第1話  ムラサキの雨に包まれて

文字数 9,612文字

降り始めていた細い雨の中、茜は傘も差さずに外苑の並木道を歩いていた。以前に後片付けの手伝いに行った多恵と岳の住まいでの情景が、その後も頭から離れなかった。多恵の告別式の後、一人に成ってしまった岳の様子を見る目的もあったが、何よりもこれからの岳の身の振り方が心配で、できる事ならずっと側に居てやりたかったが、茜にはその気持ちさえ岳に伝える事が出来ずにいたのである。「いまのあの人の心の中は、多恵さんの事でいっぱい。それも悲しみを必死で押さえている。」顔には出さない岳の優しい微笑みを思い出しながら茜は呟く様に独り言を言っていた。

あの頃の二人の住まいは都心からさほど遠くない郊外の湖の畔に在った。多恵と岳の共通の知人達と、その中の一人でもあった兄の圭輔の誘いで、多恵の見舞いと言う名目で訪ねたその家は、彼等が残りの時間を過ごすのにふさわしい、ゆったりとした風が流れている様だった。広めのリビングの窓からは、こんもりとした土手越しに湖面が見え、午後の光りがモネの絵の様に反射していた。その時の多恵は、あと数ヶ月の命とは思えないほど輝いていた様に見えた。普段ぶっきらぼうな圭輔が、何時になく細やかな振る舞いをしているのが何となく可笑しくて

「お兄ちゃん顔、引きつってるよ。」茜が冗談ぽく言った言葉に、過剰に反応した兄が、慌てて鏡を探しに行っていた。兄の後輩でもある和也とその恋人で、茜の職場の先輩の美紀、それぞれが、時間軸上の別なポイントで、多恵と岳に出会っていて、昔話に花を咲かせていた。和也は持って来た絵画の映像や、共通の出会いの場所である山小屋の写真を、ディスプレーで見せながら、その絵の経緯などを楽しそうに話して聞かせていた。

 「茜ちゃん、どうしたのよ、雨の中で。」不意に声を掛けられて我に返った茜の目の前に美紀が居た。

「美紀さん・・・」茜は、慌てて折りたたみの傘を出して美紀と歩き始めた。二人は暫く歩ってから、馴染みの店に入った。

「今日は、和也さんは?」

「うん、コンピューターのお守りだって、遅く成るみたい。」

「ふんん、和也さんてコンピューターのお医者さんなんですか?医局の女医のお姉様が、

ドクターて呼んでますが。」

「ああ、それは医者の意味じゃなくて、博士って言う事ね。彼が良く医局の方に出入りしているのは、隣の研究所でコンピューターを使って研究している実験結果と、医局での実態例を比較するためなのよ。」

「へえ、コンピューターで病気を治せるんですか。」

「ううん、コンピューターで治す訳じゃ無くて、病気のシュミレーション、模擬実験の様な事をやらせているみたい。私も良く解らないんだけど。」

「ふーん、難しそうですね。」

「そう言えば、圭輔さんはまた海外!」

「ええ、バーミヤンの医療キャンプへ行くって言ってました。新しい設備を入れるとかで。

また淋しく成っちゃいましたよ。」茜にとって圭輔は年の離れた兄で、早くに他界した父親代わりの様な存在だった。

「雨の中傘も差さずに並木道を歩いていた茜ちゃんの物思いは、そんな事じゃ無さそうね。」

美紀は茜の思いを察する様に声を掛けた。

「ええ・・・岳さんの事で。岳さんて多恵さんの病気の事を承知で結婚したんですよね。」

茜は一寸と淋しそうに尋ねた。

「ええそうよ。始めは、多恵さんはね、結婚を拒んでいたのよ。勿論、岳さんが嫌いとかと言う訳じゃなくて、この先、長くは無い自分のために、岳さんの人生を犠牲にする様な事をして欲しく無かったのだと思う。でも、岳さんの熱意に押されて、それと病気の治療の事で、健康保険の支払いとか病院の手続きとかが他人のままでは難しかったみたい。」茜は美紀の話を聞きながら、雨に濡れたテラスの白いテーブル達に目をやった。雨でなければ、そこには、それぞれに楽しそうな話題を語るカップルやらグループが居るはずであった。

「在る意味、茜ちゃんには悪い事をしちゃったなと思っているのよ。私達の仲間の問題に

首を突っ込ませちゃって、それもまだ若い茜ちゃんには、一寸重すぎる現実を。」

「そんな事無いです。だいいち最初に多恵さんのお見舞いに誘ったのは、お兄ちゃんだし、私もお兄ちゃんの気持ちは理解しているつもりですから。」

茜の兄、圭輔は女医の妻、薫と共に、あるNPOに所属し世界を回っていた。そのNPOの医療活動は世界的に評価されているかたわら、活動場所は各国の紛争地域や難民キャンプと言った過酷な場所であった。圭輔は医師では無かったが、医療設備の調達からメンテさらには、それらの動力源の確保などを担当し、医療キャンプのスタッフから信頼される存在であった。

茜はあの時の圭輔の言葉を思い出していた。

「僕や薫は、この仕事柄、各地で助けられなかった命の重みを背負いながら先に進んでいるけど、岳君には既にゴールしかない。そんな生き方を選ぶべきでは無いと薫や僕は何度か説得したけれど、彼は多恵さんの救済者に成れればそれで良いと言って聞き入れなかった。」圭輔が思い出す様に語った言葉が蘇っていった。

「この間お部屋の片付けのお手伝いに行った時、岳さんが見せてくれた多恵さんの写真やあの音楽、今でも頭の中に残っています。きっと岳さんは一生忘れないまま生きていくんですよね。いくら好きになって愛した人だからと言っても、岳さんのこれからの長い人生をそのためだけに費やしてしまうなんて。」

茜は淋しそうに言った。

「茜ちゃん、人はそんなに弱くは無いわよ、と言うかもっと都合良くできてると思うわ。

コンピューターのメモリーみたいに、消さなければ何時までも残っているもんじゃ無いと思う。」

「え、それじゃあ、多恵さんの事忘れられるんですか。」

「今は無理でも、何かのきっかけが有れば、新しい人生を見つけると思うわ。多恵さんも

実はそれを望んでいたんだから。多恵さんの遺言で、お墓も作らないし、遺品も処分するって、岳さんが言ってたでしょ。多恵さんは、岳さんと一緒になると決めた時に、多分、自分が居無くなった後、岳さんが背負う辛い思いを少しでも軽くする様にしたいと考えていたと思うのよ。」美紀と茜は共にあの日の事を思い起こしていた。それはすっかり葉を落とした木々に囲まれた水辺の家、その家は多恵が居た頃とは違う静けさに満たされていた。

「多恵と暮らしている時は、そんなに広く感じなかったけど、一人になると無駄に広い気がするな。」後片付けをしながら、岳はぽつりと呟いた。その家を訪れた和也と美紀と茜、そして多恵の義理の弟とで、多恵の荷物を整理していた。

「岳さん、まだこの家に居ますか。」和也が聞くと、

「うん、気持ちの整理が付いたら引っ越すつもりだけど、その前に、一寸やりたい事も有るし。」

「外苑の方に、来ませんか。」和也が誘うと

「ああ、仕事もそっちの方が都合が良さそうだし、考えておくよ。」翻訳の仕事をしている岳にとっても、出版関連の会社が近い方が何かと便利な筈でもあった。

「是非そうしてください。圭輔お兄ちゃんもそう言うと思います。」茜が一寸緊張気味に言った後

「あ、すいません。差し出がましい事を言って。」茜は、顔には出さないが、きっと深い悲しみを背負っているだろう岳の思いを察したかの様に付け加えた。

「多恵の遺言で、形見に成る様な物はあげられないけど、彼女が好きだった曲を紹介するよ。」そう言って、岳は曲をかけた。それはラフマニノフのヴォーカリーズだった。その優しく何処か淋しく透き通った曲に、その場に居たみんなが、暫く作業を止めて聞き入っていた。

「これが彼女への鎮魂歌ですかね。」岳は、優しい声で言った。

「丁度良いから、一休みにして、この辺でお茶にしましょう。これも多恵が好きだった紅茶ですけど。」岳が丁寧に煎れてくれた紅茶は、鼻にスート抜ける、レディーグレーだった。

「そうもう一つ、彼女の好きだった花です。春になると、その窓から見える土手の麓に、沢山咲くんですよ。」そう言って、手にした写真立てをみんなに見せた。そこには、水仙の花に囲まれ、紫色の服を着た多恵の優しい笑顔が写っていた。

 大きなガラス窓をゆっくり流れ落ちる雨粒を見ながら茜は

「多恵さんの写真を見せられたあの時、思わず声を出して泣きそう成っちゃいました。きっと岳さんはこの思いを胸に閉まったまま生きて行くのだろうなって、そう思うと切なくて

。」「そうね、でもあの写真もきっと処分するんじゃないかな。遺灰はどうするつもりか解らないけど。」二人は冷めかけたコーヒーを飲むと、美紀が

「茜ちゃんは、岳さんが好きなのね。」唐突な美紀の言葉に一寸戸惑った様子では有ったが茜は、

「多分、そうだと思います。」

「変な話だけど、多恵さんも喜んでいるんじゃないかな、岳さんを思ってくれる人が居る事で。」

「そうですかね。」茜は、少しほっとした様子で

「私他人の恋愛事情なんかには、凄く敏感なのに自分の事となると、自分の気持ちさえ旨くつかめ無いんです。」

「それは、多かれ少なかれ、みんな同じよ。私だって、何時の間にか和也さんを好きになっていたもの。」美紀は一寸はにかむ様に言った。茜は

「私も、あの小屋で岳さんと出会っていたら、普通の恋心で居られたかもしれませんね。」と言った言葉に、美紀は一寸間を置いて

「それはどうかな。強力なライバルが居たわよ。多恵さんと言う。」

「あっそうか。これは強敵ですね。」その言葉に二人してクスと笑った。外は相変わらず、本降りとは成らないままの細い雨が、大きなガラス窓を濡らしていた。

「和也さんも遅くなるみたいだから、何処かで食事して行きましょうか。」美紀の提案に

「夕食とか作って置かなくて大丈夫なんですか。」茜が尋ねた。

「今日は、綾佳さんが来てるから大丈夫。」

「綾佳さんて、和也さんの可愛らしいお姉さんですよね。」

「正確に言うと従妹ね。でも本当の姉みたいに、和也さんを見ててくれるわ。私もそうだけど、綾佳さんも和也さんも一人っ子なので、それぞれに何だか兄弟ができた様な感じで楽しいのよ。」そう美紀が言った後で、茜は少し間を置いてから

「始めて、綾佳さんとお逢いした時、てっきり和也さんの妹さんかと思いました。それも私と同じ位の。後で聞いたら、付属高校の先生だって、しかも武術の達人とかで、あ、これは私の友達からの情報ですけど。」茜の会話に笑みをこぼしながら美紀は

「和也さんもその辺の事情を一々説明するのにうんざりしているみたいね。端から見ると

仲のいい兄と妹に見えるけど、和也さんの表現を借りるなら実態は、親分子分の関係なんですって。」

「親分子分、何ですかそれ。」茜から笑いがこぼれた。

「和也さんのお母様と、綾佳さんのお母様が、双子の姉妹の関係でもあったので、二人は小さい頃から兄弟みたいに育てられたのよ。それで、綾佳さんは和也さんを弟扱いしているって訳かな。でも近頃では、その関係に私が加わったから微妙ね。私にとっても綾佳さんは良いお姉さんなのよ。」そんな会話のやり取りが終わると、二人は店を出た。雨は霧の様に漂っていて、記念館の周りの照明と夜の闇の中で、深い紫色の空間を作り上げていた。

二人はその色に包まれながら、外苑を横切る様に歩いた。

「多恵さんて紫が好きだったんですか。」茜が傘の中から言った。

「あの時見せて頂いた、水仙に囲まれた多恵さんの写真、確か紫の服を着ていたと思うんですけど。」茜の言葉に美紀は少し考えてから

「そう言えば、昔何回か山の小屋でお逢いした時は、紺か深い紫系の服だったかな。」美紀は少し間置いてから

「前に一寸聞いた話だけど、多恵さんの家、奈良のご実家の家系は、雅楽の楽器を作っていた家系だとかで、地元では結構有名な家柄みたいな話だったな。ああ、もう一つその時の話の中で聞いた事で、ご実家の家系の人は長生き出来ないって。」

「それってどう言う事ですか。」

「その時はそれ以上の詳しい話まで聞けなかったけど、前に和也さんとその話をした時に言っていた事で、発ガン性の化学物質のためじゃないかって。」

「え、それが原因で、多恵さんも病気に。」

「本当の所は解らないけど、多恵さんの生まれ育った環境を調査しないとね。でも楽器を作る過程で色々な薬品やら処理をするから。そう、一つの例として、めっきて知ってる。」

「めっき!あの金メッキとか、めっきが剥がれたとかのですか。」

「そう、めっきと言う言葉は、もともと滅金、金が消えるて言う意味から来てるのよ。ああ、これって和也さんの受け売りだけど・・奈良の大仏の建造当時、平城京の時代かな、大仏は黄金だったのよ、て見てきた訳じゃないけどね。もっとも、全部が金と言う訳じゃなくて、めっきね。」

「あんな大きな大仏にめっきをしたんですか。」

「うん、組み上げる前にそれぞれの部分でめっき処理をしたんでしょうけど。そのめっきはね、水銀を使うのよ。」

「水銀、あの公害とかで出てきて病気になっちゃう。」

「うん、水銀と金を混ぜると、柔らかい合金、アマルガムが出来てこれを、青銅で出来た大仏の体に塗るの、アマルガムは堅い金属と違い普通の状態でも薄く塗る事が出来るのね、まあこのままでは、黄金じゃ無くていぶし銀の大仏なんでしょうけど。問題はこれから、金色にするため、水銀を蒸発させる訳で、この蒸気が猛毒になるのよ。とまあ、伝統的な技術の中には、部外者には解らない危険な技術も残っているかもしれないって事を言いたかったのだけど・・・ええと紫の話よね。多恵さんが好きな色だったかもしれないて。」

「話を戻すとそうですね。」

「古来より、これも和也さんの受け売り何だけど、紫色は高貴な色として扱われていて、病気の治癒効果もあると昔は信じられていたのよ。事実、藍染めの布なんかには殺菌効果があると言われてるくらい。そんな理由もあって、多恵さん、あるいは家の人達は、紫を自然に着るように成ったのかもしれないなって思ったのよ。」

「ふーん、なるほどね。」茜は感心した様に言った。

 その後も止むでも無く降るでも無い雨足の中で、その雨に包み込まれて居るかの様に、二人は外苑の並木を歩いていた。そう言えば、あの時もこんな優しい雨の日だったと、美紀は思い起こしていた。和也が突然上京してきてアパートを探したいとの事から、お目当ての部屋を見つけ出した後、二人してまだ何の家具も無い部屋に行って見た。コンビニで買った軽食と、和也が持ってきた山用のコンロでお茶を沸かし、夜食を食べた。はじめ細い月が出ていた夜空は、いつの間にか煙る様な雨が降っていて、その雫の音が寝袋にくるまった二人を優しく包んでくれていた。

そんな思いが頭をかすめた直後に、美紀の携帯に着信があった。

「和也さんからだ。」美紀は携帯のメールを確認して、驚いた様に茜に話した。

「岳さん、カイラスに行くって。」

「え、カラス・・・」

「カラスじゃなくて、カイラス山、チベットに有る山、ほら、仏教の聖地と言うか巡礼する所と言うか。」美紀は、和也から送られて来たメールの内容と添付の写真を茜に見せた。

「これてエベレストじゃなくて・・とっても高い山でしょ。」

「6000メートル位ね、でも山自体には登れ無いのよ、聖地だからね。この山の周りを巡礼するのよ。」

「何でそんな所へ・・・」茜は、途中で言葉を句切った後で

「そうか、多恵さんの遺灰を・・・」

「そうね、そこに埋葬するつもりね。」美紀には、あの時言った岳の言葉『その前に一寸やりたい事がある・・』の意味がつながって来ていた。

「そう言えば、薫さんも以前に、カイラスに行きたいて言い出した事が有ったそうよ。

その頃は、まだ、チベット地域の情勢が不安定だったから、実現しなかったのだけど。」

「ふんん、それってどんな事情だったんですか?岳さんと同じ様な事?」

「お兄さんから聞いた事ない。」

「ええ、薫さんの事、兄はあまり話さないから。」

「和也さんの話だと、まだ圭輔さんと結婚する前の事で、薫さんの先輩に当たる方で、薫さんを今のお仕事に誘った人なんだけど、コソボの紛争の時に亡くなられているのよ。」

「コソボて、東ヨーロッパの・・・そう言えば、その頃心配そうに、兄が何かを仕切りに調べていた様な、私にはその事自体が良く解らなかったんですけど。」

「何でも、難民キャンプの医療活動の最中に、それぞれの勢力の戦闘に巻き込まれて、薫さんは運良く脱出出来たけど、その先輩の方は、爆撃に遭われたらしく行方不明になってしまって、その後死亡が確認されたらしいけど何も戻って来なかったて言ってたわ。」

「それでカイラスへ行きたいて。」

「うん、その話はそれから暫くたってからの事らしいけど。」

「薫さんはその方が好きだったんですね。」

「そうね、思いを吹っ切るまでには時間が掛かったみたいだけど。」

「よく、薫さんはお兄ちゃんと結婚しましたね。」

「それは、圭輔さんの熱意よ。岳さんみたいな。」

「あっそうか。」

「それに四年も後を追われればね!」

「え、何ですかそれ?」

「あ、まだ知らなかったっけ、この話。」

美紀達の道すがらの話は、目的の店に着く事で中断した。

「一寸刺激的な味のお店を紹介するわ。基本的にはイタリアンだけど。」美紀達は、この間和也の叔母に紹介した店を訪れた。この近辺が地元の美紀にとって、この店のマスターとは幼なじみの間柄であった。

「ええ、随分高級そうなお店ですね。」

「うう、この変でやって行くにはそれなりに個性を出さないと、流行らないみたいね。」

暫くして、如何にもシェフと言う様な姿のマスターが現れた。

「いらっしゃい。この間はご紹介頂有り難うございました。」シェフは、わざと丁重なお礼を美紀に言った。

「此方こそ、特別なご配慮頂、有り難う御座いました。」二人の会話に、ぽかーんとしている茜の顔を見てそれぞれが笑い出した。

「それで、どうでした。会食会は!」

「うん、良い雰囲気だったよ。僕の料理も気に入ってもらえた様だし。」

「今日は。」

「うん、恋いの病に効きそうな元気がでるものがいいな。」

「ん、それって此方のお嬢さんの事。」

「そう、巣立つ前のひな鳥の背中を押してあげられる様な料理がいいな。」シェフは一寸考えてから

「エスカルゴの良いのが入ったから、ニンニクとか大丈夫だよね。これからデートとか有るかな。」

「茜ちゃん、大丈夫だよね。」茜は我に返った様子で

「ええ、デートはありません。いや、大丈夫です。」シェフは優しく笑った後に、

「今日は、フィアンセは?」美紀に尋ねた。

「まだ仕事。遅く成るみたいで。」

「大変だね、なかなか一緒に居られなくて。その反動で、平気で人前でキスなんかしちゃう訳ね。」シェフは一寸意地悪そうに言った。

「こら、変な事ばらさないでよ。」目を丸くして聞いていた茜が

「美紀さんて結構大胆なんですね。」

「そうだよ、高校時代の文化際の時なんか、凄いハイレグの水着をきてバニーガールやったりさ・・・」帽子を取り、椅子に腰を下ろして話始めたシェフの足を、美紀が軽く蹴って

「早く料理を作りなさいよ。」とけしかけた。

「はいはい、」シェフはオーバーな身振りで席を立つと、

「そう言えば、この間の会食会で沢山お礼を頂いたんで、今日は店のおごりで良いよ。」

と言って厨房に消えた。

「腐れ縁の幼なじみなのよ。高校出て直ぐにフランスやイタリヤへ行って料理の修業をしてきて、暫くホテルで働いたあと、最近この店を出したのよ。」

「楽しそうな方ですね。」

「金髪の奥さんがいて、二人の子持ちよ。」

「あ、一寸残念。」

「でしょ。いい男でしょ。まあ和也さんには負けるけどね。」

「おのろけですね。」

暫くして、シェフが料理を持って来た。

「エスカルゴ風味のアラビアータです。一寸辛いですよ。」料理を置くと、また美紀達のテーブルに付いて、ワインをつぎ始めた。

「此方、ワイン大丈夫ですよね。」

「ええ、未成年じゃないわよ。」美紀が対応した後

「暇なの?お客さん少ないみたい。」

「いや、まだ一寸早いかな。この変の客は、みんな遅いから。所でミーちゃんの彼氏て、と言うかあの叔母さんて何者。」シェフが気さくに聞いてきた。

「それに、あの綾佳さんの婚約者のゆきとさんとかって人、画家さんでしょ、結構有名な。」

「雪人さんは、私と和也さん達の山の先輩、て言うか憧れの人かな。」

「あの叔母様の事は詳しくは知らないのよ。ともかく、綾佳さんのお母様なんだけどね。

和也さんのお母さんと双子の姉妹だって事ぐらいで、和也さんはあまり詳しい事を話さないし

、ともかくあの叔母様は苦手みたいね。」

「いや、あの後、あの叔母さんが業界誌に紹介してくれたみたいで、予約でいっぱいに成っちゃったんだ。」

「ふーん、それって何の業界誌。」

「製紙業界関連かな、製紙業て、とんでも無いでかい工場、プラントって言うの、を持ってる企業でしょう。何でも昔は、南アルプスを持っていたって言う家柄みたいだよ。」

「ええ、そんな話聞いてないわよ。」

茜と美紀は、シェフの話に驚きながらも、料理をたいらげていた。

「ああ、美味しかった。何だか元気が出てきました。」茜が満足そうに言った言葉に、

「デザートとお茶もあるから」シェフはそう言うと再び席を立った。

「まあ哲っちゃん、今のマスターの名前だけど、の話は追々確かめるとして、茜ちゃんはどうするつもり。」

「冒険しても良いですかね。」

「ええ!もしかしてカイラスに行くとか?」

「ええ、私も行ってみたい。」

「そうね、後から調べて見ましょうか。それから圭輔さんにもちゃんと連絡しないとね。」

美紀は内心、薬が効きすぎたかと思いながら、状況を和也に返信した。

シェフが洋梨のデザートと紅茶を運んで来て

「元気がでましたか。」と尋ねた。

「元気が出すぎたみたい。」美紀が笑いながら答えると

「ほう、それは良かった。」満足そうにほほえんで紅茶を入れてくれた。それは、あの時のレディーグレーだった。二人が、真面目な顔で紅茶の香りに思いを寄せていると

「紅茶、なんか変?」シェフが言った。

「ああ、ゴメン。とても美味しいよ。一寸とこの香りで少し前の事を二人して思い出してたのよ。」美紀が紅茶にまつわる事情をシェフに話すと

「その紅茶、今日始めて出したんだ。ある知り合いの紹介で、店で使ってみないかって。なんでもヒマラヤだかの谷で栽培したて言う矢車草がブレンドしてあるらしくて、全体的に香りが良いて評判らしいけど。」そう言って、シェフも紅茶を飲んだ。

「うん、良い香りだ、ちなみに矢車草の花言葉は『高潔』らしいけど、確かに品の高い精選な香りだね。」シェフの言葉に、何かの暗示を掛けられていたかの様な二人だった。

「これも多恵さんの思いなのかしらね。この紅茶といい今日の雨といい。」美紀が何かを諭された様な口調で言った。

「おっと、そろそろ混み始めてきたかな。」シェフはそう言って美紀達に、サービスと書かれた伝票を渡し奥に消えた。

 二人が店を出ると、雨は上がっていた。

「何だか思いが伝えられて、ほっとしてるみたいね。」雨上がりの爽やか風に、美紀がぽつりと言った。

「それって多恵さんの思いって事ですか。」

「うん、これから何か新しい事を始められそうな感じがする。」

「ええ、私もそんな感じです。」

「さて帰りましょうか。今夜は何だか不思議な夜だったわね。美味しい夕食や懐かしい紅茶がタダになったり、岳さんの行方が知れたり。」

「ええ、私も美紀さんと色々お話ができてとっても嬉しかったです。」

茜は、何かが吹っ切れた様に凜として歩き始めた。

 その後、茜と岳は、二週間ほどのツアーでカイラスへ向かった。彼等にとって、そこは

終焉の地でもあり、再生の地でもあった。二人の思いを、また訪れた全ての人々の思いを

受け止めるかの様に、山は高々とそびえ立っていた。
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