第1話

文字数 1,995文字

 浜からの風が小さな借家をぐらぐらと揺らす。隙間風が頬をたたいたので、お里は薄い布団を頭までかぶった。
 すると、急に夜が来る。
 父が来る。そう思うと今でも体に緊張が走る。 
 父はいつも酔っぱらって帰ってきた。そしてお里、お里の母、お里の弟の三人をさんざん殴るのだ。
 とりわけ三つ下の弟がその対象となった。
 弟が父に殴り殺されたのを機にお里は母を捨て家を出た。
 それからは生きるために何でもやった。自分より貧しく幼いものから食べ物をかすめたこともある。
 弱いものが弱いものをいじめることも仕方ないのだと思った。生きるためには。
 そんなお里に声をかけてきた男がいた。
 男は嫌な笑みを浮かべて言った。
「あいまい宿で働かねえか?」
「あいまい宿?」
「チャブ屋だよ。横浜の」
 お里はそれがなんのことだかわからなかったが、とりあえず男についていった。
 ここではないどこかへ。家を出てから、お里は流れるように生きていた。何も考えられぬほど必死だった。

 チャブ屋は横浜にいる外国人を相手にする娼宿だった。
 海を見下ろす本牧の丘に何軒もチャブ屋があり、あたり一帯は娼婦とそれを求めてやってくる外国人客で一杯だった。
 ここは日本なのか。その光景を見たお里は驚愕したが、それにもすぐに慣れた。
 食べ物を得るためにすでに男に買われることを知っていたお里は、すぐにチャブ屋での生活にも慣れた。
 腹いっぱいに飯が食えるようになり、小さな家を借りることもできた。
 お里は初めて人生の充足を得た。
 外国人はお里に幸せを運んでくる神様のようなものだった。
 薄汚い日本人だと、裏切り者だと蔑まれても、これしか自分には生きる道はないのだ。
 自分たちのような娼婦を批判する者たちとは距離をとり、お里は娼婦の中で圧倒的な人気を誇るメリケンお浜に憧れた。
 そんなお里を笑う仲間も居た。
「あいつはものすごいアレをするんだってさ。外国人に慣れ切った私たちでも、とても真似できないようなアレを」
 そういって下卑た笑いを浮かべるのだ。
 客に抱かれるままになっているお里にはよくわからない話だった。
 お里はそういった評判は売れない娼婦の妬みだと思って受け流した。
 メリケンお浜は気性は荒いが普段は親切な女だった。
 お里のような幼い顔をした女に対し、優しい言葉をかけてくれたり、小遣いをくれたりする。
 同じチャブ屋で働いているわけでもないのに。
 お里はますますお浜への憧れを強めていった。

 本牧に来て一年ほど経った頃だろうか。
 ある事件がお里を襲った。おかしな性癖を持つ客に当たったのだ。
 お里の上で動きながら、男はお里の首をきつく締め始めた。父のことを思い出し、パニックになったお里は男を思いっきり突き飛ばし、男にケガをさせてしまった。
 外国人の客にけがをさせるなど御法度である。
 男は騒ぎ立て、あたり一帯を巻き込む騒動となり、人が集まった。集まってきた客や娼婦たちの中にお浜もいた。
 男はお浜の客でもあった。
「どうせまたおかしなことしたんだろ」
 お浜はうんざりした顔をして、男と話をし始める。片言の英語交じりでお浜は男と十分ほど話し、二人はどこかへ去っていった。
「とりあえずよかったねえ。今夜はもう帰りな」
 仲間にそう言われ、お里はその夜はもう客をとらずに帰宅した。
 翌日、お里はお浜のチャブ屋を訪ねた。お浜は居なかったので、お浜が来るのを待たせてもらった。
 お浜は夜になってようやくやってきた。
 昨晩の礼を述べると、お浜はどうでもいいよ、そんなことと不機嫌に言ってタバコを吸い始める。
「今日は機嫌が悪いから帰ったほうがいい」
 店の者に言われ、お里は自分のチャブ屋へ戻り、客をとった。
 毛深い外国人に抱かれながらも、お里はお浜のことをぼんやりと考えていた。
 お浜は首を絞めてくるような客もうまくあしらえるのだ。
 お浜のアレがすごいと揶揄するものもいたが、お里はお浜をすごいと思った。
 それから、お里はお浜が身の回りのことを何もできないと聞きつけ、お浜の家に通い、身の回りの世話を始めた。
 同じようにお浜に助けられた女は他にもいて、その女たちとお里はお浜の着物を洗い、部屋を整え、食事を用意した。
 家を出て一人で生きてきたお里にとって、お浜と仲間たちは久々にできた家族のようなものだったかもしれない。
 その後、お里はイギリス人の貿易商に気に入られ、本牧から離れた場所に家を建ててもらった。
 お里は男をじっと待つ生活には慣れなかったので、男にもらった金を少しずつ貯めて、小さな商売を始めた。
 そのそば屋を訪れてくれる仲間もいたが、お浜が顔を見せることはなかった。
 いつだったか、お浜は、なんか困ったら逃げておいでと笑ったが、そんな日ぜったいに来てほしくないねえと表情をきつくした。
 お里は丘を下りて、穏やかに暮らす今でもそのお浜の顔が忘れられない。
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