猫爺さんのひげ

文字数 1,998文字

 ひょんなことから初めて〈喫茶フルタ〉に来たときも僕以外の客はいなかった。古ぼけた店内はじめじめしていて、カウンターの向こうにぽつんと立つマスターも近寄りがたいオーラを醸し出していた。窓際の席を選んだ。テーブルはガタガタだし椅子には穴が空いていた。
 だが、注文したコーヒーとチョコレートケーキは絶品だった。しかも二品合わせてワンコイン。学生の身にはありがたかった。一体どうやって経営を成り立たせているのだろう。とにかく僕は一度目の来店ですっかり〈喫茶フルタ〉の虜になった。
 コーヒーとケーキだけで何時間くつろいでいてもマスターは嫌な顔ひとつしなかった。大抵、客は僕ひとりだった。勉強をしたり読書をしたりするのにちょうどいい空間。いつしか常連になっていた。
 ある日のこと、いつものように店で本を読んでいるとひとりの爺さんが入店してきた。真っ白な髪をなでつけた爺さんは、店内に僕以外の客がいないにもかかわらず僕の隣のテーブルに就いた。変わった人だなと思った。今どきあまり見かけない緑色のダブルのスーツ。そして何より特徴的だったのがひげだ。頭髪は純白、だが口ひげは黒々と艶めいていた。しかもそのひげは、まるで猫のそれのように頬に向かって左右に分かれ尖っていた。サルバドール・ダリのひげにそっくりだった。
 爺さんは席に就くや否や親しげに話しかけてきた。「何を読んでいるんですか?」
「ああ、これですか?」僕は本を閉じて表紙を爺さんに見せた。「『こゝろ』です」
「漱石ですか、いいですね」と爺さんは微笑んだ。「もっとも『吾輩は猫である』だけはどうも好きになれませんが」
「どうしてです?」思わず訊いてしまう。
「だって、あの猫はリアリティがね」爺さんはさらりと言った。それから続けて尋ねてくる。「ところで何を食べていたんです?」
 爺さんは既に平らげたチョコレートケーキの皿を指差した。
「これですか? チョコケーキです。安いですし味もいいですよ」
 すると爺さんは悲しそうな表情を浮かべた。「残念ですが、チョコレートにはトラウマがあるんです」
 チョコレートにトラウマ? 上手く意味が飲み込めない。「どういうことですか?」
「実はですね」そう言って爺さんは上体を傾け、ぼくの耳元に口を近づけて囁いた。「私、前世で猫だったんですよ」
「猫?」唐突な発言に僕は驚きを隠せなかった。
「そうです。猫です。飼い猫です。ところがある日、出来心でチョコレートをかじってしまったんですよ。猫にとってチョコレートは毒です。それが原因で、結局私、死んでしまいました」
 胡散臭い見た目、奇天烈な話、にもかかわらず、爺さんの言葉には妙な説得力があった。信じるかは別として、面白いと思った。
 爺さんは続けた。「実際、猫にとってはコーヒーも毒みたいなものなんです。我ながら、どうしてここにいるんだろう」
「でも今は」と僕は話を引き取った。「人間なんですよね?」質問の滑稽さに笑みがこぼれる。
 だが、あくまでも爺さんは冷静だった。「人間ですとも。少なくともあと少しの間は」そう言うと爺さんはピンと尖った左右のひげを両方の手で摘んだ。「ところで今何時か分かります?」
 腕時計に目をやる。時刻は午後三時半を過ぎたところだった。それを伝えようと口を開きかけた矢先、爺さんは言った。「十五時三十六分」
どうして分かったのだろう? 爺さんは時間を確かめる素振りなど見せなかった。第一、時刻が分かっているなら、なぜわざわざ尋ねたのだろう?
 僕の疑問を見透かしたように爺さんは微笑んだ。「実はこのひげ、時計の秒針の役割を果たしているんです」
「つまり?」
「そのままですよ。私は主に人間ですが、少しだけまだ猫でもあり、そして少しだけもう時計なんです」
 ますます頭が混乱してくる。
「ご理解いただけないのも無理はないです。とはいえ、あと十分もすればお分かりいただけると思いますが。私の来世はもうすぐそこまで迫っていますから。そうですね、残りは七分です。七分後に私は今回の生を終えます。このひげは、目覚まし時計みたいなものなんですよ。だって結局のところ、人生って夢みたいなものですから」
ようやくマスターが爺さんに水を持ってきた。普段は仏頂面のマスターが、爺さんを見て目を見張った。「どこかでお会いしたことあります?」
 爺さんは笑った。「ありますとも。きっとどこかでありますとも。そしてまたどこかでお会いできますとも。ただ、今はこれで。立つ鳥跡を濁さずですよ」
それだけ言い残して爺さんは店を後にした。注文ひとつ取らず、水にも口をつけなかった。
 コーヒーを飲み干し、勘定を払って外に出た。まだ近くにいるはず、そう期待して店の周りを確かめたが、爺さんの姿は見当たらなかった。
 代わりに、店の向かいの民家の軒下から、生まれたばかりらしいツバメの雛の小さくも元気な鳴き声が聞こえてきた。
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