第1話

文字数 2,000文字

 東地中海に浮かぶキプロス島は古来よりワインの優れた産地として名高い。それが仇となる。戒律で禁酒が義務付けられたムスリム(イスラム教徒)なのに大酒飲みの第十一代オスマン帝国皇帝セリム二世がキプロス侵略を決断したのだ。
 だが、さすがに「美味い酒が飲みたいから攻撃する」と大っぴらには言えない。キプロス島はキリスト教徒の海賊の根拠地となっており放置できないとか、地中海における海上交易の要衝であるキプロス島を何としても帝国の支配下に置きたいとか、酒浸りの脳みそを頭蓋骨の中でフル回転させ、もっともらしい理由をこしらえた。
 それでもやはり反対意見は出た。無能なセリム二世に代わってオスマン帝国の政治を司る大宰相ソコルル・メフメト・パシャが、その筆頭だった。
 ソコルル・メフメト・パシャは軍を派遣するのならスペイン王国にすべきだと進言した。当時のスペインには多くのムスリムが支配者であるキリスト教徒の圧迫を受けながら息を潜めて暮らしていたが、異端審問によって財産はおろか生命の危機にさらされるようになっていたからである。異教徒からの弾圧に苦しむ民の救援を最優先にすべきとのもっともな提言は皇帝陛下に却下された。
 聖断が下されたからには臣下たる者それに従わねばならない。ソコルル・メフメト・パシャはキプロス島の攻略へ全力を注いだ。哀れなのはスペイン王国に暮らすムスリム及びイスラム教からキリスト教に改宗したムスリム系住民たちだった。イスラムの盟主であるオスマン帝国の軍事支援を期待しスペイン王国に反旗を翻した彼らは敗北し、さらなる弾圧を受けることになってしまう。酒樽の中に浮かんでいるに等しいセリム二世の脳みそに、その受難は少しも思い浮かばない。当然のことだ。イスラムの盟主の脳内はキプロスの銘酒のことで一杯なのだ。
 西暦一五七〇年、オスマン帝国海軍はキプロス島を包囲する。当時のキプロス島はイタリアの海運国家ヴェネツィアの領土だった。強力な海軍を持つヴェネツィアだがオスマン帝国海軍にはかなわず、一五七一年とうとうキプロス島はオスマン帝国の手に落ちた。
 セリム二世の喜びようといったらない。美味いワインを飲んで、いつも以上に酔っ払う。
 その酔いが醒めるかもしれない――醒めないかもしれない――出来事が起きた。キプロス島の陥落にショックを受けたローマ法王ピウス五世がキリスト教勢力を結集し――カトリックと対立するプロテスタントはローマ法王の言うことなんか聞かないので除外――オスマン帝国と戦うよう訴えた。十六世紀版の十字軍設立とも言うべきピウス五世の提唱に、スペイン王国が乗った。自国内のムスリム反乱を陰から操っていた節のある――実際そうだったが――オスマン帝国は許せなかったのだ。キプロス島を奪われたヴェネツィアもリターンマッチを挑むことを決めた。オスマン帝国の地中海進出を座視できないイタリア諸都市国家やマルタ島のマルタ騎士団も参戦した。かくしてカトリック連合艦隊の編成に至った。シチリアに集結した各国海軍は総司令官ドン・ファン(スペイン国王フェリペ二世の庶弟)に率いられ東地中海へ出撃する。東へ進んだカトリック連合艦隊を、ギリシャはコリント湾のレパント沖でオスマン帝国海軍が迎撃した。時は一五七一年十月七日。西と東の海上決戦、レパントの海戦である。
 戦いはカトリック連合艦隊の勝利に終わった。オスマン帝国海軍は、ほぼ全滅した。特記すべきこととしてカトリック連合艦隊の軍人に後年『ドン・キホーテ』を書くセルバンテスがおり、戦傷で左手が不自由になったことが挙げられよう。右手がやられていたら、某チェーン店の名前は違っていたかもしれない。
 レパントの大敗がセリム二世の酔いを吹き飛ばしたのかどうか、よく分からない。敗戦の報を聞いた大宰相ソコルル・メフメト・パシャはすぐさま海軍の再建に着手し、カトリック連合艦隊の東地中海進出を阻止したので、安心して酔い続けたように思われる。
 そう、政治にほとんど興味を示さず万事をソコルル・メフメト・パシャに任せていたセリム二世は、心ゆくまで酒を飲み酔っ払い続けることができた。ワインのボトルを一本空けてから入浴しようとして風呂場で足を滑らせ転倒し頭を強打して亡くなるまで、彼はずっと酒を飲み酔っ払っていた。アルコール依存症そのものだが、酔いどれ皇帝というのも乙なものだ。それなりに満足できる生涯だったと思う。何しろ、好きな酒が原因で死んだのだから、後悔はあるまい。
 この暗君を支えた名宰相ソコルル・メフメト・パシャは敵対するペルシアが送り込んだ暗殺者によって殺害された。キリスト教からイスラム教への改宗者としても知られる彼は故郷ボスニアのドリナ川に橋を架けるよう生前に命じていた。後年その橋はソコルル・メフメト・パシャ橋と呼ばれるようになり二〇〇七年、世界遺産に登録された。
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