第1話

文字数 89,182文字

春のいま頃の季節は一年の中で、もっとも清々しい季節だなと耕平は思った。
四月の初旬、うららかに晴れわたった空には雲ひとつなく、ほほを優しくなぜて吹きすぎる風には、真冬の北風の身を切るような過酷な冷たさはなく、どことなく母親のまなざしにも似た暖かさがあった。
日曜日ということもあって、せっかくいい天気なのに家にばかりいる手はないと、散歩がてらに近くの公園に出かけてきた耕平であった。公園には家族連れや近くの子どもたちがスケボーやらチャッチボールをして賑わっていた。昼下がりの太陽は中天高く昇りさんさんと地上に降り注ぎ、その恩恵を受けて桜の花はほぼ満開に近く咲き誇っていた。
耕平はベンチを見つけると腰を下ろし、ゆっくりもたれかかり大きくひとつ屈伸をした。
「やあ、佐々木 …、耕平じゃないか」
と、誰かが声をかけてきた。声のほうを振り向くと、高校時代の同級生で幼なじみでもある徹が、ニヤニヤしながら近づいてきた。
「ああ、山本か。どうしたんだ。いま頃」
「いやあ、あんまり天気がいいんで花見でもしようかと思って出てきたんだ。オレはひと足先に出てきたから、この辺をブラブラしてたんだ。それより、お前は何やってんだ。こんなところで、しかもひとりで…。追っ付け家族もやって来るころだから、どうだ、お前も一緒に交ざらないか」と、山本徹に誘われたが、これから、ちょっと行くところがあるからといって断った。
「そおかぁ、行くところがあるんじゃ、しょうがねえか。じゃあ、またこんどにするか。じゃ、またな」
 そういうと、山本は踵を返すように家族らが待ち構えている方向へとそそくさと戻って行った。耕平には別に行くあてなどなかったが、こんな暖かで穏やかな日はみんなでワイワイ騒ぐよりも、ひとりでのんびりしているほうが性に合っていた。それに、わざわざ人さまの家族が花見を楽しもうとしているのに、他人である自分がしゃしゃり出ていって邪魔するのも気が引けたからだ。
 春の陽射しは汗ばむほどの強さで照りつけ、公園に設置してある時計を見上げると、間もなく午後三時になろうとしていた。
「あれ、もうこんな時間か…」
ひとり言のように呟くと、耕平はゆっくりと立ちあがりながら深呼吸して歩きだした。帰るにはまだ早いから、本屋でも覗いてみるか。そんなことを考えながら、公園の裏口の方へと向かった。右手のほうを見ると古ぼけたブランコが目についた。耕平の子供の頃からあるそのブランコには、昔、友達とよく遊んだ思い出があった。非常になつかしくなり、ちょっと乗ってみる気になった。
ゆっくりと漕ぎ出すと古い鎖はギシ・ギシと軋む音がした。徐々に反動をつけたブランコは、耕平を載せて空高く舞い上がるように前後運動を繰り返した。何回か繰り返し漕いでいるうちに、傍らの草むらの中でキラリと光る物が目に止まった。
何だろう。と、急いでブランコを止めると何かが光ったあたりに近づいて行った。草むらに落ちていたのは、陽光を浴びて鈍く銀色に光る腕時計だった。手にとって見ると、普通の腕時計よりひと回り大きく、重さも普通のものよりずっしりと重く感じられた。
誰が落としたんだろう。落し物を探している人はいないかと辺りを見回してみたが、それらしい人物は誰も見当たらない。耕平は時計を裏返してみたが、ブランド名はおろか記号や製品番号を示す数字すら刻まれていなかった。表を返してみたが裏と同様何も記されていなかった。
表面の文字盤には四桁の数字を表すデジタル式の窓がついている。その下には、やはり二桁の窓が横に二列並んでいた。さらに、その下にも時間を表す窓がついている。一番上の窓には二〇一八と表示されているから、これは年を表している。下の窓には〇四と〇九だから日付けだ。二〇一八年四月九日だから、今日だ!。
しかし、カレンダー時計はわかるが、なぜ年代を表す窓がついているのか不思議だった。
文字盤の右半分には小さな突起が八個と左側にも三個付いている。たぶん、年代・月日・時刻の調整に使う押しボタンなのだろう。それは一番上のボタンを押すことにより、末尾の数字がひとつ上がったことで明確になった。
ふたつ目が月の単位で三つ目が日を表しているのなら、四つ目は当然時刻であることが耕平にもわかってきた。一瞬ためらいながら五つ目のボタンを押してみる。末尾の数字がまたひとつ上がった。次のボタンも押してみた。すると、耕平の予測どおり末尾の数字はひとつ戻り、もう一回押すと最初の二〇一八に戻った。しかし、残りのふたつと左側のふたつのボタンにどんな機能が備わっているのか見当がもつかないまま耕平はしばらく考え込んでしまった。
「うーん…。よし、後で詳しく調べてみるか」
そうつぶやくと、時計をポケットに押し込んでゆっくり歩き出した。別にネコババするんじゃないんだから、警察に届けるのは明日でもいいだろう。などと、考えながら本屋へ向かおうとして、公園の裏口の垣根を出ようとした時だった。突然、右手のほうから自転車に乗った小学生くらいの少年が飛び出してきた。耕平は慌てて避けようとしたが、間に合わずに自転車と激突してしまった。少年はもんどり打って倒れたが、すぐに起き上がり自転車を立て直すと、
「す、すみませんでした…」
と、ペコリと頭を下げると一目散に走り去っていった。耕平のほうはと云えば、倒れはしなかったものの太股のあたりに、まともに打撃を受けたものだから太股がビクンビクンと痙攣していた。それから、ハッとして時計がどうなったか気になった。壊れていなければいいが…。と、思いながらズボンのポケットから時計を取り出した。 時計を手に取ると、人間の耳では聞き取れるか聞き取れないくらい小さな音で、フィーン・フィィーンと鳴りだした。その音は数秒続き、次にシューンという音に変わった瞬間、周りの風景がクラッと揺らいだような感覚に襲われた。耕平はめまいかなと思ったがすぐもとに戻った。
その数分前、山本徹は耕平に用事があったことを思い出しあちこち探し回っていた。ブランコのあたりまで来た時、公園の裏口付近で立ったまま何かをしている耕平を見つけ、 山本は急いで近づいて行って声をかけようとした瞬間だった。耕平の姿がまるで陽炎のように揺らいで見えた。すると、次の瞬間、耕平の姿はかき消すように見えなくなっていた。
山本は耕平が立っていたあたりに来ると周囲を見回してみた。しかし、半径二メートル以内に、人間ひとりが隠れられるような場所も穴も見当たらなかった。人間がいきなり煙のように消え失せるなどということは、どう考えてもあるはずがなかった。何かの見間違いだったのか。いや、そんなはずはない。耕平が自分の目の前から消えたことは事実なのだから、どう解釈すればいいのかわからなかった。山本の頭の中は、降って湧いたような現象に混乱していた。それは、まるで自分自身が底の知れない迷宮にでも迷い込んでしまったような状態だった。人通りの少なくなった公園の裏通りで、山本徹はキツネにでもつままれたように呆然と立ちすくんでいた。



第一章 帰ってきた耕平


      一


 次の週の日曜日、山本徹は自分の目の前から消えてしまった耕平のことが気にかかり、何か手がかりになるようなものないかと、ひとりで公園に来てあちこち散策していた。あの日以来、会社に行ってもろくすっぽ仕事が手につかず、悶々とした毎日を送っていたのだった。
 先週、耕平と出逢ったベンチからブランコの横を通って、耕平が消えた公園の裏口あたりを幾度となく行き来してみたが、手がかりらしいものは何も見つけることはできなかった。山本はブランコのところまで戻ってくると、ふと立ち止まり懐かしそうに近づき、子供の頃に耕平たちと遊んでいたことを思い出していた。
 山本はブランコに腰を下ろした。前後に二・三回反動をつけてやるとブランコはゆっくりと動き出した。半円を描いて揺られているうちに、中学生の頃好きだった中原中也の『サーカス』という詩の中に出てくるブランコのことを思い出した。
その中の、「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよーん」と、揺れているブランコの擬音がことのほか気に入っていた。
山本はブランコに揺られながら、必死になって耕平のことを考えていた。
 この二十一世紀の科学万能の時代に、まるで神隠しみたいに人間ひとりが消えていなくなるなんて絶対あり得ない。それにオレの見間違えなんかじゃないし、あいつ本当にどこに行っちまったんだろう。と、考えれば考えるほど山本徹の迷宮は深まるばかりだった。いくら考えても答えは見つからず残ったものはいえば、どうしようもない虚しさと二度と浮かび上がることが出来ないほどの倦怠感だけだった。
 帰ろうとしてブランコから降りて歩き出そうとした時だった。
「おい、山本。お前、まだいたのか?」
急に声をかけられたので、ギクリとして振り向いた。
「こ、耕平!お、お前…」一体いままでどこに行ってたんだ。と、言おうとしたが、驚きのあまり声が出なかった。
「花見は、もう終わったのかい。みんなはいないようだけど…」
耕平が聞いた。
「な、何を云ってんだ。耕平、花見なんか一週間も前の話だぞ。それよりお前こそ、どこに行ってたんた。一週間も…」
こんどは山本が聞き返すと、耕平は少し驚いたように、
「一週間…。じゃあ、今日は四月九日じゃないのか…」
「当たり前だろう。バカ、今日は四月十六日に決まってんだろう」
「ほんとだ…。おかしいな…、ちゃんと合わせたんだけどなぁ…」
耕平は袖をまくって時計を見ると、山本のいうとおり四月十六日を示していた。
でも、何故だろうと考えながら、真面目な顔で話しだした。
「実は、お前に話があるんだが…」
「ん、何だい。話しって…」
「実はオレ、えらい拾い物をしたらしいんだ…」
「何だ。その拾い物って…」
 耕平は腕をまくると、腕時計をみせた。
「何だ。腕時計じゃないか。で、それが、どうしたんだ」
「お前は信じないかも知れないけど、これタイムマシンらしい…、いや、タイムマシンなんだ」
それを聞いた山本は、大きな声で笑いだした。しばらく笑ったあとで、ようやく笑いも収まったのか、こう切り出してきた。
「おい、耕平。冗談も休み休みいえよ。タイムマシンだなんて、第一エープリルフールはとっくに過ぎてるんたぞ。それにタイムマシンなんてものは、SF小説や映画の中に出てくる空想上の機械だぜ。それにどう見たって、それはただの腕時計じゃないか」
山本にそう言われて、しばらく考え込んでいたが、意を決したように話しだした。
「実は、オレ過去に行ってきたんた…。嘘じゃないよ。これを見てくれ」
耕平は、手に持っていた新聞を山本に渡した。それは一九九〇年四月九日付の朝日新聞だった。
「マ、マジかよ…」
山本が口を挟もうとするのを止めるように耕平は続けた。
「一九九〇年。ちょうど、オレが生まれた年だった。あの日、いや、先週の日曜日か…? この時計をあのブランコの側で拾ったんだ。それから、本屋に行こうとして公園の裏口を出ようとしたら、横から出てきた自転車に乗った子供にぶつかったんだ。時計は大丈夫かとポケットから取り出してみたら、妙に低い音を出しはじめて、周りの風景が一瞬ゆらっと揺らいだんで、オレはてっきり目眩かなとも思ったんたが、すぐ何ともなくなったんで本屋に行こうと…」
「それだ!」
 山本が大きな声を張り上げた。
「オレが見たのは、それだ。あの時、おまえに用があるのを思い出して、ブランコのところまで来たら、お前を見つけたんで急いで走って行って声をかけようとした時、まるで陽炎みたいにゆらっと揺れたと思ったら、あとは見えなくなってしまったんだ…」
 ふたりは同時刻に同じような体験をしたことを確認しあった。
また、耕平は続ける。
「とにかく…、本屋に行ったんだよ。本屋そのものは変わっていなかったんだが、何故だかわからないけど、何か、こう雰囲気が少し違ったんだ…。違和感を感じたんでよく見ると、いつも店番をしている七十くらいの爺さんじゃなくて、もっと若い…、う~ん…。五十歳くらいかな。顔が似てるんで、親父さん用事でも出来て親戚の人でも頼んだのかなと思っていると、「いらっしゃいィー」と、いう、その独特の声はいつも聞き慣れている親父さんの声だったんで、あれっと思って見るとはなしに店にかけてあった日めくりカレンダーを見たら一九九〇年四月八日になってたんで、オレ驚いちゃって「ま、また来ます」つって慌てて店を飛び出して時計を見ると、確かに一九九〇年四月八日と表示されていたんだ…」
ここまで話すと、耕平はふーっとため息ついてまた続けた。
「ここは過去の世界…か。いや、過去の世界なんて、タイムマシンでもない限り来れるわけがない……。タ・イ・ム・マ・シ・ン…。……この時計が…、そんなバカな…。そんなことを考えているうちに頭の中がごっちゃになってしまって、何がなんだかわらなくなって、どうしようかと考えていたら、あることに気がついたんだ。一九九〇年といえば、オレの生まれた年だ。しかも四月。まだ生まれてから二ヶ月も経っていない頃じゃないか。おふくろが二十三歳の時に生まれたと言っていたから、おふくろはまだ現在のオレよりも若いはずだ。逢ってみようかな。それに生まれたばかりの自分も見てみたいし…」
そこまで黙って聞いていた山本が口を挟んできた。
「よし、わかった。まんざら嘘ではないみたいだし、お前のことを一応信じよう。しかしだな。いま、お前自分の母親と生まれたばかりの自分に逢ってみたいと言ったな。いかんよ。いかん、いかん。それだけは絶対にやるなよ。もし、そんなことをしたら、未来である現在に悪影響を及ぼす恐れがあるんだから、それだけは絶対やるなよ。それに、いつどこにどんな落とし穴があるかわからないんだからな。まさか…、もう逢ってきたなんてことはないだろうな」
 さすが、高校時代SF狂いしていただけはあって、山本のやつ乗ってきたぞ。と、耕平は思った。
「いや、まだだ……。オレは山本みたいにSFはあんまり詳しくないし、お前がよく言ってたタイムパラドックスなんかチンプンカンプンで全然だし、だからお前に相談しようと帰ってきたんだ。それにいろいろ準備するものもあるからな…」
「準備……? 何を…。お前まさか、また戻る気なのか?」
「ああ、ちょっと気になることがあってな。あとで話すよ」
「まあ、いいか。それより、こんなところで立ち話しするような内容でもないし、どうだ家こないか。かみさんたちもみんな出払ってて、いまオレひとりなんだ。夜遅くならないと帰ってこないからちょうどいいや。行こ、行こ」
「そうかい。それじゃあ、ちょっとお邪魔しようかな.…。一週間もずれるとは思わなかったんで、母親になんて弁解しようか考えてたところだったんだ。いやあ、助かるよ」
「そうか…。お前んところは、おふくろさんだけだったなあ…」
 山本に促されて、耕平は山本と並んで歩き出した。もうすぐ夕暮れ時とみえてカラスが群れをなし山のほう目指して飛び去って行くのが見えた。


      二


 家につくと山本は、耕平を自分の部屋へ招き入れた。
「へ~え、変わってないな。昔のまんまだ。変わったと言えばパソコンが増えたぐらいで、昔とちっとも変わってない。いや~、懐かしいな~。¬ホントに」
珍しそうに耕平が部屋の中をキョロキョロ見ていると、山本が煙草に火を付けながら喋りだした。
「結婚してからずっと使ってなかったんだけど、もったいないから書斎代わりに使ってんだ。いまは…。それより、そのタイムマシンとやらの時計を早く見せてくれ…」
ふーっと、煙を吐きながら急かすように言った。耕平は腕時計を外すと黙って渡した。
「うーん…、なるほど普通のヤツよりも確かに少し重いな…。ふーむ、時空間を移動するには相当のエネルギーを必要とするはずだが、これの動力源はなんだろうな…。うーん」
 自分では気にも止めなかっことを山本に言われて、耕平は『やっぱりコイツは、オレなんかと違って物を見る観点が違うな…』と、心の中で舌を巻いた。
「なるほど、年代と日付けと時刻だな。たしかに…。しかし、本当にこれの動力は何なんだ
あ…。よく帰れたもんだ。操作の仕方がわかったのか。お前に…」
「うん。いじくってるうちに何となくな。左側に付いている三つのボタンのうち上のほうがオンつまり、開始だ。下のはオフだろうと思うんだが、三番目と右側の下についてるふたつのボタンについてはまだわからない」
 それからふたりは、ああでもないこうでないと議論を交わしたが、結局のところ確信に迫るところまでは行かなかった。                                                 
「ちょっと聞くけど、さっき言ってたタイムパラドックスのことを、もう少し詳しく教えてくれないか。オレ、そういうのにとんとは疎くてさ…。もっとSF読んどきゃ良かったな~。オレもっぱらミステリーばかりだったから」
耕平がいうと、山本はうなずきながら煙草を置くと、かなり真面目な顔で話しだした。
「うーん…と、あ、例えばだよ…。例えば、お前の親父さんが生まれる前の時代に行って、結婚する前の爺さんを殺したらどうなると思う?。爺さんを殺せば親父さんもお前も生まれてこないことになるから、当然爺さんを殺せない。爺さんは生きているから、そのうち婆さんになる女性と出逢って結婚をして親父さんが生まれ、やがてお前も生まれて来るから、また過去に行って爺さんを殺そうとする…。つまり、堂々巡りになるんだ。これが有名な『親殺しのパラドックス』だ。とどのつまりが、ニワトリが先か卵が先かというあれだ」
そこまで話すと山本は、また新しい煙草に火をつけた。
「大体わかったけど、いまの話を聞いた限りじゃ未来に与える悪影響なんか、あんまり関係ないような気がするんだが…」
「うん。実は、オレもそう思うんだが、安全のためにも未来に影響を残すようなことにはあんまり触れないほうがいいよ。第一いままで誰も経験したことがないんだから、過去に対して無茶な干渉だけはしないのに越したことはないよ。あ、そうそう、こういう説もあったな…。タイムパラドックスを回避させるために考え出された説らしいんだが、われわれの棲んでる世界はここだけではなく、目には見えないが地層みたいに重なり合った世界で、何かが少しづつ違う世界が無限大に続いていて…、例えば…、オレが存在しない世界とか、お前が存在しない世界とか、オレもお前も存在しない世界なんてのもあるかも知れない…」
「ああ、それなら知ってるよ。数年前にテレビでやってたな。パラレルワールドっていうんだろう。それ」
「だから、一回確定された歴史はどんなことをしても変えることが出来ないという説もあるんだ。もし、仮に熱狂的な坂本龍馬のファンがいたとして、龍馬が暗殺される少し前の時間まで遡って暗殺を阻止したとしても、それは現在われわれのいる時間線ではなく、まったく違う時間線での出来事になってしまうんだ。これはあくまでも仮説の域を出ない話なんだが、とにかく一度確定された歴史は、どこまでも動かすことは出来ないという話だ。ただの仮説なんだけど、いままで誰もそれを証明した者がいないんで、実際はどうなのかというと、ほとんど雲をつかむような話なんだなあ。これが…」
ふたりはお互いに顔を見合わせると、はあーっとため息をついた。
「もし、オレが若い頃の母親と赤ちゃんの自分と会ったらどうなるのかな…。当然母親は、オレがその赤ん坊の成人した姿だなんて考えもしないだろうし、なんだか妙な感じだな…」
「そうだ。思い出した。同じ時間帯には同一人物は存在できないって、何かの本で読んだことがあるぞ。だから、そういう場合は何らかの力が働いて、どうしてもお前は赤ちゃん時代の自分に会えないような仕組みになっているのかも知れないな」
そういうと、山本は何かを考えるように黙り込んだ。
「あ、ちょっとパソコン借りてもいいかな」
山本は黙って頷いた。耕平は、早速何かを調べ始め、ふたりの間に沈黙が続いた。すると、しばらく考え込んでいた山本が喋りだした。
「なあ、耕平。やっぱり過去に戻るのは止したほうがいいよ。いくら歴史は変わらないとしても、何が待ち構えているかわからないし、それに何よりも気になるのはタイムマシンの動力源だ。こいつがわからない以上、いつ何時エネルギーが切れて現在に帰って来れなくなってしまうかも知れないし、そんなことにでもなったら、お前どうするつもりなんだ」
 山本にそう言われて少し考えてから、
「いや、やっぱり行って見るよ。どうなるか自分でもわからないけど、もし動力源が切れたころで、たかだか二十六年だろう? オレが五十三歳になった頃にまた会えるから、そう心配するなって。そんなことにならないよう充分注意するからさ。心配しなくていいって」
「お前がそれほど言うのならオレはもう止めないけど、でも会社のほうはどうするんだ?」「あ…、そのこと…。実はオレ、いま失業中なんだ。ちょっとヘマを遣らかしっちまってさ、会社にも居づらくなったんで、十二月いっぱいで辞めたんだ…」
山本に聞かれて、耕平は照れ笑いを浮かべながら言った。「ところで、いまパソコン借りて調べてみたんだけど、一九九〇年に使える紙幣は百円以下の硬貨だけなんだ。一万円から五百円までのものは二〇〇四年に発行されたもので、あの頃にはまだ使えないからどうしようかと考えてたんだ。何かいい手はないかな…」
「ないこともないけど、少し時間がかかるかも知れない。ちょっとした当てはあるから聞いてみるよ。どうせしばらくは戻らないんだろう」
「うん。まだ、もう少し調べたいことがあるんだ。じゃあ、頼むよ…。もう、こんな時間か。家族が帰ってくる頃じゃないのか。オレもそろそろ帰って見るか。あ、それから明日また会えるかな…」
 山本に約束を取りつけると、耕平は立ち上がると部屋を出て玄関へ向かった。
外に出ると日中の暖かさとは裏腹に空気がひんやりと冷たく感じられる夜だった。母親にどんないい訳をしようかとひとり思い悩みなから家路に就いた。


       三


耕平は夕べ遅く家に戻ると、母親から一週間も無断で家を開けたことについて、根掘り葉掘り聞きたださられたが、適当な口実を付けて誤魔化してしまった。自分ではわずか半日くらいの感覚なのに、この世界に留まって生活を送っている者にとって、一週間にはやはり一週間なりの重みがあるのだろうと耕平は思った。
母親に心配をかけるということは、子供としてはこの上もない親不孝なことなのだろう。ましてや女手ひとつで耕平を育て上げくれた母にしてみれば、自分が留守にしていた一週間という空白の時間が母にどんな寂しい思いをさせたか、察するに余りあるものを耕平は感じていた。
午後になると耕平は図書館へ出かけて行った。新聞の縮刷版で過去のことをいろいろ調べてみようと思ったからだった。九〇年を中心にして、その前後の出来事や物価の状況・流行等さまざまな事象を調べ上げ、必要に応じてコピーなども取った。そうこうしているうち、あっという間に時間が経過して山本との約束の時間が迫っていた。耕平は図書館を出ると桜もすっかり散った並木通りを公園へと急いだ。
公園につくと山本がベンチに座り、新聞を読みながら待っていた。
「すまん、すまん。待たせたかな。意外と手間取っちゃって、遅くなってしまった」
「いや、オレもいま来たばかりなんだけど、それよりお前何してたんだ。今日は…」
「ちょっと図書館に行って、いろいろと調べ物をしてきた」
 ベンチに腰を下ろしながら耕平がいうと、山本はスーツの内ポケットから封筒を取り出して耕平に渡した。
「何だい。これ…」
耕平が封筒を開けると中には、いま使われている紙幣の一時代前の、少しヨレヨレになった古い紙幣がぎっしり詰まっていた。
「どうしたんた。これ…、しかも、こんなにいっぱい。お前、まさかどこかから盗んできたんじゃないだろうな」
「おい、おい、人聞きの悪いこというなよ。オレの友達に古銭や古い紙幣を収集するのがいるんだ。ちょうど、この当たりのは時代が新しいから、値段的に見てもあんまり価値がないらしいんだ。それで、そいつが『興味があるんだったら、原価で分けてやってもいいよ』なんていうから、いま持ち合わせがないから貸してくれって言ってわけてもらってきたんだ」
「でも、すごいなぁ。これ…。この五百円札なんか子供の頃に使ってたんだけど、懐かしいよな~。ホント」
やたらに懐かしがっている耕平に、山本はこうつけ加えた
「これなら、一九九〇年でも間違いなく使えるから持っていけ。ただし、これはやるんじゃないぞ。貸すんだからな。必ず返せよ。耕平」

 それからふたりは耕平が奢るということで、行き付けの居酒屋に向かった。公園からさほど遠くないところにその店はあった。
「へえー、お前こんなところで呑んでたのか…」
店に入ると、白髪交じりの初老の男性とおかみさんらしい女性が出迎えた。
「おふたり様ですか。耕平さん」
マスターが聞いた。
「ご無沙汰しています。何しろ失業中なもので…。すみません」
耕平はおしぼりで手を拭きながら言った。
「ああ、それからマスター。こっちの小上がり借りてもいいですか。少しふたりで話があるもので…」
ふたりが小上がりに移ると、おかみがお通しとおしぼりを運んできた。
「ほんと、お久しぶりですね。耕平さん。何にいたしましょうか」
「オレは日本酒お願いします。あ、それから、お刺身と焼き鳥を見繕ってください。お前は何にする…」
「あ、ぼくはビールをお願いします。生で…」
 おかみが行ってしまうと、耕平は山本のほうに向き直った。
「午後から図書館に行って、いろいろと調べてきたんだが、オレの生まれた一九九〇年はバブル景気の真っただ中だったらしい…。物価は上がるは電化製品や高級車がじゃんじゃん売れるは、ものすごい時代だったらしい」
 耕平はさっき調べてきた縮刷版のコピーを見せた。
「それならオレも知ってるよ。ベンツやフェラーリやロールスロイス、ランボルギーニ・カウンタックなんかの一億円前後の高級車が飛ぶように売れたって話だろ。それにゴッホやルノワールの有名な絵画が、オークションで日本円にして数十億の値が付いたっていうじゃないか」
 そこまで話した時、おかみが酒を運んできた。
「はい、お待ちどうさまでした。お肴のほうも、間もなく上ると思いますので、いましばらくお待ちください。あ、いらっしゃいませ~」
 新しい客が来たらしく、おかみは行ってしまった。
「それじゃあ、お前と呑むのもしばらくぶりだから、乾杯といこうか」
「よし、オレが音頭を取ってやろう。それでは、耕平の前途を…、じゃないな。なんて言うんだろう。こんな場合…。まあ、いいや。とにかく、耕平の過去に幸あらんことを祈って、カ・ン・パ・イ」
「乾杯」
「なんか変だな。やっぱり…。でも、失業中のお前に奢らせちゃって悪いなー。ホントに」
「いいんだよ。そんなこと気にするなって、山本らしくもない。そんなことより、もし、もしもだよ。何らかの事故か事情によって、こっちの世界に戻って来れなくなったら、どうすればいい…。何かアドバイスしてくれよ」
 耕平は、急に弱気になったのか山本に助けを求めてきた。
「なんだ、お前、怖気づいたのか。いきなり…。どうしたんだよ」
「そうじゃないけど、もしそうなった場合、おふくろはたったひとりでどうするんだろうと思って…」
 そういうと、耕平はコップの酒を呑み干した。つられて山本もビールをひと口呑んだ。
「うーん…。お前んとこは母ひとり子ひとりだからなあ。そりゃあ、心配するのもわかるんだけど、アドバイスといわれてもなあ…。オレもタイムトラベルなんてやったこともないし、困ったな…。そんなにおふくろさんのことが心配だったら、やっぱり止したほうがいいよ。行くの…」
「そうはいかないよ。あ、マスター、おかわりください。お酒~。すみません」
耕平は、新しく酒を注文すると、また続けた。
「なぜオレが、もう一度一九九〇年に行きたいのか知らないから、そんなことが言えるんだ。実はな、お前もはまだ話してなかったけど、オレの親父のことなんだ。親父のことはオレも詳しく知らないんだ。おふくろに聞いてみたんだけど、若い時に死んだとしか言ってくれないし、親父の写真はおろかふたりで取った写真すら残ってないんだ。だからオレは、親父の顔もわからないんだ。おかしいと思わないかい。第一親父の位牌もないんだぜ。おふくろは、そのことを聞かれるといつも黙って哀しそうな顔をするだけなんだ。だからオレは、せっかくタイムマシンが手に入ったんだから、なぜオレの父親がいなくなったのか、この目でしっかり確かめてこようと思ってるんだ……」
 そこまで話すと耕平は、またコップを煽った。なるほど、そういうことがあったのか。耕平のヤツも、きっと子供頃はつらい想いをしたんだろうな。と、山本はあらためて思った。
 それからふたりは、しばらく酒を呑みなから今後の予測を含めて話し合った。しかし、所詮予測は予測であって、結論には至らなかった。
「もう、だいぶ遅くなったからぼちぼち帰ろうか。お前も明日は会社があるんだろう」
「うん。そろそろ帰るか。しかし、耕平。お前いつ向こうに行く気でいるか知らないけど、行く時は必ずオレに連絡するんだぞ」
山本は念を押すように耕平に言った。
「わかった。もう少し調べることが残っているから、う~ん。今週いっぱいはかかると思うから来週の日曜日くらいかな。そうだ。お前、立会人というか見届人になってくれ。頼む」
「よし、わかった。それで、場所はどこだ。あの公園か」
「この時計もあの場所で拾ったんだから、あそこしかないだろう…。それじゃあ、帰えるか」
 ふたりは立ち上がると勘定を済ませ店を出た。外に出ると、春の夜風が酔った頬に心地よ
く感じられた。人影もまばらになった街中を行くふたりには、明日待ち受けているかも知れない不安など微塵も感じられなかった。


       四


 日曜日の午後、耕平は山本と約束した時間に合わせて公園に向かっていた。そろそろ街路樹の若葉も芽吹き始める時期であり、間もなくハナミズキの花も一斉に花開く時期でもあった。耕平は背中にナップザック、手には肩掛け式のショルダーバッグを持っていた。公園に到着すると、山本の姿を探したがどこにも見当らなかった。仕方がないのでベンチで待つことにした。しかし、小一時間経っても山本はまったく現れる様子もなく、耕平は徐々に焦りを感じ始めていた。かと言って、このまま黙って行くわけにもいかなかった。気忙しくベンチから立ったり座ったりしている時だった。遠くのほうから、「おーい、耕平」という声が聞こえてきた。見ると、山本がチャリンコを飛ばしてやって来るのが見えた。その凄まじい速さは、そこいらの暴走族でさえ驚くようなスピードだった。急ブレーキをかけると、その音がまたもの凄く、キキキキキィー、キキィーという、耳の中を掻きむしられるような、全身から力が抜けてしまうような音を立てて止まった。
「すまん、すまん。遅れちまって。だいぶ待ったか?」
必死にペダルを漕いできたらしく、山本はゼイゼイ息を切らしていた。
「ん、一時間ちょっとぐらいかな~」
と、は言ったが、実際には二時間は有に過ぎていた。
「どこに行ってたんだ。お前」
「すまん。本当に、すまん。実は、これをお前に持たせてやろうと思って探してたんだ」
 山本から手渡されたのは、『一九九〇年度版市街地図』と、印刷された一冊の古ぼけた地図帳だった。
「この手のものは、毎年出版されるから古い物は汚れたり破れたりして、みんな捨ててしまうらしくって、あんまり出回らないって古本屋の親父が言ってた」
「へーえ、お前わざわざこんなの探してたのか。でも、わざわざ探してきてくれてもこんなの役に立つかなあ~」
「何言ってんだよ。たかだか二十六年つったって、区画整備だの何だのかんだので街の中はどんどん変わってんだぞ。いいか。よく見てみろ、ここを。ここには、いまは国道が走ってるんだけど、この頃はまだ国道も橋も出来てないんだ。ほら、ここだ」
山本はあるページの一点を指した。そこには、確かに国道も橋もなく国道のできる部分に点線が引かれており、国道建設予定地と書かれていた。
「あ、ホントだ…」
「これはきっと役に立つと思うから持っていけ。そうかさ張るものでもないだろう」
「うん。わかった。ありがとう。じゃあ、貰って行くよ」
耕平が受け取るのを見ると、山本は満足そうに笑った。
「さてと、準備とか全部済ませたのか。耕平」
「うん。まあな。まだ、少しわからないこともあったけど、まあ、これくらいでいいかと思ってな。お前ともしばらく会えなくなるが、元気でな。ただ…、ひとつ心配なことがあるんだ」
「何だ」
「おふくろのことさ。どれくらいの時間がかかるかわからないし、また今日のこの時間に戻れればいいけど、前みたいに日付けとか時間がずれるかも知れないし、もしオレがなかなか戻ってこれない時は悪いんだけど、お前おふくろのところに顔出してやってもらえないか。おふくろには友達と旅行に行くって言ってあるから、頼むよ。山本」
耕平の母親を想う心が山本にも痛いほど感じ取ることができた。その耕平が、自分の父親不在の真相を探求するために、二十七年前の世界に旅立とうとしているのだ。出来るものなら、自分も一緒について行ってやりたいとさえ思ったほどだった。しかし、山本はそれを言い出すことが出来なかった。それを口にすれば、もちろん耕平はいやとは言わないだろう。むしろ力強く思ってくれるに違いなかったが、それは耕平にとってプラスになるのかマイナスになるのかは、いささか疑問が残るところでもあった。
例えば、耕平の父親不在の真相が解明したとしても、その結果が悲劇的なものであった場合、いくら友人とは言えども他人である山本にはつらい姿は見せたくないだろうと思ったからだった。
「ああ、そうだ。よかったら、このチャリを持って行け。コイツがあれば何かと便利だぞ。それに、考えてみたんだけど、たぶんそのマシンはお前が触れているものなら、みんな一緒に飛んで行くんじゃないかと想うんだ。だから、試しに持って行け」
「ホントにいいのか…。悪いな。何から何まで心配かけちゃって…。でも、大丈夫かな。チャリンコなんて…」
「大丈夫、大丈夫。もし、ダメな時は残るだろう。いいから心配しないで持っていけ」
 それからふたりは、耕平がタイムマシンを拾ったブランコのところまで歩いて行き、耕平は腕時計の文字盤を一九九〇年四月十日に合わせた。
「それじゃ、そろそろ行ってみるよ。お前にはいろいろ世話になったな」
 耕平はタイムマシンのスタートボタンを押しながら、山本に向かって「さよなら」と言った。フィィーンという低い音がして、シューンという音に変わった時、耕平の姿は自転車とともに一瞬揺らいでから山本徹の前から見えなくなっていた。
 取り残された山本はシューンという音の余韻の中、込み上げてくる寂しさに打ち拉がれたまま、ひとりぽつんと立っていた。



第二章  母との出逢い


       一


 公園の裏通りは時間を二十七年遡っても、まったくと言っていいほど変わってはいなかった。実際には変わっていたかも知れないが、耕平の目にはそう見えた。ついに一九九〇年のまだ見ぬ世界へやって来たかと思うと、わけもなく胸がドキドキするのを押さえることができなかった。
さて、過去へやって来たのはいいが、これからどうしよう。まさか、まだ自分が生まれたばかりの家に行くことはできないし、いろいろ考えたあげく耕平はひとつのヒントを得た。面と向かって逢うことはできないまでも、遠くからなら確かめることができるはずだ。それに、いまの時期なら父親の姿も見られるかも知れなかった。そう思うと居ても立ってもいられず、自分の家のある方向を目指して走り出していた。耕平は自転車を漕ぎながら時計に目をやった。そして、次の瞬間慌てて急ブレーキをかけていた。時計の年号を表す窓には、一九九〇ではなく一九八九の数字が表示されていたのだ。しかも日付けは三月十日になっていた。自転車を止めて道路の脇に寄せて改めて時計を見直したが、一九八九に変わりはなかった。
耕平は茫然自失に陥っていた。またしてもマシンの故障か。最初に一九九〇年に行った時は、自分で合わせたわけではなかったから、あれはただ単に偶然だったのだろうか。いや、そうではないな。と、耕平は思った。もとの時代に戻ったときも一週間のズレがあったし、やはり自分がこのマシンの操作を熟知していないのが、一番の問題に違いないのだ。それにしても、今回は一年も余計に戻ってしまったのだから、設定した時代にすんなりと行くためには、マシンの操作を完璧に覚える必要があった。
耕平は、また、もとの公園に戻ろうと思った。こんなところでいつまでもウダウダやっていて、もし不審人物扱いされて警察にでも通報されたりしたら、面倒なことになると思ったからだ。公園なら人も大勢いるから、ひとりくらい何かをやっていても、誰にも見咎められることもないはずだ。
公園には相変わらずベンチで語らう人や、黄色い声を立てて走り回る子供たちでごった返していた。ブランコのところまで来ると自転車を止めて腰を下ろし、いままで起きたことを振り返ってみた。
『もとはと言えば、すべてがこのブランコから始まったのだから、これを一体誰が、この場所へ落として行ったのか、まさかここにわざわざ置いていったりはしないだろうから、落とし物であることだけは確かだろう』さらに、耕平は考えを巡らしていった。
『もし、仮りに、このマシンをわざとここに置いて行ったとしたら、その目的は何か? 持っていると都合悪い何かの理由があって、手放さざるを得なったから…。じゃあ、持ち主はその後どうしたのか。未来からやって来た人間なら、これを手放したら二度と帰れないじゃないか』
 そこまで考えた時、耕平はあることを思いついた。そうか、このマシンに狂いが生じたか故障に気がつき、未来に向けてSOSを発信したのかも知れない。それで救援がきて帰っていった。いや、待てよ。未来の産物であるタイムマシンを、いくら故障したとは言え証拠となるようなものを残して帰るだろうか…。う~ん、わからない…。それに、どうやって未来と連絡がつけられたのか…』
 いくら考えても答えが見つからず、業を煮やした耕平はブランコを漕ぎだした。ブランコは半円を描いて上下運動を繰り返す。しばらくしてブランコを止めると、またマシンに目をやり、右側についている八個のスイッチのうち、下二個のボタンがどんな役割を果たしているのか、いま持ってわからないままだった。
『このふたつボタンには、一体どんな機能が隠されているんだろう…』
そんなことを考えながら、さっと指で触れてみた。触れただけだから表示画面は変わらなかった。これを押したらどうなるのか。と、いう、衝動に駆られながらボタンを押してみた。すると、画面に表示されている数字が全て消え、代わりにハイフンマークが表れた。年代も月日も時刻もすべてが消え去り、ハイフンマークと入れ替わっていた。
『これはリセットボタンになっていたのか。なるほど、なるほど…。じゃあ、一番下のボタンは…
 続いて、耕平は最後のボタンを押したが画面上に何の変化も現れなかった。
『何故だ~。上のがリセットボタンなら、下を押したら何らかの変化が画面上に表れてもおかしくないはずだ。なのに、何も変化もみられなかったぞ。すると、これは何か別の目的のために使われるのか…』
 そんなことを考えながら、時計の文字盤をもとに戻そうとして、もしこのままの状態で移動ボタンを押したら、どこの時代に行ってしまうんだろうか。そんな想いが心を過ぎったが、耕平は慌ててそれを打ち消した。時計の文字盤をすべてもと通りに直すと、ふたたび時計を見ながら物思いに耽り始めた。
『待てよ。ここに表示されている数字は西暦の年号だから、ここの数字の部分に何も表示されないハイフンマークということは…、紀元前!…。まさか?』
 耕平には、もうどれが真実であるのか見境もつかない状態だった。もう、これ以上考えても埒が明かないことを知った耕平は、自分の家があるほうへ向かうことにした。
家の側まで来ると物陰に自転車を止めた。玄関まで十数メートルのところから首だけだして覗き込んだが、別に変わった様子もなく人が出てくるような気配もなかった。
この時代には知り合いがいるわけでもないから、こそこそ隠れていては反対に怪しまれると困るので、通りすがりの人を装って玄関の前を通って、もっと詳しく様子をうかがってみようと思った。耕平は自転車に跨がるとゆっくり走り出した。門柱には、佐々木と書かれた表札が掛けられていた。
『間違いなく、オレの家だ…』
 家の前を通りすぎて、しばらく走ってからUターンをして、また引き返してくると玄関の横のほうを一瞥しながら、先程とは反対方向に走り抜けていった。耕平は走りながらこれから自分はどうすればいいのか未だに判断を決め兼ねていた。十字路に差し掛かった時だった。横道から二十歳くらいの若い娘が姿を表した。考え事をしていた耕平は、ぶつかりそうになって慌ててハンドルを右に切りながらブレーキを掛けたが、間に合わずに自転車ごと横転してしまった。女の子は驚いた様子で耕平に駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか。すみません。あたし、ついうっかりしてて…。本当に、すみません」
 そう言うと、倒れた自転車を起こそうとした。
「ぼくのほうこそ、すみませんでした。考え事をしていたもので…」
耕平は立ち上がり、自転車を起こし終わった娘と初めて目が合った。次の瞬間、頭の中が真っ白になるのを覚え、顔面から血の気が引いていくのがはっきりと感じ取っていた。目の前に立っているのは、写真で見たことがある若き日の耕平の母親だったのだ。
「あら、大変。血が出てるわ。肘のことろから」
 見ると右腕の肘のあたりから血が滲んでいた。
「あ、ああ…。こ、これくらい、た、大したことないです」
しどろもどろになりながら、やっとのことで、そう言うことができた。声が上ずっているのが、自分でもおかしかった。
「でも、そのままにしておいたら、バイ菌が入って化膿でもしたら大変だわ。あたしンち、すぐ近くだから手当してあげる。さあ、行きましょ。さあ、さあ」
 急かされて、耕平はしかたなく若き日の母親の後をついて行った。


     二


家に入ると、つい昨日まで棲んでいた家なのに、なぜか非常に懐かしいものに感じられた。二十八年前にしては、それほど代わり映えしないから、余計そう思えたのかも知れなかった。あちこち眺めていると救急箱を持った母がやってきた。
「お待たせしました。申し遅れましたけど、あたし佐々木亜紀子と申します」
「はあ、ぼくは、さ…坂本耕助といいます。よろしくお願いします」
耕平は、とっさに思いついた偽名を口にした。
「坂本さんですか。さあ、傷口を見せてください。消毒をしますから」
 亜紀子は、耕平の傷口を器用な手つきで傷処置をしてから、真新しい包帯を巻き終えると耕平に質問してきた。
「坂本さんは、何していらっしゃる方ですか」
「ぼ、ぼくですか…。ぼくは…、うーん。実は、いま失業中なもんで、自転車で日本中を旅して回ってるんです」
 また、耕平は思いつくまま話をでっち上げていた。失業中なのは本当のことだし、まんざらデタラメな話でもないだろう。
「あら、いいわねえ。羨ましいわ。あたしなんか、修学旅行ぐらいしか旅になんて行ったことないんです」
 亜紀子は本当に羨ましそうな顔で耕平を見つめた。そんな亜紀子にまじまじと見つめられると、何故か耕平の心の奥底に熱いものが込み上げてくるのを、どうしても押さえることができなかった。
「おーい、亜紀子。いないのかー」
 その時、亜紀子を呼ぶ声がして襖が開いた。
「なあに、おとうさん」
 声の主は、耕平が中学生の頃に亡くなった祖父だった。
『おじいちゃん…』
 耕平は心の中でつぶやいた。祖父が死んだのは六十代後半の頃だったから、いまはまだ五十代半ばのはずだった。母も二十歳そこそこで、祖父もまだ若々しさを保っているし、これが本当に現実の世界の出来事であるとは、耕平にはとても信じ難いことではあった。
「おや、お客さんかい。どちら様だい」
 祖父は会釈すると、耕平を観察するように視線を向けた。
「坂本さんよ。横丁の角で、わたしにぶつかりそうになって、自転車が倒れてケガをしたから薬を塗ってあげたの」
「さ、坂本耕助と言います。亜紀子さんには、すっかりお世話になりまして…。どうも、申しわけありません」
 耕平があいさつをすると、祖父も腰を下ろした。
「ほう、自転車で…。あそこは、見通しが悪いから気をつけてください。で、ケガのほうは大丈夫ですか。骨のほうには異常ありませんか」
「ええ、大丈夫です。ほんのかすり傷ですから、ほら、このとおり」
 耕平は大袈裟に手をふってみせた。
「おとうさん。坂本さんは、自転車で日本中を旅してるんですって、わたし何だか羨ましくって、あたしも行ってみたいなー。旅」
亜紀子は座っていた足を伸ばすと、まるで子供のようバタバタさせた。
「これ、亜紀子。何だ、はしたない。嫁入り前の娘が…」
 そう言って、祖父は娘を窘めてから、耕平にほうに向き直ってから改めて尋ねた。
「旅ですか。日本中をねー。いいですなあ、いまの季節は…。ああ、この間ニュースでやってた、あの方ですか」
「いえ違います。ただ、失業中なものですから、どうせ家にいても、おふくろ…、いや母に邪魔にされるだけですから、それで…」
 そこまで話すと、若き日の母が目の前にいることに気づいて、頬が赤らんで行くのを感じた。しかし、ここにいるのは母というより、もし自分に妹がいたら、これくらいの年頃だろうと思われる、うら若い女性なのだから耕平は戸惑いを隠せなかった。
「失業ですか。それは、大変ですなー」
 祖父はポケットからタバコを取り出し、一本を口にくわえると火をつけた。
「どうです。よかったら、君もどうぞ」
 耕平も勧められたが、自分はやらないのでと断った。
「あ、それより、おとうさん。わたしに何か用事があったんじゃないの」
 亜紀子が思い出したように口を挟んできた。
「ああ、あれか。別に急ぐことじゃないから、後でいいよ。後で…」
そんなふたりの会話を聞きながら、耕平はさっき祖父の言ったことが気になっていた。それは『嫁入り前』という言葉だった。それを聞いた時、何か妙な気がしたからである。何故なら、耕平は歴史上的な目から見ても現実でも、来年のいま頃には生まれているはずなのに、眼の前にいる若き日の母はいまもって独身らしい。これは、どういうことなのだろうか。
耕平が、そんな考えを巡らしているうちに、祖父は部屋から出て行った。
いろいろ考えた末に、ひとつ亜紀子に質問してみようと思いたった。何をどう聞けばいいのかわからなかったが、とにかく少なくともひとつだけは聞いてみよう思い、恐る恐る口を開いた。
「あの~、亜紀子さん。ひとつ聞いよろしいでしょうか…」
「何でしょうか。あたしに分かること?」
「不しつけなことを聞くようで恐縮なんですが、亜紀子さんには現在お付き合いをなさっている恋人とか、ボーイフレンドとかはいらっしゃらないんですか」
「いないわよ。何故…、どうして、そんなことを聞くの」
 亜紀子はあっけらかんとした顔で答えた。
「い、いや、べつに深い意味はなかったんですけど、亜紀子さんはとてもきれいだし…、どなたかお付き合いしている方がいらっしゃるんじゃないかと思っただけです」
「そんな人いません。それより、坂本さんは結婚して…、いるわけないか…。ひとりで旅して回ってるんですもんねー」
そう言いながら、亜紀子はケラケラと声を立てて笑った。
「あら、ごめんなさい。でも、いいなあ、坂本さんって、自由で…、自分で好きなところ
どこでも行けるんでしょう。ホント、羨ましいなあ」
 しきりに羨ましがる亜紀子を見ていると、耕平は何かしら後ろめたさのようなものを感じていた。それは、自分が嘘をついて亜紀子や祖父を騙しているという、罪悪感のようなものなのかも知れなかった。
 しかし、現実問題としては、どうすることもできないジレンマがあり、耕平自身も本当のことを話せたら、どれだけスッキリするだろうと思えた。だが、それは例え口が裂けても絶対に言ってはならないことだった。
「ねえ、坂本さん」
 亜紀子に声をかけられて、耕平は物思いから急に現実の世界に引き戻された。
「これから、どうするの。もし、よかったら今晩うちに泊まってかない。旅の話も聞きたいし、どうせ急ぐ旅でもないんでしょ。おとうさんの酒の相手でもしてあげて、おとうさん、きっと喜ぶわよ。いつもひとりで飲んでるから、つまらなそうなの。あたし飲めないから…」
「え…、いいんですか。見ず知らずのぼくなんか泊めても…」
「大丈夫よ。あたしにはわかるの。あなたは絶対に悪いひとなんかじゃないわ。それに、さっき逢ったばかりなのに、なんだか昔から知っているような気がしてならないのよ。ねえ、いいでしょう。ぜひ、そうして。いま、おとうさんに聞いてくるから」
 亜紀子はそそくさと部屋を出て行った。こうして、耕平は佐々木家に一宿一飯の恩義に預かることになった。


       三


 その晩の佐々木家は、いつもなら父娘ふたりだけのささやかな食卓だったが、耕平がひとり加わったことによって大いに盛り上がっていた。
「いやー、わが家に客人が泊まるなんて何年ぶりだろう。いつもは娘とふたりで細々とやってるんだがね。きょうは君が泊まってくれたおかげで実に楽しい。まあ、一杯飲んでくれたまえ」
 祖父は耕平が泊まったことが、よほど嬉しかったのか上機嫌でビールを勧めてくれた。
「はあ、いただきます」
「時に、耕平くん…」
 祖父が本名を呼んだので、耕平は一瞬ドキッとしたが、すかさず亜紀子が口を挟んできた。
「いやだぁ、おとうさん。耕平じゃなくて耕助さんよ。すぐ間違えるんだから、もう…」
「お、そうか。これは失礼…。日本中を旅してると言ってたが、生まれはどちらかね」
「生まれですか。えーと、新潟です。魚沼の近くの小さな村です」
 また、耕平はとっさに嘘を就いた。
「ほう、魚沼か。あそこはいいねえ。米がうまいから」
「そうですか。まあ、『コシヒカリ』に関しては、一応全国区でしょうからね」
耕平は当り障りのないことを言って、その場のお茶を濁した。
「ところで、君は失業中だとか言ってたね。実は、うちの会社で臨時というかアルバイトみたいなもんなんだが、人を募集しているんだ。ところが、ここ数年来の好景気のおかげで、賃金の安いアルバイトなんかに誰も応募してこないんで、困っていたところだったんだよ。で、どうだろう。君、急ぐ旅じゃなかったらしばらくの間、少し手伝ってもらえないだろうか」
そこまでに話すと、祖父はビールを一気に飲み干した。
「仕事ですか。でも、いいんでしょうか。ぼくみたいな素性のわからない者でも…」
 耕平もつられてビールをひと口飲んだ。
「なーに、そんなことなら、うちの親戚とでもなんとでもなるよ。よかったら、ぜひ頼みたいんだ」
「ぼくはかまわないんですが、でも、仕事の内容はどんなものなのですか。ぼくに出来るかどうかもわからないし、それに旅の途中ですから泊まるところもないし…」
「なーに、それなら、うちに泊まってればいいさ。もちろん、家賃なんかもいらないから。仕事のことを説明しておこう。うちの会社は小さな食品関係の製造業をやっているんだが、毎日商品を出荷する際に荷物の上げ下ろしをする時、車の出入りが激しくなるから、車がほかの物にぶつからないように誘導してもらえればいい。後ほかの時はいろいろ雑用もあるからそれをやってもらえればいい」
「はあ、それくらいなら、ぼくにでも出来そうですが…」
「じゃあ、よろしく頼むよ。耕助くん」
その話を聞いていた亜紀子が、急にはしゃぎだした。
「よーし、決まりね。あたしも一杯もらおうっと。耕助さんの就職祝いだから、今夜はわたくしも飲みますわよ」
亜紀子は台所に行くと、グラスとビールを三本抱えて戻ってきた。耕平と祖父のグラスに注ぎたし、自分のグラスにもビールを満たすと、ふたりのほうにグラスを突き出した。
「それでは、これより坂本耕助さんの就職を祝いまして、不肖わたくし佐々木亜紀子が乾杯の音頭を取らさせていただきます。それでは、おめでとうございます。カンパーイ」
「乾杯」
「カンパイ」
 亜紀子は、あまり酒が飲めないと言っていたわりには、結構ハイペースでビールを飲み始めていた。
「でも、なんだか不思議ね…」
しばらく酒盛りをした後で亜紀子は言った。
「なんだ。何が不思議なんだ」と、祖父が聞き返す。
「だって、そうじゃない。さっき、耕助さんの傷の手当をしていたときも思ったんたけど、耕助さんとわたしは今日の午後に逢ったばかりなのよ。それなのに何か、こう初めて逢ったような気がしなくって…。なんだか、とても懐かしい人に逢ったようで変な気がしたの」
「実は私もさっき逢った時に、亜紀子と同じような感じがして、何の違和感もなく話が出来たので不思議だったんだ…」
祖父も亜紀子と似たようなことを言った。これが血縁とでも言うものなのだろうか。と、耕平は漠然と思った。昔から〝血は水よりも濃い〟とか〝血は争えないもの〟という言葉があるように赤の他人にはわからない、何か特殊な力のようなものが備わっているのも知れなかった。
祖父はよほど気分がいいのか、8トラックのカラオケを持ち出してきて歌いだした。
「♪やーさしさと甲斐性のなさがー、裏と表についてくるー、そおーんなあー、男おにー惚れーたのだからー…♪」
 祖父は、本当に気持ちよさそうに、小林幸子の『雪椿』を熱唱していた。亜紀子は、そんな祖父を横目で見ながら耕平にささやいた。
「おとうさん、うちじゃ滅多に歌わないのよ。それなのに、きょうはあんなに楽しそうに歌ってる。よっぽど嬉しかったのね。耕助さんが働いてれるのが決まって」
「♪花はー、越後のー、花は越後のー、雪ー椿ー♪」
 歌い終わって祖父が戻ってきた。耕平と亜紀子が拍手で迎えると、祖父は照れ笑いをしながら腰を下ろした。
「いやあ、お上手ですね。あんまり上手いんで驚きました」
「なあに、会社の付き合いで飲み会の後なんかに、たまにカラオケボックスに行くんだよ。どうだね。君も一曲やってみては。耕平くん」
「ほらー、おとうさんったら、また間違えて」
 またしても亜紀子に揚げ足を取られた形の祖父は、
「こら、亜紀子。ひとの揚げ足ばかり取っていないで、そろそろ耕助くんに寝る準備をしてあげなさい。準備さえしておけば、あとはゆっくり出来るんだから」
「はーい」
亜紀子は奥の部屋に行くと押し入れを開けて、中から布団やシーツといった寝具類を取り出すと、酔いのせいか足元をふらつかせながら寝具を敷いて、耕平がいつでも寝れる状態にするとふたりのいる茶の間に戻ってきた。
亜紀子が戻ると祖父はまたビールを持ってこさせて、耕平に勧めてから自分のグラスにも注ぎ足した。
「あたしも、もう一杯いただこうかしら、なんだか布団を敷いてたら喉が渇いてしまって」
 耕平はビール瓶を取ると、亜紀子のグラスに注いでやりなながら聞いた。
「大丈夫ですか。そんなに飲んで…。さっき布団を敷きながら、だいぶ足がフラついてたみたいでしたけど…」
「だーい丈夫よー。たまに、いーじゃない。今日は、とおーっても楽しいんだから。ね~え、おとーうさん」
 亜紀子は、かなり呂律が回らなくなってきていた。
「これ、亜紀子。もういい加減にしなさい。飲めもしないくせに、あんまり飲むからそうなるんだぞ。ここは、もういいから早く寝なさい」
 父祖に言われて、亜紀子はしぶしぶ立ち上がった。
「はい、はい。私は、もう寝ますよー。それでは、皆さまおやすみなさーい。さーて、お風呂に入ろーっと…」
 亜紀子が茶の間から出ていってから、ふたりは明日からの仕事の段取りやら、詳しい相談をしたあとでそれぞれの部屋に引き上げて行った。


       四


 それから一ヶ月が過ぎ去っていた。耕平もようやく仕事にも慣れて、祖父と亜紀子の三人で会社に通う日々を送っていた。亜紀子は、とある商事会社のOLをしているらしかったが、取り立てて聞く必要もなかったので、亜紀子がどういった内容の仕事をしているのか耕平はわからなかった。
そんなある日、祖父は会社から帰ってくるなり亜紀子を呼ぶと、忙しげな表情で矢継ぎ早に話しだした。
「急に出張を仰せつかって、明日から北海道に行かなければならなくなった。すまないが亜紀子、着替えとかいろいろ必要なものをまとめて詰めといてくれ」
 そう言うと、机に向かって何やら調べ物を始めたようだった。
「ねえ、おとうさん。出張って今回はどれくらいの予定なの」
 亜紀子が聞いた。少し間を置いてから、答えが返ってきた。
「三日くらいだと思うよ。でも、先方の都合次第で五日くらいになるかも知れない。とにかく、行ってみないことには何とも言えんな…」
「ふーん」
 それだけ聞くと、亜紀子は部屋を出ていった。
その夜の佐々木家の食卓は、祖父の出張の話題でもちきりだった。
「富良野ですか。いいですね。あそこは、ぼくも一度行ってみたいと思ってたところなんです」
「いやあ、きょう急にいわれたものだから、焦ってしまって大変だったんだ。何しろ、社長直々の命とあっては断るわけにもいかないし、正直のところまいったよ、ほんとに」
 祖父はビールを飲みながらため息をついた。それを見ていた亜紀子が口を挟んできた。
「おとうさん。出張なんて久しぶりなんだから、たまには羽目をはずして遊んできたらいいよ。どうせ夜は暇なんでしょう」
 祖父は、この出張にあまり気乗りがしないらしく、亜紀子のいった言葉など聞いているのか聞いていないのか、なんの反応も示さないでピールを呷っている。
「おとうさん…。おとうさんってば、一体どうしたの。いつもなら盛んにはしゃいでいるのに、きょうはあまり元気もないみたいだし、どこか体の具合でも悪いんじゃないの」
亜紀子は祖父の額に手を当てて熱を測るしぐさをした。
「変ねえ。熱はないみたいだし、ほんとにどうしたの」
「あ、いや、ごめん。ごめん。何でもないんだ。今回の出張はちょっとばかり込み入った商談になると思うんで、どうしたら話がスムーズに進むか考えていたんだ。いやあ、すまん。すまん」
祖父は照れ笑いを浮かべて耕平にもビールを注ぎ足しながら、亜紀子にビールを持ってくるようにシグナルを送った。亜紀子はビール瓶とグラスを載せたトレーを持って戻ってくると、
「わたしも頂いちゃおうーっと」
 自分のグラスにビールを注ぐと、ひと口飲んでから父親と耕平のグラスにも注ぎ足した。
「ねえ、おとうさん。あしたの朝何時に出るの。早いの。それともゆっくりでいいの。朝食の準備しなくちゃいけないから…」
「いや、普通の時間でいいよ。朝会社に顔出してから行くことになるから…」
 それから、祖父は耕平のほうに向き直ると、明日の仕事について細かな指示を出した。
「明日は出荷のピークになるから、車の誘導にはくれぐれも気をつけてやってくれたまえ。雑役は横山にでも任せるから。君は誘導にだけ専念してくれればいいから、頼んだよ」
「わかりました。期待に添えるよう頑張りますから、佐々木さんも商談のほううまく運ぶように祈ってますから、安心して行ってきてください」
 耕平がそういうと、祖父は嬉しそうな顔をして、耕平のグラスにビールを注いだ。夕食が終わって、しばらく三人で談笑をした後、耕平は自分の部屋へ引き上げた。机に座ると考えるともなしに、自分が生まれて育った二〇一八年へと思いを馳せていた。
『みんなどうしているだろう…』
 耕平は自分がこうして同じ場所にも関わらず、時間を隔てた世界に存在していること自体が不思議でならなかった。なにか悪い夢でも見ているような気がして、どうしてもそれを拭い去ることができないでいる自分が腹立たしく思われた。夢ならいつかは覚めるが、これが紛れもない現実である以上、耕平にはどうすることもできなかった。
『お前は、そう言ってたかだか二十七年なんて軽く考えてるけど、だいたい過去の世界になんて誰も行ったことがないんだし、第一お前が過去でなんか変なことでもやったら、未来であるわれわれのいるこの世界にどんな悪影響を及ぼすか知れないんだ。悪いことは言わないから、やめとけ、やめとけ』
あれだけ必死に耕平のことを心配して、引き止めてくれた山本も結局のところ、自分の父親の安否を気遣う耕平の心情に根負けした形で彼の旅立ちを見送ってくれた。しかし、その父親の存在さえいまだにどこの誰なのかさえはっきりしないままだ。少なくても後一年足らずで生まれてくるはずの耕平の原点でもあるべき父親が影も形も見えてこないのだ。これはどういうことなのか、まさかパラレルワールドのように、ここは佐々木耕平という人間は存在しない世界とでもいうのだろうか。そんなことを考えながら寝る支度を整えると布団に潜り込んだが、目が冴えてしまったのかなかなか眠りつくことができなかった。
そんな中で、あの日公園の草むらの中からタイムマシンを拾ったこと、それが偶然の悪戯からか二十七年前に行ってしまったこと、慌てて元の世界に戻ってきて山本徹に相談したこと、幼い頃からの疑問だった父親の存在を確かめるために再び過去に戻ってきたこと、そこでまだ自分よりも若い娘時代の母親や、中学生の頃に亡くなった祖父に出逢ったことなどが、まるで走馬灯のように耕平の脳裡を凄まじい速さで駆けめぐっていた。



第三章 待っていたもの


 一


 どれくらいの時間が過ぎ去っただろうか。耕平はまんじりともしないで布団の中に横たわっていた。と、その時だった。枕元の空気が急に揺らいだような気がした。次の瞬間、そこに誰かが立っているような気配を感じて耕平は慌ててスタンドに手を伸ばして明かりをつけた。そこには白髪の六十代半ばくらいの紳士が立っていた。
「だ、誰ですか。あなたは…」
 祖父たちは寝静まっているので、声を押し殺すようにして尋ねた。
「たいへん驚かせてしまったようで、申しわけありません。私は決して怪しい者ではありません。初めまして、佐々木耕平さんですね。あたしは吉備野という者で、あなたがあの公園で拾われたタイムマシンの製作者です。少しお話をさせてもらってもよろしいでしょうか」
 吉備野と名乗った紳士は白髪の頭にやはり白い口ひげを蓄えていた。タイムマシンの製作者ならよほど高名な科学者に違いないと耕平は思った。普通なら夜の夜中のみんなが寝静まった頃に、他人の家に無断で侵入してきたら誰でも驚くはずだが、今夜の耕平は少し違っていた。タイムマシンの製作者と聞いた瞬間から、最初に抱いた不安などというものはいつの間にかどこかに蒸発してしまったかのように消え去り、かわりにある種の期待が積乱雲のように膨れ上がっていた。
「ぼくも明日仕事があるので少しならかまいませんが、家の者が寝ているので出来るだけ静かに話してください」
「もちろんです。すぐにお暇しますから、ここに座らせて頂いてもよろしいですか」  
 そういうと、紳士は耕平の横に腰を下ろした。耕平は急いで寝ていた布団を捲し上げると二つ折りに畳んだ。
「吉備野さんとおっしゃいましたね。ぼくに話したいというのはどんなことでしょうか」
 耕平は紳士のほうに向き直るとさっそく質問に転じた。
「はい、それではお話いたしましょう。佐々木さん。あなたはあの日、つまり二〇一八年四月九日に、公園のブランコの側で、あのタイムマシンを拾ったのは単なる偶然だと思っていませんか。本当のことを言えば。あそこでタイムマシンを拾ったのも一九九〇年に行ったことも全部私が仕組んだ計画だったのです。そこで聡明なあなたは拾った腕時計がタイムマシンであることに気づき、二〇一八年に戻って友人の山本徹さんに相談しました。これもまた、すべて私の計画したことだったのです」
 そこまで黙って聞いていた耕平は急に話を遮った。
「ちょっと待ってください。もし、その話が本当なら何故そんなことをしたんですか。それじゃあ、まるでぼくは何かの実験に使われているモルモットみたいじゃないですか」
「いい質問です。いやあ、あなたには事前に了解を取って置くべきでした。たいへんご迷惑をおかけして誠に申し訳ないと思っております。実は、あたしはある研究をしておりまして、その研究のために必要にかられて永い時間をかけて、あのタイムマシンの開発に成功しました。そしていろいろと調査した結果あなたの存在を知り、私の研究の実験台になって頂いたというわけです。決してあなたのことをモルモット代わりだなどとは考えておりませんので、悪しからず…」
 吉備野は深々と頭を下げると、また穏やかな口調で話しだした。
「私の研究というのは人間の運命に関するもので、人間には人それぞれ持って生まれた宿命というものがあります。では、この宿命とか運命というものは絶対に人の力、あるいはその他の手段を持ってしても変えることができないのか。このことについて私は試行錯誤を繰り返しながら長年にわたり研究を続けてきましたが、最近になってようやく確信に近いものに達することができたと自負することができました。もちろん、まだまだ推論の域を脱しきれてはいませんが、たとえばですよ。未来から過去の歴史を変えようとしてやって来た人間がいたとします。彼は自分たちに都合のいいような未来を作ろうと歴史的に操作を加え未来へ帰って行きます。男は期待に胸を弾ませて未来に戻ってみると、未来世界は男がいたときのまま何ひとつ変わったところが見られませんでした。これはなぜでしょうか。佐々木さん、なぜだと思われますか?」
「さあ…」
 と、言いながらも耕平は言葉を続けた。
「よくはわかりませんが、もしかしたらドラマや映画に出てくるようなパラレルワールドみたいな世界だったんですか…」
 すると吉備野のはして得たりとばかりに話を続けた。
「そのとおりです。さすがは佐々木さん。私の見込んだとおり大変聡明なお方だ。
 この世界には、われわれの目には見えないのですが、同じ次元の中に紙を幾重にも重ね合わせたような酷似した世界が存在していると考えれらています。もちろん、これもまだ推測の域を脱しきれてはいませんが、パラレルワールド、あるいは並行世界・並行宇宙とも呼ばれています。パラレルワールドという考え方は、SF作家のマレイ・ラインスターが一九三四年に『時の脇道』という作品の中で、タイムパラドックスを回避する方法として使用しています。また、この考え方はSFの世界の中での概念だけでなく、実際の物理学の世界においても理論的な可能性が語られています。こういった考え方は、あくまでも理論上のものであって残念ではありますが、いまの私たちにはそれを観測する手段は未だ持ち合わせてはおりません」
 そこまで話すと、吉備野はゆっくりと耕平の顔を見つめた。すると耕平も少し口ごもりながら、何かを考え込むような口調で吉備野に尋ねた。
「そ、それじゃあ、やっぱり一度過去に起こった出来事は、どんなことをしても変わらない、変えられないということでしょうか。そうだ。いま思い出したんですが、友人の山本が云っていたことなんですけど、坂本龍馬の暗殺現場に行ってそれを阻止しようとしても絶対に阻止することができないとかで、もし龍馬を助けることに成功したとしてもそれはすべて別の次元の世界での出来事として処理されてしまう。だから、われわれのいる世界では坂本龍馬は慶応三年十一月十五日に暗殺されたことは、永久に変わることのない事実として残っているんだと云うのです。
 でも、ぼくには次元の違う世界とか眼に見えない世界なんてのはあまりピンときませんし、例えばですよ。もし、そんな世界が本当にあるとしたら今回ぼくが巻き込まれた一連の事件というか、こんな妙ちきりんな出来事は一体何なんですか。また別の世界ではこんな変なことに巻き込まれず、平々凡々とした日々を送っているぼくがいるとでもいうんですか。教えてください。ほくにはまったくわかりません…」
 すると、少し間を置くようにして吉備野は話しだした。
「ごもっともな質問です。実際にあなたもご存知のようにタイムマシンは実在します。しかし、そのマシンを駆使したとしても、パラレルワールドの存在を証明することは不可能に近いことには変わりません。私の考えるところではパラレルワールドというのは、一枚の紙の裏表のような世界だと認識しています。表側に住んでいる人間は裏側の世界のことなど知る由もありませんし、まして裏側に別の世界があるなどということも知らないで日々を過ごしているはずです。
 そのような世界が無限大に重なり合っているのが、いわゆるパラレルワールドの概要だというように物理学上では考えられています。ですから、佐々木さんの身に何も起こらない世界があったとしても何ら不思議なことではないと思われます。ほかには何か質問がございませんか」
 吉備野は時計に目をやりながら付け加えた。
「さて、私はそろそろお暇をしなければなりません。ただ、ひとつだけあなたにご忠告申し上げておきますが、これから先あなたが遭遇する現実に対して決して目を背けたり、逃避するようなことは絶対にしないでください。それがあなたにとっては最善の道ですので、これだけは必ず守っていただきたいのです」
 そう云いながら、吉備野のはおもむろに立ち上がりかけた。耕平は少し慌てたように尋ね返した。
「あ、ひとつだけ教えてください。山本が気にしていたことなんですが、このマシンの動力源は何なんですか。それからマシンの詳しい操作方法もお願いします」
「やはり気になりましたか。それは当然のことですよね。このマシンの原動力は光です。光子エネルギーを動力源にしておりますで、この世に太陽が存在する限り永久的に使用可能ですので安心してお使いいただけます。操作マニュアルはマシンの左側面の一番下のボタンを長押しいたしますと、コンピューターのディスプレー上に表示されます」
「動力源は光のエネルギー…、だったんですか」
 耕平はいささか驚いた様子で吉備野に聞き返した。
「しかし、少なくても現代、いや二〇一八年時点ではそんな技術が存在したなんて話は聞いたこともありませんが、それはどういう風に解釈すればいいんでしょうか」
「それはあなたもご存知のように、二十紀後半頃に開発された太陽光発電があります。この技術を極度に増幅させたものが光子エネルギーの原点なのです。もちろん二十一世紀の技術ではまだまだ実現が不可能なことではありますが…」
「いくらかはわかったような気がします。ですが、操作マニュアルに関してはいまぼくのいる一九八九年の世界では無理です。第一この家にはコンピューター自体がありません」
 すると、吉備野は少々考え込んでから、
「そうでした。これはついうっかりしておりました。マイクロソフト社がウインドウズ95を発売したのがいまから六年後でしたね。それでは壁か襖に向かってマニュアルを照射してください。同じように映し出されます。画面は固定されますので、あとは上下の移動ホタンを使って調節できます」
「あ、それからもうひとつ…」と、耕平が加えた。
「あなたと連絡を取りたい場合はどうしたらいいでしょうか」
 吉備野のはにっこりと微笑みながら、
「それは簡単です。左側のマニュアル表示ボタンの上のボタンを長押しすれば、私に連絡が取れるようになっています。詳しくはマニュアルをご覧いただければわかりますので、よろしく。ずいぶん長居をしてしまいました。私はそろそろ失礼いたします」
 吉備野はゆっくり立ち上がると、耕平に深々と一礼をして内ポケットから小さな計器のようなものを取り出した。不審そうな顔で見つめる耕平に気づくと、
「これですか…。いまは残念ですが、夜間ですのでマシンは使えません。これはマシン本機の遠隔装置です。これならスタンドの光のような微量な光でも充分使用可能なのです」
 吉備野は計器のボタンの一つを押した。すると、彼の身体は現れたときと同じように物音ひとつ立てずに耕平の眼の前から姿を消していた。耕平はしばらく茫然自失の状態から抜け出すことができなかったが、時計を見るとまもなく午前三時になろうとしていた。明日のことを考えて、とにかく今夜は早く休もうと布団を敷き直し始めていた。

翌朝、寝苦しい思いに駆られて耕平は目醒めた。何かとてつもない悪夢にうなされていたようなものを見ていた気がしたが思い出すことができなかった。ふと、昨夜のことが頭をよぎった。吉備野と名乗った老紳士はなぜ急に自分の前に姿を表したのだろうか。
昨夜の出来事がまざまざと耕平の脳裏に甦ってきた。あの吉備野という老人はタイムマシンを創り上げたほどの人物だからよほど高名な科学者に違いなかった。耕平は自分の記憶を探ってみたが、これまで彼が見聞きした記憶の中には、そんな名前の学者はとんと浮かんではこなかった。そして、その時耕平は頭の中であることに思い当たっていた。
『たしか、タイムマシンの動力源の説明のとき、太陽光発電の技術を極度に増幅させて光子エネルギーを生み出すテクノロジーがあると云っていたな…。そうだ。こうも云っていたぞ「しかし、もちろん二十一世紀の技術では、まだまだ実現が不可能なことではありますが…」と、いうことは、彼は現代人ではなく未来からやってきた人間……』
しかし、どうして吉備野老人は自分のことを研究対象に選んだのだろうか。いくら考えてもそれらしい答えは思い浮かばなかった。それどころか、考えれば考えるほど奥の深い迷宮の闇に吸い込まれていくような気がした。
 そんなことを考えながら耕平はゆっくり起き出して時計を見た。七時を少し回っていた。洗面を済ませると居間に行った。亜紀子は朝食の準備をしていて、祖父は新聞を黙々と読んでいた。
「おはようございいます」
「やあ、おはよう…」
祖父は新聞から目を離さずに云った。そこへ亜紀子が入ってきて、
「おはようございます。今朝はずいぶんゆっくりだったのね。耕助さん」
「いろいろ考えごとをしていたら、つい寝そびれてしまって遅くなっちゃって、すみませんでした」
照れ笑いをしながら耕平が腰を下ろすと、佐々木家の朝食は始まった。雑談を交わしながら食事を済ませると祖父はさっそく出張の準備に入り、持ってゆく物のチェックや着てゆく服などの用意を進めていたが、出かける準備が終わったらしく居間に戻ってくると亜紀子に向かって云った。
「今日は少し早めに会社に行って、社長と最後の段取りをしなくちゃいけないんでひと足先に出かける」
「気をつけて行ってきてね。お土産忘れないでね。あたし蟹がいいわ。タラバ蟹、お願いね。おとうさん」
「売ってたらな」祖父は耕平のほうに向き直ると、
「きみも、もうだいぶ慣れた様から大丈夫だと思うけど、私のいない間会社のほうよろしく頼む。それから亜紀子のことも頼んだよ。なにしろ我がままな娘だからね」
「わかりました。気をつけて行ってきてください」
「それじゃ、行ってくる」
 祖父が出かけてから、しばらくして耕平も亜希子も身支度を整えてそれぞれの会社へと出かけ行った。


    二



 一日の作業も順調に終わり、家に帰ろうとして門を出たときだった。誰かが耕平の肩を叩いた。
「耕助さん」
振り返ると、そこには子供のようなに悪戯っぽい笑みを浮かべて亜紀子が立っていた。
「どうしたんですか。こんなところに…」
「ねえ、ねえ。今晩おとうさんいないでしょ。家に帰ってもつまんないでしょう。だから、どっかに飲みに連れてってもらえないかしら」
「え、飲みにですか…。でも、亜紀子さん。あんまり呑めないって云ったけど、大丈夫なんですか。もしも酔っ払って怪我でもしたら大変ですよ」
「だいじょーぶよ。おとうさんが知らないだけで、あたしこう見えても結構いける口なんだから」
 亜紀子は強引に耕平の手を引っ張ると、有無を言わせず歩き出そうとした。
「ちょ、ちょっと待ってください。飲みに行くったって、この街のことあまり知らないし…、それにお金も少ししか持ってこなかったし、また今度にしませんか…」
 すると、亜紀子は胸を反らせるようにして云い切った。
「大丈夫よ。お金ならあたしが持っているから、それに一軒くらいならお店も知ってるし、ねえー、行きましょうよ。あたしが奢るから行きましょう。ねえ、いいでしょう…。ねえ、行きましょう。耕助さん」
 亜紀子は、どうしても飲みに行きたいという感情を露わにして耕助を誘った。そう言われてみると耕助も、いままで亜紀子と二人きりでゆっくり話したことがないのに気づいた。亜紀子の本心を聞いてみるのには、またとないチャンスだと考えて申し出を承諾した。
 耕平と亜紀子は夕暮れ迫る街中をゆっくりと歩き出した。時計に目をやると午後六時を回っていた。繁華街までくると買い物客や帰路を急ぐ人でごった返していた。とあるビルの前までくると亜紀子は足を止めた。
「ここの地下にあるの」
 狭い階段を降りてゆくと亜紀子は一軒の店のドアを開いた。中に入るとカウンターとテーブルが六卓ほど並んだシンプルな感じの店だった。
「いらっしゃいませ」店長らしい男が声を掛けてきた。カウンターにはまだ時間が早いこともあってか客が二・三人しかいなかった。カウンターの一角にふたりが腰を下ろすと、
「何にいたしましょうか」店長が尋ねてきた。
「あたしおビールをいただくわ。耕助さんは」
「じゃあ、ぼくもビールお願いします」
耕平はひと通り店の中を見渡すと、
「静かな感じでなかなかいい店ですね。亜紀子さん、よく来るんですか。この店」
「ううん、きょうで二度目よ。前に友だちに連れて来られただけ。あたしあまり飲めないから、こういうお店来たことがないの。でも、きょうはすごく飲みたくて、ずうっと忘れていたのを思い出して、それで耕助さんのこと誘ったの」
亜希子は、まるで遠い思い出を懐かしむように、目を細めながら囁くようにつぶやいた。
「はい、お待ちどうさま。ビールお持ちしました」そこへ店長がビールとお通しを運んできた。
「はい、それでは乾杯しましょうよ」
 耕平にも勧めてから自分もジョッキを持つと、
「えー、何に乾杯しょうか。まあ、いいか…、何でも。それでは、カンパーイ」
「乾杯」
 亜紀子はゴクゴクと喉を鳴らして、ジョッキの三分の一ほどのビールを流し込んだ。
「あー、美味しいわ。最初は一気にこれくらい飲まないと飲んだ気がしないんだなぁ。あたし」
「でも、一度にそんなに飲んじゃあ、身体に毒ですよ。亜紀子さん。でも、いいですね、ここ。オレ気に入っちゃったなぁ。この店…」耕平は、もう一度店内をゆっくりと見渡した。
「彼女、どうしてるかなぁ…」亜紀子が急につぶやいた。
「え、誰ですか…」
「あたしを初めてここに連れて来てくれた娘…。しばらく会ってないから、どうしてるかなと思って。そうだ。電話してみよう」亜紀子は、バッグの中から携帯電話を取り出すと、
「ねえ、耕助さん。電話してもいいかしら、彼女この近くに住んでいるからちょっと電話して見るわ」
亜紀子はカウンターから立ち上がると店の隅のほうへと向かい、耕平のほうをチラチラ見ながら誰かと話していた。二、三分で話を済ませるとカウンターへ戻ってきた。
「彼女、いまこの近くで買物してるんだって、誘ったらすぐ行くって云ってたわ」
「来るんですか。その人…」耕平が尋ねると、
「うん。向こうもすごく懐かしがって、誘ったら二つ返事OKしたわ」
 亜紀子が持っていた携帯電話をバッグに仕舞おうとした。
「ちょっと、そのケータイ見せてもらえませんか」
 亜紀子は黙って携帯電話を耕平に手渡した。亜紀子から受け取った携帯電話は、耕平が二〇〇〇年代に使っていたケータイやスマホのような長方形ではなかった。電話機本体が全体的に丸みを帯びていて、掌にすっぽりと収まるほどの大きさで上部右側にはアンテナが付いていた。これが時代の流れというものだろうかと耕平は思った。珍しそうに携帯電話を眺めている耕平に亜紀子は言った。
「それはちょっと古いタイプなの。最近出回っている新しいのにはアンテナが付いてないのよ。でも、耕平さん。携帯電話が珍しいの?」
亜紀子に聞かれて耕平は慌てたように、
「あ、いや、そうじゃないけど…、どうもなんていったらいいのかな。あ、これ返します。どうもすみませんでした」すこしドギマギしながら携帯を渡した。
 そんなことを話しながらビールを飲んでいるところへ、買い物袋を手にした若い女性が店内には入ってきた。
「亜紀子、ひさしぶりねー」懐かしそうな表情を見せてふたりのところへ駆け寄ってきた。
「ホントだねー。何年ぶりかしら」
 耕平は立ち上がって席をひとつずらすと彼女に勧めた。
「そうねえ。成人式のとき以来だから、もう二年半くらいかな。ところで亜希子は元気してた?」
「もちろんよ。ご覧の通りピンピンしてるわ。あ、それから、こちら坂本耕助さん。父の会社を手伝ってもらっているの。この娘はあたしの友だちの由起子。よろしくね」
 亜紀子はふたりを紹介すると、店長にビールの追加を頼んだ。
「坂本です。よろしくお願いします」
「柏原由起子と申します。よろしくお願いします」
 ふたりの自己紹介が終わると、亜紀子は待っていたようにジョッキを持つと、
「それでは、柏原由起子との二年半ぶりの再会を祝しまして乾杯をしたいと思います。ふたりとも用意してちょうだい」
 ふたりがジョッキを持つのを確かめると、
「カンパーイ」
「かんぱーい」
「乾杯」
 亜紀子と由起子はしばらく昔話に花を咲かせていた。耕平は、それをおとなしく聞きながらひとり静かにビールを飲んでいた。すると、急に柏原由起子が耕平のほうに向き直った。
「ねえ、坂本さん。聞いてくださいよ。この娘ったらひどいんですよ」
「え、どうしたんですか」
「二年半前の成人式が終わってから亜紀子のことをここに連れてきたんですよ。そしたらね。たった一杯のビール飲んだだけなのに、酔っ払っちゃって意識不明になって倒れてしまったんですよ。あたしも一緒に来た友だちも驚いちゃって、仕方がないからマスターの手を借りてタクシーに乗っけて家まで送り届けたのよ。それなのに亜紀子ったら全然覚えていて云うの。ひどいと思いません。マスターも覚えているでしょう?」
 矛先を向けられた店長も笑みを浮かべながら、
「はい、私どもはこういう商売をやらせて頂いている以上、一度見えられたお客様のことは忘れませんし、特に印象に残ったお客様のことは決して忘れません。あの時は大丈夫だったんですか。お嬢さん」と、亜紀子に尋ねてきた。
「ここに来たことは覚えているんですけど、その後のことはまったく記憶に残ってないんです。ご迷惑をおかけしてほんとうに申し訳ありませんでした」
 照れ笑いを浮かべながらマスターに深々と頭を下げた。すると、店長はこう付け加えた。
「なーに、いいんですよ。そんなことは、たぶんお嬢さんはお酒を飲まれたのが初めてだったんでしょう、急性アルコール中毒ってやつですよ。若い方にはよくある話なんですよ」
「へえー、初めてだったの、亜紀子。でも、きょうはまともに飲んでいるところを見ると、どうにか一人前になったようね。亜紀子も」
 そんな他愛のないことを喋りながら三人はしばらく飲んていたが、そのうち亜紀子の様子が変わってきた。
「マスター、おビールちょーだーい。おビールちょーだいヨ。ねえー…、もう一杯…。うーん……」
だんだん亜紀子の呂律が回らなくなって来ていた。左腕に頭を載せたまま顔も揚げられない状態だった。これはまずいぞ。と思った耕平は、
「もうだいぶ酔ったみたいだから、帰りましょう亜紀子さん。このひと、どれくらい飲んだんですか。マスター」
「七杯…。いや、八杯です」
「そんなに飲んだのか…。ぼく連れて帰りますから、すみません。マスター、タクシー呼んでもらえますか」
「大丈夫ですか。亜紀子さん、亜紀子さんったらー」耕平が肩を揺すっても、亜紀子は微動だにしなかった。
「困ったものね。この娘にも、これじゃ昔とちっとも変わってないじゃない…」
 タクシーが来たというので、マスターに手伝ってもらって亜紀子を車内に乗せた。
「きょうは由起子さんにもマスターにも、いろいろご迷惑をおかけしてすみませんでした。それじゃ、これで失礼します」
見送る由起子とマスターをあとに耕平と亜紀子を乗せたタクシーは静かに走り出した。


   三


家についた頃、亜紀子はいくらか意識を取りもどしていたが、普段の状態にはまだまだほど遠いものを漂わせていた。亜紀子を車からおろして部屋に連れて行こうとした。
「耕助さん…。悪いんだけど、お水を一杯頂けないかしら」
 耕平は亜紀子を居間へ連れて行くとてテーブルに座らせて、
「ちょっと待っててください。いま水持ってきますから」
 水を持って戻ってきても、亜紀子はまだ腕に頬を乗せたままの状態だった。
「はい、亜紀子さん。水持ってきましたよ。さあ、飲んでください」
 ようやく頭を上げると亜紀子は耕平からグラスを受け取ると一気に喉に流し込んだ。
「ああ、美味しかった。ありがとう。耕平さん」
いくらかしゃきっとした様子で耕平にコップ渡すと、
「ねえ、耕助さん。もう一度ビール飲みましょうよ。ねえ」
「え、まだ飲むんですか…。もうだいぶ酔ってるんですから、休んだほうがいいんじゃないですか」
「だーいじょうぶよー。もう家に帰って来たんだし、酔ったってすぐ寝れるんだから飲みましょうよ。ねえ」
「でも、ほんとうに亜紀子さんかなり酔っているんですから、休まれたほうがいいですって」
耕平が執拗に食い下がると、亜紀子は急に表情を変えて、
「こら、こーすけ。早くビールを持って来い。言うことを聞かないとお尻を叩くわよ」
耕平は、その言葉を聞いてハッとした。その言葉、「言うことを聞かないとお尻を叩く」という言葉こそ、子供の頃に母が耕平を叱るときによく使う言葉だったからだ。恥ずかしいような懐かしい感情が耕平の胸に込み上げてきた。間違いなくこの人は自分の母親なんだということを実感していた。
「わかりました。ビール取ってきますから、待っててください」
 台所からビールを持ってくると、耕平の手を見ながら亜紀子が聞いた。
「あら、グラスはどうしたの」
「いま水を飲んだのがあるから、いいかなと思って…」
「そうじゃなくって、あなたの分よ。あなたのグラスはどうしたの」
「ぼくはいいですから、亜紀子さん飲んでください」
耕平が亜紀子のグラスに注ごうとした。
「いやよ、そんなの。せっかく耕平さんとゆっくり話をしようと思ったのに、さっきは由起子を呼んでしまったから出来なかったじゃない。だから、今度こそ飲みながら話しましょうよ。早くグラス持ってきて」
 亜紀子に急かされて耕平は自分のグラスを持ってきた。
「それじゃ、ぼくも付き合いますけど、でも、あまり飲まないでくださいよ。亜紀子さん」
「わかってるわよ。それじゃあ、改めて乾杯しましょうか」
 ふたりのグラスがカチンという音を立てた。亜紀子は家に戻ってきた時よりいくらか酔が覚めたのか、いつもとあまり変わりない口調になっていた。
「耕助さん。きょうはごめんなさいね。見苦しいところを見せてしまって…」
「かまいませんよ。亜紀子さん、そんなに酒が強くないの知ってますから、でも、どうしてあんなになるまで飲んだですか」
「そう云われると面目ないんだけど、ああして由起子が飛ぶように来てくれたでしょう。それがすごく嬉しかったのよ。だから、つい話に夢中になってあとの事も考えずに飲んでしまったんだわ。ほんとにごめんなさい。耕助さん」
「いや、いいんですよ。ぼくは、でも、その気持わかるなあ。ぼくにもそんな友だちがいるから…」
 その時、耕平の頭の中には山本徹のことが浮かんでいた。あいつ、いま頃どうしているだろう。そんなことを考えていると、
「あ、忘れてた」亜紀子が、突然何かを思い出したように叫び声をあげた。
「え、どうしたんですか」驚いて尋ねると、
「あの店のお勘定よ。どうしたかしら、もしかして耕助さんが払ってくれたの?」
「いいえ、それが…、ぼくが払おうとしたら由起子さんが『わたしが払うからいいわ』って、みんな払ってくれたんです」
「そう…、何だか悪いことしちゃったな…、由起子に。でも、まあいいか。今度会ったらお礼言っとくから。それより、さあ、飲みましょう」
「はい、いただきます」
それから、ふたりは会社のことや祖父のことなどを話しながら飲み始めた。
「でも、不思議ねえ…」
「何がですか…」キョトンとした顔で耕平が聞くと、
「だって、そうじゃない。あの日たまたま耕助さんの自転車があたしに打つかって怪我をしたから、あたしんちに連れてきて手当をしてあげただけなのに、あの時もそうだったけど初めて会ったのに全然違和感がなかったし、むしろ昔から知っている人に会ったような懐かしさみたいなものを感じたの。父も云ってたでしょう。それが不思議なのよ。ほんとにたまたま偶然に起こった出来事だったのに…」
 偶然?…、あれは決して偶然ではなかったのだ。と、耕平は思った。それは、若き日の母である佐々木亜紀子にぶつかったのは偶然だったかもしれないが、自分は意図して二〇一八年からこの時代にやって来たのだから、逢うつもりはなかったにしろ亜紀子に出逢ったことも、同時代に存在しているからには起こっても不自然ではないことだった。
「亜紀子さん。ひとつ聞いてもいいですか」
「え、いいわよ。なあに」
「前にも一度聞いたと思うんですけど、亜紀子さん本当に付き合っている人っていないんですか」
「いないわよ。そんなひと。どうして…」あっけらかんとした表情でいうと、またビールを飲んだ。
「亜紀子さんほど若くて綺麗なひとをほっとくなんて、世間の男は見る目がないのかなと思ったから聞いてみたんです」すると、亜紀子は目を細めるようにして、
「そんなにあたしのことが気になるんだったら、いっそのことあたしを耕助さんのお嫁さんにしてくれる…」
「え…」
 その時、耕平は一瞬ド肝を抜かれたような思いがした。まさか、近い将来自分の母親になる女の子から恋人にしてれなどと云われるなどとは、夢想だにしていなかっからなおさらだった。
「ねえ、ねえったらー。耕助さん、聞いてるの。ねえ、耕助さんったら…」
「え、ああ、聞いてますけど…。でも、急にそんなことを云われても困ります…」
 耕平は内心ドギマギしながらいうと、亜紀子はさらに続けた。
「ほんとうよ、耕助さん。あたし、ほんとに耕助さんのこと好きになっちゃうから…、いいでしょう」
 耕平は戸惑いを隠せなかった。自分は昨夜の続きで悪夢を見ているのだろうか。と、さえ思えたが、これは夢でも幻でもなく現実に起きていることは確かだった。
「ねえ、ほんとうよ。ほんとに、あたし耕助さんのお嫁さんになっちゃうんだから…。もう一杯おビールちょうだい」亜紀子は自分のグラスを耕平のほうへ差し出した。
「もう、ないです。さっき注いだのでお仕舞いです。もう休んだほうがいいですよ。亜紀子さん」
「いやよ!。もっと飲むのよ。飲みたいの。もう一本持ってきてちょうだい」
 耕平は、これまで母が酒を飲んでいる姿を一度も見たことがなかったし、彼が勧めてもきまって『わたしはいいから、お前飲みなさい』と、断るのが常だった。そう云えば一度だけ、どうして酒を飲まないのか聞いたことがあるのを思い出した。母によれば『けして飲めないわけではないが、酒は飲まないことにした』と、いうのが答えであった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     理由を聞いても何も答えてはもらえなかったから、母がどのような事情で酒をやめたのか結局のところわからず仕舞いになっていた。そんなことを考えていると、
「とにかく、もう一本だけビール持ってきてよ。耕助さーん」亜紀子がわめき始めた。
「いいわよ。持ってきてくれないんなら、自分で持ってくるから…」
亜紀子が立ち上がろうとするのを見て慌てて、
「あ、わかりました。いま持ってきますから、ちょっと待っててください」
ビールを取って台所から戻ると、亜紀子はまたテーブルの上に両腕を組んだ上で顔を伏せていた。
「はい。亜紀子さん。ビール持ってきましたよ」
 それを聞くと亜紀子はハッとしてように、おもむろに頭を持ち上げた。グラスにビールを注いでやると、
「ありがとう」と、云ってグラスを口に持っていこうとしたが、耕平のほうに向けられた亜紀子の目は、もう半分以上うつろになりかけていた。
「もう、ほんとうにやめたほうがいいです。グラス貸してください」
 耕平は強引に亜紀子の手からグラスを取り上げた。
「何すんのよー。もう少し飲むんだからグラス返して…、返してってばー」まるで駄々をこねる子供のように亜紀子は喚き散らしている。
「きょうのところはぼくの云うことを聞いて休んだほうかいいですって、明日も会社あるんでしょう。さあ、部屋まで連れて行ってあげますから、ぼくの肩に捉まってください」
 耕平にそう云われると、亜紀子はもう何も言い返す気力もなく黙って立ち上がった。
「さあ、行きますよ。足元に気をつけて…」
 耕平は亜紀子の体を抱え込むようにして、ゆっくりと茶の間から出て行った。


    四


 亜紀子をベッドに座らせると、
「ぼくは向こうを片付けてきますから、その間に着替えを済ませておいてください。また後で来てみますから…。まさか、ぼくが手伝うわけにもいかないから」
 そう云って、耕平は亜紀子の部屋を出て台所の後片付けを済ませると、着替えが終わった頃合いを見計らって戻ってくると亜紀子は寝巻き姿になっているものの、まだベッドに腰を下ろしたままだった。
「あれ、まだ休んでなかったんですか」
 亜紀子は何かを思い込んでいる様子で黙って頷いた。
「早く横になってください。布団掛けてあげますから」
 耕平が亜紀子をベッドに寝かせて布団を掛けようとした時だった。
「ちょっと待って、耕助さん…」
いきなり耕平の手を掴んだ。そして、その手を自分のほうへと引き寄せた。女の娘とは思えないほどのすごい力だった。酒を飲んでいたせいもあって、不意をつかれた耕平の体は一瞬バランスを失い亜紀子の上に倒れ込んでしまった。左手で体を支えようしたが勢いあまって頬が亜紀子の右の胸に触れてしまっていた。
「あっ」
と、耕平は小さな声を立てた。亜紀子の胸はふくよかに脈打っいており、そのままその温もりが耕平の頬に伝わってきた。ようやく顔を上げると亜紀子の目と合った。
「あたしを抱いて…、耕助さん」
 耕平は自分の耳を疑った。自分でも信じられないほど狼狽していた。まして近い将来自分の母親になるであろう女性から言われたのだから当然のことだった。耕平は慌てて亜紀子の手を振り解こうとしたが、亜紀子は一向に力を緩めようとはしなかった。
「あたしのこと、抱くのいやなの…」
亜紀子は、弱々しい声でつぶやくように言った。
 亜紀子の口から放たれた言葉は耕平にしてみれば、まさに青天の霹靂であったことも否めない事実であったし、どうしても戸惑いを隠せないままでいた。
「耕助さん。お願い…、今夜はあたしをひとりにしないで…、お願い…」
 亜紀子は、上体を起こすと耕平にすがりついてきた。彼女は必死で耕平をベッドの中に引き入れようとしている。耕平は強く握りしめられている右腕に痺れを感じていた。
「わかった、わかりましたよ。亜紀子さん。その手を離してください。ちょっと痛いんです…」
 耕平に云われて亜紀子はようやく握りしめていた手を離す、よほど強く握りしめられていたのだろう、耕平の右手首にはかすかに赤く跡が残っていた。
 あくまでも平静さを装いながら耕平は亜紀子に言った。
「それじゃあ、亜紀子さんが眠りつくまで一緒に添い寝してあげますから、それでいいですか」 
亜紀子は嬉しそうに微笑みながら、こっくりと頷いた。耕平は布団をめくると静かに亜紀子の脇へ横たわった。
「ごめんなさい、耕平さん。でもあたし、いつかはあなたにこうして欲しかったの…」
 亜紀子は耕平のほうに向き直ると、耕平の胸に腕を乗せてきた。
「こうしていると、何だかとても落ち着くわ。あたし、幸せ……」
 そして、静かに耕平の手を取るとそっと自分の胸の上に置いた。そこには、いつの間にか寝間着の前が開けられていて、亜紀子の柔らかくふっくらと隆起した乳房に触れた。
「あ、何をするんですか…」
 驚いた耕平は起き上がろうとするが、亜紀子は手を離そうとはしなかった。
「お願い、耕助さん。あたしを抱いて…、抱いてください。一生のお願いだから、あたしを抱いて…」
 耕平は正直のところ、なんと答えればいいのかわからなかった。しばらく身動きひとつしないでじっとしていると亜紀子の鼓動が、通常よりもいくらか早い間隔で掌を通して伝わってくる。耕平は自分のものと比較してみたが、やはり同じような間隔で脈打っていた。耕平は何かを言おうとしたが、なかなか言葉にならなかった。
「いけない…、亜紀子さん。いけませんよ。そんなこと…」
すると亜希子は、一層両腕に力を込めて耕平にしがみ付いてきて、
「ねえ、お願い…。あたしを抱いてください。あたし、ほんとうに耕助さんのこと好きになってしまったの。だから、あたしのこと抱いて…、お願い」
 耕平は途方に暮れていた。こんな時、なんと云えばいいのか、女性のほうから言い寄られた経験もない耕平にはまったく検討もつかなかった。それも相手が自分の母親になるはずの若い娘なら当然だったろう。
「あたしのこと、嫌いなの…、耕助さん。だから抱けないの」
「ち、違います。好きです…。でも……」
 耕平が口ごもっているのを見て、
「嫌いなんだわ。あたしのこと、きっとそうなんだわ…」
「違います…、それは違いますよ。亜紀子さん。ぼくがあなたを嫌いなわけないじゃないですか…」
「じゃあ、どうしてあたしのことを抱いてくれないの…」
「どうして…って、ぼくは…、あなたの……」
 と、言いかけて、思わず耕平は口を噤んでしまった。この時『ぼくは、あなたの息子なんです』と、言えたなら、どんなにか胸に支えているモヤモヤとしたわだかまりのようなものがスッキリするだろうと思った。
「え、何、あたしの何なの…、云って…」
「い、いや…、何でもありません…」
 いま、こうして亜紀子といるこの瞬間が、耕平にとっては言葉では形容し難いほどの苦悶に満ちた時間であった。亜紀子はますます両腕に力を込めて抱きついてくる。
亜紀子は耕平の唇に自分の唇を押し当ててきた。
「あ、う、ぐっ…」
耕平は小さくうめいた。亜紀子の行為にどうすることも出来ないでいる自分に苛立ちを感じて、急いで顔を横に背けるようにして亜紀子から逃れた。
「なぜ、何故なの…耕平さん……」
 見ると亜希子の瞳には涙が浮かんでいた。その涙が見る見るうちに頬を伝い、ひと粒の涙となって耕平の頬の上にしたたり落ちてきた。亜紀子は泣いていた。声も立てずに泣いていた。大粒の涙が止めどもなく亜紀子の頬を伝い耕平の頬に落ちてくる。
「いいわ…、あたし、いいわ。死んじゃうから……」
「どうしたんですか。亜紀子さん…。急に泣き出したりして…、それにいきなり死ぬだなんて云いだすし…」
耕平はそう尋ねたが、自分でもどうしたらいいのかすっかりわからなくなっいた。亜紀子は声を出して泣き始めた。
「あたし、生まれて初めて男の人を好きになったの…。あなたよ。耕助さん」
亜紀子は泣きながら続けた。
「それなのにあなたは何にもしてくれない。そんなの嫌よ。それなら、いっそ死んだほうがましよ。あたしなんて…、う、う……」
 その時、耕平は思わず亜紀子を抱きしめていた。まるで思考能力を失ってしまったように力いっぱい亜紀子の体を抱きしめた。なぜそうしたのか耕平自身にもわからなかった。ただ、この時は亜紀子のことが愛おしく好かじられ、自分の母親であることをも忘れてひたすら抱きしめていた。こうして、ふたりの周りではゆっくりとした速さで時間だけが流れ去って行った。


第四章 やがて来るもの


     一


翌朝、耕平は頭部に鈍痛をおぼえて目覚めた。いつの間に戻ったのか、そこが自分の部部であることに気がついた。何やら、また悪い夢を見ていたような気もしたが、どうしても思い出すことができなかった。そして、昨夜の出来事が鮮明に浮かび上がってきた。その時、耕平は自分が内心青ざめていることに気づいた。もし赤の他人がいまの自分の姿を見たら、顔面蒼白の男が身じろぎひとつしないで横たわっているように見えたに違いなかった。
いくらふたりとも酔っていたとは言え、どうしてあのような状況に陥ってしまったのか、自分でもなかなか納得することができなかった。ただ、あの時は酒のせいもあって取り乱して『あたしなんて、いっそ死んだほうがましよ』と、いう亜紀子の言葉に衝撃を受け必死に宥めようとしていたが、耕平自身もかなり動揺していたために前後の見境もつかないまま、近い将来自分の母親になるはずの佐々木亜紀子と関係を持ってしまったのだから、耕平が居ても立ってもいられないほどの焦燥感に駆られるのも当然のことであった。
もしも、何らかの原因で亜紀子が死んでしまうようなことにでもあれば、前に山本が云っていた『親殺しのパラドックス』のように、その瞬間に耕平の存在はこの世から消えてしまうかも知れないと考えたからだった。でも、それはただ単に耕平が自分自身を正当化しようとするためのこじつけに過ぎないことは彼にも充分わかっていた。
 耕平は布団の上に上半身を起こしながら悩んでいた。間もなく朝食の時間だろう。その時、亜紀子と顔を合わせるのがつらかった。どんな顔をして亜紀子と相対すればいいのかわからないまま、布団から抜け出すと着替えを済ませたところへ足音が聞こえてきた。
「耕助さん。開けてもいい」亜紀子だった。
「ど、どうぞ…」耕平は平静さを装って答えた。
「朝ご飯の用意ができたから呼びにきたの」
 亜紀子は、いつになくしおらしい口調で言った。
「ゆうべはわがまま云ってごめんなさい。でも、あたしとっても嬉しかった。ありがとう…」
 いままで耕平は、こんなに女らしい言い方をする亜紀子には接したことがなかった。
「大丈夫でしたか。あれから…。ぼくもいつの間に部屋に戻ってきたのか覚えてなくて、気がついたらここに寝てました…。ちょっと待ってください。いま洗面を済ませたらすぐ行きますから、つい寝坊してしちまったもんで…、すみません」
「そう、じゃあ、なるべく早くきてね。お汁が冷めちゃうから」 
それだけ云うと、普段の亜紀子とほとんど変わらない調子で台所のほうへと戻って行った。耕平は複雑な心境だった。彼がこれほど悩んでいるのに対し亜紀子のほうは意外と楽観的で、むしろああなったことに満足している様子をみて、耕平はますます自己嫌悪に陥りながら、おもむろに立ち上がると洗面を済ませ居間へと向かった。
居間に入ると食事の準備を済ませた亜紀子が待っていた。食卓の上にはいつもどおりの亜紀子手作りの料理が並ん でいた。
「さあ、冷めないうちに早く頂きましょう」炊飯ジャーからご飯をよそって耕平に手渡した。
「頂きます…」とは、云ったもののあまり食欲がなかった。それでも、ご飯をひと口食べて味噌汁をすすった。
「ねえ、ねえ、耕助さん。このクサヤの干物食べてみて、とてもおいしいのよ。あたし大好きなんだー」
 耕平も勧められるままひと口食べてみた。確かに美味かった。そう言えば若い頃の母がよく食べていたのを思い出していた。子供の頃の耕平は、クサヤの持つ独特の匂いが嫌いで絶対に口にしようとしなかった。だから大人になってからも取り立てて食べてみようとも思わなかっし、きょう生まれて初めて食べてみたが、匂いはともかく味そのものはなかなかのものであることがわかった。
「初めて食べましたが、結構うまいものですね。これ」
 自分が落ち込んでいることを亜紀子に悟られてはいけないと、耕平はわざと明るい口調で行った。
「え、じゃあ、新潟のほうではクサヤの干物って売ってないの?」と、亜紀子が聞く、
「いや、売ってると思いますよ。でも、ぼくがあまり好きじゃないので売ってたとしても気がつかないだけかも知れません」
「へえー、耕助さん、クサヤの干物嫌いだったんだぁ。こんなにおいしいのに…」
 そんなことを話しながら朝食を済ませ、部屋に戻って出かける準備をしながら亜紀子がいつもとかわりなく自分と接していることにホッとしたが、やはり耕平は自分の母、いや、母になるはずの亜紀子と関係を持ってしまったことに対し、どうしようもなく底の知れない後悔の念に駆られていた。
「課長が予定よりも早く話がまとまったとかで、明日最終的な話を詰めて帰ってくるという電話があったんで、君にも知らせておこうと思ってね。いやぁ、早く済んでよかったよ。課長もだいぶ心配していたからねえ」
「佐々木の叔父がもう帰ってくるんですか。確か、五日くらいかかるかも知れなって聞いてましたけども。早かったんですね」
 会社では、耕平のことは祖父の妹の息子という触込みになっていた。
「それが殊の外すんなりと話が進んだらしいんだよ。それじゃあ、ひとつよろしく頼むよ」
 だから、正直ところ祖父が帰ってくると聞いて耕平は内心ホッとしていた。今夜も亜紀子とふたりだけで過ごすのかと思うと気が重くなるのを感じていたからだ。祖父さえ帰ってくれば、それだけで気が紛れるし亜紀子と一緒にいる時間が少なくなると思ったからだった。
 朝からのしかかっていた重苦しいものも幾分薄らいだようだが、それでも完全には断ち切れていないのを感じながら耕平は家路についた。

「ただいま」
家の前までたどり着いた時も少しためらいもあったが、いつもと変わりない調子で玄関の戸を開けた。
「はーい」と、声がして奥から亜紀子が出てきた。
「おかえりない。きょうは早かったのね。耕助さん」
 何の屈託もみられない亜紀子の顔を見て、耕平は内心ホッとしていた。
「ねえ、それより聞いて聞いて、お父さん予定よりも三日も早く帰って来れるんだって、さっき会社に電話があったの」
「それなら、ぼくも主任から聞きました。よかったですね。早く帰って来れて。あ、これ、そこのスーパーを覗いたら安かったんで買ってきました。かつおの刺し身です」
「まあ、うれしい。あたしもかつお大好きなんだぁ」耕平からスーパーの袋を受け取ると、亜紀子は嬉しそうに台所のほうへ戻っていった。
 耕平は自分の部屋に入ると襖を前にして座り込み、時計を腕から外して吉備野に言われたとおり、襖の白い部分に時計を向けて左側についている一番下のボタンを長押しした。すると襖の横幅の大きさに各部種の図とか諸々の説明らしいものが映し出された。説明文を読んでみたがそこには耕平にもわかっていることしか書かれていないことに気づいた。次のページに移動するにはどうすればいいのか探していると、画面の下の部分に小さな文字で記されていた。
『なるほど、こうすればいいのか…』と、ひとりで頷きながら投影ボタンの上のボタンを下方にスライドさせた。画面が変わり次のページが現れた。そこには各部首の注意事項のようなものがビッシリと書かれていた。耕平の一番知りたかったことは、設定した時間がズレないようにするにはどうすればいいのかということだった。
 関連項目を調べていると、年代・月日・時刻の合わせの項に確かにそれは記されていた。
『なに、なに、年代・月日・時間の各項目ごとに設定した後、右の第七ボタンでロックすると書かれていた。第八ボタンはロックの解除とその他諸々の役割があるらしかったが、いまはそれほど必要ではないと思ったので省いた。
いままでどうしてもわからなかった部分がほぼ完全に把握できて、これでもう時間が微妙にズレることもなくなったと思うと耕平は心の中で安堵感のようなものを覚えていた。
その時、耕平はマニュアルの最後のページの下部のほうに、小さな数字が書き込まれているのに気づいて目を移すと、C12.10.2721 と、記されていた。製造された年番号らしかった。
『二七二一年十月二一日…。え、二・七・二・一年⁉。こ、これって、七百年も未来じゃないか………、マ、マジかよ、ええー』
 耕平は驚愕のあまりしばらく身動きができなかった。
「耕助さーん。ごはんの支度ができたわよー」
 その時、居間のほうから亜紀子の声が聞こえてきた。
「はーい。いま行きまーす」
 耕平は気をとり直して、亜紀子が朝食の用意をしている居間へと向かった。
居間はすでに亜紀子がごはんと味噌汁をよそって待っていた。
「ほら、見てー。美味しそうだから、耕助さんの買ってきてくれたかつおのお刺身」
「ほんとですね。ほんとうにうまそうだな。これ」
「それじゃ、頂きましょう」
「いただきまーす」耕平はかつおを一切れつまむと口に入れ、
「あ、うまい。これ、ほんとにうまいですね。あんなに安かったのに」
「あたしも、こんなに美味しいかつおのお刺身久しぶりに食べたわ」
ごはんを食べながら祖父の話をしているうちに、亜紀子が思い出したようにつぶやいた。
「おとうさん。大丈夫かしら」
「え、何がですか…」
「おみやげよ。お土産」
「え、お土産って…、何ですか?」
「あら、忘れたの耕助さん。カニよ、タラバガニ。あたしがおとうさんに買ってきてって頼んだじゃない」
そう言われれば、そんなことも聞いたような気がして、
「タラバガニか、カニの中ではあれが一番食べごたえがあって、ぼくも大好きです。それは本当に楽しみですね。亜紀子さんも好きなんですか。タラバガニ」
「ええ、大好きよ。北海道のは採れたてで新鮮だから、美味しいわよ。早く食べたいなー」
 そんな何の屈託もない亜紀子を見ていると、きょうは一日中重苦しい気持ちを引きずりながら仕事をしてきた耕平にとって、ためらう様子もなく普段どおりの亜紀子の振る舞いを見て、自分でもなかなか割り切りことの出来ない複雑な感情が湧き上がってくるのをどうすることも出来ないでいた。
 それでも耕平は食事が済んだ後も、いつもと変わりなくテレビを見ながら談笑をして過ごし、午後十時を回った頃に少し調べ物があるのでという口実を付けて部屋に戻った。


     二


 部屋に戻ってきたものの、耕平には特別やることがあったわけでもなかったが、あのまま亜紀子とふたりっきりでいるとどのような状況になるのか予測もつかなかったからにほかなかったからだった。
しかし、亜紀子がいつもと変わらなく振る舞っているのを見ていると、自分だけが頑なに拒んでいること自体、亜紀子に対してあまりにも失礼であることはわかっていたから、いくら亜紀子が自分の母親になるはずの女性であったとても、もうこれ以上はくよくよ思い悩むのはやめようと思っていた。そう考えることによって耕平の気持ちはいくらか普段の冷静さを取り戻していた。
 次の日の朝、耕平は不思議なくらいにすがすがしく目覚め、朝食の時も亜紀子ともごく普通に接することができた。食事のあとも亜紀子とともに後片付けを済ませて会社へと出勤していった。
 夕方、耕平が残された雑用を済ませていたところへ、大きな手荷物をぶら下げた祖父が姿を現した。
「やあ、耕平くん。ごくろうさん」
「あ、お帰りなさい。よかったですね早く帰ってこれて」
「うん。先方との話が意外とスムーズについたんでね。さっき着いたばかりだよ。きみもそろそろ終わりだろう。一緒に帰ろうか」
「はい、そうしましょう」
耕平は急いで仕事を片付けると、祖父とともに会社を後にした。
「ただいま。いま帰ったぞ」
 祖父が玄関を開けると奥のほうからバタバタと足音を立てて亜紀子が出てきた。
「お帰りなさーい」亜紀子が息を切らせながら云うと、
「ほら、買ってきたぞ。お土産」玄関に入るなり、祖父は手に持っていた大きな包を亜紀子に手渡した。
「わあー、ありがとう、おとうさん。でも、高かったんでしょう。こんなに大きいの」亜紀子が眼を輝かせた。
「なーに、大したことはないさ。それに社長が『仕事が早く済んだんだから、浮いた宿賃で家族に土産でも買ってってやれ』って言ってくれたんで、特別でかいのを買ってきた」
「よーし、あたし頑張って調理するから、ふたりつとも居間のほうで待ってて」
 亜紀子は大きな泡スロールの包を抱えるようにして台所へ消えて行った
 耕平は一旦部屋に戻り着替えをしてから居間に行くと、祖父もやっとくつろいだという表情で待っていた。
「耕助くんもご苦労さんだったね。私がいない間たいへんだったんじゃなかったのかね。仕事のほう」
「いえ、たいしたことはなかったです。ぼくもだいぶ慣れましたから」
「そうか、それならよかった」
「耕助さ―ん。ちょっと来てもらえないかしら」
その時、台所から亜紀子の呼ぶ声がした。
「はーい、何ですか。いま行きます。すみません。ちょっと行ってきます」
 急いで立ち上がり台所へ行くと、
「ねえ、これ見てー、こんなに大きいのよ。このカニ」
 亜希子が手に持った皿の上には、甲羅の直径が三十センチは下らないと思われるタラバガニが載せられていた。
「うわぁ、何ですか、このすごくでかいカニは…」
 亜紀子の盛り付けた皿の上には、どう見ても甲羅の大きさが三十センチは下らないと思われるタラバガニが載せらていた。
「そうなのよ。あまり大きいんで、あたしも驚いちゃったの。それより、これとビールを先に持ってってちょうだい。あたしもすぐ後から行くから。お願いね」
「わかりました。それにしても、でかいよなぁ。これー」
 耕平がカニを載せた大皿とビールを手に持って茶の間に入ると、祖父はすこぶる得意そうな表情を見せながら、
「どうだ。ちょっとした物だろう。それは」
「はあ、すごいですよ。ほんとうに、これは…」
「店の人も云ってたがね。それくらいのクラスの物になると『この辺でもめったに入荷しない』んだそうだ」
「そうでしょうね。ふつう店で見かけるのは、甲羅の大きさはせいぜい二十四、五センチですから、これは少なく見積もっても二十七、八センチはありますからね」
「これも店の人に聞いた話なんだが、一般的に出回ってるものは五年物って云うんだそうだ。このクラスになると六年、いや七・八年は経ってるとか云ってたな」
「へえー、そうなんですか」
 そこへ亜紀子がグラスを持ってやって来た。
「さあ、準備ができたわよ。みんなで頂きましょう。はい、おとうさん。ご苦労さまでした」
「ほんとうに遠くまでご苦労さまでした」
「いや、いや、これが仕事だから仕方ないさ。さあ、それより早く食べよう。耕助くんも遠慮しないで食べたまえ」
「はい、頂きます」
「ねえ、でも、これ高かったんでしょう。おとうさん」
「だから、そんなことは心配しなくていいから、早く食べなさい」
「はい、はい、頂きます」
 亜紀子は父親のグラスにビールを注ぐと、盛られたカニに手を伸ばした。こうして、佐々木家のいつもと変わらない団らんが始まった。


     三


 それから一ヶ月ほど何事もなく平穏な日々が過ぎ去った。
 ある朝のことだった。世間話に花を咲かせながら朝食を執っていると、亜紀子が急に口元を押さえるとトイレのほうに駆け出していった。
「どうしたんだ。アイツ」祖父が怪訝そうな顔をした。
「どうしたんでしょうね。亜紀子さん…」
二人でそんなことを話しをしていると亜紀子が戻ってきた。
「どうしたんだ。何かしたのか…」
「どうしたんですか。一体、顔色が悪いですよ…」耕平もつられて訪ねた。
「ううん、何でもないの。ただ、ちょっと気持ちが悪くなっただけだから、大丈夫よ」
「お前、なんか悪いものでも食べたんじゃないのか…」
「そんなんじゃないのよ。何でもないんだったら…、ただ気持ちが悪くなっただけだから」
 耕平と祖父は顔を見合わせ、心配そうに亜紀子の顔を覗き込んだ。
「なーに、ふたりとも…、そんなに見つめないでよ。何でもないだから、そんなに見られたら恥ずかしいでしょう」と、言いながら、亜紀子はまたご飯を食べ始めた。
「まあ、それならいいが、ほんとに気をつけろよ」
 食事を終えた祖父は傍らに置いてあった新聞を読み始め、亜紀子は食べ終わった食器類の後片付けに入っていた。
 耕平は部屋に戻ると押し入れて置いたカバンを取り出し、中から何やら四角い茶封筒を取り出した。その封筒はかなり分厚く何かが詰まっていた。彼は無造作に中に入っていたものを引き出すと畳の上に二等分に分けて並べた。そう、それは耕平がこちらに来る前に図書館に行って新聞の縮刷版から、九〇年前後起こった事件や流行・その他の出来事を何かの参考にできなかいとコピーしてきたものだった。
しばらくコピーされた記事を読んていた耕平だったが、これと言って直接的にすぐ役立つようなものは何も見当たらなかった。そうしてコピーを片付けようとしていた時、一枚の記事が目に止まった。それは、新潟競馬の記事だった。
『何でこんなもの取ったんだろう』不思議に思いながら記事を読んでみると、一九八九年十一月十二日付けの物で、新潟競馬場で行われた「第十四回エリザベス女王杯」の結果だった。
『ん…、何、何。配当金が…、四三〇・六倍だって! こりゃあ、大穴じゃないか…』
 こんな記事を何のためにコピーしたのかまるで記憶になかったが、多分こんな大穴滅多にでないから珍しいと思って取ったのかも知れなかった。
 時計を見ると出勤時間が迫っていることに気づき、耕平はコピーした記事をかき集めもとの封筒に入れカバンに戻した。
「おーい、耕助くん。そろそろ出かけようか」祖父の声が聞こえてきた。
「はーい、いま行きます」
 耕平は急いで上着を引っ掛けると玄関へ向かった。
「すみません。お待たせしました」
「おお、きょうもいい天気だね」
 玄関を出ると祖父が空を見上げながら言った。
「富良野も天気は良かったが、向こうはいまが春真っ盛りだからねえ。もう、そろそろ桜も咲き始めるんじゃないかな」
「あ、北海道ってそんなに遅いんでしたっけ…」
「うん、地元の人も云っていたが温暖化の影響かなんかで、それでも最近は例年よりも二・三週間も早く咲くそうなんだよ」
「へーえ、そうなんですか。そう云えば、この辺も最近ずいぶん暖かくなるのが早くなって来てますからね。地球温暖化か…、これからどうなって行くんでしようね」
 そんな話しをしながら二人は会社へと向かって行った。
 会社に着くと主任の松本が寄ってきて、
「課長、おはようございます。昨日はご苦労さまでした。あ、ちょっと坂本くん。きょうの日程のことなんだが、実はきょうはいつもとは違う仕事に回ってほしいんだ」
 耕平を現場のほうに誘いながら仕事の内容を話し始めた。
「……と、云うわけなんだ。ここは誰かにやらせるから、きょうはぜひ君にやってもらいたいんだ。頼むよ。坂本くん」
「はい、わかりました。やらせて頂きます」
「いやあ、助かるよ。ほんとに君はよくやってくれるんで、会社のみんなも喜んでるんだ。坂本くんがアルバイトだなんてもったいないなあ。君さえ良かったら正社員にしてもらえるよう社長に頼んどいてやるよ」
「はあ、ありがとうございます。考えてみます」
「じゃあ、頼んだよ。坂本くん」
 それだけ言うと、松本は自分の持ち場へと戻って行った。
 松本に言われた部署に出向いていった耕平は、すでに仕事は始まっていてみんな忙しげに働いていた。近くで作業をしていた中年の社員に声をかけた。
「おはようございます。松本さんから云われてきました。坂本と申します。よろしくお願いします」
「ああ、君か課長の甥子さんというのは、吉田といいます。よろしく。いやあ、君のことは主任から聞いてるよ。若いのによく働いてるって関心してたよ」
「そんなことないですよ。で、何をやればよろしいでしょうか」
「あ、そうだ。君にはこれをやってもらおうか。これらとこれらを箱詰めしてコンベアーに乗せて送り出してくれればいいんだ。それが終わったら、これとこれを運んで行って向こうの班まで届けてくれればいい、ここの台車を使っていいからね。それじゃ、頼んだよ」
 吉田に言われたとおり、耕平はテキパキと仕事をこなし作業は午前中に終わり、午後からは本来の配送車の誘導やらその他もろもろの雑用係に戻っていた。
 夕方になり帰り道に行きつけの本屋に立ち寄ろうと思った。行きつけとは言っても、それはあくまでも耕平のいた二〇一八年の話であって、ここはあの日耕平がやってきた時よりも、さらに一年早い一九八九年の店なのだ。店内に入ると、
「いらっしゃいィー」と、言う、あの独特の声がした。やはり五十代を少し過ぎたくらいのゴマ塩頭の店主が店番をしていた。
 いろいろ物色して五・六冊の本を手に取ると耕平は店主のいるレジへ向かった。目の当たりにしてよく見ると一年前とほとんど変わりない様子だった。もっともあの時は目を合わせただけでド肝を抜かれたような思いがして、すぐ店を出てしまったからあまり覚えてはいないが、確かに耕平が知っている七十を過ぎた白髪のあの爺さんとは全く違う人物に見えた。
代金を支払おうとしていると、
「お客さん、あんまり見かけない顔だね。うちは初めてかい」と、尋ねてきた。
「ええ、まあ、そうですけど…」
「それじゃあ、これからもひとつご贔屓に。よろしくどうぞ」
 支払いを済ませて帰ろうとするすと、
「まいどありィー」また、いつもの声を背にして耕平は店を出た。
  家の近くまで来たところで、亜紀子が買い物袋を手に帰ってくるのに出会った。
「あら、耕助さん。きょうは遅かったのね」
「きょう主任から急に別の仕事を頼まれて、そっちのほうを手伝っていたので少し遅れました。佐々木のおじさんはもう帰ってますか…」
「ええ、帰ってきてるわよ。それより、耕助さん。なに買って来たの、ご本」
 耕平が手に持っているBOOKSと印刷された紙袋を見て亜希子が聞いてきた。
「あ、これですか。いまそこの本屋を覗いたら、たまたま売ってたんで買ってきたんですよ。ただのSF小説です」
「へえ、耕助さんってSF小説なんて読むんだ」
「昔、高校時代にSF狂いの友人がいましてね。ぼくはほとんど読んだことがなかったんですが、ちょっと読んでみようかなと思って買ってきたんですよ。ただの気まぐれですよ。こんなの、ハハハハ…」
耕平は照れ笑いをしながら本の入った袋を持ち替えると、亜紀子と並んで自宅のほうへ向って歩き出した。
「今日は一日中なんだか知らないけど調子悪かったの。あたし」
「え、どうしてんですか。何かあったんですか」
「うん。なんだか体がだるくて変だったの」
「どうしたんですか。一体」
「わからないの。でも、大丈夫よ。すぐ良くなると思うから…」
「でも心配だなあ、一度病院で診てもらったほうがいいですよ。亜紀子さん」
「あたしもそうしようと思って、明日にでもちょっと時間をもらって行ってくるわ。でも、おとうさんには内緒にしといてね。心配するといけないから」
 家に着くと玄関の前で祖父が何かをしていた。
「ただいま帰りました」
「やあ、お帰り、きょうは二人お揃いかい」
「うん。そこでちょうど耕助さんとあったのよ」
「それより、きょうは済まなかったね。耕助くん。ひとり急に体調を崩して休んだものだから、君まで借り出したりして本当に悪かったね」
祖父は耕平に対して済まなさそうな表情で詫びを入れた。
「いやぁ、こんなことはぜんぜん平気ですから気にしないでください。これからもぼくに出来ることでがありましたら何でもしますから、いつでも気軽に言い付けてください」
「そうかい。そう云われると助かるが、じゃあ、また、たまにはあるかも知らないからこれからもよろしく頼むよ」
 それから家に入ると亜紀子は夕食の準備に取り掛かり、耕平は自分の部屋に行くと机の前に座り、さっそく買ってきた本を取り出した。中身はすべてタイムマシンやタイムトラベルをテーマにした小説ばかりだった。山本が言っていたタイムパラドックスというものが、耕平にはいま以てチンプンカンプンでわからない部分のほうが多かった。文章になっているものを読めば少しは理解できるのではないかと考え、それらに分類されるSF小説を買い求めて来たのだった。これらの小説の末尾には必ずと言っていいほど、その作品に関する解説や著者の記した後書きが載っていることが多かった。耕平が昔読んだことのある有名なミステリー物にも例外なくそれはあったからだ。
 買ってきた本の解説の部分を片っ端から読み始めた耕平だったが、いま自分の置かれている環境に類似するような作品を見出すことはできなかった。彼が一番知りたかったのは自分が生まれる前とは言え、こうして自分がすでに他界している祖父とまだうら若い、母になる前の亜紀子と同じ時間帯に存在していることを明確に理解できるような記述など、どの解説を見てもどこにも見つけることができなかった。
 耕平は苛立っていた。自分がこれほど悩み苦しんでいるのに、そのヒントさえ掴めないでいるのだ。所詮作り話である小説の中にそれを求めること自体が、何の意味も持たないことも充分過ぎるほどわかっていた。自分が好きなミステリー小説にしたところで、どんな有名な名探偵や敏腕刑事がいくら難解な事件を解決したとしても、それも所詮書き手である小説家がでっち上げた作り話なのである。しかし、現実はそう簡単には行かないことは耕平にもわかっていた。
 そうこうしているうちに夕食の準備ができて、食事が済んだあと耕平も亜紀子の後片付けの手伝いをしたり、しばらく団らんを過ごした後自分の部屋に戻ってきた。


     四


 自分の部屋に帰ってきて先ほどの続きを考えていたが、いくら考えてみたところで誰も経験したことのないことが耕平にわかるはずがなかった。こんな時パソコンでもあってインターネットを駆使して調べることができれば、何とかヒントのようなものでも掴むこともできたかも知れないが、いまここにはパソコンがないのだから諦めるほかなかった。
 パソコン、つまりパーソナルコンピュータ自体は一九七〇年代から存在はしていたものの、その頃はとても高価で一般家庭で簡単に買えるような代物ではなかったらしい。吉備野と名乗った老紳士も言っていたとおり、マイクロソフト社がWINDOWS95を発表して以来コンピュータ業界も飛躍的な発展を遂げ現在に至っているのだが、いま耕平のいる一九八九年からすればまだまだ先の話しなのである。
 こんなことをしていては時間の無駄だと悟った耕平は、タイムマシンの操作方法がわかっのだから一度二〇一八年に戻ってみようと思った。タイムマシンを拾った四月八日に行って自分のパソコンで調べれば手がかりになるような何かを得られるかも知れないからだ。確かあの日は母が朝からいなかったから、自分が公園に出かけた直後に行けば自分自身と鉢合わせしないで済むはずだ。そう考えると居ても立ってもいられない衝動に駆られ、まんじりともしないで朝が来るのを待った。
 次の日の朝、さっそく外に行ってよそから見えない場所へ移動するとタイムマシンの時間を調整した。あの日、公園に行ったのはお昼過ぎだったはずだから、午後一時くらいなら絶対に自分と鉢合わせする心配はなかった。調整をし終えるとすぐにマシンの横に付いているスタートボタンを押した。周りの風景が一瞬ゆらぎまたもとに戻った。辺りの風景はまったく変わっていない。考えてみるとこれがマシンの正確な操作を覚えてから初めての時間移動だった。本当に四月八日に戻って来たのかどうか確信が持てなかったが、このまま家の中に入ることはできなかった。いまは六時を少し回ったばかりだから、あの日の自分はまだ寝ている時間なのでこのまま入ったら一年前の自分と間違いなく鉢合わせしてしまう。それだけはどんなことがあっても避けなければいけなかった。午後一時までの時間をどうやって過ごそうかと考えた挙句、ジョギングを装って街をぶらつくことを思いついた。もし、知り合いに出会ったとしても一年前の自分はまだ部屋で寝ているのだから誰にも怪しまれないで済むはずだ。
 しばらく街の中を走ってみたが、ここのところの運動不足が祟ったのか太ももの筋肉が痛くなってきた。それに少し空腹を覚えた耕平は近くのコンビニに寄るとパンと牛乳を買って三時頃にタイムマシンを拾うはずの公園に向けて歩き出した。
 時間は七時半をいくらか過ぎてはいたが、公園には人影もまだまばらで犬を連れて散歩をしている人がふたりほど行き来している程度だった。耕平はベンチに腰を下ろすと買ってきたパンを頬張りながら紙パックの牛乳を飲み始めた。
 パンを食べ終わると耕平は一緒に買ってきた文庫本を取り出して読み始めた。まだ四月の初めだというのにほとんど寒さは感じられない、絶好のお花見日和のいい天気だった。これも、いま世界的に騒がれている地球温暖化の影響なのだろうか。などと考えながら本を読み始めて二時間ほど経った頃、耕平はあることに気が付きハッとした。まだ時間があるとしてもいつまでも、ここに止まっていてはまずいことになると思った。もし、家に向かう途中で向こうからやってくる一年前の自分に出くわしでもしたら、とんでもないことになるのは必至だった。一年後の自分と現在の自分が出会ってしまったら、それこそ山本が言っていたとおり、未来である来年に何らかの悪影響を及ぼすかも知れないのだ。だから、こんなところでいつまでもグズグズはしていられなかった。
 確か、あの日は公園に来るまで家から一歩も出ていなかったから先回りして物置にでも潜んでいて、もうひとりの自分がいなくなるのを待とうと考え、急いで家のある方向を目指して歩き出していた。
 幸いにも家に到着するまで知り合いに会うこともなく辿り着くことができた。家の様子を気にしながらも物置に身を隠して、もう一人の耕平が出かけるのを待った。

 それから、さらに三時間半ほど経過した。入口の戸を細目に開けて聞き身を立てていると、玄関の戸が開く音がしてた。ようやく自分が出かけた時間が来たようだった。
 完全に自分がいなくなるのを確認すると、耕平は中に入り居間に掛けてある日めくりカレンダーを見た。母が毎朝欠かさずに日めくりを剥がすことを日課としていたから、平成三十年四月八日という文字が印刷されているのを見て、耕平は何となくホッとした気分になり自分の部屋へと向かった。
机に座るとすぐパソコンの電源を入れブラウザを開き、タイムトラベルに関することを検索し始めたが、何をどんな風に調べたらいいのかわからず困惑していた。
そんな時、ふとインターネットのフリー百科『ウィキペディア』があるのを思い出して立ち上げてみた。これなら正確にはわからないまでも何かしらのヒントでも得られるのではないかと考えたからだった。しかし、どの項目にしてもいくら調べても耕平の知りたいと思っているようなことは何ひとつ見つけることは出来なかった。
それはそうだろうなと思った。なにしろ、タイムマシンはおろかタイムトラベルなど、現代人の誰ひとりとして体験したことがないのだから、そんな記述が載っていたら反対におかしいと思われた。もし、本当にそんなことが載っていたのなら、それは下手なSF作家がでっち上げて書いたいい加減な記事に違いなかった。耕平は、それからなおも自分で思いつく限りの事柄を片っぱしから調べていったが、結局それらの努力もすべてむなしい徒労に終わっていた。
翌日の夕方、仕事を終えた耕平が帰ってくると亜紀子が玄関の前で待っていた。耕平を見つけると亜紀子が近づいてきて、
「ちょっとお話しがあるの。公園に行きましょうよ」と、誘った。
「何ですか。いったい…」耕平が訊くと、
「ここでは、ちよつと…ね。公園に着いたら話すわ。さあ、行きましょう」
と、耕平を急き立てながら亜紀子は花歌まじりに歩き出し、耕平は後ろからついて行く。
公園に到着するとふたりはベンチに腰を下ろし、亜紀子が口を切った。
「あのね。きょう、午後からちよっと時間を頂いて病院へ行ってきたの…」
 亜紀子はめずらしくモジモジしながら、
「あたしね、あの…、出来ちゃったみたいなの…」
「何がですか…」
何を言おうとしているのかわからないまま耕平が尋ねると、亜紀子は顔を真っ赤にして聞こえるか聞こえないくらいの声で言った。
「きょう…、時間をもらって病院に行ってきたの…。そしたら、先生に『おめでとうございます。妊娠五週目ですね』って云われたの。あたし赤ちゃんができたのよ。耕助さん、あなたの子供よ」
「え…」
 耕平は自分の耳を疑った。それは耕平にとってまさに青天の霹靂だった。頭の中が真っ白になって行くのがわかった。そして、それが暗黒の渦のように逆巻きながら耕平自身を飲み込んでいくような感覚にとらわれて、自分の一番奥深いところで何かしら振動のようなものが沸き上がり、心の中で何かが音を立てて崩れ去るのを感じながら、全身を悪寒が走り抜けていった。
 金縛りにでも遭ったように身動きしないでいる耕平に気づいて、亜紀子が振り向いた。「どうしたの、耕平さん。あなた嬉しくないの。あなたの子供よ、あなたの…」
「…………」
 言葉が出なかった。あまりにも唐突な出来事に、耕平は自分自身を見失いかけていた。どうしても言葉が見当たらなかった。それでいて何かを言わなければいけないとわかってはいても何をどう言えばいいのか、まったく思いつかなかった。こんな時、普通の人はなんて言うんだろうと考えてみたが現実は稀にみる異常な出来事であり、耕平の知る限りの常識の範囲をはるかに上回っていた。
 その時、耕平はあることに気づいてますます驚愕した。十ヶ月後といえば耕平が生まれた月に当たるのだ。
『オレの父親がオレ……』
まるで大地がグラグラと揺れだして、いまにも地割れが起こり自分を呑み込んでゆくような恐怖に包まれていた。
「どうしたの…、耕平さん。顔色が真っ青よ、いったいどうしたのよ。どっか具合でも悪いんじゃないの」
 耕平の尋常でない表情に気づいて、腰を浮かして耕平に近づいて行った。
「何でもないんです。ただ、急に云われたもんだから、ちょっと驚いちゃて…」
それだけ言うのが精いっぱいだった。その時ふたりでいろいろと話しをしたが、耕平は自分が何を話しているのか記憶することも出来ないまま、腹話術師の操る人形のごとく口だけ動かしているのに過ぎなった。ただ、自分が動揺していることを亜紀子に気づかれてはならないという観念だけが、耕平の中で強固までに高まっていた。
「さあ、帰りましょうか。おとうさんが待ってるわ。行きましょう」
 亜紀子が立ち上がった。続いて耕平も立ち上がると祖父の待つ家路についた。


第五章 耕平の成すべきこと


      一


 それからの耕平には地獄のような日々が続いていた。あの日、公園から帰ると亜紀子は祖父のもとへ行き、きょう産婦人科病院に行ったこと。その結果、自分が耕平の子供を宿していることなどを告げた。祖父は少し驚いたようすだったが素直に喜んでくれて、亜紀子と結婚して佐々木家の婿養子になってくれとまで言ってくれた。しかし、そんなことができようはずがないことは耕平が一番わかっていた。まして実の母親と結婚するなどということは絶対に許されないことだ。それだけは何としてでも避けなければならかった。
 耕平は、ここ数日間悩みに悩み抜いていた。これが地獄でなかったら、いったい何だろうかとも思われた。こんな時、どうすればいいのだろうか。ふと、山本徹のことが頭に浮かんだ。アイツなら何て言うだろうか。二〇一八年に戻って山本に相談してみようとも考えたが、それは見送ることにした。あの時、必死で自分を引き止めようとした山本に対して、いまさらこんな手前勝手なことで虫のいい相談などできるはずもなかった。
それに、山本が言っていた人間の過ごしてきた歴史の中には『いつどこに、どんな落とし穴があるかわからないんだからな』という、言葉が妙に生々しく思い出された。
『落とし穴?…。そうか…。もしかしたら、これが山本の言っていた「落とし穴」だったのか……』と、耕平は思ったが「後悔先に立たず」の諺どおり、いまとなってはもう手の施しようのない状況であることも、また明白な事実として受け止めなければならなかった。
 あの吉備野という老博士は、初めからこうなることを知っていたのに違いない。確か、人間の運命についての研究をしているとか言っていたが、そうだとしたら自分がこれからどうなるのかも知っているのに違いないと耕平は考えた。来年生まれてくる亜紀子の子供は佐々木耕平に間違いないのだから、これはうかうかしてはいられなかった。
 吉備野氏から直接そのことを聞いてみるのが、もっとも手っ取り早いという結論に達した耕平は、すぐさま元いた時間に戻ってきた。
その晩、みんなが寝静まった時間に起きだすと、吉備野博士に連絡を取るためにマシンの通信用ボタンを長押しした。すると、音もなく耕平の傍らに吉備野が現れた。
「こんばんは。何かご用でしょうかな。佐々木さん」
吉備野が腰を下ろすのを待って、耕平は自分の中で燻ぶっている疑問について尋ね始めた。
「突然呼び出したりして申し訳ありません。二、三お聞きしたいことがありまして来て頂いたのですが…、あなたはぼくの運命というか、もしかしたらぼくにこの先起こることのすべて対して、何から何までわかっていて今回の計画を立てられたのですか…、教えてください」
「あなたには大変申し訳ないことをしたと思っておりますが、そのとおりです。前にも申し上げたと思いますが、あなたは私の研究対象の中でも極めて珍しいタイプのパターンをお待ちになっておられるのです。そのことにつきましては後ほど詳しくご説明いたしますが、あなたが知りたいと思っていらっしゃることは、私も充分わかっているつもりでおります」
「それじゃあ、なぜあの時にこうなることを前もって教えて頂けなかったのですか。前もって注意してもらえたら、こんなことにはならなくて済んだはずなのに…」
 耕平は自分の苛立ちを抑えながら吉備野に詰め寄った。
「それは、出きなかったのです」
「何故ですか。もし、あの時に教えて頂いていたら、こんなことにはならなかったはずです」
「いいですか、佐々木さん。あの時あなたに本当のことを告げたら、確かにあなたが現在抱えているような苦悩からは逃れられたでしょう。しかし、その瞬間にあなたの存在自体が、この時間軸の中から抹消されたかも知れないのですよ。あなたは、それでもよろしかったのですか」
「え…、何ですって、ぼくの存在が抹消………」                             
耕平はあまりにも唐突な言葉に思わず絶句してしまった。
「その通りです。これはあくまでも不確定な要因によるものなので、はっきりとは断言は出きないのですが、時間軸には自己治癒力とでもいうべきものがあると考えられております。これが些細な出来事、つまり歴史的にはさほど影響を及ぼさないことなどには、自然淘汰的に修復されることも考えられているのですが、世界大戦などの大きな出来事や人間の生死、つまり存在などにはあまり関係しないようなのです。ですから、人間ひとりの存在は時間連続体から見れば、大変重要な役割を果たしているということになるわけです。佐々木さんひとりの存在もしかり、時間連続体からすればこれもまた重要な役割を果たしているというわけなのです」
 黙って話を聞いていた耕平が、急に思いついたように吉備野に尋ねた。
「ひとつ伺ってもいいですか…。ひとつだけ教えて頂きたいことかあるのです。もし、ぼくが自分の父親であるなら、本当のぼくの父親はいったい誰なんでしょうか。もしかしたら、あなたはそれをご存じなのではないのですか」
「さあ…、それは私にもわからないのです。ですが、もしあの行為をあなたが拒んでおられたら、確実にこの次元からあなたの存在が消滅してしまったことだけは間違いないと考えられます。ですから、あなたは正当かつご自分を守り抜いた行為を選択されたことになるのだと思うのですよ。私は」
 耕平は、もう何が何だかわけがわからなくなっていた。それでも、何かしら得体の知れないモヤモヤとしたものが心の中で渦巻いているのを抑えることができなかった。
「ですが、先生…」
 この七百年後の未来からやって来た吉備野のことを、初めて先生と呼んでいる自分に気づいて耕平は自分でも少々驚いていた。この老紳士を先生と呼ばせたのはタイムマシンの開発者でもあり、耕平自身も知らない彼の数奇な運命に興味を示して自らの研究対象として、地道な研究を続けてきたこの老科学者に対する畏敬の念だったのかも知れなかった。
「考えれば考えるほど頭の中がめちゃくちゃになって気が狂いそうなんです。何とかしてください。先生…」
 吉備野はしばらく何かを考えていたが、耕平を見てこう言った。
「わかりました。あなたがそれほど苦しんでいるのでしたら、それは私にも一因があることですから一緒に来ていただけますか。実は私も少しばかり気になっていることがありまして、あなたと一緒に考えてみましょう」
「行くって、どこへですか…」
「私の研究所です。さあ、行きましょう」
 そう言いながら吉備野は立ち上がった。つられて耕平も立ち上がると肩に手を触れるようにして片手でコントローラーを操作した。すると、二人はたちまちその場から姿を消していた。


      二


 吉備野の研究所の中は部屋全体が光に満ち満ちていた。その明るさは照明器具などの光源ではなく、壁や天井・床といった全体から放出されているという感覚のもので、その証拠に自分の足元に影か映っていないことを見ても明らかだった。部屋の中央には円筒形の機器が設置されており、計器類が目まぐるしいほどの速さで点滅を繰り返していた。
「これがタイムマシンの本体で、私をあなたのところへ転送したり戻したりしている機器です」
 吉備野はそのマシンを指して耕平に説明した。
「………」
 耕平は珍しそうに部屋を見渡していたが、中央部に置かれた巨体なモニターのようなものに気づいて、
「先生、あれは何ですか」
と、吉備野に尋ねた。
「ああ、あれですか。あれはその年代、つまり時代時代の場所・月・日・時間・分・秒をインプットさえすれば、ここにいても立ち所にその時代に起こった出来事が映し出されるRTSSと云う、時を超えて実際に起こった事象を鑑賞できる装置です」
「え、本当に過去に起きた事件やなんかが見られるんですか」
 まさかそんなことが、とでも言うように尋ねると、
「そうです。佐々木さん、何か見たいものがおありですか。もし、よかったら何かお望みのものがありましたら、お見せしましょうか。何がお望みですか?」
「本当に見せて頂けるのでしたら、古生代の石炭紀と呼ばれている時代の映像を見せてください。石炭紀の日本がどうなっていたのか、一度ぜひ見てみたいと思っていたんです」
「そうですか。よろしい、それではお見せいたしましよう」
 吉備野は手早く機器類の操作に入り、巨大モニターには映像が映し出され始めた。すると、
モニターが作動し始めると周囲の空間に広大な原野のような風景が映し出された。耕平の知っている映像は二次元映像なのだが、そこに現れたものは三次元化された立体映像だった。遥か遠くのほうには火山が噴煙を上げているのが見て取れた。吉備野がズームアップすると、耕平が見たこともないような巨木が一面に繁茂していて、底辺部は湿地帯と見えて多量の水分が含まれていて、ところどころに水溜まりができており、シダ植物のような下草が生い茂っている。その上を耕平の知っているものよりも二〇倍はあろうかと思われるトンボが群れを成して飛んでいるのが見えた。
 初めて見る映像に、度肝を抜かれたように見惚れている耕平に吉備野は言った。
「いかがです。ご満足いただけましたかな。お見せした映像は太古の映像ですが、これはすでに過ぎ去った時間の残像などではありません。時間連続体の中では現在でもこの時代の時空間にいまでも存在しているのです」
「……………」
「あなたも、すでに経験されたはずではありませんか。タイムマシンを拾われた時間帯に戻ってご自分の部屋に来られたし、現在あなたのおられるこの年代にしたところで、あなたが実際に住んでおられた二十一世紀から見ればすでに過ぎ去った年代なのですよ。これがあなたには残像に見えますか」
 言われてみれば、確かにその通りだった。しかし、いま見た石炭紀の森林や、その時代や年代ごとにアンモナイトやら恐竜、ネアンデルタール人やクロマニヨン人が現存して生きていると言うこと自体が、耕平には信じられないという思いでいっぱいだった。
「さて、余談はこれぐらいにして、そろそろ本題に入りましょうか」
 吉備野氏は,少し考え込むような仕草を見せてから、
「先ほど、佐々木さんがお尋ねの件ですが、現時点で亜紀子さんが宿しておられるお子さんは、間違いなく佐々木耕平さんあなたなのですが、現在ここにおられる佐々木さんの父親も佐々木さんあなたなのです。この問題を何とか解き明かそうとして、私は私なりに手を尽くして調べては見たのですが、どうしても核心に迫るところまで辿りつくことができないのです」
 何をどう聞けばいいのかさえ、わけがわからなくなり黙り込んでいる耕平を他所に、
「ある時、私はひとつの仮説を立ててみました。佐々木耕平さんの人生の中にパラレルワールドに抜ける分岐点のようなものが、存在していたのではないかと私は考えたのです。しかし、パラレルワールドそのものの実体が未だに具象化されておりません。
 時間軸、つまり時間の縦の流れと時間連続体、これは過去から現在・未来へと流れている時間ですが、私たちに認識できているのは、実はここまでなのです。時間軸は〝揺るぎない物〟としての確固たる存在なのです。しかし、ここにも私たちには計り知ることのできない何かが存在していることだけは確かなようなのです。
現在でもあらゆる方法、それこそ全精力を尽くして探ってはいるのですが、結局は何も得ることができなかったというのが実情でもあります。ですが、確かに佐々木さんの出生については何かしらの謎めいた部分があるのはわかるのですが、それが一体何であるのか私の長年の研究をもってしても一向に認識することさえできないでいるのです」
そこで吉備野は軽くため息をついた。
「先生のお話しはあまりに難しすぎて、ぼくにはわからない部分のほうが多いのですが…」
 耕平は自分が蟻地獄から必死に逃れようとしている蟻のごとく、どうしようもない焦燥感に囚われながら吉備野に聞いた。
「母のほうは、どうなのでしょうか…」
「お母さまと申されますと……」
 吉備野は怪訝そうな顔で尋ねた。
「母が生まれた時代には、何か変わったことがなかったかと思いまして…」
「ああ、それなら別に何もなかったと思われますが、それが何か…」
「いや、それならいいんです。どうも、そのパラレルワールトというのが、ぼくの中では完全に理解できてない部分があるのですが、その存在を確かめる手段っていうのは本当にないものなのでしょうか」
「そう云われると、私といたしましても非常に心苦しいのですが、パラレルワールトは何分専門外のことでもありますし、専門に研究されている方々の間でも大変苦慮されているところでもあるのです。パラレル、すなわち〝並行あるいは多元〟と呼ばれている宇宙も、ビッグ・バンとともに、われわれの存在している宇宙と並行した形で生み出されたと考えられています。その実態を解き明かすことは、われわれのテクノロジーを以ってしても未だ立証することは不可能に近いと思って頂いても結構です。
パラレルワールドは三次元と四世次元空間の中間、つまり三・五次元とでも云うべきところに存在していると考えられています。この世界はとても不安定なものとして捉えられておりますが、並行世界という概念すらなかった時代から不思議な世界を見てきた話として『浦島太郎』伝説のようなものが、日本でも古くから伝わる伝承や民話として語り継がれてきたのではないかと私は考えています」
 それから吉備野は三時間ばかりかけて、自分の研究について事細かく説明してくれた。耕平も吉備野の講話を聞きもらすまいとして熱心に耳を傾けている。そんな中、何を思ったのか吉備野は立ち上がると、
「しばらく待っていてください。いま飲み物でもお持ちさせますから」
吉備野が部屋を出て行ってから間もなく、若い女性が飲み物を持って部屋に入ってきた。「イラッシャイマセ。ドウゾ、オ召シアガリクダサイ」
彼女は、耕平たちが通常使っている日本語とは少しニュアンスの違う言葉で挨拶をした。
「はあ、どうもありがとうございます」
「イマ少シオ待チクダサイ。間モナクジイガ来マスノデ」
何ともタドタドしい変な日本語だった。彼女が部屋を出ていくのと前後して吉備野が戻って来た。
「お待たせしました。さあ、どうぞお召し上がりください。その飲み物は、あなたのいた年代ではまだ作られていない飲み物で栄養価も非常に高いので、どうぞ遠慮なく召し上がってください」
 勧められるままに耕平はグラスに手を伸ばすと、口もとに持ってくると何とも言えない香りが鼻腔いっぱいに広がって行った。口に含むとこれまで一度も味わったことのない奥深い味わいかあった。
「いかがですかな。お味のほうは」
「はい、すごく美味しいです。何という飲み物ですか。これは」
「お気に入られましたか。それは火星で採取された苔の一種で、探検隊の隊員が採取して地球に持ち帰り培養したのが始まりでした。それを生成して作られたのがその飲み物なのです。しかも、地球では考えられないほどの栄養素が、その一杯に含まれているというのですから、まさしく驚きのひと言に尽きます」
吉備野は耕平の顔を見て満足そうな表情で、
「先ほどそれをお持ちしたのは、私の孫娘ですが何か粗相はなかったでしょうか。あれまだ近古代語にはなれておりませんので、心配しておりましたが…」
 この時代では、二一世紀のことを近古代に分類しているのかと耕平は思いながら、
「いえ、大丈夫です。よくわかりましたから」と、答えた。
「それは何よりでした。さて、先ほどの続きに入りましょうか……」
 それから吉備野は耕平の運命談議に戻ると、あらゆる角度からふたりの抱いている疑問に迫ろうという試みに没頭して行ったが、これもまた核心に触れることもできないまま、耕平と吉備野の周りを時間だけが無情に過ぎ去って行った。
それから間もなく、耕平は失望に打ちのめされるような思いで、吉備野の元から一九八九年の世界へと帰って行った。
 あまりに落ち込んでいる耕平を見るに見かねて、吉備野は何かわかり次第知らせてくれるという約束をしてくれたのが、耕平にとってはたったひとつの希望ではあったが……。


      三


それから、さらに三ヶ月が経過していた。その後も亜紀子は体内にやがて佐々木耕平として生まれてくる生命を宿しながら、何事もなく順調な日常性生活を送っていたが、耕平にしてみればその一日一日が地獄のような苦しみを味わって生きていたといっても決して過言ではなかった。時間が経つにつれ、それが次第に彼の中で大いなる不安となって、自分でもどうしたらいいのかわからず茫然自失の状態に陥っていた。
このままここにいたら、やがて生まれてくるであろう佐々木耕平を自分の手で抱き上げている姿を想像すると、突然発狂してしまうのではないかという恐怖さえ覚えるのだった。このままではいられない。何とかしなければいけない。そんな思いが募る日々が続く中で、このままここでじっとしているわけにはいかなかった。かといって、どうすれば一番いいのか見当もつかない自分に苛立たしさを感じながら、もしこの時代から自分がいなくなったらどうなるのだろうと考えてみた。子供ができたことで、亜紀子も祖父もあんなに喜んでいるのに、それはあまりにも残酷すぎると思えた。それにやがて生まれてくる自分を抱えながら生きて行かなければならない亜紀子を考えると居た堪れない思いがした。
子供ひとりを育てるには金が必要だが、子供が高校卒業するまでにかかる費用は、養育費まで含めてどれくらい掛かるのか耕平には予想もつかなかった。亜紀子の生活費と合わせて五百万くらいか、いや、一千万円くらいかも知れない。もしかしたら、それ以上かも知れなかった。そんな大金は、いまの耕平にはたとえ逆立ちをしたとしてもどうすることも出来ないほどの金額なのだ。そこまで考えると、耕平の思考回路はショート寸前にまで追い詰められていた。
それはどう考えたとしても、不可能か少なくともそれに近いものであることだけは確かだった。だから、それ以上はいくら自問自答を繰り返したところで、何ひとつとして回答など得られるものではないことを耕平自身もわかっていた。しかし、それでも何とかしなければという思いのほうが先に立っていた。
それでは『どうすればいいのか』という問いに対して、『どうすることも出来ない』という答えが同時に沸き上がってきて耕平を苦しませていた。
もし、自分が突然この時代から姿を消してしまったとしたら、亜紀子はどうするんだろうと考えた時、耕平はあることに気が付いてハッとした。すべての真相が鮮明に見えてきた。
『そうか。そうだったのか……』
どうして自分には父親がいないのか。という疑問。そして父が若い頃に死んだというのなら、母とふたりで撮った写真が残っていたとしても不思議ではないにも拘わらず、位牌や墓さえ存在しないのは何故だろうかという、耕平が少年の頃から長い間抱き続けてきた疑問が一気に解けたのだ。それは暗黒の闇の中に隠されていた薄汚れた氷塊のごとく、白日の下に晒されると忽ち蒸発したかのように消え去って行くのが耕平にもわかった。
 やはり自分の父は自分だった。と、いう現実に少なからず戸惑いもあったが、一刻の猶予も残されていないことを悟った耕平は、出来る限り早い時期にこの時代から姿を消そうと決心していた。そのためには、まず佐々木耕平という人物がこの時代に存在したという物的証拠は絶対に残してはならないこと。わずかなもので残せば『未来である二〇〇〇年代にどんな悪影響を及ぼすかわからない』と、山本から口が酸っぱくなるほど言われていたからだった。
 亜紀子とふたりで写した写真がないことは、子供の頃の記憶を辿るまでもなく存在しないことは確かだから、まずこれは大丈夫だった。あとは近くの本屋で買ったSFの文庫本が五・六冊だけだから、始末さえしてしまえばこれもOKだ。あとは、やがて生まれてくる自分に掛かる養育費と、亜紀子が仕事をしないでもしばらくは暮らして行けるだけの生活費用だった。しかし、これが一番の難問だった。人間には出きることと、出きないことのふた通りしかないのである。
 時間さえ賭ければ金を貯めるなり、稼ぐなりして手に入れることも可能だろうが、耕平には金を得るための時間さえなかったのだから、もうこうなったら神仏に頼るかギャンブルしか方法が浮かばなかった。
『ギャンブル……』
 このあいだ見たばかりの、ここに来るときに図書館でコピーしてきた新聞記事を思い出していた。
『け、競馬、競馬だ…』
 耕平は自分でも驚くほどの速さで押し入れの襖を開けると、中から新聞のコピーが詰まったカバンを引きずり出すと、紙封筒を取り出し畳の上に一気にブチ撒けた。その中から一九八九年十一月十二日に、京都競馬場で開催された「第十四回エリザベス女王杯」のコピーを見つけ出して食い入るように読んだ。その記事によると、一着に入ったサンドピアリスという馬は、二〇番人気という人気最下位の馬だった。だからこそ、単勝で四三〇・六倍などという、信じられないような高配当になったのだろう。記事を読み進めて行くうちに、耕平は自分でもわけのわからない興奮に浸っていることに気づいた。
「これだ…。これなら絶対行けるぞ」
 耕平は、思わず小さな叫び声をあげていた。十一月と言えば、まだ四ヶ月も先のことだった。耕平は急いでカバンの底のほうに仕舞って置いた、この年代に使える山本から借りてきた紙幣の入った封筒を取り出した。いくら残っているのか気になって数えてみた。まだ、十五万とちょっと残っていた。
『配当が四三〇・六倍だから、これだけあれば何とかなるんだ……』
 ペンを取り出すと、耕平は必死に計算を始めた。
『よし、これだけあれば何とかなりそうだ…』
そう思うと、耕平はますます気持ちか高ぶっていくのを感じた。
『これから、四ヶ月間待てばいいか…』
そんな考えも浮かんだが、あまり悠長なことも言っていられなかった。たとえ短い期間とはいえ少しでも過去の歴史に干渉した以上、いつまでもここに止まってはいられないという考えのほうが優先していた。そして、これから直接一九八九年十一月十二日に行ってみようと思い立った。
 取り敢えずきちんとした身なりに着替えると耕平は、
『百万円の札束の厚さは確か、一センチぐらいだったかな…,二億くらい入るカバンかなんかを買わなくっちゃしょうがないかな』
そんなことを考えながら、デパートのカバン売り場へ向かっていた。そして、二億円はらくに入りそうなスーツケースを買い込むと十一月十ニ日へ向けて飛んでいた。
 競馬場は相変わらず人でごった返していた。もちろん、耕平は順を追って各レース毎に買うつもりでいた。結果はわかっているのでこれほど確かなことはないのだから、赤子の手を捻るより簡単なことでもあった。
それをメーンレースの「エリザベス女王杯」に賭ければ、間違いなく二億などという金額はあっという間に集まるに違いなかった。
最初に耕平が買ったのは四レース目だったが、これに三六〇円の配当がついていた。これに持ち金全部を注ぎ込むと、払い戻し金が四千五十万円になって戻ってきた。もう、これだけあれば余計なレースは買う必要がなくなっていた。あとはメーンの「エリザベス女王杯」まで待って、五万円ほど賭ければ軽く二億は超すはずだから、これで大丈夫だと耕平はホッとひと安心する思いだった。
 しかし、世の中には競馬や競輪・競艇といったギャンブルに、何百万・何千万という金を注ぎ込んで身を持ち崩して人もいるという人もいるのひとつの現実だったから、自分だけ大金を独り占めするというのも、いささか後ろめたいような感覚に襲われたが、これもすでに確定された歴史なのだから、後々の歴史には直接の影響を与えるようなことはないはずだ。と、いうのも、耕平が自分のやっている行動に対して、正当化しようとする一つの言い訳に過ぎないことは本人が一番わかっていた。
 こうして、濡れ手で泡とでもいうべき手段でまんまと二億五千数百万という大金を手中した耕平は、大金の詰まったスーツケースを手に競馬場を出て駅前に向かうとホテルに部屋を取った。ここにやって来たのは、この先自分がどのように行動すれば最良の道なのかを考えることと、もし自分が突然姿を消した場合に亜紀子はどうするのかということとだったが、それは子供の頃の自分を思い返してみても漠然とはわかっていた。耕平の子供の頃に『自分の父親はどうしていないの』という問いに対し、母はただひと言『お前が生まれる前に死んだ』とだけ答えるのが常だった。そうやって母は、やり場のない哀しみをひと言も口には出さず自分の内に秘めながら、ここまでひたすらひたすら生きて来たのだろうと耕平は思った。だから、これから生まれてくる耕平自身にも、また同じ答えを繰り返すのも確かだろう。それなら祖父の場合は自分がいなくなったとについて、どんな風に感じていたのだろうか。ところが、そのことについては耕平の中にまったくそれに関する記憶は残っていないのだった。これはただ単に、男女の違いだけで済ませてしまってもいいものなのか、耕平にはどうしてもその回答は見いだせそうにもなかった。
 とにかく、この競馬で得た金の中から亜紀子には二億五千万は渡してやりたかった。最初は二億円を目標にしていたのだが、運がよく五千万ほど余分の収穫があったのだから喜ばしい限りであった。後の残りは、山本から借りた分に利息をつけて返してやろうと考えていた。それから耕平はホテルを出ると、銀行に行って貸金庫を借りて金の詰まったスーツケースを預けて四ヵ月後の世界へ帰って行った。


      四


 それからまたひと月ほど過ぎ去り、耕平はいつもの通り朝になると祖父の会社に通勤していた。与えられた仕事をこなし、退社時間になると何もなければ祖父と共に家に帰ってくる。そんな、ごく普通の日常生活を送る日々が続いていた。
 ただ、耕平は、ここのところある種の不安に苛まされていた。夜寝ていてもほとんど毎晩のように悪夢にうなされるのだった。驚いて起き上がると、体中が汗でピッショリと濡れていることもしばしばだった。それでいて夢の内容などは、思い出そうとしても何ひとつとして覚えていないのである。それでもひとつだけはっきりしているのは、何かはわからないが得体の知れない〝何か〟に追われている夢であることだけは確かだった。誰かに相談したくても、この年代には相談したくても相談に乗ってくれるような友達もいないのだ。こんな時、山本でもいてくれたら、どんなに心強いか知れないのだが、それも出来ない現状に耕平は辟易していた。この世界に存在していることへの限界さえ感じていた。
 もう、もとの世界に帰ろうと思った。しかし、二〇一八年に戻るのには少しばかり抵抗があった。何故なら、こんな結果になってしまった以上、母親にどんな顔をして接したらいいのかまるで自信がなかったからだ。それに、もし山本にいまの状況を知らせたら、間違いなく逆上して怒り出しかねないからだった。
それなら二十七年後はどうだろうかと思った。タイムマシンの動力源が切れた場合を想定した年代なら、山本も五十三歳か四歳になっているはずだから、そうむやみに怒ったりしないだろうと耕平は考えたのだった。
こうして、ようやく二〇四四年に行く決心を固めた耕平は、その晩、亜紀子に宛てた手紙をしたためていた。


佐々木亜紀子 様

    亜紀子さん。こんなことを書けた義理ではありませんが、徒然お別れを
しなければならなくなりました。どうぞ僕のわがままをお許しください。
 実は、僕自身も少し戸惑っているのですが、どうしても行かなけれはな
らないところができてしまいました。もうここには帰って来れないかとも
思っています。
 僕は決して亜紀子さんのことを嫌いになってこんなことを書いているの
ではありません。むしろ好きです。大好きなのです。愛していると云って
もあなたには信じてもらえないかも知れませんが、これには止むに已まれ
い事情があるのです。どうか、僕の身勝手なわがままをお許しください.
ここに、生まれてくる子供の養育費と亜紀子さんの生活していける分のお
金が用意してあります。
 この金は決して怪しい金ではありませんので、どうぞ安心してお使いく
ださい。身勝手な僕の行為は、いくら謝ったところで到底お許し頂けるよ
うなものではありません。
 本当に申し訳ありません。心からお詫びいたします。それでは、これで
お別れいたしたいと思いますます。さようなら。
坂本耕助

 耕平は、手紙を書き終えた。熱いものが胸に込み上げて来るのを感じながら、わけもなく涙がしたたり落ちてくるのを抑えることができなかった。
 もっと多くのことを書き残したいと思っていたが、もう、それ以上のことは言葉にならなかった。出来るだけ過去において、これから生まれてくる自分や亜紀子に影響が与えるような言葉は避けなければならないと考えたからだった。
 次の日から耕平は、この世界に別れを告げるための準備に取りかかっていた。身の回りの整理と言っても特別なこともなかったが、自分が少しの間でもここにいたという痕跡を残さないように気を配っていた。自分がしていることを亜紀子や祖父に気づかれないように、十分な配慮を要することでもあった。
 それから、また数日が過ぎて耕平はすべてのやるべきことを終えた。金曜日の午後、用事があるという口実で時間を取って、銀行の貸金庫からスーツケースを取り出し、家に持ち帰り押し入れに仕舞ってから会社にもどって行った。
 日曜日になった。その日の耕平は朝食を済ませるとすぐ部屋に戻ると、金の詰まったスーツケースと亜紀子に宛てた手紙を部屋の隅に置くと、自分の荷物の入ったカバンを窓から外に出した。
 しばらくしてから居間に行くと新聞を読んでいた祖父に、
「これからちょっと友達に会う約束があるので、出かけてきます」と、ひと言告げて外に出た。物置に入れておいた自転車を取り出すと、耕平はゆっくりと公園に向かって走り出した。
 昼近くになっていた。耕平はタイムマシンを拾ったあたりまで来ると、マシンの時間合わせに取りかかった。どうせ行くなら、やはり暖かな春先にしようと思った。
 二〇四四年四月十日にセットし終えて、耕平はホッとひと息ついた。公園を見渡すとさまざまなことが耕平の脳裏に浮かび上がってきた。思い返せばこれまでに起こったことのすべては、この公園でタイムマシンを拾ったことから始まったのだった。だけど、もうそんなことはどうでもいいと思っていた。これから、未来の山本に会っていままでさんざん迷惑をかけたことを詫びて、彼から借りた金を返したら誰も知らない時代にでも行って、ひっそりと暮らそうと耕平はひそかに心を決めていた。



最終章 二〇四四年 春


        一


その日も、あの時と同じように爽やかな風が吹きすぎて行き、空にはまばゆいばかりの太陽が輝いていた。
耕平が一九九〇年の世界に旅立ってから、すでに二十七年という歳月が過ぎ去っていた。
二〇四四年、春。東北の一地方都市でもあるこの街にも、また、あの季節が廻ってきた。山本徹は、この時期になると毎週土曜日と日曜日には公園にやつてきて、耕平が戻っては来ないかと当てもなく公園内を散策するのが長い間の習慣になっていた。そして、山本自身もつい一ヶ月ほど前に五十五歳を迎えたばかりだった。
四月のとある日曜日、今日もまた公園のベンチに座りひとり物想いに耽っていた。山本は、ここ数年来自分の上に伸し掛かってくる、どうしようもない重圧感のようなものに苛まれていた。
何故、あの時、耕平を強引に引き止めるか、自分も一緒について行ってやらなかったのかという、断腸の思いに苦しめられていた。しかし、あの時はああするより仕方がなったし、できる限りの協力も惜しまなかったつもりでいた。それなのに、これほど罪悪感に打ちのめされている自分に、たまらなく腹立たしさを感じていた。しかし、耕平の身に何かが起こったことは確かだろう。やはり、タイムマシンの動力源が切れたのか。いや、それはないな。と、山本は思った。もし、タイムマシンのエネルギーが切れたのであれば、耕平が旅立ったすぐ後に五十四歳になった耕平が現れるはずだったから、これは間違いなく彼の身に重大な何かが持ち上がったと見ていいだろう。
それにしても二十七年と言えば、すごく長い年月のように感じられるかも知れないが山本にしてみれば、あっという間に過ぎたようにも思えた。そして、それは山本が自分ひとりで仕舞い込んできた、耕平とタイムマシンに関する秘密を誰にも漏らすことなく、黙々と過ごしてきた山本自身のささやかな歴史でもあった。
耕平は、どこでどうしているのか。と、山本は改めて考えていた。耕平から『自分が戻らない時は、時々母親のところに顔を出してやってほしい』と、頼まれたこともしっかり守り、時間が許すかぎり耕平の母親のところへ通い続け、そのうち帰ってくるから気を落とさないようにと励ましもした。しかし、日が経つに連れその慰めも徐々に虚しいものと化していったことも事実だった。その母親も耕平がいなくなってから二十七年が過ぎ去った現在、すでに七十を過ぎてはいたが昔と少しも変わらない美しさを保っていた。
山本が時々訪ねていくと、まるでわが子が帰ってきたかのように喜んで迎えてくれた。耕平が姿を消したばかりの頃は、見るも無残なまでに落ち込んでいたが、それから徐々にではあるが元気を取り戻していくのがわかり、山本も安堵に胸を撫でおろしたものだった。当初は、このまま病気にでもなって、もし、万が一のことでもあったら耕平に顔向けが出来なくなることを恐れていた。そんな山本の心配はただの取り越し苦労に終わり、耕平の母は元のように元気で明るい姿を取り戻していった。
この地方都市でさえ、二十七年の間には都市の再開発が幾度となく行われ、駅の周辺地域を中心に超高層ビルが林立するようになっていた。そして、最近では、この周辺地域にまで高層マンションやホテルなどが立ち並ぶようになっており、耕平がいた頃の面影はまったくといっていいほど見られなくなっていた。昔のままの姿で残っているものと言えば、この公園と神社仏閣の類だけになっていた。
さらに驚くべきことには、ここ数年来の技術革新により、コピューターなどの人工知能の分野でも高性能化が進み、一度プログラミングされたものはコンピューター自体が独自の判断で、すべてを処理することが出来るようになったことだった。これにより、人間が機械を管理するという労力が、それまでに費やされてきた労力を半減することを可能にした。
しかし、社会的には賛否両論が巻き起こっていた。SF小説や映画で扱われているような、機械が人間に取って代わって社会を乗っ取られでもしたら大変だ。と、いうのが反対派の意見だったが、大半の者は便利になったし仕事も楽になったと喜んでいる者のほうが多かった。
こんな時代になったことを、もちろん耕平は知らないだろうが、知ったところでアイツのことだから、どうせ驚きもしないだろうと山本は思った。それにしても、耕平はどこで何をしていのだろうと、山本はまたひとつため気を着いた。毎週ひまを見つけては、この公園に通いつめている山本には自分自身でさえ気がつかない、心の奥のもっとも深い部分では半分以上は諦めているのかも知れなかったが、表面的にはそんなことは絶対に受け入れられないことのひとつでもあった。
人間という生き物は、他人のことをいくら親身になって同情したり、大切に思っていたとしても、結局のところ最終的には自分のことや自分の家族のことを、やはり優先順位の筆頭に持ってくるのが世の常なのだが、山本の場合は少し違っていた。まず寝ても覚めても耕平のことが頭から離れず、雨の日も風の日も一回たりとも休まず公園にやって来るのであった。
ある時、業を煮やした妻が山本に問いただした。
「一体あなたは耕平さんとわたしとどっちが大事なの。いい加減にしてよ」
 そんな時、山本はいつもこう言うのであった。
「決まってるだろう。お前に决まってるじゃないか。バカ」
 と、いうよりも早く、そそくさと出かけて行くのだった。
 そんなことをいいながらも、山本の頭の中は耕平のことで一杯だった。なぜ、そこまでして公園にやって来るのか正確な理由は、山本の中でもそれ自体がまるで風化した遺跡のように、薄ぼんやりとしたものに変化しつつあった。ただ、ここに来て耕平が戻ってくるのを待つという行為こそ、大袈裟な言葉で表すならば山本に残された最後の砦のようなものになっていた。そして、その試練ともいうべきものこそが、紛れもなく生に対するこれ以上は譲れないという、山本徹個人のささやかな抵抗なのかも知れなかった。
 そんな中、事情を知らない世間の目は冷ややかであり、好奇の目を持って見ている者も多かった。公園通いを始めてしばらく経った頃、知り合いからよくこんなことを聞かれたものだった。
「山本さん。貴方、ここんところ毎週公園に通い詰めているようですが、いったい何をしてらっしゃるんですか?」
 すると、山本は決まってこう答えるのだった。
「はあ、別に何もしていません。ただ、待っているだけです。友だちが来るのを…」
 それ以上のことは何も話さず、公園内を散策したりベンチに座ったまま、黙々と待ち続ける山本に周囲の人々間たちはますます好奇の目を向けたが、昔から『人の噂も七十五日』というくらいで、そのうち山本の奇行のことなど人々の記憶の片隅に押しやられて行った。
 そして、今日も一日が終わろうとしていた。そろそろ帰ろうとして腰を上げた時だった。
「あの…、山本…徹さんでしょうか…」
誰かが声をかけてきた。
「はい、そうですが、どなたですかな…」
声のするほうを振り向いた山本は、自分の顔から見る見るうちに血の気が退いて行くのを感じた。山本は、一瞬まばたきをしてから素っ頓狂な声を張り上げていた。
「こ…、耕平…」
 なんと、そこに立っていたのは二十七年間待ち続けた佐々木耕平だった。
「こ、耕平…。本当にお前なのか…」
 山本は、豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をして聞き返した。
「ああ、オレだよ。二十七年振りになるのかな…、こっちでは」
「お、お前…。ほ、本当に…、佐々木…、耕平なんだな…。幽霊じゃないよな…」
 山本は、まだ信じられなという表情で聞き返した。   
「間違いなく、オレだって…。幽霊でも妖怪でもない。正真正銘の佐々木耕平だから、安心しなよ。ほら、ちゃんと足だってあるんだから…
 と、いいながら、耕平は山本の隣に腰をおろした。
「しかし、この街並みにしても山本にしても、すっかり変わっちまったんで少しばかり驚いていたところだよ。まさか、お前が白髪混じりのおっさんになっていようとは考えてもいなかっし、たかだか二十七年なんて気軽に考えていたけど、これが時の流れってものなんだな、きっと…。
それにしても、さっきお前を見つけたとき、声をかけたらいいものかどうか、一瞬とまどいを感じて迷ってたんだ。いや、こんなにも白髪のふえた山本なんて想像もしてなかったから……」
 耕平は感慨深げにあたりを見回した。すると、山本もようやく落ち着きを取りもどしたのか、耕平の姿をまじまじと見つめながら話しだした。
「まさか、お前が昔と少しも変わらない姿で現れるとは思ってもいなかったから、少し驚いただけだけど…。でも、どうしてもう少し早く帰ってきてくれなかったんだよ。おふくろさんもオレも、どれだけ心配していたかお前にはわからないだろうが…。そんなことより、早くおふくろさんことに行って顔を見せてやれ。おふくろさん喜ぶぞ。きっと」
「う、うん…」
「どうした。早く行ってやれよ。早く、早く…」
 山本は急かせたが、耕平はいっこうに動こうとはしなかった。
「実はな。山本……。実は、オレおふくろには逢えない…。いや、逢わないほうがいいんだよ…」
 浩平は、苦しそうな表情であえぐように云った。
「いったい、どうしたんだ。お前らしくもない。あれほど、おふくろさんのことを心配しいたお前が…。だからオレは、お前に頼まれたとおり時々は顔を出して、おふくろさんを見守ってきたんだぞ。それが、何を言ってるんだ。いまさら、逢えないだの逢わないほうがいいだのと、どうしようってんだよ。この期に及んで…、ええ、耕平よ」
 確かに山本が苛立っているのが耕平にもわかった。うつむき加減になったまま、しばらく何ごとか思い悩んでいた耕平だったが、急に山本のほうに向きなおった。
「いままで、お前にばかり心配かけて本当にすまなかった。お前にだけはオレが体験してきたことをすべて話すから聞いてくれるか…」
 山本は黙ってうなずいた。
「話すといっても、この辺で話すわけにもいかないから、そこらのホテルでも借りるから一緒にきてくれないか。お前に渡すものもあるしな…」
 耕平がひどく苦しんでいる様子をみて、『これは尋常な話しではないな』と、悟った山本は耕平の誘いを受入れることにして、この近くに最近出来たばかりのホテルへ向けて歩きだした。 


       二


 二十四階建ての高層ホテルに着くと、山本徹は最上階の部屋をキープした。さすがに最上階というだけあって、カーテンを開ける市内を一望することができた。ふたりは窓際にイスを寄せると向かい会って腰を下ろした。
「どれ、お前の体験談とやらを聞こうじゃないか」
 と、山本はさっそく話とを切り出した
「うん、わかった。その前にお前に渡すものがあるんだ…」
 と、いいながら、耕平はカバンの中から新聞紙で無造作に包装した、小さな包みを取り出して山本の前に置いた。
「なんだ、これ」
 包みを開けると、中から札束が五つほど出てきた。
「五百万ある。お前に借りた金と、いままで借りてた分の利息だ。取っといてくれ。オレは、もう必要ないからな…」
「ど、どうしたんだ。これは…、オレが貸したのはたかだか二〇万くらいのものだぞ。それに、こんなにいらないよ」
 山本は急いで新聞紙に包み直すと耕平のほうに押し返してよこした。
「それにしても、どうしたんだ。こんな大金を…」
「お金なんて、あって困るものでもないし遠慮しないで取っときなよ。べつに怪しい金じゃないから、安心して使っていいよ。あとで詳しく話すけど、たまたまというか。偶然というか。とにかくラッキーだったんだ」
 耕平は改めて包みを山本の前に戻し、右手を膝の上にのせると顎に拳を当てながら話しだした。
「え~と、何から話そうか…、あ、そうそう、最初から話すとオレが行ったのは、一九九〇年ではなく一九八九年だったんだ。そこでもマシンの時間制御が、目的よりもきっかり一年分ズレ込んでいたんで、もう一度一九九〇年に飛ぼうと思ったんだけど、せっかく一年前に来たんだから家のようすを調べてみようとウロウロしているうちに、横丁の角のところで女の子にぶつかりそうになって、除けようとして自転車ごと転んでしまって、肘のところを擦りむいてしまったんだ。そして、倒れた自転車を起こしていた女の子は、まだ結婚する前のオレのおふくろだったんだ……」
 そこまで話すと、耕平は苦しそうにため息をついた。
「それで、どうした…」
 黙って耕平の話を聞いていた山本がひと言だけ聞いてきた、
 それから自分の家に連れて行かれたこと、そこで死んだ祖父に出逢ったことなど、自分が体験してきた一連の出来事を話し終えた。そこまで耕平の話を聞いていた山本が突然、
「ちょっと待ってくれよ…。たしか、お前は行方知れずの父親のことを調べに行ったんだよな。それなのにお前の話を聞いていると、父親の「ち」の字も出てこない。いったい、お前の親父さんの消息はどうなったのか、そこんところをもっと詳しく聞かせてもらわないと、二十七年間悶々として過ごしてきたオレの気持ちはどうなるんだよ。お前にわかるか。オレの気持ちが、ええ、耕平よ」
 山本は、そこまで一気にまくしたてると、深いため息をついて耕平の次のひと言を待った。すると、耕平は表情を少し強張らせながらおもむろに話し出した。
「これから話すことをお前にするには、オレが向こうに行った頃より、もう少し時間が経って年代にしたほうがいいと思ったんだ。最初、そう向こうの時代から間もない時期に戻ろうとも考えたんだが、いまから話そうとしていることをその頃の山本に話したら、お前が激怒するだろうなと思って、この時代を選んだんだ……」
「オレが怒るって…、それはどういうことなんだよ。耕平」
 山本はすかさず聞き返してきた。
「怒らないで聞いてくれよ、山本。父親は確かにいたよ。父親は、オレの父親は……、つまりオレだったんだ……」
「お前の父親が、お前…。それって、一体どういう意味なんだよ…」
 突拍子もない言葉を聞かされて、山本は思わず聞き返した。
「本当に怒らないで聞いてくれ。一九八九年に行って間もなく、オレは若い頃のおふくろと已むに已まれぬ事情もあって関係を持ってしまったんだ。それで、結果的にオレが生まれることになった…」
 耕平はそこまで話すと口を噤んでしまった。山本もまたひと言も口にしないまま、ふたりの間にしばらく沈黙が続いた。
「だから、あれほど過去に干渉してはいけないと云ったんだぞ。それなのに、なんて大それたことをしてくれたんだよ。お前は…」
 山本は自分が忠告したことに耳を貸さずに勝手な行動をとって、歴史の流れに多少なりとも汚点を残してしまった耕平に、腹立たしさを感じたように喚き散らした。
「とにかく、お前はとんでもないことを仕出かしたことには間違いないんだから、どうするんだよ。これから…、ほんとに困ったヤツだな…。お前ってヤツは」
 山本に言われるまでもなく、自分でも深い後悔の念を抱いていたし、このまま何もなかったような顔をして過ごそうとも思っていなかった。山本が怒ることも痛いほどわかっていたが、どうすれば山本徹の心の高ぶりを抑えることができるのか、皆無に等しいことも知っていた。
「なあ、山本。前に一度お前に、このタイムマシンの開発者のことを話したことがあったよな…」
 耕平は意を決したように話を切り替えた。
「ん、そんなことも聞いたような気もするな…」
不機嫌そうな表情を変えずに山本は答えた。
「その人は吉備野博士といって、七百年後の未来からやってきた科学者だったんだ」
 耕平の話に少しは気を引かれるものがあったのか、山本は黙って耳を傾けていた。
「で、その吉備野先生は人間の運命っていうか、そういうことを研究してこられた人で、長年の研究の末にタイムマシンの開発に成功され、研究を進めて行くうちにオレの運命に興味を持たれたらしい…」
 山本はポケットから手帳を取り出し、何やら熱心にメモを取り始めた。
「そんで、実際に吉備野博士の研究所に連れて行かれて、RТSSという機械で過去の日本の石炭紀の映像を見せられたんだが、一面が密林っつうか巨大な樹木がビッシリ生い茂ったジャングルが続いていて、遠くほうでは火山があちこちで煙を噴き上げているのを見せられたんだ。しかも、いまの二次元のスクリーンじゃなくて、三次元の立体映像なんだぜ。あれを見せられた時には、オレ本当にビックリしてしまって、とても信じられないくらいだったんだ。博士がいうにはビッグ・バンがあって、この宇宙が誕生した時点から現在に至るまでの事象はすべて、すでに過ぎ去ったものではないというんだ。いまでも時間連続体の中では現存した形で存続しているというんだが、オレには難しすぎて全然わからなくってさ。お前なら、これどう思う…」
 すると、山本はいくらか機嫌を取りもどしたのか、しきりにペンを走らせていた手を止めると顔を上げた。
「うーん…。何とも云えんが、未来からやってきた科学者がそういうのなら、たぶんその通りなんだろうが…」
「いや、オレもそう思ったよ。最初は、あんなアンモナイトとか恐竜なんかが、次元こそ違うとはいえ、同じ時間連続体の中でいまでも生存しているなんてことは、とてもじゃないが信じられなかったが、オレも実際に過去へ行くって自分が中学生の頃に亡くなったおじいちゃんに逢って来たんだから、たぶん本当のことなんだろうけど…」
 そこまで話すと、ふたりはまた黙りこくってしまった。
「でもなあ、山本。お前は信じるかどうか知らないけど、もしオレが若い頃の母親と関係を持たなかったら、その時点でオレの存在そのものが、この世界から抹消されていたって聞かされた時には、オレ本当にビビッてしまったんだぜ。考えてもみろよ、もしオレがこの世に生まれて来なかったら、お前ともここでこんな話もしていられなかったんだぜ。そんなこと考えられるか、山本……」
 また、しばらく沈黙が続いた後で山本が言った。
「うーん…、そう云われても、どう考えればいいのか…。でも、お前の父親がお前ってえのが、どうしても理解できねえんだよな……」
 山本は、また額に拳を当てるような仕草をして黙り込んでしまった。
「それは吉備野博士も一番の謎だって云っていたし、いろいろ必死になって調べてくれたんだが、結局のところそれらしい根拠すらわからず仕舞いだったらしい…。しかし、こんなことも云っていたな…。確か、オレの人生の一部にはパラレルワールドが関わるような〝何か〟が存在している可能性もあるのかも知れないとかなんとか…。でも、それは単なる仮説であって専門外のことなので、まるっきり常識外れの見識かも知れないとも云っていた…」
「なーるほどなあ、お前の話を聞いているとますます訳がわからなくなってくるな…。うーん。でも、それにしてもお前の親がお前ねえ……、さっぱりわからん。うーん…」
山本徹は半白の髪の毛を両手で掻きむしると、ポケットから煙草を一本取り出して火をつけながら、
「いくらオレがSFが好きだからって云っても、ごくありきたりの生活を送っているありふれた人間なんだぞ。それを捉まえていきなり過去の世界がどうとか、パラレルワールドがどうとか云われても、いまのオレにはどうすることもできないよ。それより、どうだ。久しぶりに逢ったんだから、これから酒でも呑みながらゆっくり話せば、何かいい方法が浮かぶかも知れない。確かお前には前に一回失業中の頃に奢ってもらったこともあったし、ここのホテルのバーは日中でもやってると思うから、電話をかければ待ってきてくれるはずだから、久しぶりに呑もうか」
「そうだな。じゃあ、少しだけなら付き合うよ」
「よし、わかった。いま持ってきてくれるように頼むから、ちょっと待ってろ」
 山本は立ち上がると、電話機ほうへ行くと早速バーに電話を入れ、酒とつまみ類の手配を済ませた。


       三


 ふたりは久しぶりに酒を酌み交わしながら、山本徹は耕平と別れてからの一部始終を語りだした。
 耕平がいなくなってからの母がしばらく落ち込んだように体調を崩して、一時は命も危ぶまれるのではないかとさえ思えるほど体が衰弱してしまって、もし万一のことでもあったら耕平に顔向けが出きなくなると思ったこと。自分の時間が許す限り耕平の母親のところに顔を出し慰めていたこと。毎週、この公園に来て耕平が戻ってくるのではないかと待ち続けていたこと。そして、最近になって山本自身の中でさえ、半分以上は諦めかけていたことなどを話した。
「そうか……、オレが過去に行ったことで、山本にもずいぶん迷惑をかけてしまったんだな……」
「何を云ってるんだ。耕平、お前らしくもない。いいから、さあ呑め、呑め」
 山本は酒を勧めてから、まじまじと耕平を見つめながら云った。
「それにしても、お前あの頃とぜんぜん変わってないんだな」
「そりゃあ、そうだろう。ここでは確かに二十七年経ってるかも知れないけど、オレのほうじゃ山本と別れてからまだ一年も経ってないんだから、当たり前だろう」
「そうか。それで自分の子供を宿したおふくろさんはどうした。お前は、生まれたばかりの頃の自分を見てきたのか?」
「山本、何云ってるんたよ。そんなこと出きないよ。そんなことをして、いつまでもモタ
モタしていて、本当にオレが生まれてしまったらどうするんだよ。出生届けやなんかどうするんだよ。第一、あの時代にはまだオレの戸籍は存在しないんだからな。そんなこと出きるわけないだろうが…」
 山本からあまりに無頓着なことを言われて、耕平は少しばかり苛立ちを覚えた。
「しかしだな。さっきお前も云ったじゃないか、『もしオレがこの世に生まれて来なかったら、お前ともこうして話してられなかった』って。もしもだよ。もしも、お前が生まれて来なかったら、今回みたいなややこしい出来事なんかに出逢うこともなかったわけだが、パラレルワールド的な考え方をすれば、Aの世界には現にこうして佐々木耕平は、ここに生きているわけだが、Bの世界では佐々木耕平という人間は、そもそも存在しなかったかも知れない。存在しないから、当然オレはお前に出逢わない。出逢わないから今回のような事件にも出くわさない。どうも、その時間連続体のどこかで、何かしらの〝歪み〟のようなものが生じているんじゃないかと思うんだ。これは、もう鶏が先か卵が先かなどという、生やさしい問題じゃないかも知れんぞ。耕平」
 山本はいつになく真剣な表情で言った。
「ひとりの人間が本人自身の親だなんて、そんなことは絶対にあるはずがないんだ。もう、これは正気の沙汰じゃないぞ。何かが狂っているんだ。おい、耕平。その吉備野博士とかいう人、お前に何か云っていなかったのか。そのことについて…」
「いや、別に何も云ってはなかったが…」
 耕平は吉備野が言ったことについて、何か忘れていることはないかと必死に頭を巡らせいたが、
「オレには、あまり難しすぎてわからないことのほう多かったんだが、ビッグ・バンが起こって、この宇宙ができた時、ほぼ同時期にパラレルワールドも出きたらしいんだけど、七百年後の未来世界においても未だに、パラレルワールドの存在を確認できる手段というか、それを認識できる方法は発見されていないと云うんだ…。そうだ、思い出した。これは吉備野博士の仮説だと云っていたが、オレの人生の中にパラレルワールドに繋がる分岐点のようなものが隠されているんじゃないかって云うんだが、これもまた雲をつかむような話なんで、オレにはやっぱりお手上げ状態だったんだが、お前ならどう思う……」
「云ってることはわかるような気もするんだが、実感としてはどうもあまりピンと来ないというか、これもやはり七百年後の未来から来た科学者の云うことと、現代社会に住む一般人との違いかも知れないなぁ……」
「そうかぁ……」
ため息交じりにつぶやきながらビールを一口飲むと、耕平はまた黙り込んでしまった。
「まあ、それはそれとして、これからお前どうするんだ。耕平」
「何が…」
「謎の真相についてはわからないとは思うんだが、わからないからと云ってこのまま何もせず、ただ手をこまねいていても事態の進展はないと思うんだが…」
「………。じゃあ、何をやればいいって云うんだよ。オレに…」
「何をすればいいかと云われれは、返答に困るんだが…、例えばだよ。例えば、もう一度過去に戻って、もう少し詳しく調べてみるとか…」
「戻るって云ったって、一体いつの年代に戻るって云うんだ。お前に何か心当たりでもあるのかよ」
「そう云われると困るんだが、うーん…。いつ頃にすればいいのかなぁ。あ、そうだ。オレも一緒についてってやるよ」
「え、お前が一緒に……」
「何だ。不服でもあるのか。第一、お前をひとりにして置いたら、また何を仕出かすかわかったもんじゃないからな。それに、この前みたいに二十七年も待たされたんじゃたまらんよ。ちょっと、ここで待っててくれ。家に帰って用意してくるから」
 そういうと、部屋を出て行こうとする山本に、
「おい、山本。一緒に行って云ったって、お前会社のほうとか、家のことはどうする気なんだよ」
「なあーに、気にすることたぁないさ。終わったら、またこの時間に戻って来れば、それで済むことじゃないか」
 と、言い残すが早いか、山本はそそくさと部屋を出て行ってしまった。それから三十分ほど経ったと思われた頃、耕平の背後で空気か揺らぐのを感じて後ろを振り向くと、
「やあ、こんにちは、佐々木さん。また、やって来てしまいました」
 そこには吉備野が立っていた。
「先生、どうしたんですか。何かわかったんですか。ぼくのことで……」
「いや、特別そういうことではありません」
 耕平が、テーブルの椅子を勧めると、吉備野はゆっくりと腰を下ろす。耕平も窓際から椅子を引き寄せて掛ける。
「あなたと山本徹さんのお話しを拝聴させて頂いていて、ひと言だけご忠告いたしたいと思い、急遽参上した次第です」
「忠告と云われますと…、何か……」
 吉備野が突然やって来たことについて、訪ねようとした時だった。いきなり部屋のドアが開いて、小さなバッグを手に持った山本が駆け込んできた。ハァハァと息をしながら、吉備野に気がつくと無言で頭を下げた。
「何だ、山本ずいぶん早かったじゃないか」
「ほう、あなたが山本徹さんですね。直接お目にかかるのは初めてですね。私は吉備野と申します。どうぞ、お見知りおきのほどを」
 吉備野は椅子から立ち上がると深々と頭を下げた。
「はあ、あなたが吉備野博士ですか…。お話は耕平から伺っております。ハァ、ハァ…」
 よほど急いで戻って来たのだろう。山本は、まだ息を荒げている。
「実はな、山本。吉備野先生はオレたちに何か忠告があって、やって来られたらしいんだ」
「忠告とは、どういうことですかな。吉備野博士」
 山本はやっと息が整ったのか、落ち着いた口調で吉備野に尋ねた。
「実を申し上げますと、失礼ながら私はRTSSを使って、あなた方おふたりのお話しを拝聴させて頂いていたのでいたのですが、あなた方はこれからもう一度過去に遡って、佐々木さんのことを探ろうとしていることを知りました。この前、佐々木さんとお別れしてから、私もあらゆる方法を駆使して、さまざまな方向から調べてみたのですが、解決の糸口になるようなものは何ひとつとして見つけることはできませんでした。ですから、もし行れたとしましても結局のところ、残念ではありますがおふたりの努力は、徒労に終わる可能性のほうが多いと思われますので、ひと言ご忠告を申し上げたいと参上した次第なのです」
「それじゃ。わたし等が行っても無駄だとおっしゃるのですか。博士」と、山本。
「さよう。どうしても回答が見出せない以上、行って見たところで無駄足になるというものですから、止められたほうがよろしいでしょう」
「では、オレたちはとうすればいいんですか。先生」
 耕平も、山本と同じように訊ね返した。
「よろしい。それでは、もう一度私のところへ来て頂けますか」
 吉備野は立ち上がり、ふたりを招き寄せた。
「このように、山本さんも佐々木さんの肩に手を触れてください」
 山本は言われたように耕平の肩に右手を乗せた。吉備野は手にしたコントローラーのスイッチを押すと、三人の姿はたちまち部屋からかき消すように見えなくなっていた。
 ほんの一瞬だった。気がつくとまばゆい光に満ち溢れた場所に立っていた。初めて見る未来社会の吉備野博士の研究所だった。山本は驚きの色を隠せない様子で辺りを見回している。部屋の中央には耕平から聞かされたタイムマシンのマザーシステムが設置され、奥のほうにはこれも耕平から聞いた巨大なスクリーンが置かれていた。あれが耕平の言っていた三次元映像を映し出す立体モニターなのだろう。周りでは吉備野の孫娘らしい若い女性と、助手と思われる数人の男たちがマシンの操作に携わっていた。
「さあ、おふたりともこちらにお座りください」
 吉備野に案内され、耕平と山本はソファーに腰を下ろした。助手のひとりを呼ぶと吉備野は何事か指示を出した。日本語には変わりなかったが、普段山本たちが使っているそれとは違う、微妙な感じを受ける言語ではあった。自分たちがいた二十一世紀から七百年も経てば、言語文化も当然変わるのだろう。もし自分が七百年ほど遡って、鎌倉時代や安土桃山時代に行ったとしたら、現代日本語がうまく通じるのだろうかという、疑問が山本の内部で渦巻いていた。当時の言語は、その地方の言方が主流を占めていたのと、武家言葉と一般庶民の言葉では著しく差異があったからである。
「先生、あれから何か新しいことは掴めないのですか」
 耕平は堪らなくなって吉備野に訊きただした。
「それが残念ですが、まったくわからないのです。私としてもいまのところお手上げ状態なのです。誠にもって面目次第もありません」
「もし、あの時に公園にも行かず、このタイムマシンを拾わなかったらどうなったのでしょうか」
耕平は、自分が抱いている疑問を素直に吉備野に向けてみた。
「それは何とも云えませんね。私があそこに置いたタイムマシンをあなたが拾われたという事実は、すでに確定された歴史の一部なのですから、あるいはパラレルワールドに於いては、あの日公園にも出かけずタイムマシンも拾わなかった佐々木さんがいたとしても、それはまったく次元の違う世界の話なのですから、あくまでもAの世界とBの世界ではまるっきり事情が異なるわけなのです。従って、もともとAの世界に存在している佐々木さんとBの世界の佐々木さんとでは、ご本人が遭遇される事象はまるで違うものであるのは明白であると推測されます」
「それでは私が以前に考えたように耕平が存在しない世界とか、私が存在しない世界もあり得るということですね」横から山本も口を挿さんで来た。
「さようです。ですから、二十八世紀の現在でもパラレルワールドや、次元の違う領域についてはそれを証明する手段は皆無と云ってもいいでしょう」
「では、やはり、ぼくたちが経験してきたことの証明というか、謎を解き明かす方法はないということですね」
「非常に残念です。これから、私の一生を掛けてでも全精力の傾けて研究は続けてまいりますので、何か有力な手掛かりが発見されれば、佐々木さんが何処におられようとも必ずお知らせいたしたいと考えております」
 吉備野は深々と頭を下げて謝意を表した。
「せ、先生、ぼくは何とも思っていませんから、頭を上げてください。本当に…」
「本当です。博士、頭をお上げください」
 山本に言われて、吉備野はようやく上体を起こした。
「先生,それではあまり長居をするとお邪魔になりますので、ぼくたちはこれで帰りたいと思います」
 耕平は、自分でもわからなかったが、なぜか清々しい気分になっていた。
「そうですか。もう帰りますか。いや、本当に面目次第もありません。それでは、こちらからお送りいたしましょう」
吉備野は助手に命じて転送の準備に取りかかった。
「どうぞ、佐々木さんと山本さん。こちらの方へてください」
ふたりが指定された場所へと進んで行き、吉備野がサインを送るとふたりの姿は瞬時にしてその場から見えなくなっていた。


      四


耕平と山本は、元いた二〇四四年のホテルの部屋に戻っていた。
 ふたりとも椅子に腰を下ろしてもしばらく口を開かなかった。山本は無言で耕平のグラスにビールを注いでやった。それから、またタバコを取り出して一本に火をつけた。タバコの煙がゆっくりと漂っていくのを見つめながら、最初に話し出したのは耕平だった。
「なあ、山本。お前はどう思う」
「何がだ…」
「だって、そうじゃないか。オレがこれから生まれてくるオレの父親なら、ここにいるオレはどうやってこの世に生まれて来たんだって云うんだ。それを考えると、もういまにも気が狂いそうになるんだ。何でもいいから何とか云ってくれ。頼むよ。山本」
 珍しく耕平は取り乱していた。山本にも、充分その気持ちはわかってはいたが、どう言ってやればいいのか見当もつかないでいた。しかし、何かを云ってやらなければ、いまにも心が折れそうになっている耕平が哀れだった。同じ年の生まれでありながらも、ふたりの間には二十七年という時間の隔たりがあった。耕平は、まだ二十八歳のままだったが、山本はあと十数年もすれば定年という年齢に達していた。その分、山本はそれなりに社会経験を積んではいたが、こんな場合どのようにして耕平に接してやればいいのかわからないまま、
「なあ、耕平よ。お前もオレも初めての経験でわからないことばかりで、本当はどうすればいいのかさえわからない始末なんだが…」
 そこまで話すと、山本はまたタバコを取り出して火をつけた。
「もう、ここまで来た以上は気持ちを切り替えて、前向きに生きて行くしかないんじゃないのかな…。いまのオレには、それくらいしか云えない…。許せ、耕平」
 無表情のまま山本は、グラスに残っていたビールを飲みほした。それだけ言うのが山本にも精いっぱいだったのだろう。
「オレは、ここに来る前にひとつだけ心に決めたことがあるんだ……」
 いままで黙っていた耕平がぽつりと言った。
「何だ。それは…」
あまりにも深刻な表情で話し出したので、山本もつい条件反射的に聞き返した。
「今日ここに来て、お前にいままでオレが体験してきたことを報告して、お前に借りてた金を返したら、どこか誰も知らない世界にでも行ってひとりでひっそりと暮らそうかと考えていたんだ……」
「何だって…、どっかに行くったって、いったいどこに行くんだよ。それに、おふくろさんはどうするんた。たったひとりでお前の帰りを待っていたんたぞ。おふくろさんの生活はどうするんだよ」
「いいから、黙って聞いてくれ。山本」
 突然の予想もしていなかった、言葉に驚いたように聞き返す山本を制して、耕平はさらに続けた。
「こっちから向こうに行く前に、図書館に行って一九九〇年前後の前後の新聞記事のコピーを取って持って行ったのは覚えているよな」
「ああ…」
「おふくろ…、いや、亜紀子から子供が出来たって聞かされた時は、オレにはまさに青天の霹靂の思いだったんだ。いくら、こっちも酔っていたからとは云っても、たった一度関係しただけであんなに簡単に妊娠してしまうなんて考えてもいなかったし、オレは人間として一番恥ずべき行為をしてしまったんだぞ。おふくろに…」
 そこで耕平は深くため息をついた。
「それからのオレには、一日一日が地獄のように感じられたんだ。このままここにいたら大変なことになる。これから生まれてくる子供と彼女が当分のあいだ暮らして行けるくらいの金を何とかしようと、押し入れに仕舞って置いた新聞のコピーを引っ張り出して、何か金を得るような方法がないかと呼んでいるうちに、「第十四回エリザベス女王杯で大穴」という記事を見つけたんだ。その配当オッズを見たら、四三〇・六倍だった。オレは、『これだ!』と、思ったんだ。
 日付を見たら、十一月十三日になっていた。と、いうことは、レースがあったのは前日の十二日。まだ四ヶ月あるから、それまで待とうかとも思ったんだが、その時のオレはもう居ても立ってもいられなくなって、億単位の大金が入るくらいのバッグを買い込んでレース当日へと飛んでいた。
お前から借りた金もまだ十四万かそれぐらい残ってたから、それを全部注ぎ込んで、結局二億五千数百万の大金を得ることに成功したんだ。なにしろ結果が判っている勝負だからな。損するわけがないんだ。それで、二億五千万と手紙を添えて亜紀子のところに置いてきた。そして、その残りがいまお前に渡した五百万なんだよ…。そんなわけだから、別に心配するような金じゃないし、取っといてくれ。長いこと借りてた、オレの気持ちなんだから…」
 一気に話し終えた耕平は、その後ひと言だけつぶやくように言った。
「でも、これって確定された歴史だから、後々に悪影響なんて及ぼないよな……」
「まあ、それはないと思うけど、それにしてもさっきも云ったように、オレが貸したのは二十万くらいのものだから、こんなに貰えないぞ」
 山本は執拗に食い下がって、耕平から受け取った金を返そうした。
「いいから取っとけって、オレにはもう必要のない金なんだから…」
 耕平は頑として受け取ろうとはしないでいる。山本は何とか耕平を引き止めようと必死に食い下がった。
「なあ、耕平よ。もう一度考え直してくれ。どこかに行くって云ったって一体どこの時代に行くつもりでいるんだ。お前は…」
 山本の問いかけに、耕平はどこか遠くのほうを見つめるような顔で答えた。
「わからない……。ただ、自分でもわからないくらい遠い世界に行って、誰も知らない山の奥にでも住んで、ひとりで静かに暮らそうかと思っている…。いくら山本に止められても変わらないよ。もう、心に決めっちまったんだからな…」
「お前がどこに行こうとしているかは知らないけど、そんな誰も知らない世界ったって、お前に何か当てでもあるのか。それにしたって、そんなところじゃあ、食料とかなんかはどうするつもりなんだよ。それに山奥に行くって云ってたけど、本当にひとりでなんてやっていけると思っているのか…。大体お前は昔から考えが甘いんだよ。だから、今回みたいなひどい目に遭うんだぞ。やめといたほうがいいぞ。ホント悪いことは云わないから、止めとけ、止めとけ……」
 山本は耕平が一度言いだしたら、誰のいうことも聴かないことは昔から知ってはいても、それでも二十七年前に味わったような思いは二度としたくないという気持ちのほうが先に立って、耕平をなんとか引き留めようと、山本を必死にさせていたことは明らかだった。
「ありがとう、山本…。お前の気持ちはものすごく嬉しいよ。多分お前にはずいぶん心配かけたんだろうな…、二十七年間も……」
 山本は何も云わなかったが、耕平は独白するように続ける。
「お前は知らないと思うんだが、タイムマシンのここのリセットボタンを押すと、パネルの表示窓の数値がすべてハイフンマークになるんだ。西暦一年と表示すると〇〇〇一という数字が出るんだが、それ以上マイナス方向にしようとすると、すべての計器類の数値は全部ハイフンマークになってしまうんだ…。つまり、このタイムマシンは紀元一年までしか設定されていないのか、便宜上そうしたのかは吉備野先生に訊いてみないことにはわからないけれども、とにかくハイフンマークにすると紀元前の世界に行けるのではないかと考えたんだ」
こいつはやっぱり、違う次元の世界に行こうとしているんだ。と、いう、思いをひしひしと感じながら、山本は耕平に向かってこう言った。
「耕平、お前の気持ちはよくわかったよ。しかしだなぁ、どうして、ぜんぜん知らない世界になんて行こうとしたんだい。なぜ、元いた二〇一八年に戻る気にならなかったんだ」
「何を云ってるんだよ。そんなこと、出きるわけないじゃないか。第一、オレにおふくろとどんな顔をして逢えって云うんだ。俺はな……、オレは犬や猫にも劣るような恥ずべき行為を犯してしまったんだぞ。それなのに、どうして平気な顔で逢えるっ云うんだ…。そんなこと、出来るはずないじゃないか。そんな恥っ晒しなこと…」
「それじゃ、せめてひと目だけでも顔を見せて行ってくれ。それも出来ないのか。耕平よ……」
 山本は、なおも食いさがる。
「だから、もう逢わないほうがいいんだよ。こっちが惨めになるだけなんだから、何回云わせるんだ。山本」
 耕平も最後のほうは、やや語気を強めて言い放った。
「ああ、そうかい、そうかい。なんて奴なんだ。お前ってヤツは、ええ、耕平よ。たとえ犬畜生だってなぁ、もう少し深い情けってえものを持ってると思うぞ。それを何だ。それが、たったひとりの母親に対して云う言葉なのか耕平。お前ってヤツは、本当に見下げ果てた奴だな。オレは、もう知らんぞ。遠いところでも山の中でも、世界の果てでも好きな ところに、どこへでも行っちまえばいいんだ。馬鹿野郎…」
山本徹も、また売り言葉に買い言葉で声を荒げて怒鳴り散らした。
「ああ、そうするよ。あとはお前とも、もう二度と逢えないかも知れないから、山本も体に気をつけてな……」
 耕平は静かに立ち上がると部屋を出て行った。山本も続いて部屋を出ると、耕平はすでに廊下を曲がろうとしていた。その後ろ姿を見送りながら、
「バカヤロウ…」山本は、ひと言だけつぶやくように言うと拳を握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。
 耕平は、また公園にやって来ていた。すべてはここから始まったことなのだから、締め括りもここで終わらせなくてはならないと思ったからだった。いろんな時代のいろんな時間帯を行き来したが、おそらくはこれがの旅になるだろうと耕平は思った。
 耕平はいささかの食料が詰まったバッグを背負い、かつて山本から貰った自転車に学生時代に使っていた。競技用のアーキュリーセットの入ったケースを積んでいた。何故そんな物を持ってきたかと言えば、どれくらい前の時代に着くのかは知らないが、紀元前の世界に行くのだから、用心に越したことはないと持ってきたのだった。
 この時代とも、これでお別れかと思うと、耕平の胸にも熱い想いが込み上げて来るのを、どうしても禁じ得なかった。周りを見回すといつもと同じように、いろんな人たちが犬の散歩やら当てもなく散策する姿が見てとれた。
 耕平は、しばらくそれらの人々や周りの街並みなどを見ていたが、気を取りなおすように自転車にまたがるとゆっくりと走り出した。
 走りながらタイムマシンのメモリーの数値をすべてハイフンに戻した。公園内を一周するようにして、またブランコの辺りまで辿りついた時マシンのスタートボタンを押した。すると、耕平の乗った自転車は音もなく、たちまち霞のように消え失せていた。辺りを散策している人々は、耕平の姿が消えたことに誰ひとりとして気づく者はいなかった



   エピローグ


そこは四方を山に囲まれて、茫々とし草原が広がっていた。ところどころに杉や雑木が繁茂する沈黙の世界がどこまでも続いていた。
『ここは、いつ頃の時代なんだろう』と、耕平は思った。公園も街並みも何もかもが跡形もなく消えていた。マシンである腕時計に目をやると、文字盤の年代を表すところに数字はなく、ただハイフンが四個並んでいるだけだった。どれくらい前かはわからなかったが、間違いなくここは紀元前の日本には違いなかった。
しかし、自分がこれまで見慣れた風景はどこにもなかった。このタイムマシンは場所は移動できないはずから、間違いなく場所は公園のそばであることは疑う余地がなかった。だとすれば、地形がまるっきり違うほどのはるかな過去に来てしまったのだろう。さすがにSF音痴の耕平にも、うっすらと事情が飲み込めてきたようだった。
耕平は自分の記憶を頼りに、公園のブランコのあった場所を探そうと歩き出した。自転車はさっき着いた場所に置いたままにした。目印とブランコのある場所を目測するのに役立つと思ったからだった。ゆっくりとした足取りであるきながら、耕平は時々自転車のほうを振り返っては大体の方向を探りながら、ようやくブランコのあった辺りまで辿り着くことが出来た。
耕平は何やら考え込んでいたが、おもむろに腕時計を外すと文字盤の調整にかかっていた。年代を二〇四四年に合わせ、続いて月日は〇四〇八にすると、最後に時刻をPM二時二五分にセットした。耕平は感慨深けに左側のスタートボタンを押すと草の上に静かに置いた。時計からフィーンという低い音がして、続いてシューンという音に変わった瞬間、時計は陽炎のように揺らぐと耕平の前から姿を消していた。その時、耕平の胸の中にとてつもなく寂しい思いが込み上げてきたが、それは何に対しての寂しさなのか耕平にはわからなかった。とにかく、これですべては終わったと思った。
いつまでも、ここに留まっていられないと耕平は自転車に戻ると、ゆっくりと走りだした。ここが紀元前の日本だとしても、一体いつ頃の時代なのかさえわからないまま、ただひたすら自転車を漕ぎ続けた。
『もし、ここが元いた世界と同じ場所なら、きっと近くの河に出るはずだ』
そんな憶測をもって、一面に草の生い茂る道なき草原の中を耕平はひとり走り続けた。しばらく走り続けると遠くのほうに河が見えてきた。それは近づくに連れ次第にはっきりとしてきた。それは、まさしく耕平が知っている二〇一八年の河ではなく、樹木の間から見える河は川幅が耕平の知っている河の三分の二ほどしかなく、しかも大きく湾曲しているのが見てとれた。河原と思しき場所にはうっそうとした雑木が生い茂っている。河までの傾斜はほとんどなく、緩やかに雑木林まで続いていた。
耕平は河沿いを東に向けて走っていた。しばらく走り続けたが、人間はおろか小動物一匹にも出くわさないのが不思議だった。自転車を止めて草むらに腰を下ろし、バッグから乾パンの缶を取り出すとひとつを口に入れた。香ばしい香りが口中を満たしていった。
『何という、数奇な運命の下に生まれてきたのだろう』
 これまでに起こった、さまざまな出来事を振り返りながら耕平は思った。
『おふくろ…、いや、亜紀子には本当にすまないことをしてしまった…。それに山本にもえらい迷惑と心配をかけてしまったし、何にひとつとしてプラスに結びつくようなものはなかった』
 二〇四四年で山本に逢った時、年老いた母に逢っていくように強く勧められたが、すべてを知ってしまった以上、一体どんな顔をしたら母親に逢えるというのか、それはあまりにも耕平にしてみれば残酷極まりないことでもあった。山本からは口汚く罵られもしたが、耕平にはどうしても母と逢う勇気がなかった。それからすぐ後で、この紀元前の日本へやって来たのだった。
 そして、全体的に今回の出来事を振り返ってみても、いまの耕平に取ってそんなことは、もうどうでもいいことのひとつであった。いろいろなことが頭の中を交差する中、耕平はゆっくりと立ち上がり自転車に跨がりそろそろと走り出した。
二十分くらい走ったかと思われる頃、河が大きく湾曲している地点に近づいていた。すると、どこからか人声が聞こえてきた。まったく聞き覚えのない言葉だった。近づいてみると、粗末な布切れや毛皮を身にまとった女や子供たちが、川の浅瀬のところで魚を取っているのが見えた。耕平は自転車から降りると、ゆっくりとした足取りで近づいて行った。耕平の足音を聞きつけた子供たちは、見知らぬ人間をみて驚いたのか女たちの後ろに隠れた。そして、子供たちは怖いもの見たさとでもいうのか、恐る恐る首だけをだして耕平のほうを見つめている。そこで耕平は、女や子供たちが怖がらないように両手を上げて、ゆっくりと振りながらか笑顔を見せて近づいたが、女たちは別段怖がる様子もなく耕平に相対していた。
すると、子供たちも物珍しそうに近づくと、耕平の周りをぐるぐる回りながら体のあちこちを触っている。耕平は、さっき食べ残した乾パンを取り出すと、ひとつを自分の口に入れると子供たちにも分け与え、女たちにも勧めて回りながら自分でも頬張ってみせた。それを見て安心したのか、女たちも乾パンを食べ始めた。
女たちは乾パンを食べながら、何かを言い交わしているようだったが、もちろん耕平には何を言っているのかわからなかった。しかし、言葉の意味はわからないまでも、言葉のひとつひとつの所々に耕平がいた、二0一九年に使われていた日本語に合い通じるものが含まれているような気がした。
耕平は、子供たちに身振り手振りで魚は取れたのかと尋ねてみた。ひとりの子供が手を引いて草むらの中に連れて行った。そこには大小様々な土器が置かれており、魚や貝などがきちん分類されていた。
『土器…。それじゃあ、ここは縄文時代…』
 紀元前であるということは、地形が元いた世界とまるっきり違うことでわかってはいたが、まさか縄文時代に来ていたとは思っても見なかったことだった。
 そこへふたりの女がやって来た。ふたりのうち若いほうの娘が自分を指差して、
「ウ・イ・ラ」と、言った。
 それが彼女の名前らしかった。耕平も自分を指して、
「コ・ウ・ヘ・イ」と、言ってから相手を指し、
「ウイラ、コウヘイ」と、また自分を指した。
彼女は、嬉しそうににっこりと微笑んだ。すると、もうひとりの少し年上の娘も、同じように自分を指していった。
「カイラ」と、言いながら、ウイラと名乗った娘を指して、
「ナマラ」と言い、再び自分を指して「メマラ」と言った。
意味はわからなかったが、どうやらふたりは姉妹のようであった。
しばらくすると、ほかの女たちも子供たちを引き連れて河から上がってきた。
娘たちはお互いに何やら話し合っていたが、それが済むとウイラと名乗った娘が耕平のほうに走り寄ってきた。耕平のところにまで来ると、手を取って右手の丘を指差した。
身振り手振りでの説明によると、自分たちの村へ一緒に行こうと言っているらしかった。耕平は一瞬迷ったが、こんなところで独り寂しく一夜を過ごすのなら、どこへでも行ってやろうと思った。たぶん以前の自分だったら、絶対そんなことはしなかっただろうと思いながらも、ウイラの前で首を縦に振ってみせた。すると、ウイラは目を輝かせながら姉のほうへ戻ると、ふた言三言会話を交わしていたが再びカイラを連れて戻ってきた。
ふたりは両方から耕平の腕を掴まえると、さあ一緒に行こうと言うように促しながら、みんなが待っいる方向へと歩き出した。ウイラは歩きながら鼻歌のようなものを口遊んでいた。こんな時代でも歌なんか存在していたのかと、少々驚きを隠せない耕平であった。
みんなと合流すると、ウイラは一同に耕平を紹介した。女たちも子供たちも、それぞれ自分たちの名前を口にするとペコリと頭をさげた。さすがは原日本人と言われているだけあって、縄文人たちは礼儀正しいものを身に備えていた。カイラが何か号令をかけると、女たちは魚や貝などが入った土器を頭に乗せたり手に抱えたりして、集落があるらしい丘を目指して歩き出した。
これから先、どんな暮らしが待ち構えているかのと想うと多少の不安はあったが、もうそんなことで、くよくよ悩むのはやめようと思った。また、この世界にも新しい季節が廻って来るだろう。その新しい季節の中で、カイラやウイラたちとともに本当の自分を見つけながら生きて行こうと決心していた。
 そして、耕平は多大な迷惑や心配かけた親友の山本徹や、母親たちに幸せが訪れるようにと心から祈った。                                  了
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