第1話

文字数 3,641文字

 ゆっくりとした動作で小魚を食べるジンベイザメを見て周囲から静かな歓声があがる。しかし今日は土曜日なのに巨大な水槽には数える程しか客はいない。
(やれやれ。せめてもっと人がいればと思ったが……)
 内心溜息を吐きながら暇つぶしで買った入場券をズボンのポケットに押し込んだ。わざわざとった休暇が何事もありませんように。

 九月十五日で夏休みを過ぎた夏の日。
 館内は冷房のおかげで暑さを感じることはないが、外は照り付けるような日差しがあった。おかげであらかじめ用意していた飲料水は半分近くまで減っていた。
 ジンベイザメが泳いでいる水槽にはくたびれた俺の姿が反射する。ぼさぼさの短髪に口元にうっすらと生えた無精ひげ。まだ三十代だと言うのに五十代に見えてしまう。
(これじゃあ、生徒に不潔だって嫌がられちまう)
 俺が高校の国語教師として働いていたのは三年前くらい前だ。今はフリーターとしてのんびり暮らしているのにまだあの時のなごりはあるのか。責任の重い仕事を放棄したのは自分なのに。
「何やってんだ、俺は」
 気が付くと無意識に胸ポケットの煙草を取り出していた。俺は館内で吸うつもりなんか全くないのに。
 その時横からどこか幼さが残る女性の声がした。
「ちょっと先生、ここは禁煙ですよ」
「ああ悪い。ついいつものくせで……」
 久しぶりに呼ばれた懐かしい呼称に顔を上げる。横にはいつの間にか肩から鞄をかけた色白でショートカットの女性が立っていた。カジュアルな服装だが観光客だろうか。
「えっと、すまないが名前は――」
「篠原です。お忘れですか?」
 女性の名前を聞いて俺は凍りついたように動けなくなった。目を見開いている俺に構わず相手は言葉を並べていく。
「以前と比べてなんだかやつれましたね。調子でも悪いんですか?」
 かつては長かった黒髪を肩までばっさり切って。
「一瞬人違いかなって思ったんです。でも私も先生の授業受けてましたし」
 学年が違うこともあり、彼女とは授業以外では関わりなかったけれど。
「兄の恩人だった人を忘れるわけないじゃないですか」
 俺が見殺しにした生徒の妹は静かに微笑んでいた。しかし目線は冷ややかだった。俺はそのことにひそかに安心した。

「やっぱり、兄さん……篠原くんの件か?」
「こうして二人で話すのは兄の葬式以来ですね」
 俺の問いに答えることはなく相手は話を進める。明るい声なのに胸をえぐられるような突き刺さる視線は葬式であった時と全く同じだ。彼女は在学中、葬式の後から俺とは一切口を聞こうとしなかったから。
「……よく、俺だってわかったな」
「先生こそ、私のこと覚えていたんですね」
 髪型だって変えたのに、と彼女は小さく笑う。
(彼女からしたら、俺と言う仇を忘れるはずがないもんな)
 俺が黙っていると彼女の方から話し出した。
「この場所、昔家族とよく遊びにきていたんです」
 聞けば彼女は高校卒業後、進学することなく働いているらしい。仕事場は県外だが、今日は特別に戻ってきた。
「だって今日は兄の命日ですから」
 瞬間、妹から笑顔が消える。そして無表情のまま俺を見つめた。
「先生ももしかしてそのことを知って……?」
「いやただの偶然だ。今日ここに来たのも」
 嘘だ。本当は覚えていた。アイツがまだ元気だった頃魚の図鑑を握りしめながら何度も話していた。動物、特に魚に関する話が好きだと話していた。地元で唯一の水族館であるこの場所だって。
 ――僕毎回夏休みに家族で水族館に行っていて。
 篠原は普段内気で大人しい印象だった。でも好きな話をしている時はこわばった顔が少しほころんでいた。目の前にいる妹と性格は似ていない。しかし目元の部分がよく似ている。二つ違いで歳も近いからか?
「そうか。今日だったんだな。忘れてたよ」
 また俺は嘘をついた。高校の屋上から遺書を残して飛び降りた惨劇を忘れるはずがない。当時十八歳で本来なら大学進学と将来への希望であふれていたはずなのに。
「先生って呼ばなくていい。俺はもう教師じゃない。ただのコンビニバイトのレジ打ちだ」
 後悔と焦燥感を抱えて手元の煙草を箱ごと握りつぶす。元々それなりに吸っていたが退職する直前からさらに本数が増えてしまった。
「そう、らしいですね。仲の良かった部活の後輩から聞きました」
 そしてじっと妹は俺を見る。
「……辞めたのはやはり責任を感じて?」
「そんなきれいなものじゃない。俺はただ……」
 目を閉じると篠原の泣き笑いの顔が鮮明によみがえってくる。
「ただ逃げただけだ。自分から、教師という仕事から、アイツから」
 じっと俺を見つめる視線から逃げて俺は目の前の水槽を見る。ジンベイザメはあいかわらず俺の気も知らないでのんびりと泳いでいた。
 学校という巨大な組織を前に俺たち教師の意見なんか小魚程度としか思われていない。いくら声を上げても本体は動かない。事態が大きく動かないかぎりは。
 正義は必ず勝つなんて言葉は現実には存在しない。篠原の正義を俺は最後まで護ってあげられなかった。
「知ってるか? ジンベイザメは歯が退化しているから歯は使わないんだ。だから小魚とかを丸のみするんだってよ」
「へえ~知らなかったです。先生は物知りですね」
 感心したように声を上げる。俺はただ説明書きを盗み見ただけだというのに。
俺はどこまでにずるい人間だ。さらについ余計な言葉がこぼれてしまう。
「なんだか、兄さんの高校と似てるよな」
「え? どうしてですか?」
 目を丸くして妹は俺の方を見る。真っ直ぐな視線に言葉が出なくなった。
「……別に。ただ。なんとなく」
 視線をそらしてごまかした。今目を合わしたら俺の心の底まで見透かされるような気がして。
「兄の遺書に……」
 小さくかすれた、けれど確実に声が聞こえた。
「学校にクラスメイトに『見てほしい』。死んだら少しはわかってくれるかなって」
 もっと大勢の人に自分の苦しみを理解してほしい。でも実際は声をあげたところで状況は変わらない。篠原は自分の命をかけて伝えたかったのかもしれない。
「学校側にいじめのことを聞いたんだよな?」
 俺の問いに当たり前じゃないですか、と妹は苛立った声を出した。
「でもおかしいですよ。いじめた側にも将来があるから大事にしないでって。結局は我が身がかわいいだけのくせに」
 妹のトゲを含む口調に俺は何も言うことができなかった。どれだけうわべだけの言葉を並べようが篠原の願いはかなわなかった。学校側が正式にいじめの事実を認めなかったから。
 かつて俺は篠原本人から聞いた五人の男女からいじめを受けていると相談を受けた。即座に上に報告したがいつの間にか解決案はうやむやになっていた。
「生前、兄さんは君たち家族に何か言っていなかったか?」
「……兄からは何も。顔に痣をつくってきた時も友だちとふざけてぶつけたって」
 兄は家族に気を遣う人だった。だからこっちから何も聞き出せなくて、と悔しそうに妹は唇を嚙んでいた。
「ずるいですよ。なんで、先生なんですか? どうして、家族じゃないんですか?」
「……」
 妹の震える声は俺より自分に向かって言っているようだった。
「私は今でも学校というのが嫌いです。兄を追い詰めた加害者たちは一生許すつもりはありません」
「……それでいい。許す必要なんてない」
 俺はそっと横目で妹の顔を見る。照明が極力抑えられた館内の中で色白のきれいな顔が浮かび上がっていた。その顔が一瞬篠原の顔と重なる。
(篠原、ごめんな。俺が正面からちゃんと立ち向かっていれば……!)
 もう何度言ったかもわからない謝罪を心の中で繰り返した。
 もっと積極的にいじめの事実を公表するべきだった。加害者の将来なんか関係ない、大事なのは被害者の今だ。はっきり言えたらどれだけよかったか。
(いや、そんなことまで考えちまう俺はやっぱり教師失格だ)
 無駄な職業にしがみついた結果、独りだった生徒を見殺しにしたんだ。

「なあ、アイツは俺のこと恨んでいたよな?」
 最後の望みをかけてすがるように俺は尋ねた。
「さあ? 私に言われても……」
 でも、と思い出したように彼女は言葉を続けた、
「先生は……先生だけは『見て』くれていました」
 彼女は悲しそうに笑う。まるで本心を言うまいと無理やり飲み込むように。
(俺が受け取るべきはそんな言葉じゃないのに……)
 内心溜息を吐きながら彼女に背を向ける。兄を殺された妹でさえ俺を正面から責めてくれなかった。
(ただ兄が死んだのはお前のせいだって言ってくれればいいだけなのに……)
 振り返ることなく妹から距離を取ろうとする。すると表情が見えないまま彼女から問いかけられた。
「もし時間があれば、これから兄のお墓参りに行ってくれませんか?」
 俺はうなずくことができなかった。だって俺だけ悪くないなんておかしいじゃないか。
 閉館が近づいていることを知らせるアナウンスだけが静かに響いた。

                                 了



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