は添付いたします』
添付ファイルを確認すると、本当にQRコード付きの乗船券が用意されている。
ここまで来て、やめるという選択肢はないだろう。
そう思い立って、俺は近日中に伺う旨の返信を送り、今のアパートを引き払う準備を始めた。
仮にこの面接でだめだった場合は——郷里に帰ろうかと思ったのだ。
■ ■ ■
「大丈夫ですか?」
「ええ、まぁ……」
背中をさすってもらいながら、俺はかろうじて声を上げる。
客船ターミナルに駆け込んできたのは、十代後半くらいのの女の子だった。
長い黒髪をそのままにし、ランニングウェアに身を包んでいる。
そして手には、大きめのボストンバッグを提げていた。
「これ、飲んでください。楽になると思いますので」
腰のポーチから今時珍しい薬包紙を一服分とりだして、女の子はそういう。
多少怪しかったが言われるままに飲んでみると、不思議なことに薬特有の苦みはなく、代わりに爽やかな香り——草餅をもっと強くした感じ——が、鼻の奥を抜けていった。
とたん、あれだけ気持ち悪かった陸酔いがあっさりと治る。
「うん?」
気のせいかと思いながら立ち上がる。
が、さきほどまで揺れていた感覚がまったくない。
「よかった、ちゃんと効いたみたいですね」
うずくまっていた俺に合わせて膝をついていた女の子が、嬉しそうにに手のひらをあわせる。
「ありがとうございます。助かりました」
今のは酔い止め薬なのだろうか。
こんなに効くのが速い薬を飲んだのは、初めてのことだった。
「えっと、それでは改めて——ギョウブリロウさん……でいいんでしょうか?」
「刑部理朗。オサカベヨシロウです」
よく間違えられるので、漢字ひとつひとつから説明する。
「理朗さんですね。覚えました! わたしは、榊々木詩穗です。よろしくお願いします!」
「ああ、こちらこそよろしくお願いします……ん? ささきしほ……?」
その名前には、覚えがあった。
メールを送ってきた、雇い主(予定)の名前だ。
とすると、この子は雇い主の使いとかではなく、本人と言うことになる。
「失礼ですが、面接をしたいってメールを送ってきたのは」
「はい、わたしです。……あ、暑いですから、ネクタイはずしてもいいですよ?」
「では、お言葉に甘えまして——」
正直、すごく助かる。
面接だというので、スーツを着ていたのだが完全に失敗した。
夏用で通気性のいいものを着ていたが、それでも暑い。
よくよく地図を見れば、沖縄と同じくらいの緯度なのだから、当然の話だった。
「ここではなんですから、仕事場まで案内しますね。こちらです」
詩穂さんに導かれるまま、客船ターミナルの外に出る。
到着したのは昼過ぎであったが、陸酔いでぐったりしていた時間はけっこう長かったようで、もう夜の帳がおりかけていた。
それよりも——。
「その仕事場まで、ここからどれくらいなんですか?」
「二キロくらいでしょうか」
「にきろ!?」
三十分もあれば歩けるだろうが、陸酔いとはいえ病み上がりには少し厳しかった。
「それはなんというか……」
「ちょっと辛いですよね。なので、これを使います」
そう言って、詩穂さんは手に提げていたボストンバッグを開けた。
中に入っていたのは、カメラの撮影に使う一脚と、懐中電灯、そして卓上箒だった。
「それでいったいなにを?」
「みていてください」
そう言って、詩穂さんは一脚を延ばすと、片方の端に懐中電灯をとりつけ、もう片方の端に卓上箒をねじ込んだ。
そうしてみると、まるで——。
「折りたたみ式の箒みたいですね」
「はい。まさにそれです!」
組み上がった箒を槍のように立てて、詩穂さんは自慢げにそう言う。
「でもそれでどうするんですか? お話に出てくる魔女じゃあるまいし」
「その魔女だっていったら、理朗さんはどうします?」
「……え?」
「まぁ、だまされたと思って後ろに乗ってください」
そう言って、詩穂さんは魔女のように箒にまたがる。
「う、うしろって」
「わたしの後ろです。箒にまたがったら、両手で私を抱えるように掴まってください。でないと振り落とされちゃいますから。あ、荷物はこちらで預かります」
先ほどの薬以上に怪しいことこの上なかったが、荷物を預け、おそるおそる箒にまたがり、詩穂さんの腰に手を回す。
ほっそりとしていたが、意外にも弾力がある——って大のおとながいうことじゃなかった。
「準備できましたけど——」
「理朗さんの荷物も格納よし、と。それじゃ行きます!」
途端、俺の両脚が地面から離れた。
正確には、箒が宙に浮いたのだ。
「本当に飛ん——!?」
続く急加速に、俺は慌てて舌を噛まないように口を閉じる。
詩穂さんの操る箒は一度海にでると、海岸線沿いに低く飛んだ。
その光景は——。
「すげぇ……!」
夜の闇に沈みかけている島の上を、まるで自転車やバイクのような気軽さで飛んでいる。
「いまさらなんですけど−!」
箒を巧みに操りながら、詩穂さんが大きな声を上げる。
前から後ろに話を伝えるためには、風が強いので声を大きくしないといけないのだ。
「このこと、内緒でお願いしますねー!」
「もちろんです!」
こんなこと、誰に言ったって信じてもらえやしないだろう。
「見えてきましたっ! あそこがわたしたちの仕事場です!」
詩穂さんが指さす先には、一軒の古い日本家屋があった。
そこに向かって、俺たちはゆっくりと降下していく。
正面から吹き付けてくる潮の香りと、下から吹き上げてくる草の香りが、妙に心地よかった。