『特上』だった日

文字数 1,250文字

これは小学生の頃の話だ。
その日は珍しく特上になるとのことだった。
僕の地域ではあまり特上になることがない(そうは言っても年に何回かはある)。
だから特上と分かるやいなや朝からニュースになった。

「今日は特上になるらしいわよー。」

学校へ行こうと玄関で靴を履いているとダイニングキッチンから母が叫んだ。

僕は子どもの頃も大人になってからも特上があまり好きではない。
そもそも特上が好きという人は珍しいと思う。
脂の量が多くて喜ぶ人はあまりいないのではないだろうか。

「トング、持っていきなさーい。」

そう言われトング立ての中から自分のトングを抜こうとしたところで思い止まった。

「そういえば、前にもこんなことあったな。」

前に特上のニュースが流れたとき、同じように母が「今日はお昼から特上になるみたいたがらトング持っていきなよ。」と教えてくれたことがあった。
僕はテレビも見ずに言われるがままトングを持っていったのだが、その日は結局、特上にならなかった。
そうなると下校時は、快晴の空の下で使わなかったトングを片手に帰らなければならなくなる。
それはそれで少し恥ずかいものがあり、友達にはしばらく「焼肉大将」と呼ばれた。
トングを持っていくようアドバイスした母を少し恨んだものだった。

だから持ちかけたトングから手を離し、生返事だけして学校に行くことにした。
実際、玄関を開けると空は澄んでいて特上の気配などまるでなかった。



学校ではいつものように1日が過ぎ、帰りのホームルームのあと、日直だった僕は先生から手伝いを頼まれた。
同じ日直の村雨さんとプリントを配りながらふと空を見ると、さっきまで晴れていた空が煙で覆われており、太陽も隠れてしまってるではないか。

「今日、特上って言ってたもんね。」

村雨さんがプリントを配りながら言ってきた。

「え?」

「見てないの?テレビでやってたよ。自宅の網も替えておいたほうがいいでしょうって、ニュースの人が言ってたよ。」

「あ、そうなの?しまったなぁ。」

もちろん知っていた。
母にトングを持っていけとまで言われた。
けれど、村雨さんの前でそんなことは言えなかった。
なぜなら――



プリントを配り終えて下駄箱に行くと空はすっかり特上模様だった。
大粒の脂が窓ガラスを叩いている。
グラウンドもすっかり脂たまりができていた。
違うクラスの残っていた生徒たちも、トングや紙エプロンを着て早足で帰っていく。

やっぱり母さんの言うことは聞いておけば良かったなぁ、と後悔した。
足元も長靴じゃないし、どうやっても脂まみれは避けられない。
諦めて走って帰るかと思っていたそのときだった。
うしろから背中をつつかれた。
振り向くとトングを持った村雨さんだった。

「きっとトングも持ってきてないんでしょ。」

「一緒に帰ろ」と言い、彼女はトングをひろげた。
銀色の大人っぽいトングで僕は思わずドキリとした。
トング越しに触れる肩ばっかり気になり、反対の肩が脂まみれになっているのに気づいたのは母に叱られてからだった。

その日は僕にとって忘れられない『特上』の日だ。
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