第1話
文字数 69,781文字
バタン。
勢いよく扉が閉まった。
あいつの話が本当ならここから早く逃げなければ。
俺にはこんなこと向いていなかった。
あの子の言うとおり、真面目に働いて取り戻せばよかったんだ。
復讐なんて何も残らない。
何も得るものなんてなかった。
でもここからだ。
ここからまた始めるんだ。
聞こえる。
サイレンの音だ。
早く。早く逃げよう。
空、青っ。
ああ。今まで人殺しだけは避けてきたのに。
まさか、こんなことになるなんて。
あの子の顔、あの顔は
「・・・」
なんだ?
「聞きたいことがある」
なんだこいつ?
「もし、今たいがいの願い事が叶うとしたら、何を望む?」
・・・へえ、なんだか
おもしろくなりそうだ。
◇クイン◇
才能・・・それは物事をうまく成し遂げる優れた能力。
この世界で、この国で、この街で生きる人間はみんなそれぞれ才能を持っている。
こんな平凡な私でさえ。
そう。誰にでも才能はあるのだ。
ただ・・・
誰もその才能に苦労がないとは言っていない。
それだけのこと。
(なんてね)
クインは足をブラブラさせながら背の高い椅子に座り、コーヒーをすすりながらそんなことを思った。
カフェテラスを行き交う人々は皆、急ぎ足で通り過ぎていく。
ギターの弦をつま弾く音、その音に合わせて歌う澄んだ声。
その歌声に合わせて歩く人たち。
音楽を聴いているクインはそんな風に思いながら悠長に人々を眺めていた。
「クイン」
後ろから声を掛けられてクインは振り向いた。
「エレナ」
クインが耳につけていたイヤホンをとると、ギターの音も美しい歌声も一瞬で消えてカフェテラスの喧騒がクインの耳に飛び込んできた。
「クイン、耳悪くするよ」
エレナはクインの向かいに座り、机の上にバッグを置いた。
(ん?)
「エレナ、バッグ変えた?」
「うん。変えた」
(んー?)
エレナは怪訝そうにクインを見つめた。
「何よ?」
「このバッグ・・・どっかで見たことあるのよね」
「これ有名なの?」
「有名なの?って自分で買ったんじゃないの?」
「ううん。もらった」
「もらった?」
「ねえ、こんなバッグのことより、今日の課題」
「あ、ああ。そうね」
クインはじっとエレナを見つめた。
「クインが何を言いたいのかよくわかってる」
「本当にこの課題でよかったの?」
「私だからこそいいのよ」
「なんかやけになってない?」
「そう見える?」
「私にはね」
エレナは、微笑んだ。
「詐欺師の娘が歴史上の詐欺師たちを発表する・・・っておもしろいじゃない。ネタになるわ」
「私が言いたいのはそういうことじゃなくて」
「さ、いいから」
クインは小さくため息を吐いてわかったわ、とつぶやいた。
クインとエレナはカバンの中からノートやファイルを取り出すと、机の上で無造作に広げ始めた。
資料には古い白黒の写真から最近の写真まで様々な人物の性別年齢を問わない写真が載っていた。
「あいつの写真はないの?」
「ないわ」
「本当に?」
エレナはにこっと笑った。
「父の話はしないでくれる?」
「でも・・・」
エレナがにこっと微笑んだ顔を崩さないものだからクインは察した。
(あ、これ以上言ったら本気で怒りそうだわ)
「わかった。やめとく」
「ありがと」
クインとエレナの課題。
それは、週に一度ふたりのクラスで行われるプレゼンのことだった。
二人組を組まされて教壇の前に出てクラスメイトに発表をする。
テーマは何でも構わない。
二人が選んだ課題は、“歴史上の詐欺師”だった
「で、私たちが言いたいのは歴史上の詐欺師たちも私たちも同じだということです。
詐欺師たちは自分たちがどんな生き方をしているのか決して人に打ち明けることはなかった。そして、それは私たちも同じ。私たち、ひとりひとりにも秘密があります。それを隠して生きているということ。詐欺師も私たちも同じなのです」
マイクを握ったクインが教壇の前でそう言い終えると、教室はパラパラとした拍手で包まれた。
「えっと、では質問のある人いますか?」
「はい」
「どうぞ、そこのメガネの人」
「俺の名前知ってるだろ」
「いいから。プレゼンの雰囲気よ」
メガネの少年はコホンと咳払いをし、立ち上がった。
「じゃあ俺たちもエレナの親父も同じ生き方をしているってことですか?」
その質問に教室は少しざわついた。
小さな笑い声すら聞こえる。
「それは」
「クイン、代わって」
クインの後ろに立っていたエレナは、教壇の前に出るとクインからマイクを奪い取った。
「その質問ですが、私の父は詐欺師としてはあまりにも未熟です。みなさんご存知の通り、父は詐欺を全うする前に勝手に事故って勝手に死にました。彼は詐欺師ではなくもはやただの一般人なのです。そういう点では私たちと同じです。むしろ、私が言いいのは、みなさんも私の父のようになる可能性があるということ。あんな情けない死に方しないように。気をつけて生きていきましょう。これ、そのための発表なので」
教室にいた全員があっけにとられていた。
ただ、クインだけはこうなることをわかっていた。
最後のまとめの文章は、エレナが考えたのだ。
あんなにも適当に自分たちも詐欺師も同じだと言い切った最後の文章。
あれを聞いてエレナに質問しない人間はいない。
(影でこそこそされるより直接はっきり言えっていうところ、エレナらしい。それに、やっぱり・・・)
「エレナ!さっきの発表かっこよかったよ」
「あそこまでスパッと言えるなんてすごいね、エレナは」
「この課題をふたりが選んだときはドキッとしたけどねえ」
授業が終わり、休憩時間になると教室にいた生徒たちはエレナとクインの元へ集まり、口々にそう言い放った。
エレナは微笑んだ。
「ありがとう」
「エレナは強いねえ」
誰かのその一言にクインは口を開きかけたが、エレナが手でクインを制止した。
エレナは相変わらず微笑みをくずさない。
機械のようにありがとう、ありがとうと繰り返すだけ。
(まったく。私にはそのエレナの顔の方が十分怖いわよ。詐欺師なんかより)
学校の終わりを告げる鐘が鳴って、生徒たちが学校から溢れ出してきた。
クインも教科書やノートをバックに詰めこむと、椅子から立ち上がり肩にかけた。
「エレナ、久しぶりに買い物でも行かない?」
そう言って斜め前の席を見つめると同じように肩にバッグをかけたエレナが眉を少し下げてこちらを見つめていた。
「ごめん、今日ちょっと用事があるの」
「えー。せっかく課題も終わったのに」
「また今度ね。クイン」
そう言って、下校するクラスメイトたちの流れに乗りさっさと教室を後にするエレナの背中をクインは見つめた。
「また明日ね、エレナ」
エレナは、にっと笑ってクインに手を振り返した。
(ありゃ男だな)
ため息をつきつつもクインもその流れに乗って教室を後にした。
ここの生徒たちは皆、まっすぐ家に帰るということが滅多にない。
だから、このまま生徒たちの流れに身を任せているとたどり着く先は街の中心地にあるモールやカフェにレストラン、はたまたクラブであったりするのだ。
なぜならクインとエレナの高校は、巨大な都市の中にある。
それも単なる巨大都市ではない。
ビジネス、ファッション、その他もろもろ全ての中心であり発信地。
この世界を回しているのはこの都市だと言っても過言ではない。
ここは世界最大の都市、ウォーキンシティ。
毎日が真新しく、毎日が退屈とは縁がない。
そんなところに住んでいるものだから、まっすぐ家に帰るなんてとんでもない。
もちろんクインもそのひとり。
(エレナの奴、付き合い悪いんだから。あのバッグもきっと彼氏に買ってもらったってことだったのね。にしてもいつのまに)
そんなことを思いながらクインはこの街で一番大きなショッピングモールに来ていた。
(そうだ、この前Darupa の新作バッグ出たんだった。でも、高すぎて買えないのよね)
そう思いながらもクインの足はDarupaのショップの前に自然と向かっていた。
そこには巨大なショーケースの中で長いスポットライトの光が2つに交差し、たったひとつのバッグを照らしていた。
ショーケースの中に飾られたそのバッグをクインは覗き込んだ。
バッグがスポットライトに当てられているせいか、新作という魅力にあてられただけなのかクインの瞳もきらきらと輝いた。
「やっぱり素敵!誕生日に買ってもらおうかな?でも値段が」
クインはバッグの前に置かれた、値札のゼロの数を数えて、ちいさなため息をついた。
その値段は誕生日のプレゼントに・・・なんて簡単に頼める値段ではないことはあきらかだった。
バッグどころかもしかしたら、それなりの家でも買えるのではないかと思われる値段はしたからだ。
諦めきれないクインはそれからもう一度ライトで照らされたバッグに見とれた。
手に入れることができないのならせめてもう少し見るだけでもなんて思いで。
「ん?」
クインはこのバッグを見つめているとなぜかエレナがさっき教室で手を振り返した姿を思い出す。
記憶の中のエレナの肩から下がるバッグがクインの頭の中で拡大される。
そして目の前のバッグとエレナのバッグが見事に照合した瞬間にクインは叫び声をあげていた。
「これって・・・・エレナのバッグ!!」
クインのそばを歩いていた人たちは、不審者でも見るようにクインを睨みつけた。
「あ、すみません」
クインは顔を赤くしてペコペコと頭を下げたあと、もう一度そのバッグを見つめた。
(エレナ、これを買ったの?いや、ちがう。もらったって・・・)
クインは何度もバッグの前に置かれた値札のゼロを数えた。
そんな簡単に出せる金額ではないことから、どう考えてもかなりの大金持ちがエレナにこのバッグを贈ったことは明らかだった。
クインは目を丸くしてバッグを見つめていたが、ふと脳裏についこの前までのエレナの姿がよぎった。
悲しんだらいいのか怒ったらいいのかわからないそんな顔をして項垂れていたエレナの姿が。
クインは力なく微笑んだ。
「少しは元気になった・・・ってことよね?エレナ」
「ちょっと!エレナ!」
学校の玄関口で声を掛けられたエレナは、後ろを振り向いた。
そこには仁王立ちで、むすっとした顔のクインがいた。
エレナは、にこっと微笑む。
「おはよ。クイン」
クインの態度に全く反応しないエレナにクインは呆れたように息を吐いた。
「おはよ・・・じゃなくて、ちょっと来て」
「え?」
きょとんとした顔のエレナはクインに引っ張られて校舎の裏側へと連れて行かれた。
そこは雑草が伸び放題で特に何の整備もされてはいなかったが登校する生徒たちの声も遠くに聞こえるほど静かな所だった。
「何?どうしたの?」
クインは、満面の笑みで、エレナの両手を握った。
「すごいじゃない!何で言ってくれなかったのよ?」
エレナは相変わらず意味がわからない様子できょとんとした顔のままクインを見つめていた。
「すごいって?何が?」
「そのバッグ」
「これ?」
「そう!それ!Darupaの新作バッグ!」
「へえ、そうなんだ」
「そうなんだって」
「これもしかしてめちゃくちゃ高い?」
「そりゃもう!ゼロがめちゃくちゃたくさんあって・・・って、エレナ、もしかして値段も知らなかったの?」
「ウォーキンシティで一番高い?」
「え?ええ、多分それぐらいはすると思うけど。モールで見た限りではたぶん一番高かったと思うし」
「そう。本当だったのね」
エレナは微笑むと少し目を伏せた。
「本当って?」
「ううん。なんでもない。それより、クイン。そのことが本当なら、今日の授業午前中で終わるわよ」
クインは今言ったエレナの言葉の意味がまったく理解できなかった。
「え?それ、一体どういう」
その時、学校のチャイムが響いた。
「いいから、早く教室行きましょう。遅刻しちゃうわ」
クインはエレナの言葉の意味がわからないまま、午前最後の授業を受けていた。
頬杖をつきながら教壇の前でこの国の歴史を一心不乱に説明する先生を見つめた。
(先生に特に変化はない)
それから教室を見渡した。
熱心にノートをとる子、小さな声で隣の席の子と会話をする子、自分のベッド以上に寝心地が良いのか机の上で熟睡をする子。
(みんなにも変化はない)
クインは、小さなあくびをした。
(授業が本当に午前中で終わるなら、この授業を受ければ今日は帰れるってことよね。でも、まったくそんな感じしないけど。それに、バッグと授業の関係性って何よ)
ふとクインは斜め前のエレナの席を見つめた。
(エレナ?)
エレナは教科書をバッグの中にしまい始めていた。
(なにやってんのよ)
その時だった。
突然、ピンポンパンポンと放送を告げる鐘が鳴った。
「えー、校長室からのお知らせです。校長室からのお知らせです。急遽本日の授業は午前中で終了します。繰り返します。本日の授業は午前中で、今の時間をもって終了とします。以上」
再び、ピンポンパンと鐘が鳴って放送は切れた。
教室は一瞬静寂に包まれた。
先生もチョークを握ったまま固まっている。
「え、午後休みって」
「校長いいのかそれで?」
教室がざわついてきた。
「静かにしなさい~!」
先生は生徒たちに教室で待機するように指示をすると、教室を飛び出していった。
「どうなってるのよ、一体」
戸惑うクインの前に、帰り支度万端のエレナが立っていた。
「帰りましょ。クイン」
「え、でも、先生は待機しろって」
「いいから」
そう言ってエレナはクインに背を向けた。
クインは急いで教科書をバッグに詰め込むと、エレナと一緒にまだ騒然としている教室を飛び出した。
廊下には誰もいなかった。
教室の中でまだ生徒たちがざわついているのがクインにはわかった。
皆、状況がつかめずなかなか行動に移せなかったからだ。
(そりゃそうよ。いきなり午前中で授業が終わりだなんて)
クインは目の前をさっさと歩くエレナを見つめた。
「エレナ、待って、ちょっと待ってよ!」
エレナは立ち止まって、くるっとクインに振り返った。
じっとエレナがクインを見つめる。
「何?クイン。その目は?」
「何か知ってるんじゃないの?こうなることわかっていたみたいだし」
エレナはクインから視線を床に落とした。
何かを考えているようにクインには見えた。
ちらほら教室から生徒が出てきた。
きっと廊下で帰り支度をしているクインとエレナの姿を見て帰ってもいいと判断したのだろう。
エレナは視線をクインに戻してこう言った。
「明日・・・明日話すわ。だから今日はもう帰りましょ」
クインが口を開く前に、エレナはクインに背を向けて再び歩きだした。
クインは、しばらくエレナの背中を見つめ、後を追おうとしたが、足が止まった。
これ以上聞いてもきっとエレナは明日になるまで教えてくれないと長年エレナの友人をやってきたクインにはわかったからだ。
立ち止まったクインの脇を教室から溢れ出してきた生徒たちが通り過ぎて行く。
この街の子どもたちは早く街に繰り出したくて仕方がない。
だから、クイン以外の生徒はもう学校がなぜ午前中で終わったかなんて考えてはいなかった。
翌日、クインはいつもより早く登校していた。
エレナの答えを早く聞きたくて。
学校は何事もなかったように元に戻っていた。
まるで昨日の出来事などなかったように。
だが、実際に昨日の出来事がなくなったわけではない。
クインは自分の教室へ向かう途中、職員室の前を見てぎょっとした。
職員室には大勢の生徒の親が詰めかけていたのだ。
「一体どういう教育方針なんですか!?この学校は!?」
「突然午前中で学校を終わらせるなんて!」
「何とか言ってください!校長先生」
クインは校長がどんな反論をするのか気になって保護者たちの後ろからのぞきこんだ。
校長は困った顔をして首をかしげていた。
(校長・・・)
クインはそんな校長を白い目で見つめていた。
「いやあ、本当のところ私もなんであんな風に放送で午前で授業を中断するように告げたのかよくわらないんですよ」
その言葉に保護者たちはあまりにも呆れたのか、口をぽかんと開けていた。
思わずクインも同じ顔をした。
あまりにも幼稚な校長の言い分に高校生のクインですら呆れたからだ。
やがて我に戻った保護者たちが怒りの声を上げ始めた。
「あんた、それでも校長か!?」
「何言ってんだあんたは!!」
校長はそれでも物怖じせず、まあまあと言いながら保護者をなだめていた。
(うちの校長ってこんなんだったっけ)
クインはちいさなため息をついて教室へと向かった。
教室に入る直前にエレナにばったりと会った。
「エレナ」
「おはよ、クイン」
クインはエレナをじっと見つめた。
「エレナ、昨日のこと」
「わかってるわよ。今日の放課後必ず話すから」
そう言ってエレナは教室へ入っていった。
(今、ここで言ってほしかったんだけど)
クインは小さく息を吐くとエレナの後に続いて教室に入った。
先生たちといえば、まるで昨日の出来事なんてなかったように授業を進めていた。
不思議なことに生徒たちも誰も先生に昨日のことを聞くものはいなかった。
昨日のことは触れてはいけないそんな暗黙のルールがそこにあるようにはクインには見えた。
そしてクインも不思議と先生に昨日のことは問い詰める気にはならなかったのだ。
それにクインはエレナが一体何を知っているのかというこが気になり授業もろくに聞いてはいなかった。
しかし、エレナは放課後に話すという約束を固く守っているのか、授業の合間の休憩も、昼休みの時間も全くその話題には触れず、いつもどおりに振舞っていたのだ。
だから、一日の授業の終わりを告げる鐘が鳴った時、クインは教科書とノートをバッグに詰めると、エレナの席へ直行したのだった。
「エレナ!約束よ!」
真剣な顔で見つめるクインの顔がおかしかったのか、エレナはぽかんとクインを見つめた後、ぷっと吹き出した。
「な、何よ」
「クインってば変な顔」
クインは、むっとした顔をエレナに向けた。
「エレナ、私は真剣に」
「大丈夫。そんなに焦らなくても、今から教えるわよ」
そう言ってエレナは席から立ち上がった。
「どこ行くの?」
「どこって?帰るのよ」
そう言ってエレナはバッグを持ち上げた。
きょとんとするクインを見てエレナは言った。
「心配しなくてもちゃんと教えるから。ついてきて」
クインは言われるがままエレナと一緒に教室を出た。
いつもの放課後よりも学校の外が騒がしいことに気がついたのは、校門の前にふたりが来た時だった。
学校を出てすぐの道路の前に人だかりができている。
「何?何かあったの?」
クインは、人だかりの後ろから背伸びをして覗き込んだ。
「ん?よく見えない、なんだろ・・・くるま?わっ!」
クインはエレナに腕を引っ張られた。
「どうしたの?エレナ?」
「こっち、こっちに来るわ」
「え、来るって?」
ブルンという低いエンジン音がしたかと思うと四方八方に人だかりがバラけた。
クインとエレナに向かってピカピカの巨大な黒い塊がやってくる。
クインはその黒い塊を見て、目を見開いた。
クインとエレナの前で止まったその塊は、車体が異様に長い巨大な車だった。
「エ、エレナこれって」
「リムジンよ」
あまりにもあっさりと答えるエレナをクインは見つめた。
「え」
「今日の帰りに送ってもらおうと思ってリムジンを呼んだの」
「え?」
理解が追いつかないクインの目の前で、リムジンの巨大なドアが開いた。
「クイン、とりあえず帰りながら話しましょ」
「え、乗るの?」
あたりまえでしょと言ってエレナはリムジンに乗り込んだ。
「ちょっと」
「いいから、クイン、早く。また人が集まってきてるわ」
クインはまだ自分の目の前で何が起こっているのかわかってはいなかったが、とりあえずエレナの言うとおりにリムジンに乗り込んだ。
クインが乗り込んだ瞬間、バタンと大きな音をたててドアがしまった。
エレナとクインは向かい合っていた。
普通の車なら、人と向かい合うことなんてできないだろう。
だが、この車では可能なのだ。
更に
「あ、なんか飲む?」
そう言ってエレナが自分の横にあったミニ冷蔵庫を開けた。
「コーラにオレンジジュース、お酒まであるわ。何がいい?」
何も答えないクインに、エレナは振り向いた。
クインは下を向いて俯いていた。
「どうしたのよ、クイン」
どうしたの?じゃないわよ、と小さくつぶやいた声が聞こえた。
「え?何?」
クインは、ばっと勢いよく顔を上げた。
「リムジンよ!!これリムジン!お金持ちとかが乗る車!」
エレナは首をかしげた。
「そうだけど?」
「そうだけど???」
クインはもう訳がわからなさすぎて、驚く感情を通り過ぎて怒りだしていた。
「なんでエレナがリムジン持ってるのよ!?ごく一般的な家庭だったわよね?それに、学校で起こったこと説明するっていうのにリムジンに乗せられるし、わけわかんないわよ!もう疑問ばっかり増えて、ひとつも答えてくれないじゃない!」
そう言って怒鳴り終えたクインは肩で息をしていた。
そんなクインを教室の時と同じようにぽかんとした顔で見つめていたエレナは、ぷっと吹き出した。
(こ、こいつ・・・)
「ちょっとエレナ!私は本気で」
「わかってる。本当に今から説明するから。運転手が」
「運転手?」
「あなたからクインに説明してよ。ゴウ」
(ゴウ?)
ウィィィンと音が鳴ってエレナの後ろにあった壁が吸い込まれるように下がっていった。
クインは驚いて言葉がもう出ないような顔をしてその瞬間を見つめていた。
壁の向こう側は運転席になっていた。
「クイン、紹介するわ。彼はゴウ」
クインは息を呑んだ。
「・・・誰?」
「彼は私の願いをなんでも叶えてくれるらしいの」
クインはエレナの言葉が理解できない。
「えっと、てことはエレナの彼氏?」
「ちがう」
エレナの即答にクインは瞬きをするしかなかった。
「じゃあ、親戚の人?」
「それもちがうわ」
「あ、わかった!家にきたお手伝いさんとか!」
「そんな余裕うちにはないわ」
「じゃあ誰なのよ!」
エレナは、にっと笑った。
「さあ」
エレナのその答えにクインは呆れて言葉がでない。
(さあって)
「ただ分かっているのは、彼はあいつの元から来たってことだけ」
「あいつ?それってまさか」
「Mr.S。あいつはそう名乗ったわ」
「なによそれ、ふざけた名前」
エレナは、ふふっと笑った。
「Mr.Sは帳消しにしたいんだって。私への罪を」
クインはエレナの言葉の意味が理解できていないようで次のエレナの言葉を待っていた。
「Mr.Sは私の願いをゴウが何でも叶えることで、自分の罪を帳消しにしようとしているの」
「何でもって」
クインは運転席を見つめた。
「こんな素性もわからない男に何ができるって言うのよ」
エレナは、にこっと笑ってひざに置いていたバッグを持ち上げた。
クインは、ゆっくりと口を動かした。
「その・・・バッグ、昨日の授業中断・・・・このリムジン」
「そ。全部ゴウに叶えてもらったの」
「エレナまで何言って・・・」
「クイン、本当のことなのよ」
クインは、ぽかんと口を開けたまま運転をしているゴウへ視線を戻した。
「ほ、本当に?この人が?」
「彼が言うには人間じゃないらしいけどね」
クインはもう訳が分からず何と言葉をかけたらいいのかすらわからない。
エレナはバッグを見つめた。
「この街でいちばん高価なバッグ・・・別にほしかったわけじゃないけど、ゴウの力が本当かどうか試すために。次の願いごとは学校を午前中で終わらせてって願い。ちょっと無茶な願いを試してみたくて。で、今。リムジンで迎えに来てって願い。さすがに私ももう信じたわ」
クインはエレナをまっすぐに見つめた。
「全ては・・・Mr,Sの罪滅ぼしなの?」
クインは膝に置いていた拳をぎゅっと握り締めた。
「エレナのお父さんを殺した罪を?」
そんなクインの言葉にエレナは顔を綻ばせた。
「もう、クイン。私はMr.Sに父が殺されたとは思っていないわよ」
「でも」
「本当よ。私が許せない人間は、今も昔も変わらないわ」
それは・・・と言いかけてクインは口をつぐんだ。
「それならエレナ。受け入れるの?Mr.Sの勝手な願いを、こんなおじさんを?」
エレナは笑いながら、ゴウはそんなおじさんじゃないわよなんて呑気に否定した。
「もちろんそのつもりよ。向こうが勝手に罪滅ぼししたいって言ってるなら私は受け入れる。だって何でも願いごとを叶えてくれるのよ?」
エレナの嬉しそうな顔をクインは笑みひとつ浮かべず見つめていた。
「本当に信じて大丈夫なの?だってあいつは」
「いいの。クイン。信じて」
そのときリムジンが急ブレーキをかけて止まったものだからふたりの体は大きく揺れた。
「何?急に」
「ゴウ?」
「家に着いた。エレナ」
エレナは何も言わずじっと運転席を見つめた。
ゴウはエレナとクインに振り向くことなく前を見据えていた。
エレナは小さくため息をついた。
「ゴウって愛想ないでしょ?いつもこんな感じなの」
そう言って、エレナは運転席に身を乗り出した。
「ゴウ、このままクインを家まで送ってあげて」
クインは驚いて、エレナの肩をつかんだ。
「何言ってるのよ、私まだ話が」
エレナはクインに振り向いた。
「話せることは話したし。私の意志は変わらない。クインが気に入らなくてもね。頼んだわよ。ゴウ」
ゴウがエレナに振り向いた。
その時、クインは初めてゴウの顔を見たのだった。
大きな黒い瞳を持ち、すっと高い鼻、それでいて力強くぎゅっと結ばれた口。
ゴウは、クインとエレナよりも5つか6つほど年上に見え、整った顔立ちをしていた。
だから確かにエレナの言うとおりおじさんではないな、と呑気にクインは納得していた。
ゴウはそんなクインを一瞥し、エレナに視線を戻した。
「わかった」
こんなイケメンとならいいかもしれないなんて一瞬クインは思っていたが、すぐにちゃんと我に返った。
「で、でも私」
「いいから、くつろいでいって。じゃあね、クインまた明日」
そう言ってエレナはリムジンを降りた。
「え?」
バタンとドアが閉まってリムジンは再び動き出した。
「え?」
クインを乗せて。
リムジンの中は静かだった。
「あの、ゴウだったっけ?私の家の方向知らないわよね?」
「ああ」
「私の家はこの通りじゃなくて」
「少し寄り道をする」
「もう一つ向こうの・・・え?」
「少し寄り道をすると言ったんだ」
クインは固まってゴウを見つめた。
「寄り道って何よ?私家に帰りたいんだけど」
「すぐ終わる」
「ねえ、あなたはエレナ願いを叶えるんでしょ?だったら私を家まで送らないとだめなんじゃないの?」
「寄り道をするなとは言われていない」
(うん、まあ、そうなんだけども)
クインは大きなため息をついてシートにもたれた。
“あいつは、帳消しにしたいんだって。私への罪を”
(帳消しにねえ)
“Mr.S。あいつはそう名乗ったわ”
(Mr.Sか)
「おい」
唐突にゴウがクインに声をかけた。
「何?」
「お前、どこへ向かうのか気にならないのか?」
「別に。こういうことに巻き込まれるのは慣れてるし。そんなことより、私はまだあなたのこと信じたわけじゃ」
「じゃあどうして抵抗しない?」
あんたが言うか、という言葉が出かけたがクインは飲み込んだ。
「エレナを信じてるから。エレナがあなたを信用しているなら私も信じる」
その一言に納得したのか、ゴウはそれ以上何も聞いてこなかった。
外の景色はだんだんとクインの見慣れない景色へと変わっていく。
(にしてもどうやってこの街一番のバッグやリムジン、それに授業を中断させることができたのかしら)
「俺がどうやってエレナの願いごとを叶えたのか知りたいのか?」
クインは驚いて運転席を見つめた。
「私が考えていることわかったの?」
「エレナから聞いただろ?俺は人間じゃない」
「人間じゃないって言われても、どう見てもあなたは人間じゃない」
「見た目はな。ただ俺は人間と違って勘や運、そして身体能力が極限にまで冴え渡っている」
「それでエレナの願いを叶えてきたっていうの?」
「運が少し変わるだけで、時として欲しいものは簡単に手に入る。勘が冴え渡れば相手の思考が読めて自分の思うままに操れる」
「じゃあ運良く高級バッグとリムジンを手に入れて、思考を読んで校長を操ったってこと?」
「まあ、簡単に言えばそういうことだ。だから、たまに人間の考えていることがなんとなく分かるときがある。単純な人間なら尚更」
(私は単純ってことね)
クインは窓の外の次々と流れていく景色を見つめた。
「なんでMr.Sはあんな願いごとを・・・エレナのための願い」
「エレナへの罪を帳消しにしたい」
「エレナへの罪を帳消しにしたい」
思わずクインとゴウの声がハモった。
だが、クインはもう驚かない。
そして自分が今どこに連れて行かれているのかもなんとなくわかっていた。
「私はこれからMr.Sに会う。そうでしょ?エレナのお父さんを殺したMr.Sに」
「彼は殺しなんてしない。ただ、手違いで死に追いやってしまった」
「同じことじゃない」
その言葉にゴウは口を閉ざした。
クインは再び、窓の景色を見つめた。
いつのまにかウォーキンシティの市街地を離れて郊外のだだっ広い畑のあるのどかそうな田舎町にまで来ていた。
(こんなところにあいつが?)
次第にポツポツと残っていた家も消えて行き、小さな林の中にリムジンが入っていく。
全くもって似合わない。
リムジンに田舎なんて、こんな林なんて。
だが、正面に見えてきた建物はそんな思いを吹き飛ばす。
「何なの?ここ」
思わずクインはそう言って運転席に身を乗り出した。
「ここがMr.Sの屋敷だ」
それは、屋敷というよりも巨大な城だった。
高くそびえ立つ塔をいくつも持ち、大きな扉がいくつもあった。
簡単に人を寄せ付けない荘厳な雰囲気が漂っていて、まるで王様でも住んでいるような。
(いや、ちがう)
「ここに住んでいるの?世界一の詐欺師が」
ゴウは、一瞬クインをルームミラーで見つめてそれからすぐ視線を前に戻した。
リムジンは城の中へと吸い込まれていく。
歩くたびに音が響く。
すこし声を出しただけで反響する。
天井は高く、人が住むにはあまりにも落ち着けない、そんな場所だなんてクインは思った。
「こっちだ」
そう言ってゴウは荘厳すぎる屋敷の奥へと入っていった。
そこはまたもや格調高い廊下だった。
クインはきょろきょろと廊下を見回した。
赤いカーペットが敷かれた廊下にはほこりひとつ落ちていない。
壁にはいくつも大きな絵が飾られていた。
(これもきっとあくどいやり方で手に入れたのね)
クインは前を歩くゴウを見つめた。
ゴウはスタスタと歩いていく。
「ねえ、どこまで行くの?」
そんなクインの問いにゴウは答えない。
クインとゴウは広間に出た。
目の前には2階、3階へと続くであろう巨大な階段があった。
そこから足音が聞こえてくる。
クインは自分の心臓の音が大きくなるのを感じていた。
(あいつが来)
「ねえ、どこ見てんの?」
クインの背筋に寒気が走った。
驚いて後ろを振り返ったクインの瞳にMr.Sの顔が映る。
◆ゴウ◆
初めて出会った時、
ショーンの顔に好感を持てた。
だから俺にはわからなかった。
彼が世界一の詐欺師であることに。
“ゴウは本当に人を見極められないのね”
かつてゴウはそう言われたことを思い出した。
だが、
“私の罪を帳消しにしたい”
ショーンの願いごとはゴウにとって興味深く、そして
純粋で美しいとまで感じた。
世界一の詐欺師であろうが何だろうがゴウには関係がない。
ただ単にショーンの願いごとが気に入った、ただそれだけ。
だから、ショーンの願いごとを叶えることにしたゴウは、
今、ここにいる。
驚いて振り向いたクインの顔を見て、ゴウは思った。
(きっとクインも俺と同じことを思っている。こいつが?って)
◇クイン◇
(このひとが?)
クインは、自分の背後に立っていた男を見つめてそう思った。
男の顔は、羨ましいほど鼻が高く、茶色い瞳に合った凛々しい眉を持っていた。
クインと目があったかと思うと、にっと笑った。
その顔はまるで無邪気な子供のようだった。
そんなMr.Sの顔を見てクインの顔もほころんだが、頭を振った。
(お、落ち着け私!こいつはエレナのお父さんを)
「音の反響であの階段から来るって勘違いした?」
クインは瞬きをした。
(え?)
「君は単純で馬鹿なんだな」
(は?)
Mr.Sは、クインの顔をじっと見つめると一言、へえっと言った。
(へえ?)
「ゴウ、上出来だ」
その言葉にゴウは特に何も反応せずただそこに立っているだけだった。
この時、クインは直感で感じた。
ここで今すぐにでもこのMr.Sよりも先に言葉を発しなければいけないと。
でなければ、きっとMr.Sの言葉に飲み込まれてしまう。
つまり、クインはMr.Sの“上出来だ”という言葉の意味はわからなかったが、これからとんでもないことに巻き込まれると感じたのだ。
クインが口を開こうとした時、目の前にいたMr.Sと目があった。
その目は全て読んでいる目だった。
だから、クインは開きかけた口を閉じた。
そんなクインを見てMr.Sは微笑んだ。
「自己紹介がまだだったね。はじめまして」
そう言ってMr.Sは背筋をまっすぐに伸ばした。
「私の名前はS。Mr.Sとでも呼んでくれ。よろしく」
そう言って右手を差し出してきた。
クインはその手に自分の手を差し出すことはなく、じっとMr.Sの顔を睨みつけ、
次こそはと言葉を発しようとしたが、
「突然だが、君に頼みがある」
という言葉に遮られた。
「え?」
やっと発せれた言葉がそれだけだった。
そんなクインを見て、にやっと笑ったMr.Sは差し出していた手を引っ込めた。
(あ、やばい)
「エレナやゴウから聞いているだろう?私の罪を帳消しのするためにゴウをエレナの元に送ったことを。ゴウは私の願いを叶えるために、私の罪が帳消しになるまでエレナの願いを叶え続ける」
クインはぎゅっと拳を握り締めた。
(これは完全にこいつのペースだ)
そう。クインには分かっていたのだ。
すでにもうMr.Sのペースに乗せられていることを。
だから次のMr.Sの言葉を冷静に受け止めることができた。
「そこで君に友達であるエレナを監視して欲しい。私へ危害を加える願いごとをしないかどうか」
Mr.Sはかつて、エレナの父親が勤めていた会社を潰した男だ。
それも真っ当な方法なんかではない。
それはそれは大掛かりな詐欺でエレナの父親の会社をはめたのだ。
そのことでエレナの父親は責任を問われ、会社を追い出された。
会社を追われたエレナの父親は復讐に囚われた。
自分をはめた人間を自分と同じような目、いや、それ以上にひどい目にあわせてやろうと考えていたのだ。
目には目を、歯には歯を、詐欺には詐欺を。
エレナの父親は詐欺師になった。
Mr.Sをはめるためだけに。
だが、Mr.Sの正体は世界一の詐欺師だったのだ。
それをエレナの父親は死んでから気づいたことだろう。
結局、彼はMr.Sに返り討ちに合い、警察に追われ、パトカーとカーチェイス中に事故に合って崖から落ちて死んでしまった。
間抜けな詐欺師のまま。
「何言ってんの?」
クインはようやくMr.Sに言葉を返せた気がした。
Mr.Sの顔からは笑みが消えた。
クインはMr.Sの顔を睨みつける。
「意味がわからないのよ。あんたはエレナへの罪を帳消しにしたい。なのに自分への危害を加える願いごとをしないかどうか監視しろって。そのうえ私に!エレナは私の友達なのよ」
「君はわかっていないね」
(なんなのよこいつ)
「私は自分がいちばん大切だ。だから自分に危害が加わるようなことは起こって欲しくない。エレナへの罪も帳消しにしたいが、私に危害を加えるようなら全力で阻止するよ。エレナを不幸にしてでもね」
その言葉にクインは寒気を感じた。
「だったらあいつに聞けばいいじゃない」
クインはゴウを指さした。
Mr.Sは、ゴウを見つめて言った。
「ゴウはエレナの願いごとを叶える。だからもし、エレナに口止めされていたら、真の願い主である私にも言わないだろう?」
Mr.Sは再びクインに微笑んだ。
それは無邪気な子供のような顔をやはりしていた。
「本当に馬鹿で単純だ。そんなこともわからないなんて」
発する言葉と顔は全く一致していないが。
「あんたねえ」
クインは、怒りに任せてMr.Sの胸ぐらをつかんだ。
「あんたはエレナのお父さんを殺した。その罪が帳消しになると思ってんの?しかもこんなやり方で」
「君は本当にエレナの友達?」
Mr.Sは、小さくため息をついた。
「まあいい。君はこれからエレナが願いごとをする度に私に報告してくれ」
「エレナが・・・願う度に?」
「もし、君が報告しないというならば、私に対して害を与えようとしている願い事と判断して、エレナを全力で止める。どんな手を使っても」
クインはMr.Sの胸ぐらを掴む手に力がこもった。
「ゴウは人間じゃないのよ。いくらこの街で詐欺を働いてきたあんたでも敵わないに決まってる」
Mr.Sは驚いたように目を見開いてクインを見つめた。
「信じていないのに?」
その言葉にMr.Sの胸ぐらをつかむクインの手が弱まった。
全てを見透かされているような気持ちになったからだ。
「それにゴウは人間じゃないって言っても魔法が使えるわけでもなんでもないんだから」
そう言われたクインはちらりとゴウを見た。
ゴウは表情を変えずまっすぐにクインを見つめ返した。
Mr,Sは胸ぐらをつかまれたまま、そんなクインの耳元に顔を近づけた。
「私を止めることは誰にもできない」
そう囁いたMr.Sの顔は、無邪気な子供の顔でも、詐欺師の顔でもない。
全てを見通している顔、この人の前では何もできない、何一つ太刀打ちできない、そう思わせる顔をしていた。
クインは本能的にMr.Sの胸ぐらから手を離した。
そして自分の手が震えていることに気がついた。
(な、なんで)
クインはMr.Sの顔を見つめたが、またあの無邪気な笑顔に戻っていた。
それが尚更クインには怖かった。
「たのんだよ、クイン。自称エレナの友達さん」
◆ゴウ◆
「大丈夫か?」
思わずゴウは後部座席に座るクインにそう声を掛けた。
クインはその言葉で我に返ったようで、きょろきょろとあたりを見回した。
そこはゴウが運転するリムジンの中だった。
ショーンの城からリムジンに乗り込んだところでクインは疲れが出たのかそのまま眠ってしまったのだ。
景色は少しずつ街の中心地へと戻りつつあった。
「ああ、そっか」
そう言ってクインは大きく息を吐いて、シートにもたれた。
「これまで聞いたこともないぐらい自分勝手な頼みごとを聞いたんだった」
クインは先ほどまでのMr.Sとの会話を思い出しているのだろうとゴウは思った。
「クイン」
クインは運転席を睨んだ。
「何よ?」
「巻き込んで悪かった」
その言葉にクインが拍子抜けしたような顔をしているのがルームミラー越しにわかった。
「え?」
「エレナへの願い事とは別にMr.Sにエレナと近い人間を連れてくるように頼まれていたんだ。まさかあんな頼みごとをするとは思わなかったが。それにあいつと会話をすると普通の人間は大抵くたびれる。お前もそうだろう?」
クインは吹き出した。
「なんで笑う?」
「いや、心配してくれるんだと思って」
クインはゴウに微笑んだ。
「ありがとう。でも、大丈夫よ。言ったでしょう?こういうことには慣れてるって」
ゴウがルームミラー越しに、クインの顔を再び見つめたとき、クインと目が合った。
クインはゴウに、にっと笑いかけた。
「なぜ・・・慣れているんだ?」
思わずゴウの口から疑問がこぼれた。
クインは困ったような笑みを浮かべた。
「それは、私の才能とこの街のおかげ」
ゴウはその言葉の意味が理解できなかった。
「ねえ、ゴウはウォーキンシティは初めて?」
「ああ」
「じゃあこの街のこと全然知らないのね」
「この街のこと?」
クインは運転席に身を乗り出した。
「ゴウ、あなたは私がやっかいなことに巻き込まれた可哀想な女の子とでも思っているでしょ?」
ゴウは何も答えなかったが内心ではそう思っていた。
そんなゴウにクインは言葉を続ける。
「でもそんなこと私にとっては日常茶飯事みたいなもの。だってここは、世界最大の都市ウォーキンシティ。ここに住んでいる人間にはひとりひとり違った生き方がある。容姿も性格も誰ひとりとして同じ人間なんていない。もちろん私もそのひとり。そして誰もが主役なのよ。だから・・・」
クインの言葉が理解できないゴウは車を止めて、後部座席へと振り返った。
「だから何だ?何が言いたい?」
ゴウと目が合ったクインは再びにっと笑いかけた。
「私の愛すべき街、ウォーキンシティへようこそ」
◇メル◇
ジンクス。
それは人が自分の運命を見定める方法のひとつ。
靴ひもが切れたら縁起が悪いだとか。
黒ネコが前を横切ったら、不幸になるだとか、人はジンクスを気にして生きている。
メルはそんなジンクスを無意識に感じ取ることができる少女だった。
目の前で起こったなんともない出来事を自分の幸運、不運の前ぶれとして感じることができるのだ。
例えば今日の朝の出来事。
目覚ましが鳴り、寝ぼけた顔のままベッドからおりて、リビングに向かう。
眠気を少しでも覚まそうとコーヒーを飲み、朝食を食べながら、ふとテレビを見つめるといつも見ているモーニングショーの司会が変わっていた。
司会が変わったくらい特に何の問題もない。
このモーニングショーを見ている大半の人間はこう思うだろう。
ふうん。司会変わったんだ、とか。
前の司会者の方が好きだった、とか。
そんなたわいもないことを思うはずだ。
だがメルは違う。
思わず、スクランブルエッグをフォークで突き刺したまま固まってしまった。
「行かなきゃ」
メルは感じたのだ。
このなんてことのない出来事に幸運のジンクスを。
いつからだろうか。
メルがジンクスを瞬間的に感じることができると気がついたのは。
一番初めに感じたジンクスはなんだったのだろう。
そんなことメルはずっと昔すぎて忘れてしまった。
だが、小学校に入った頃には自然に自分の才能を無意識に理解していたようにも思えるのだ。
メルのジンクスは、はっきりと未来がわかるものではない。
自分にこれから訪れるのは幸運か不運かのどちらかなのかが無意識に感じ取ることができ、自分がすべき行動を判断できる。
例えば、ベッドに入る直前に聞こえた犬の遠吠えに自分の不運のジンクスを感じるとする。
そんな不運を感じながら学校に向かうと、クラスではウイルス性の風邪が流行っていたり、席替えのくじ引きがあって、とんでもないいじめっ子の隣の席になったり、大嫌いな科目の抜き打ちテストがあったり、それはもう踏んだり蹴ったりな一日を送るはめになる。
逆に、早朝に聞いた美しい鳥のさえずりに幸運のジンクスを感じるとする。
そんな幸運を感じながら学校に向かうと、クラスでは発表会の役決めの最中ですんなりと自分がしたかった役に決まったり、つまらない授業を中断して先生がゲームをしてくれたり、勘だけで解いたテストで満点を採ったり、それはもうとにかくいいことづく目な一日が訪れる。
こんな調子で日常を繰り返してきたものだからメルはいつから自分がこんな生活をし始めたのかがわからない。
家族や昔からの友人に聞けばわかるかもしれないが、みんな長い付き合いだ。
メルと同じようにいつからなのかきっと忘れてしまっているだろう。
だが、だからこそメルのことをよく理解している。
メルの両親はもうメルの両親を16年も務めているだけあって、メルのジンクスを感じ取る才能を信用していた。
昔は、外に出たくないと言っても無理やり外出させたりしていたが、そのたびに怪我をしたり、はたまた大きな事故に遭遇したりすることが何度も続いたため、次第にメルの才能の存在に気がついてきたのだ。
だからメルが外出をしたくないと言い出しても、すんなりと受け止めてくれる。
メルの友人も同じだ。
小学校の頃からメルが学校を休む度に、不運なことが起こり、メルが学校にいるときはいつもいいことばかり起こるのだからメルがジンクスの話を打ち明けてもいとも簡単に信用してくれた。
そんな人々に囲まれて高校生になったメルの生活は順風満帆だった。
自分で自分の幸運不運を見定めることができるなんて人生勝ち組である証拠なのだから。
顔に優しく触れる風が気持ち良くてメルは思わず顔をほころばせた。
久しぶりの太陽の光を浴びながら、鼻唄を歌って。
そう。
メルの外出は実に一週間振りだった。
不運のジンクスを感じ取っていたメルは、外出を控えていたのだった。
(ずっと嫌な感じがしていたけど、今朝のあの司会者のおかげでそれもなくなったわ)
一週間前、いつもどおり学校に向かおうと玄関を開けたときだった。
ドアの横に掛けてあった傘が落ちた。
ただそれだけだったがメルにはそれが寒気を感じるほどの不運がこの先に待ち受けていることを感じたのだった。
すぐにドアを閉めて自分の部屋に戻った。
そこから一週間メルは家にこもりっぱなしだったのだ。
とは言ってもここまで外出しなかったのはメル自身も初めてだった。
(一週間もこんな嫌な予感がするなんて、学校で何かあったのかしら)
確かに学校ではちょっとした騒ぎが起こっていたのだった。
メルは学校に着くやいなや校門の前が異様な雰囲気であることに気がついた。
大勢の人だかりが、校門に一枚貼られている張り紙ただ一点を見つめていたからだ。
(なんだろう?)
メルは人だかりをかき分けて張り紙の文字が読める距離まで近づいた。
本日休校に致します
その一言が小さなコピー用紙にでかでかと書かれていた。
「え、休校?」
メルはあまりにも驚きすぎて思わず心で思ったことが口に出ていた。
周りの生徒たちもメルと同じ思いだったのだろう。
口々に文句を言い始めていた。
「いったいいつから再開するんだ?」
「いいかんげにしろよ!」
「校長出てこい!」
メルは呆れて張り紙を見つめた。
(今日は確かにいいことがありそうに感じたのに。これがいいこと?)
しばらくそうして張り紙を見つめていたが、次第に校門の前の人だかりは小さくなっていった。
ここで張り紙を見ていても仕方がない。
肝心の学校が休みならメルがすることはひとつだ。
(私も帰ろ)
来た道を戻ろうと振り向いたメルはふと視線を感じた。
メルが横に振り向くと、そこにはメルより5つか6つは年上に見える男が立っていた。
その男はメルと目が合っても全く表情を変えることなくこちらを見つめている。
男の視線はあまりにもメルだけを見つめていたものだから、メルは知人の誰かなのかもしれないと思い記憶を張り巡らして思い出そうとした。
しかし、どう考えてもこんな男見たこともない。
見れば見るほど見たことのない男。
メルは、そんな男のまっすぐな眼差しが気持ち悪くて、男から視線をそらし、足早に校門の前から去っていった。
(やっぱりおかしい。今日は幸運のジンクスを感じて外に出てきたのに)
メルは足を緩めることはなかった。
あの男が追いかけてきているような気がしてしょうがなかったからだ。
確かにメルの足音ともうひとつ足音が聞こえる。
メルの足音はどんどん早くなる、もうひとつの足音もどんどん早くなる。
曲がり角を曲がろうとしたその時、メルの肩がうしろから勢いよく掴まれた。
「うわあ!」
メルは思わず大きな声で叫んでしまった。
「ちょっと、どうしたのよ。メル」
メルが驚いて後ろを振り向くとそこにはクインが立っていた。
「ク、クイン?」
メルは大きく息を吐いた。
「ああ、なんだ、クインかあ」
「なんだとは何よ。失礼ね」
「ごめんごめん。急に肩なんて掴んでくるからびっくりしちゃって。でもどうしたの?」
クインは、えっと、と小さく呟いてからにこっと笑顔を作った。
「最近メルの姿学校で見ていなかったなと思ってね。ねえ、どっかでお茶しない?久しぶりに」
クインとメルは学校からひと駅離れたビジネス街にある“ダミアンの店”というカフェに来ていた。
暖かな黄色い明かりに包まれた店内はビジネス街の喧騒を全く感じさせない。
ウォーキンシティには数え切れないほどのカフェやレストランが存在するというのに、
仕事に疲れたOLやサラリーマン、遊び疲れた若者、退屈を持て余したお年寄り、老若男女問わずウォーキンシティの住人はここが大好きなのだ。
それは、ここのサンドに秘密がある。
焼きたてのパンにはさまれたサクサクのカツ、カツにかかったソースがパンとレタスに染み込んで、それはそれは口の中に広がるソースの旨み。
ここのサンドを一度食べると他のサンドを食べることなんてできない。
そんなダミアンの店を、生まれたときからウォーキンシティに住んでいるクインやメルは学校帰りによく寄っていた。
だから久しぶりに話をするのならば、ダミアンの店でということになったのだ。
静かなクラッシク音楽がゆっくりと流れ、コーヒーの香りが漂う。
「ここの店久しぶりね、あ、すみません!ホットコーヒーふたつ!あとサンドも」
そう言いながら向かいに座ったクインをメルはまじまじと見つめて思った。
(本当に久しぶりだわ)
クインはメルと小学生の頃からの付き合いだ。
だからもちろんメルの才能のことも理解している。
クラスも今まで何度か同じだったが、女子特有のグループでは同じグループには属していなかった。
(クインは確かエレナと仲が良かったのよね)
だが、何度かこうしてお茶する仲ではあったのだ。
クインとメルはそこまで仲が良い訳でなないのだが、同じグループじゃない女の子というのは、同じグループの女の子よりも何かと相談や本音を言いあえたりするものだ。
(そういえば昔、クインとエレナにここで)
そこでメルは、クインの目を見つめた。
「クイン、エレナの話聞いたわ」
クインの目が悲しそうに光った。
「そっか、そうよね、学校中に知れ渡っているものね」
「エレナは大丈夫なの?」
「う、うん。今のところは」
「そう。私に何かできることがあればよかったんだけど」
メルはぎゅっと拳を握り締めた。
(私のこの力がもっと人の役に立てればいいのに)
「おまたせしました」
クインとメルの前にぽかぽかと湯気が立ち込めるホットコーヒーと熱々のサンドがふたつ置かれた。
メルは両手でカップを包み込むとホットコーヒーを一口くちに運んだ。
「メル、変わってない」
メルは驚いてきょとんとした顔をクインに向けた。
「え?」
「いま、自分に何かできることはないかって考えたでしょ?メルの力で」
メルは、目を瞬きながらカップを置いた。
「私、そんな顔に出てた?」
「ううん。前にここでそんな話したじゃない?エレナと三人で」
「私も。ちょうどそのこと思い出してた」
「あの時のメル、自分の力が誰かの力になれればいいのにって話してたでしょ?その時と同じように思いつめた顔してる」
「結局、顔に出てるんじゃない」
クインは笑った。
「まあ、そうなんだけど。でも私たちがエレナにできることはもうないわ。あんな結末になったのもエレナのお父さんが決めたことだし。エレナにだってどうしようもできなかったのよ。それに、今は学校が大変なことになっているしね」
クインは、サンドをひとつ手に取って一口。
自然に顔が笑顔になって美味しそうに味わっている。
だが、メルはそんなクインを不思議そうに見つめていた。
「学校が?今日の休校のこと?」
クインはサンドを飲み込む。
「今日だけじゃないじゃない。これでもう三日目よ」
メルがきょとんとした顔をクインに向けるものだからクインは首をかしげた。
「メル、知らなかったの?学校はもう三日連続で意味もなく休校になっているのよ」
「三日も!?なんでそんな」
「もしかして、学校を休んでいたの?この二日間」
「ううん。二日どころじゃない。一週間よ。しかも学校というよりは外にすら出ていなかったの」
「一週間!?メル、まさかまた不運の」
「そう。一週間前に不運のジンクスを感じてからずっと嫌な感じが抜けなくて。でも、今朝幸運のジンクスを感じてやっと外に出る気になった。それなのに学校は休校してるし」
「メルのジンクスが外れたってことは・・・ないわね」
メルはうなずいた。
「私が感じるジンクスは絶対に外れないもの。だから今朝のジンクスは一体なんだったのかしら」
クインは腕を組むとうーんと唸った。
メルはそんなクインの考え込む姿を見つめて微笑んだ。
「もしかして、こうしてクインとお茶することだったのかも」
「え?まさか、ただ喋ってるだけじゃない」
「うん。でも、なんだかそんな気がするのよ」
メルはそう言って微笑んだが、心の中に何かモヤがかかっている気持ちになった。
(なんでだろう。せっかく幸運のジンクスを感じたのに)
メルは皿の上に残ったサンドを見つめた。
とっくに冷めてしまったサンドに手を伸ばしたメルの心の中はさらにモヤがかかった様な気持ちになった。
クインとは店の前で別れた。
1週間ぶりに友人と話すことができてメルは嬉しかったが、学校が休校になったことがメルの中で引っかかっていた。
休校の理由が知りたいというわけではない。
メルは家へと戻る道の途中でふと立ち止まりポケットに入っていた携帯を開いた。
受信ボックスを見つめるが、ここ最近メールは誰からも来ていない。
メルはそんな携帯を真顔でじっと見つめた。
(学校が今日まで休校だったこと誰も教えてくれなかった)
メルと同じクラスの同じグループの子たちは、クインと同じで小学校の頃からの友達だ。
もちろん、メルの才能のことも理解しているし、クイン以上にわかり合えている存在とメルは思っている。
だからこそメルが学校を休むたびに最初こそは大丈夫?だとか、連絡をくれたのだがここ最近はメルの行動にも慣れてきたのか連絡をしてくれることは激減していた。
(もう私の行動はあの子たちにとっても当たり前の行動になったってことよね。それは私にとってもありがたいことなのかも)
メルは小さくため息を付いて携帯を閉じた。
(でも少し寂しいな。学校が休校していることぐらい教えてくれてもよかったのに)
そんなモヤモヤとした気持ちをメルいつもこうして振り払う。
自分の才能があるじゃないかと思いうことで。
メルのジンクスを感じ取ることができる才能はいつも自分を正しい道に導いてくれる。
(だから大丈夫。幸運のジンクスを感じた限り、きっとこれからいいことが起きる。きっと)
そんな風に自分にいい聞かせていたメルが再び歩き出そうとした時、
(誰かに見られている・・・)
後ろから視線を感じた。
メルが後ろを振り向くと、そこには今朝、校門の前に立っていたあの男がいた。
あの時と同じようにじっとこちらを見つめている。
顔は整っていたが感情のないその顔はメルにとって恐怖でしかなかった。
しかしメルは、その場から逃げ出すどころか思わず男の顔をじっと見つめ返していた。
怖くて足が動かず、逃げ出すことができなかったのだ。
男は相変わらずこちらを見つめている。
メルの脳裏にひとつの疑問が浮かび上がった。
(もしかしてこの人、私を尾けていた?)
そう思った瞬間メルの足はやっと動き出し、男に背を向けてその場から走り出したのだった。
リビングにいたメルの母親が顔をのぞかせて、メル、学校は?と玄関にいたメルに問う前にメルは自分の部屋に飛び込んで扉を閉めていた。
心臓がバクバクと音をたてて体中にものすごい速さで血を送っている。
だからメルはまだ家に帰っても落ち着くことができなかった。
「何なの。あの男」
あの男の顔がメルの脳裏に焼き付いて離れない。
じっとこちらを見つめる大きな瞳。
ようやくメルは落ち着いてきたのか、小さな息を吐いた。
そんなメルが顔を上げて部屋を見渡した時だった。
本棚に飾っていたぬいぐるみが床に落ちていることに気がついた。
きっと窓を開けていたから、風か何かで落ちたのだろう。
大抵の人間はそう思う。
だがメルは違った。
(嘘でしょ)
メルはその光景に、ただ単に部屋の床にぬいぐるみが落ちているというその光景に不運のジンクスを感じた。
こうしてメルの幸運は終わった。
だから、メルは次の日からまた家に閉じこもった。
その次の日も、またその次の日も。
あの日からメルは幸運のジンクスを感じることができない。
◇クイン◇
“私に危害を加えるようなら全力で阻止するよ。エレナを不幸にしてでもね”
エレナへの罪滅ぼし。
それがMr.Sの願い。
だが、Mr.Sのクインへの頼みごとは全くもって自己中心的なものだった。
「歪んでる」
クインはベッドの上で仰向けになって天井を見つめながらそうつぶやいた。
窓の外からは鳥のさえずりが聞こえる。
無茶な頼みごとを受けてから一夜が明けた。
クインは布団の中に潜り込み、目をぎゅっとつぶった。
Mr.Sのあの無邪気な笑顔がクインの目に焼き付いている。
(あの無駄に可愛い顔した笑顔・・・気持ち悪い)
その時、真っ暗なクインの瞼の裏にあの日のエレナの姿がふいに蘇った。
あの日、父親を亡くした日、エレナは本当に消えてしまうんじゃないかとクインは思った。
涙すら見せなかったあのエレナの姿。
エレナは人前で涙を見せたことがない。
だが、父親が死んで悲しくないわけがない。
エレナはこの悲しみを後悔をどうやって表現すればいいのかがわからなかったのだろう。
(そしてそれは今も。これ以上エレナの苦しむ姿は見たくない)
クインは目を開けて、布団の中から飛び出した。
「やるしかないってことね」
なんてやる気になったクインだったが、学校に着くなり愕然とした。
「ちょっと・・・何よこれ!!」
校門前には、人だかりができており、みんなぽかんとただ一点を見つめていた。
そんな人ごみの僅かな隙間からクインは張り紙の文字を読んだ。
「本日・・・休校に致します?」
周りでざわざわと騒ぎ始める生徒たちの声がクインの中で遠くなっていく。
「まさか」
クインにはわかったのだ。
「エレナの願いだからだ」
びくっと体を震わせてしてクインは振り向いた。
「ゴウ」
クインのすぐ後ろにゴウが立っていた。
「やっぱり。でも、どうやって?」
「言っただろう?俺は、人間じゃないんだ。大概の願い事は朝飯前だ」
(いや、そういうこと聞いているわけじゃないんだけど・・・まあいいや)
「でもなんでエレナがこんな願いごとを?」
「寝坊だ」
「ああ、寝坊したからか」
「エレナ!」
クインはエレナの部屋のドアを蹴破るのではないかと思うぐらいの勢いで開けた。
「クイン、おはよ」
エレナは部屋でコーヒ-を飲みながら本を読んでいた。
学校からエレナの家まで走ってきたものだからクインは肩で息をしていた。
「おはよ・・・じゃないわよ」
「じゃあなに?」
「学校のこと!自分が寝坊して遅刻するのが嫌だからって学校自体を休校にするなんて」
「まずかった?」
「まずいっていうか、そんな自分勝手な願い」
「学校あったほうがよかった?」
「そりゃ、授業うけるよりかは休みの方がうれしいけど」
「なんだ、よかった」
「じゃなくて、願いごとをこんなことに使っていいの?私情で学校のみんなを巻き込むのは」
エレナは、視線をクインから窓へと向けた。
「クインは私の願いごとがくだらないって言いたいのね?」
悲しげな表情をして外を見つめるエレナを見て、クインは言葉に詰まった。
「そ、そんなことは」
「私、今日は本当に起きられなかったの。最近色々ありすぎて疲れていたのかもしれないわ」
まあ、確かに色々起こりすぎてはいるわねとクインは心から思った。
エレナは視線をクインに戻さずに、じっと窓の外を見つめていた。
「エレナ?」
「クイン、今日は帰ってくれる?」
その一言にクインはびくっと体を震わせた。
「え?」
仕方がないからクインは、エレナの部屋を出た。
(あんなエレナ初めて見た。そりゃ確かにお父さんが死んで、その罪の帳消しのためにゴウなんか寄越されて、疲れるのもわかるような)
クインは1階へと続く階段を下り始めた。
エレナの家は、このあたりで一番の豪邸と言っていいほど大きかった。
小さい頃からよく遊びに来ていたこの家をクインはお城の様に感じていた。
(私の家と比べたら、そりゃお城に見えるわよねえ。でも)
昨日のMr.Sの城のような屋敷を見た後だからか、昔ほど大きくは感じることはできなくなっていた。
1階のリビングにはフカフカの真っ白なソファー、大きなテレビ。
だがそこには誰もいない。
(エレナのお母さん、また仕事でどっかの国に行ってるのかな?)
エレナの母親は、元々世界を飛び回る仕事をしていて、あまり家にいることはなく、
父親も生前、会社では重役の仕事をしていて家にいることの方が少なかった。
(それでも、人がひとりいなくなるっていうのは、こういうことなんだ)
クインはため息をついた。
(帰ろう。帰ってテレビでも)
「待て」
その声に驚いて、クインは振り向いた。
ゴウが立っていた。
「ゴウ?何?」
ゴウは相変わらず真顔で、何を考えているのかわからない。
「昨日の約束のことだ」
「Mr.Sの?」
「そこの駅前のカフェにSはいる。そこでコーヒーでも飲みながら待っている、と」
「はあ、呑気なもんね。こっちは友達を怒らせちゃって落ち込んでるのに」
ゴウは何も言わなかった。
そんなゴウをクインはじっと見つめた。
ゴウは表情を変えず、クインを見つめ返した。
「なんだ?」
「ねえ、ゴウはこのことエレナに伝えなかったの?」
「ああ。伝えたところで何の意味もない」
(確かに。こんなこと知らないほうがいいに決まってる。ゴウは思ったより気が利くみたいね)
クインは口を開きかけたが、ゴウはさっきから真顔でじっとクインを見つめている。
いくらイケメンでも真顔で見つめられるのはあまりいい気分にはならない。
「わ、わかったわよ。今から行けばいいんでしょ?」
「ああ、頼んだ」
そう言ってゴウは2階へと戻っていった。
そんなゴウの後ろ姿を見つめてからクインはエレナの家を飛び出した。
駅前のカフェに入った瞬間に、Mr.Sがどこにいるのかがわかった。
昨日は気が動転していてよく分かってはいなかったが、Mr.Sは足がすらっと長くそれに見合った身長の高さの持ち主だったのだ。
だからこそ、店内でも注目を浴びていた。
「ねえ、見てあのひとモデルかなあ?」
「あんなにイケメンなら俳優さんじゃない?」
そんな話声がクインに聞こえてくる。
(残念。どっちもはずれ。こいつの職業は詐欺師よ)
Mr.Sは窓に向いたカウンター席に座って外を眺めていた。
クインはMr.Sの隣に、カバンをわざと叩きつけるように置いた。
Mr.Sがクインに振り向く。
「やあ、エレナの友達さん」
「どうも」
クインはMr.Sの隣に座った。
「機嫌が悪いようだけど?」
「別に。さっさと用件すまして帰りたいだけ」
Mr.Sは、やはり無邪気な子供のような笑顔で微笑んだ。
(でた、この気持ち悪い笑顔)
クインはMr.Sの笑顔から目を背けて窓の外を見つめた。
人々が足早に街を駆け抜けていく。
「クインの今日の願いごとは学校を休校にしたこと」
「休校に?なんで?」
「あんたのせいよ」
「私のせい?」
「ここ最近色々ありすぎて疲れたんだって。それで今日寝坊したみたい」
「寝坊ねえ」
「じゃあ、これでいい?私、帰るわ」
「君は、この願いごとに何か違和感を感じなかったのか?」
クインは、Mr.Sを見つめた。
「え?」
「違和感だよ。寝坊なんかでエレナがそんな下らない願いごとをすると思うのか?」
「あんたに何がわかって」
「だから君に聞いているんだよ、君はエレナと付き合いが長いだろ?だから、感じないのか?違和感を」
「違和感なんて」
(ん?でも)
クインの脳裏に悲しそうにクインから視線をそらしたエレナの姿がよぎった。
「確かに、あんなエレナの姿初めて見たかも」
「そう。それが違和感だ」
「で、でも違和感って言うの?こんなこと」
「この人のこんな姿初めて見た、という言葉は付き合いの浅い人間が言うなら軽く聞こえるが、君は幼稚園の頃からエレナと知り合いなのだろう?しかも家族ぐるみで」
「そうだけど」
(何で知ってるのよ)
「私の情報網を馬鹿にするな」
(心まで読まれてるし)
「とにかく、君のように付き合いの長くそして深い人間がそう感じたということは、それはその人に対して何か違和感を抱いているということ」
「そう・・・なのかな」
「そうなんだよ」
(こいつのペースに乗せられている気もするけど)
「さすがだな」
「え?」
「君は色々とこの街で揉まれただけある。私の話にそう簡単には乗らない。だが、信じてもらわないと。なぜなら、私が言っていることは本当なのだから」
Mr.Sは席から立ち上がった。
「ちょっと!どこ行くの?」
「学校だ」
「なんで?」
「君は、エレナの態度には違和感があると感じた」
それからまたMr.Sはにっと笑ってこう言い放った。
「私はエレナの願いごとには何か意味があると感じる。それを確かめたい。」
Mr.Sは学校の校門に貼られた張り紙を見つめいていた。
クインはそんなMr.Sをため息をつきながら後ろから見つめる。
「朝と特に変化はないわよ。人がいないくらいね」
(それにしてもゴウはどうやって学校を休校にしたんだろう。また校長でも操ったのかしら)
クインは少し校長先生を不憫に感じ始めたがすぐに頭を振った。
(今はそんなことよりも)
「ねえ、Mr.S、もう私帰っても」
「人がいた?その中にエレナはいなかったのか?」
「いるわけないじゃない。エレナは寝坊したんだから。あ、でも、ゴウはここに
いたけど」
その言葉でMr.Sはクインに振り向いた。
「な、何よ」
「それだ」
「ゴウのこと?」
「ああ。ゴウはエレナに言われた。だからここに来たんだ」
「はあ」
クインは呆れた顔をしてMr.Sを見つめた。
「なんだ?その顔は」
「Mr.S、あなたはエレナがあなたに対して害を与える願いをしないように私に報告させてるんでしょう?どう考えてもこの願いは、あなたに対して害のある願いに見えないわ」
「君は本当に単純で馬鹿だな。一見何の接点がなくても突如として繋がりを持つ時がある」
「そんなことある?」
「ああ。私自身がそうだから」
(詐欺師は・・・確かにそうかも)
「それに私にはわかる。エレナはこんなくだらない願いごとなどしないと」
「待って。さっき言ってたわよね?浅い付き合いの人間には違和感なんて感じ取れないって。深い付き合いの人間にしか気づかないって」
「それは、凡人の話だ」
Mr.Sの瞳が光った。
「私は、人の顔を見ればその人がどんな人間なのか瞬時に分かってしまう。私は世界一の詐欺師だから」
(自称ね)
「自称ではない」
(う、また心を)
「とにかく、まだ私に害のない願いだと断定できない」
「断定してもいいように思えるのは私だけなの?」
「物事をそう簡単に単純に捉えない方がいい。ひとつひとつの行動に実は意味が隠されている。それに気がつかないからみんな私に騙されるんだ」
詐欺師の言うことなんて当てにならない。
特にこんな適当な言葉を並べた目の前の男の言葉など。
だが、なぜだろう。
クインはMr.Sの言葉に説得力を感じ始めていた。
じっとクインはMr.Sを見つめる。
「本当にこのエレナの願いには意味があると思う?」
「ああ。思う。エレナを一目見たときから分かっていた。彼女は人の危機を察して手を差し伸べることができる人間だと」
クインは黙ってただMr.Sを見つめながら思い出した。
小さな教室で、クラス全員からいじめられたとき、エレナだけが助けてくれたことを。
(こいつは本当にわかるんだ)
「エレナは誰かを救おうとしている・・・とか?」
(昔、私を助けてくれたように)
Mr.Sは、にっと笑った。
「そう。だから学校を休校にした」
「Mr.S」
「なんだ?」
「もしそうならやっぱりあなたには害のない」
「何度も言わせるな。何がどう繋がるのかはまだわからない。この願いが何と繋がっているのかまだなにひとつ分かっていいない。そこがはっきりするまでは私は安心して眠ることすらできない」
クインは何も言わずにこう思った。
(こいつ、本当は楽しんでるな)
“明日の朝、いつも通り学校へ向かうといい。ただし、ゴウには見つかるな。なぜゴウが来るかわかるだって?私の勘では明日も学校は休校となり、今日と同じようにゴウが校門の前に来るとふんでいるからだ”
そう言われた言葉をクインは思い出しながら校門の前をじっと見つめていた。
ゴウが来ても見つからないように校門前の並木道に植えられている中でも一番の大木の影に隠れながら。
Mr.Sの言葉通りに実行に移すのはあまりいい気はしなかったが、エレナがくだらないことを願わないというMr.Sの言葉にはクインは賛同していた。
だから結局今日も登校したのだった。
校門の前にはたくさんの人だかりが昨日と同じ様に出来上がっている。
みんな、校門の前に貼られた張り紙を見て、またか、いい加減にしろ、ラッキー、など様々な声をあげていた。
(Mr.Sの言うとおり、本当に休校になったわ)
その時、足早に校門の前に歩いてきたどう見ても高校生ではない男の姿が見えた。
「あ」
ゴウが校門の前にやってきたのだ。
ゴウは校門の前で騒ぐ人だかりをじっと見つめていた。
相変わらずの真顔のせいでクインにはゴウが何を考えているかのかわからない。
(どうしてMr.Sはゴウがここに来ることもわかったんだろう)
ゴウはしばらくそうしていたが、そのうちだんだんと人だかりが減っていき誰もいなくなるとゴウもその場を立ち去った。
ゴウの後ろ姿をクインは見送ると、クインもその場から立ち去った。
駅前のカフェに入ると、中にいた女の子たちが窓際のカウンター席を見てきゃあきゃあと騒いでいたが、クインは全く気にすることはなくその女の子たちの視線の先へと向かった。
Mr.Sはクインを見るとにっと笑った。
「やあ、おはよう。自称エレナの友達さん」
その呼び方にむっとしながらもクインはMr.Sの隣に座った。
「Mr.S。あなたの言うとおりだったわ。今日もまた休校になった」
「そうか。では、エレナの今日の願いも学校を休校にしてほしいという願いだったということか」
「どうしてわかったの?今日も休校になること。それにゴウがあの場に現れることだって」
「私の勘だよ」
そう言って子供のような無邪気な笑顔をクインに向けてきた。
ちょうどMr.Sとクインの後ろを通りがかった女性はそんなMr.Sの顔に思わず見とれていたようだったが、クインはもう見とれたりしない。
Mr.Sをじっと睨みつけていた。
「ふざけないで」
「ふざけてなどいない。むしろどうして君にはわからないのかがわからない。やはり、君は自称エレナの友達なんだな」
クインは、むっとしてMr.Sから視線をそらした。
「まあいい。特別に教えてあげよう。昨日も言ったように私にはわかる。エレナは人の危機を察して手を差し伸べることができる人間だと」
「私もそれぐらいわかるわよ。ずっと小さい頃からエレナとは・・・一緒だったんだから」
友達という言葉をクインが使わなかったのは、少しMr.Sの言うとおりかもしれないと納得してしまったからだった。
Mr.Sはそんなクインの気持ちをわかっているくせに気にすることなく話を続けた。
「昨日、学校が休校になった時、君の前にゴウが現れた。ゴウは自分から君に声を掛けた。そうだろう?」
クインは驚いて、Mr.sを見つめた。
「やはり、そうか。そして君とゴウはエレナの元へと向かった。そこでエレナはこの願い事は自分が寝坊したから願ったと言って、君はすんなりと信用して、私のいるこのカフェに来た。そして、今日。昨日と同じように学校は休校になった。そこにゴウは来たが、誰に話し掛けるでもなく去った。そんなゴウを見届けてここに来た自称エレナの友達である君は昨日のエレナの話を信用しきっているため、きっと今こう思っているだろう。今日もエレナは寝坊したのかと」
「そんなことは」
「それは、私が君に助言したからだ。エレナが誰かを救おうとしている、と。もし、君に私が助言も何もしていなかったら、君は、エレナは今日も寝坊したと信じ込んでいたはずだ」
クインは、口をつぐんだ。
Mr.Sは話を続ける。
「つまり、こういうことだ。昨日の休校はエレナが君に寝坊したから休校にしたと思わせるため。そして、今日休校にしたのは、エレナが救いたいと思っている相手の様子を探るため」
「じゃあ、ゴウが校門の前にいたのは」
「エレナに様子を見るように言われていたのだろう。だが、誰にも声を掛けなかったということは、今日は現れなかったということだ」
「エレナが救いたいと思っている人が?一体誰なんだろう」
「これも私の勘だが、エレナはきっと救いたいと思っているその人間が現れるまで学校を休校にし続けるはずだ」
クインは驚いて目を見開いた。
「もし、そうだとしたら大変だわ」
クインはカバンを肩に掛けると椅子から立ち上がった。
「どこに行く気だ?」
「エレナのところに決まってるじゃない。こんな願いごとやめてもらわないと。もっと他にもやり方があったはず」
その時、Mr.Sが大きなため息をついた。
「つくづく思うが、本当に君はエレナの友達なのか?」
クインはむっとした顔でMr.Sを睨みつける。
Mr.Sはそんなクインから視線を逸らして窓の外を見つめた。
「エレナが君にこの願いごとは自分が寝坊したからだと言ったこと、それは本当の願いごとがあることを知られたくなかったから。疲れているからほっといて欲しいとでも言えば、君は引き下がる・・・そう思ったからだろう。つまりこの願いはエレナが誰にも邪魔されず自分で叶えたいと思っているんだよ。なのに君はそんなエレナの邪魔をする気なのかい?」
Mr.Sは視線をクインに戻した。
その目は鋭くクインを睨みつけている。
「私は、自分の罪を帳消しにしたいがためにゴウをエレナの元へ送った。彼女が望むことを何でも叶えるために。だから、エレナの願いを邪魔しようとする奴は許さない。そして、エレナが私に害のある願いごとをすることも」
クインはMr.Sのその力強い瞳の圧力に圧倒され、言葉が出なかった。
だが、今の言葉には昨日から感じるMr.Sの歪んだ自己中心的な思いとは何か別の思いを感じた。
Mr.Sはにっと笑ってさっきまでの表情を消し去るとこう言った。
「まあ、ここまで聞いておいて君がエレナのところに行こうがどうしようが勝手だが」
その顔はいつもの無邪気なあの笑顔に戻っていた。
クインはバッグを肩から下ろして、椅子の上に置いた。
「行かないのか?」
クインは大きく息を吐くと、まっすぐMr.Sを見つめた。
「そこまで言われて行く奴なんて誰もいないわよ。なにより、Mr.S。あなたを敵に回すとかなり面倒なことになりそうだわ」
Mr.Sは一瞬拍子抜けした顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「君はやはりこの街の人間だな、よく分かっているじゃないか」
「でも、これ以上学校が休みになるのは困る」
「それも安心していい。きっと明日には現れる」
どうしてそう思う?とクインが問いかける前にMr.Sは答えていた。
「私の勘だ」
◆ゴウ◆
ゴウはエレナの目的がわからない。
一昨日も昨日も今日も学校を休校にしてほしいだなんて。
だが、エレナの目的なんてゴウは考える必要なんてない。
ただ単にエレナの願いを叶えるだけ。
それがMr.S、ショーンの願いであるから。
ゴウは、校門の前でエレナに言われた人間を待ちながら思い出していた。
初めてエレナと出会った日。
間接的にとはいえ、自分の父親を死に追いやった男の元から来たゴウをエレナはすんなりと受け入れた。
「罪滅ぼしなんて別にいいのに。それで?本当に何でも叶えてくれるの?」
そんなエレナの言葉にゴウは、信じるのか?と思わず問いかけていた。
「だって何だか面白そうじゃない」
エレナの言葉に無感情なゴウもさすがに少し驚いた。
だが、すぐによくあることなのかと納得した。
納得したというよりも、ただ単に考えるのが面倒だったのだ。
目の前の人間はゴウのことを信用してくれているのだから、それでもういいと妥協したにすぎなかった。
そんなゴウを見て、エレナは微笑んだ。
「じゃあ、聞いてよ。私の願いごと」
エレナの初めての願いごとがゴウの中で響く。
ゴウは少し俯けていた顔を上げた。
目の前にいたたくさんの人だかりは一昨日、昨日と同じ展開にもう飽き飽きしているようでまばらになっていた。
そんなまばらな人だかりの中にエレナの言っていた人間が紛れ込んでいた。
ゴウはその人間のそばに近づいた。
◇クイン◇
クインは昨日と同じ様に大木の後ろからゴウの姿をじっと見つめていた。
「これでわかっただろう?」
そんな声を聞いてクインは後ろを振り向いた。
昨日と違ってクインの後ろにはMr.Sが立っている。
カフェで話した後エレナが救おうとしている人物を直に見たいと言い出したMr.Sはこの並木道の大木の前でクインと今朝待ち合わせをしていた。
おかげで大木に隠れている意味はあまりない。
並木道を通り過ぎていく人々、主に女性だが、みんなMr.Sの顔に見とれてその場で立ち止まってしまうからだ。
そんなことMr.Sは全く気にしない。
「ゴウが今見つめている人間こそエレナが救いたいと思っている人間だ」
クインはもう一度視線をゴウに戻した。
そんなクインをMr.Sは見つめる。
「なんだ、君も彼女と知り合いなのか」
「ええ。あの子のこと知ってる。小学校からの友達なのよ。だからなんとなくわかったわ。エレナがあの子を救おうとしていること」
(メルの才能に関係があるのね)
クインはMr.Sに振り向いた。
「あなたこそこれでわかったでしょう?どう考えてもあなたに対して危害を加える願いごとでないことが」
「いいや。まだわからない」
でしょうね、とクインが言う前にMr.Sは言葉を続けた。
「だから、君にはまだしてもらいたいことがある」
クインは大きなため息をついた。
メルはゴウと目が合うと、足早にその場から立ち去り始めた。
きっとあの真顔が怖かったんだろうなとクインは思った。
メルが校門の前から立ち去ったと同時にクインはメルの後を追い掛けるために走った。
ゴウよりも先に声をかける必要があったからだ。
「ひと駅向こうにダミアンの店というカフェがある。そこに君の友人を連れてきてくれ。君は彼女と世間話でもしていればいい。私は彼女の顔が見たいだけだ。顔さえ見ればどんな人間なのかわかる。なぜダミアンの店かって?あそこのサンドは絶品だからだ。この街に住んでいる者なら誰でも知っているだろう。それに私は腹が減った」
そう。つまりはこういうことなのだ。
◆ゴウ◆
ダミアンの店と書かれた建物の中に入っていくクインたちをゴウはじっと見つめていた。
ゴウは分かっていた。
これはきっとショーンの入れ知恵だと。
(クインも彼女と知り合いだったのか)
エレナの願いごと・・・というよりかほとんど頼みごとのようなものだったのだが、ゴウはエレナから友人であるメルの様子を見てきてほしいと言われていた。
「メルがいつ現れるかわからないけど、学校を休校にしたからきっと幸運のジンクスを感じて外にでてくると思うの。メルがもし現れたら明日の朝まで見ていて欲しい。明日の朝、家から出てくるか出てこないかだけを教えて」
エレナの言葉の意味がよくはわからなかったが、エレナがメルという人間に何かをしようとしていることだけはわかった。
だが、ゴウはそこで考えることをやめた。
考えても意味がないからだ。
そもそも興味もない。
自分はショーンの願いごとを叶えるだけ。
つまりエレナの願いごとを叶えるだけ。
ゴウはそこでじっと立ったままクインとメルがダミアンの店から出てくるのを待っていた。
◇クイン◇
ダミアンの店に入ると、端の席にMr.Sが座っている姿がクインの目に映った。
あっちの席にしましょなんて言ってクインはメルをうまく誘導していく。
クインはMr.Sにメルの顔が見えるように、座らせた。
店内には静かなクラッシク音楽がゆっくりと流れている。
「ここの店久しぶりね、あ、すみません!ホットコーヒーふたつ!あとサンドも」
クインは店を見回した。
(この店、本当なつかしい。高校生になる前はここでエレナといろんな話したな)
「クイン、エレナの話聞いたわ」
クインは驚いてメルを見つめた。
一瞬今回の休校のことかと思ったがすぐにエレナの父親のことだと気がついた。
「そっか、そうよね、学校中に知れ渡っているものね」
「エレナは大丈夫なの?」
「う、うん。今のところは」
(大丈夫とは本当は言えないんだけど)
「そう。私に何かできることがあればよかったんだけど」
メルはぎゅっと拳を握り締めた。
そんなメルの姿を見てクインは思い出した。
かつてここで、クインとエレナはメルから相談を受けたことを。
「おまたせしました」
クインとメルの前にぽかぽかと湯気が立ち込めるホットコーヒーと熱々のサンドが置かれた。
メルはホットコーヒーを一口くちに運んだ。
「メル、変わってない」
メルは驚いてきょとんとした顔をクインに向けた。
「え?」
「いま、自分に何かできることはないかって考えたでしょ?メルの力で」
まだ中学生だった頃、メルは悩んでいた。
メルの幸運と不運を感じることができるジンクスの力は自分の役には立つ才能だが、
他人の役には全くと言っていいほど立たないのだ。
自分ばかりがいい目にあっておきながら誰も助けることができないことにメルは嫌気がさしていた。
そんな相談をメルはクインとエレナにここで打ち明けた。
今、目の前にいるメルはあの時と同じ顔をしているとクインは感じたのだった。
メルは、目を瞬きながらカップを置いた。
「私、そんな顔に出てた?」
「ううん。前にここでそんな話したじゃない?エレナと三人で」
「懐かしい。あったわね、そんなこと」
「あの時、自分の力が誰かの力になれればいいのにって話してたでしょ?その時と同じように思いつめた顔してた」
「結局、顔に出てたんじゃない」
クインは微笑んだ。
「まあ、そうなんだけど。でも私たちがエレナにできることはもうないわ。それにこれはエレナのお父さんが決めたことだし。エレナにだってどうしようもできなかったのよ。それに、今は学校が大変なことになっているしね」
クインはサンドに手をのばした。
ここダミアンの店のサンドはMr.Sに言われるまでもなくクインの大好物でもあったのだ。
久しぶりに食べるダミアンのサンドはやっぱり絶品だった。
パンに染み込んだソースの旨みが口いっぱいに広がる。
その言葉にメルは不思議そうな顔を上げた。
「学校が?今日の休校のこと?」
クインはサンドを飲み込んだ。
「今日だけじゃないじゃない。これでもう三日目よ」
メルがきょとんとした顔をクインに向けた。
そんなメルを見てクインは首をかしげた。
「メル、知らなかったの?学校はもう三日連続で意味もなく休校になっているのよ」
「三日も!?なんでそんな」
(まさか、そんなことも知らなかったなんて)
「もしかして、学校を休んでいたの?この二日間」
「ううん。二日どころじゃない。一週間よ。しかも学校というよりは外にすら出ていなかったの」
「一週間!?メル、まさかまた不運の」
「そう。一週間前に不運のジンクスを感じてからずっと嫌な感じが抜けなくて。でも、今朝幸運のジンクスを感じてやっと外に出る気になった。それなのに学校は休校してるし」
「メルのジンクスが外れたってことは・・・ないわね」
メルはうなずいた。
「私が感じるジンクスは絶対に外れないもの。だから今朝のジンクスは一体なんだったのかしら」
クインは腕を組んで考えた。
(エレナが救いたいと思ったのはきっとこのことだったのね。それにしてもメルが一週間も不運のジンクスを感じていたなんて)
「もしかして、こうしてクインとお茶することだったのかも」
その言葉にクインは顔を上げた。
「え?まさか、ただ喋ってるだけじゃない」
メルは微笑んだ。
「うん。でも、なんだかそんな気がするのよ」
再びコーヒーを口に運ぶメルを見つめてからクインは自分の後ろにいる客として振舞うMr.Sを見つめた。
メルのジンクスは決して外れることはない。
学校を休校させたことがメルの幸運のジンクスに関わっていることに間違いはない。
だからこそエレナはゴウに様子を見に行かせたのだから。
しかし、クインにはその幸運にMr.Sも関わっている様になぜか思えてならなかった。
ダミアンの店を出て、クインはメルに尋ねた。
「メル、こんなに長く不運のジンクスを感じたことってあったの?」
メルは首を振った。
「今まで長くても3日とか4日とかそれぐらいしか感じたことはなかったわ。それに私、ちょっとした不運ぐらいなら外に出ていたの」
「え、そうだったの?」
「それぐらいなら外に出てもそんなひどい目に合わないもの。でも一週間前に感じた不運のジンクスは、ちょっとした不運とかじゃなかった。寒気がするほど嫌な予感がしたの」
(メルが感じた不運の正体を・・・エレナは知っている?)
メルはクインに微笑んだ。
「でも、もう大丈夫。幸運のジンクスを私は感じたんだから。ありがとう、クイン。また学校でね!」
そう言ってメルは明るい笑顔をクインに向けた。
クインはメルのそんな顔を見て安心した。
(そうよ。きっと、大丈夫。メルは幸運のジンクスを感じたんだから)
「うん、また学校で!」
メルの後ろ姿が小さくなっていく。
クインはふうっと息を吐いた。
「何を安心しているんだ?」
びくっと体を震わせてクインは後ろを振り向くとMr.Sが立っていた。
「ちょっと驚かせないでよ」
「彼女、変わった才能を持っているんだな」
「え?ああ、メルのジンクスを感じるって才能ね。いいわよね、あんな才能あれば」
「彼女はもう家から出れない」
「え?」
クインは驚いてMr.Sの顔を見つめた。
「今、何て?」
「彼女に降りかかる不運は止まらない。顔を見てはっきりした」
「何が?何がはっきりしたって言うの?」
「彼女は恨まれている。それも1人じゃない。何人もの人間に」
クインは目を見開いた。
「そんなことまでわかるの?」
「顔を見ればどんな人間なのかわかると言っただろう?彼女・・・メルは幸運、不運のジンクスを感じることができ、それを生きてくいための手段にしている。それはつまりメルの周りの人間が、メルの力を信用し、理解しきっているということ」
クインは黙ってMr.Sの言葉を聞いていた。
Mr.Sは言葉を続ける。
「メルが成長すればするほどメルの才能を知る人間は増える。それと同時に増える感情がある」
メルの才能を小学生時代から知っているクインは何度も思った。
メルの才能が羨ましいと。
「それって・・・もしかして、嫉妬?」
そう言ったクインをMr.Sは見つめた。
「メルの才能は誰もが羨む才能。メルへの嫉妬がメルをひどい目に合わせようとしているの?でもそれは所詮嫉妬でしょ?」
「嫉妬も時間を掛ければ憎いという気持ちに成長するものさ」
「そんなの逆恨みじゃない」
(それに何よりも)
「メルを恨んでいる人はメルにとってとても近い人ってことじゃない!」
「そうゆうことになるな。そして、エレナはそれが誰か知っていて学校を休校にした」
「じゃあ、メルを恨んでいる人って」
「学校の人間だ」
◆ゴウ◆
ダミアンの店からクインとメルが出てきた。
クインとメルはそこで少し話をしてから別れ、メルはひとりで駅に向かい始めた。
その一部始終を銅像の様に微動だにせず見つめていたゴウはメルの後を追い始めた。
メルに見つからないように、またクインが追いかけてくることも踏まえて遠すぎない距離をゴウはとっていった。
その時、突然メルは足を止めた。
何か考え事をしている様だったが、ゴウには全くもってわからない。
ショーンの様にゴウは人を見極めることができない。
だからただじっと見つめるだけだった。
たいして距離もとらずにメルを見つめていたものだから携帯から顔を上げたメルが振り向いたその時。
ゴウとメルは勢いよく目と目がぶつかってしまった。
メルはしばらく目の前にいたゴウに驚き言葉が出ないようで固まっていたが、我に返るとその場から逃げるように立ち去った。
“メルがもし現れたら明日の朝まで見ていて欲しい。明日の朝、家から出てくるか出てこないかだけを教えて”
そうエレナから言われていたゴウは逃げるメルを追いかけたくはなかったが、追いかけるしかない。
メルが家へと駆け込んだ様子を見るとゴウはメルの家を見上げた。
2階建ての家で2階の窓が開いている。
メルの部屋かはわからないが、その一点をゴウはそこからただ見つめていた。
もはやそんなゴウの姿はどこからどう見ても立派なストーカーだった。
ゴウはずっとそこに立って2階の窓を見つめていたものだからいつの間にか日が暮れていたことにすら気がついていない。
「ゴウ」
ゴウは何時間ぶりかに視線をメルの部屋の窓からそらした。
「クイン」
クインの肩が小刻みに震えている。
「何してんのよ。こんなところで」
クインが笑いを堪えているのが人を見極めることができないゴウでもわかった。
「ゴウ、あなたがエレナの願いごとを忠実に叶えているのはわかるけどこのままだと警察に捕まるわよ」
ゴウは視線をメルの部屋に戻す。
「俺はエレナの願いごとを叶えるだけ。どんな願いごとでも」
「はいはい。本当にご立派ね」
クインもメルの部屋の窓を見つめた。
「ここに何の用だ?」
クインはその質問には答えなかった。
「メルはもう部屋から出れない。そうMr.Sに言われたの」
ゴウは視線をそらさない。
「エレナがどうやってメルの不運に気がついたかはわからないし、エレナがどうしてこの
願いごとをひとりで叶えようとしているのかも私にはわからない。でも事情を知った以上、私もメルを救いたい」
ゴウは表情を変えずに相変わらずメルの部屋の窓を見つめている。
そんなゴウを見て、クインは瞬きをした。
「ゴウ、もしかしてエレナの目的を知らないの?」
ゴウは相変わらず表情を変えなかった。
クインは吹き出した。
「よく目的を聞かされずにメルを何時間も監視できたわね」
「目的など知ったとところで意味がない。俺がやることは同じだ」
「そうだけど、理由を知って変わることだってあるわ。ゴウがこうしてここにいることにだって大きな意味があるのよ」
ゴウは視線をクインに向けた。
「ごめん、嘘。特にない」
そう言って無邪気な笑顔を向けたクインをゴウは軽く睨みつけた。
「でも、知っていて損はないと思う」
ゴウは何も答えない。
「どうせ今日一日エレナにメルの様子でも見てこいとか言われてんでしょ?だったらここで一人でじっとしているのも退屈そうだし、私の独り言だと思って聞いててよ」
クインは、今日一日でわかったことを話始めた。
メルの才能のこと、メルを恨む人間がいること、そのことでエレナが学校を休校にしたいと願ったこと。
一通り話終えたクインは小さく息を吐いた。
「ってこと全部Mr.Sがいなければわからなかったわ。悔しいけど。それにあいつは」
クインは首を振った
「いや、いいや。とにかくエレナはメルを救おうとしているのよ。そのためにあなたに様子を見てくるように言ったの」
きっとクインは誰かに話を聞いて欲しかったのだろうとゴウは思った。
エレナの親友でありながらもエレナの目的に気が付けなかった自分が悔しくて。
(それにしても)
ゴウはメルの部屋を見つめる。
「エレナはどうしてわかったんだ?メルに不運が来ることを」
「私にもそれはわからない。でも、ただわかるのはエレナは昔から人の危機を察することできる人間だってこと。私も昔救ってもらったことがあったから」
ゴウはクインを見つめる。
クインは少し俯いて悲しそうに笑った。
「私ね、小学生の頃」
クインはそこで言葉を切った。
ゴウはそんなクインを見て昔いじめにでも合っていたのだろうかと思った。
クインは顔をあげてゴウを真っ直ぐに見つめた。
「小学生の頃、私、騙されて、いじめられて、脅されて、殺されかけたことがあったんだけど」
しばらくふたりの間を沈黙が包んだ。
ゴウは聞き直す。
「騙されて?」
「騙されて、いじめられて、脅されて、殺されかけたのよ」
「・・・そうか」
今いち、どうゆう子供時代なのかゴウは想像がつかなかったがとりあえず頷いておいた。
クインも頷き、話を続けた。
「まだ小学生だったからこんなにもひどいことに連続して巻き込まれたことはなかったのよ。だから、その頃はどうしたらいいのかわからなくて」
ゴウは思った。
大人になっても騙されて、いじめられて、脅されて、殺されかけた人間はあまりいないだろうと。
「本当に途方にくれていたわ、あの頃。それでも周りには迷惑を掛けたくなくて誰にも相談しなかったし、何事もなかったように学校にも登校してた。ただ、別のクラスだったエレナだけは違った。エレナと朝、学校で会った時にいつもどおり笑顔でおはようって言ったの。それだけだったのにエレナは」
“クイン、何でそんなことになってるの?”
「エレナにそう言われて私、腰がぬけちゃって。そこからぽつぽつと話始めてエレナは全部ゆっくり聞いてくれたの。そして一緒に解決策を考えてくれた」
クインはゴウを見つめた。
「ただ一言おはようと言っただけでエレナは私の異変に気がついたのよ。エレナはね、そういう子なの。きっと今回もそう。なんてことないことからメルの危機を察知したのよ」
(クインの子供時代の話はともかく・・・エレナは危機を察して、メルを救おうとした。そんな時に何でも願いを叶える俺と出会った訳か)
「俺はメルの危機が去るまで学校を休校にし続けないといけないってことか」
クインは首を振った。
「それはちがうわ。ゴウ、あなたがメルのことを報告したら、明日はきっとエレナはもう休校にするように願わないはずよ」
ゴウはクインを見つめる。
「なぜわかる?」
クインはなぜか怪訝な顔をした。
「Mr.Sの勘よ」
◇クイン◇
翌日、Mr.Sの言うとおり学校は再開していた。
職員室の前はこの前以上の保護者たちでごった返していた。
校長は相変わらずへらへら笑いながら保護者たちに謝っている。
そりゃ校長はゴウに操られてるだけで何も考えていないからどうしようもないわ、なんてクインは思いながら階段を駆け上がった。
教室に入ると、エレナはもう席に着いていた。
クインは、にっと笑顔を作ってエレナの席へと向かった。
「エレナ、おはよ」
クインを見つめたエレナは微笑んだ。
「おはよう。クイン」
「エレナ、大丈夫なの?少しは落ち着いた?」
「ええ。ごめんね。クインにも迷惑掛けて」
「いいのよ。そりゃこれだけ色んなことが重なればエレナだって混乱するわよね」
クインは昨日、ゴウに口止めをしていた。
自分がエレナの本当の目的を知っていることを。
そしてクインはわかっていた。
エレナは人の危機を察する勘は鋭いが、普通の嘘は人並みにしかわからない。
エレナは特にクインを疑うこともなくいつもどおりクインと会話をしていたが、少し元気がないようだった。
やはりメルのことが気になるのだろう。
クインは教室を見渡した。
Mr.Sとの一方的で自己中心的な約束ごとを守るために今日のエレナの願いごとを探る必要があった。
(願いごとに肝心なゴウがいない)
「エレナ、ゴウは留守番?」
「ええ。さすがに学校に連れて来れないもの。どう見ても高校生の顔してないし」
(そりゃそうか)
「ゴウに高校生になってって願いごとをしたらどうなるのかしらね。ここのクラスメイトになったりして」
そう言ってクインがエレナの顔を見るとエレナはきょとんとした顔をクインに向けていた。
「エレナ?」
エレナが口を開きかけたその時だった。
「おーい!エレナ!」
エレナとクインが同時に声がした方を見る。
「マット!?」
クインは驚いて教室の入口へと近づいていった。
「クイン!久しぶりだな」
にっと笑った顔がさわやかなマットを見て、クインも思わず笑顔になった。
マットはクインやエレナそしてメルとも同じで小学校から高校まで同じ学校に通っている幼馴染のような存在だった。
まあ、この高校にいる生徒たちはほとんどみんなそんな関係なのだが。
「本当に久しぶりね!高校になってから全然会わなくなったものね。エレナに用なの?」
マットは、ああと言ってクインの横にいたエレナに手に持っていたノートを差し出した。
「これ、エレナから預かってたメルのノートだけど、あいつずっと休んでてさ。全然学校に来ないんだ」
エレナはノートを受け取った。
「俺に預けてるよりかは直接返した方が早いと思うぜ。どうせまた、不運のジンクスなんて感じてるだろうからな」
その言葉にクインは固まった。
(そうか、マットは今メルと同じクラスだった)
「マットってメルとクラスで一番仲良かったよね」
そう言ったのはエレナだった。
クインは思わずエレナを見つめた。
「メルの家に様子を見に行ったりとかしないの?」
そう聞いたエレナの顔はまるでマットの顔色を伺っているようだった。
マットはエレナに微笑んだ。
「お前らも知ってるだろ?あいつは不運を感じて学校を休んでるだけ。幸運を感じたらまたすぐに学校に来る。小学生の頃は心配で何度も家まで行ったりしてたけど、もう慣れちまったよ。あいつもそんなことわかってるし」
エレナは、力が抜けたように微笑んだ。
「それもそうね。ノートありがと。今日にでもメルの家に行くわ」
「ああ、頼んだ。じゃあな!」
マットはそう言うと自分の教室へと戻っていった。
(もしかしてマットが?)
クインはマットの後ろ姿をじっと見つめていた。
「クイン、どうしたの?」
クインが後ろを振り向くと、エレナが不思議そうな顔をしていた。
エレナの手元にあるノートに視線を移す。
「エレナ」
「何?」
クインはエレナに視線を戻す。
「私、ちょっとトイレ」
教室を飛び出したクインはメルのクラスに向かった。
クインにはわかった。
きっとエレナはあのノートをメルから借りた時にメルの危機を知ったのだと。
(もしかしてマットがメルを?でも、Mr.Sはひとりじゃないって言ってたし)
メルの教室はクインたちの教室とはちょうど反対側にある。
息を切らしたクインは教室の中を見る。
教室にすでに戻っていたマットは教室の真ん中で楽しそうに話している。
マットは小学生の頃からずっとクラスの中心的な存在だった。
(今もそれは変わりないみたいね)
クインとも小学校の頃、何度か同じクラスになっている。
明るくて優しく頼りがいがあり、マットの人気はクラスの中で飛びぬけていた。
現に先ほどのクインもそうだ。
マットが教室に来ただけで嬉しくなり、ついつい駆け寄ってしまうほど。
そしてメルの才能のことも、もちろん理解していたためメルもマットとはかなり仲がよかった。
(だからこそ)
周りの友人たちもマットの笑い声につられて笑う。
クインは首をかしげた。
(いつもどおりの教室に見えるけど)
クインには信じられない。
(この中にメルを恨んでいる人間がいる?それもひとりじゃなくて)
だが、楽しそうに笑うマットの隣の席は誰も座ってはいなかった。
きっとそこがメルの席なのだろう。
クインは顔を俯けて教室から離れた。
(こんなに楽しそうなのにどうしてメルは)
その時クインはドンっと何かにぶつかった。
目の前に帽子を深く被り、ホウキを手に持った掃除のおじさんが突っ立てクインを睨みつけていた。
「あ、すみま」
(いや、ちがう!)
「ゴウ!?」
クインは驚いて、目の前の掃除のおじさんを見つめた。
「何してんの!?」
「エレナの願いごとを叶えているだけだ」
「掃除のおじさんになることが?」
「まあ、そんなところだ」
クインはもう一度まじまじとゴウの姿を見つめ、吹き出した。
「良く似合ってるわよ、ゴウ」
ゴウは相変わらず無表情でそのまま掃除を再開した。
「わかってるわよ。ゴウはエレナにメルのクラスの様子を見てくるようにお願いしたんでしょ?」
「お前もだろ」
「まあね。エレナは私に相談する気ないみたいだし。自分でも頑張って探ろうと思ったんだけど」
クインはもういちどメルの教室を見つめた。
「いつもどおりの教室にしか見えないのよね」
ゴウはクインのその言葉に何も言わなかった。
その様子を見てクインは思った。
「ゴウ、もしかして何か掴んだの?」
ゴウは怪訝そうにクインを見つめた。
「な、何よ」
「エレナはお前に関わらせたくないと思っている。なら、この情報はエレナにしか報告しない」
「ちょっと!少しぐらいいいじゃない。昨日エレナの目的を教えてあげたのに」
「あれは単なる独り言だったんだろ」
クインはむすっとした顔をした。
ゴウは小さく息を吐く。
「クイン、気がついていないのか?こういう人間の感情を読み取ることができる最高の人間がお前の近くにいることに」
クインは、瞬きをしてゴウを見つめた。
「あいつに?」
ゴウは頷いた。
クインは、はあと大きく息を吐いた。
だが、その方法が一番最適であることもわかっていた。
黙々と廊下を掃除しているゴウを残して、クインは学校の裏庭に向かい、ポケットに入っていた携帯を取り出した。
“いちいち待ち合わせをして話を聞くのは面倒だ”
昨日、メルを見送った後、そう言いながらMr.Sはクインの携帯に自分の電話番号とメールアドレスを無理矢理登録した。
登録されたことよりも、いつの間にか自分の携帯が奪われていたことにクインは驚いていた。
そんなことを思い出しながらクインはMr.Sに電話を掛ける。
『なるほど、私がメルの教室を一目見れば何かわかるのではないかと思ったのか。いいだろう。まだエレナの願いごとも正確にはわかった訳ではないからな』
(こいつ、やっぱり楽しんでるな)
Mr.Sは笑い出した。
『しかし、あのゴウが清掃員の振りをしているとは・・・これは見ごたえがありそうだ。あいつが帰ってしまう前に今すぐに学校に向かおう』
「でもどうやって学校に潜入するの?」
『それは愚問だな。君は私を誰だと思っている?』
クインが答える前にMr.Sが答えた。
『世界一の詐欺師に不可能はない。昼休憩に落ち合おう。メルの教室へ案内してくれ』
クインは結果的に1時間目の授業をサボってしまった。
裏庭で電話などしていたものだから。
携帯をポケットにしまって空を見上げた。
(さすがにエレナに怪しまれるわね)
そしてふと思った。
この学校にMr.Sが来るということはエレナと遭遇するかもしれないということを。
◆ショーン◆
詐欺師という存在を間近で見たことがある人間はそうそういない。
なぜなら、気がつかないからだ。
人を騙し、信頼を、財産を、時には愛する人を奪う存在がすぐそばにいることを。
それはある意味幸せなことなのかもしれない。
ショーンは、人を惹きつける容姿を持ちながら、誰にも気がつかれることはない。
それは、彼がどんな人間にでもなれるから。
校門の前。
ショーンはインターホンを押した。
インターホンの向こう側から声がする。
『はい』
ショーンは息を吸って低い声を出した。
「よう、お疲れ」
インターホンの向こうで少し沈黙が流れた。
その沈黙の中でショーンはまた口を開く。
「守衛室、お前以外の誰かいるか?」
また沈黙が流れたが、次はインターホンの向こう側から返事が返ってきた。
『いませんけど』
ショーンは吹き出した。
「お前、なんで敬語なんだよ。まあいいや。聞いてくれよ、ジェシカの話」
『ジェシカ?』
「お前、忘れたのか?この前、クラブで誘ったあの」
インターホンの向こうで、ああ!と思い出したような声が聞こえた。
『何だよ、お前マイクか!あの子がどうしたんだ?マイク?』
「さっきな・・・おっとまずい。人が来た。詳しい話は中で話すよ」
『お、おお。わかった』
「あ、しまった。キーを忘れちまった。ここ開けてくれないか?」
『何やってんだよ』
校門の施錠が外れる音が聞こえた。
『早く、来いよ』
そう言ってインターホンは切れた。
校舎の中は当たり前だが生徒たちで溢れかえっていた。
ショーンは携帯を開く。
メールの受信BOXを見ると、“1階カフェテリア”と件名に入っていた。
視線だけでショーンはカフェテリアを探す。
首を振ったり、あちこち歩き回ると怪しまれるからだ。
カフェテリアの場所を把握すると、腕時計を見つめた。
(昼休みが終わるまであと10分。ちょうどいい)
ショーンはカフェテリアに向かう。
そこに、見慣れた顔がいた。
向こうも気がついた様で、ショーンを見つめた。
驚いたクインの表情に思わず吹き出したくなる衝動を抑えて、ショーンは真面目な顔をすると腕ぐみをして吐き出すように言い放った。
「全く」
クインはきょとんとした顔をしてショーンを見つめる。
腕ぐみを外して、ショーンはクインにずかずかと近づく。
「悠長に昼休みとは、いい度胸だな。クイン」
クインは、ぽかんと口を開けていた。
「私の数学の補習はそんなに嫌か?」
クインは、状況が理解できないようで、目を見開いていた。
「ちょ、ちょっと何言ってんの?Mr」
「お前のサボりぐせには本当に呆れる」
ショーンは大きなため息をついた。
周りにいた生徒たちは足早に通り過ぎながらも、怠惰な生徒と先生のやりとりを見て笑っている。
「職員室まで来なさい」
そう言って背を向けたショーンをクインはしばらく見つめていたが、やっと状況が理解できたのか、ショーンの後を追った。
歩きながら、ショーンは小声でクインに問いかけた。
「どうだ?私の変装は」
クインは怪訝そうな顔でショーンを見つめていた。
ショーンの姿はいつもと全く違ったからだ。
髪はボサボサ、ヨレヨレのスーツを着ており普段よりも倍は老けている様に見える。
「誰なのかわからなかったわ。服や髪型でここまで変わるなんて。でも、どうやってここに?」
ショーンは腕時計を見つめた。
「あとで話そう。今はメルの教室に」
クインは頷くとショーンの前に出て、足早に歩き出した。
メルの教室の前に着くと、またもや見慣れた顔が相変わらずの真顔で掃除をしていた。
(エレナもなかなか面白いことを願うもんだな)
ゴウは掃除をしていた手を止めて、顔を上げた。
だが、もうその時にはショーンはゴウを見てはいなかった。
ショーンは腕時計を見つめていたからだ。
(3、2、1)
チャイムが鳴り響いた。
生徒たちが教室に駆け込んでいく。
ショーンはクインに振り向くと言った。
「ここで待っていてくれ」
クインが言葉を発する前にショーンは教室に入って行った。
「よーし、授業を始めるぞ~」
ショーンはそう言って生徒たちに背を向けて、黒板を消し始めた。
教室の中にいた生徒たちは、いつもどおり席に着き始めたが、見慣れない教師の背中を見てざわつき始めた。
「おい、静かにしろ!」
ショーンが振り向くと、生徒たちは目の前にいる先生が誰なのかを見極めるために静かに座ってじっとこちらを見つめていた。
ショーンはそんな生徒たちをじっと見回す。
ひとり、ひとり見逃さないように。
(ふうん。なるほど)
ふと、真ん中の席に座った少年の目を見つめたショーンはゆっくり瞬きをした。
(へえ。こいつはなかなか面白い)
それから一通り見回した後、ショーンは突然怪訝そうな顔をした。
「ん?もしかして・・・」
それから教壇のすぐ前に座っていた子を指さした。
「おい、君。ここは3年のクラスではないのか?」
「あの、ここは2年のクラスですけど」
ショーンは目を見開いた。
「なんと、教室を間違えてしまった。これは失礼した」
そう言ってショーンは教室を飛び出した。
ショーンは振り返りはしなかったが、教室からは、なんだ、ただの間違いかと安堵の声が漏れていた。
教室の外にいたクインがショーンに駆け寄る。
その後ろにはじっとこちらを見つめるゴウがいた。
「Mr.S。一体どうなって」
ショーンはクインの言葉には答えず、後ろにいたゴウを見て吹き出した。
「よく似合っているよ、ゴウ」
ゴウはショーンを見つめ返す。
「お前もな」
その時、こちらに近づいてくる足音が聞こえた。
「あの、どちら様ですか?」
それは、メルのクラスでこれから授業を行う本当の先生だった。
ショーンはその先生に振り向くやいなや、横にいたクインを引き寄せた。
「ちょっと!うわっ」
そしてクインの頭を手で掴み無理矢理下げさした。
「どうも。この度この学校に娘が転校にすることになりまして。本日は校長先生に許可を頂き、校内の見学をさせて頂いておりまして・・・」
それからちらりと後ろにいたゴウを見つめた。
「ちょうど掃除をされていた方に学校の雰囲気をお伺いしていたんですよ」
怪しそうに見つめていた先生は、ぺらぺらと喋るショーンの顔を見て顔を綻ばせた。
「転校生の子でしたか。よろしければ授業も見学されますか?」
「ありがたいお話ですが、お昼前にいちど授業風景は見学させて頂きましたものでして、校内を一回りしているところなんです」
「そうですか、どうぞごゆっくり見て行ってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
先生はそう言うとショーンとクインに微笑んで教室に入っていった。
クインはショーンの腕を振り払った。
「よく、あんな嘘言えるわね。もし、私があの先生によく知られている生徒だったらどうするつもりだったのよ?」
「それはない。君は先生に覚えられるような問題児でも優等生でもない。どこにでもいる生徒の一人としか思われていない。その確信が私にはあったから、ああしたまで」
クインは、言い返そうとしたが少し考えて納得したような顔をした。
「今まではそうかもしれないけど・・・これから私」
「察しがいいな。君はこれからあの先生と出会ったら転校生として振舞え」
むすっとした顔のクインに向けてショーンは言葉を続ける。
「ところでクイン、次は守衛室まで案内してくれないか?」
クインは首をかしげた。
「守衛室?」
相変わらず意味のわからないことを言い出す男だと言わんばかりのため息をゴウがついたのがショーンにはわかった。
守衛室のそばにあるトイレからひとりの男が出てきた。
ショーンはその男に呼びかけた。
「マイク!」
男はショーンに振り向いたが誰かわかっていないようだった。
ショーンは怒った顔をしてマイクに近づいた。
「お前がマイクだな?」
マイクは一歩あとずさりながら、ああと小さく頷いた。
「昼休憩中か?」
「えっともう戻るところなんですけど、何か?」
ショーンはいきなりマイクの胸ぐらを掴んだ。
「てめえ、よくも俺のジェシカを」
マイクは状況が掴めないようで怯えた顔をしていた。
「ジェ、ジェシカ?」
「てめえとてめえの連れが前にクラブで声を掛けた女だよ」
マイクは少しショーンから視線を逸らしてから思い出したのか、目を見開いた。
ショーンは胸ぐらをつかむ手に力を込める。
「思い出したか?その女は俺の嫁だ。しかも」
ショーンは後ろに立っていたクインを指さす。
「あいつの母親だ」
怯えた顔でクインをマイクは見つめた。
クインはどう反応したらいいのかわからなかった様だが、とりあえず小さく手を振った。
そんなクインを見て、マイクは怯えきった目をショーンに戻す。
「お、俺は何も。あいつが、あいつが声をかけて、それもあんなでかい子供がいるなんて、正直名前もあんまり覚えてなくて」
「どっちでもいい!簡単に俺の嫁に手を出すな。てめえの連れにも伝えとけ」
そう言って胸ぐらを掴んでいた手を離した。
怯えたようにマイクは守衛室に駆け込んだ。
守衛室の中から会話がとぎれとぎれで聞こえる。
「遅かったな・・・さっき・・・話だけど」
「ジェシカ・・・覚えてるか?」
「だから・・・クラブで・・・・」
「そのジェシカ・・・男が・・・・」
そこまでの会話を聞いたショーンは守衛室に背を向けた。
「クイン、放課後いつものカフェで」
そう言ってショーンは学校から立ち去った。
ひとつの痕跡も残さずに。
◇クイン◇
Mr.Sは颯爽とクインの横を通り過ぎた。
杞憂だった。
エレナとMr.Sが学校で出会うかもしれないなんて。
全くの杞憂だった。
目の前にいた詐欺師はその時々で姿を変えた。
教師に保護者に、よくはわからないが因縁をつける男?まで。
ひとりの人間なのにどれも別人に思えた。
堂々と学校に潜入したのに誰もその存在に気がつかない。
(これが詐欺師)
クインは顔を上げたが、Mr.Sの背中はもう小さくなっていた。
その背中をクインはただまっすぐに見つめていた。
その時、守衛室から二人の男が飛び出してきた。
「お、おおい!君がジェシカの娘なのか!?」
「お、お父さんはどこに行った!?」
二人の男の勢いに圧倒されながら、クインは苦笑いを浮かべていた。
「え、えっと」
「俺は知らなかったんだよお。彼女見た目は20前半だし。こんな大きな子供がいるなんて」
「しかもあんな怖い旦那まで」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ男二人に囲まれて、クインは呆れていた。
(Mr.S・・・あんたこの人たちに一体何をしたのよ)
チャイムが鳴って5時間目の授業が終わった。
(結局、今日は授業を2時間もサボっちゃったわ)
クインは小さなため息をつきながら教室に戻った。
「クイン!?」
クラスで仲良くしている女の子たちが駆け寄ってきた。
「どうしたのよ、クイン。体調でも悪いの?」
「あ、うん。ちょっと。でも、大丈夫よ」
クインはぎこちない笑顔を浮かべた。
朝から気分が悪くて、困ったわよ~なんて言い訳しながらふとエレナの席を見つめた。
エレナはいなかった。
なんとなくゴウのところに向かったのだとクインにはわかった。
再びチャイムが鳴って6時間目の始まりを告げる。
エレナも教室に戻ってきた。
席に戻る生徒たちが行き交う教室の中で、エレナはクインと目が合うと口パクで大丈夫?と聞いてきた。
クインが親指を立てて微笑むと、エレナも微笑んだ。
6時間目の授業が終わると、エレナは用事があるからと言ってさっさと帰ってしまった。
エレナはさっきの休憩時間にきっとゴウからメルがクラスの誰かに一方的に憎まれていることを聞いたのだろう。
(そして明日はきっとメルのために願いごとをする気なのかしら)
クインも、まあこれからMr.Sと落ち合う予定だしちょうどいいかなんて思いながら教室を後にした。
クインはMr.Sの言葉が理解できずに聞き返した。
「全員?」
「あの教室にいた全員がメルを恨んでいる」
クインは、きょとんとした顔をしてMr.Sを見つめることしかできなかった。
カフェの喧騒も、カウンターからガラス越しに見える街の景色もどんどんと遠ざかっていく。
(メルがあのクラスの人間全員から恨まれている?)
今朝見たメルの教室の風景からは想像できない。
笑い声に包まれた教室。
その中心で笑うメルの小学校からの友達のマット。
(マットまで、どうして)
「教室でひとりひとり見回してわかった。彼らはどいつもこいつも平凡な人間の寄せ集め。大した能力も、才能もない。人生の目的もない。ただ毎日をだらだらと生きているだけ。いつもとほんの少し違う日常が起こるとすぐ興奮する。小さい奴らばかりだった」
クインは拍子抜けしたような顔をしてMr.Sを見つめた。
「なんでそんな人ばっかりがメルの教室に?」
「何言ってる?メルのクラスだけではないこの世界の人間はほとんどそうやって生きているじゃないか?ただあのクラスで違うことは全員が共通の意識を持っていること」
(メルへの・・・恨み)
クインは息を呑んでMr.Sを見つめた。
「そんな集団の中に特異な才能や才能を持った者がひとりでもいてみろ。一方的に疎まれるに決まっている」
「だから、メルは一方的に疎まれて、恨まれて、それで不運のジンクスしか感じなくなったの?」
「それがこの世界のルールだから。仕方がない」
「ルール?」
「誰ひとりとして虐げられない世界なんて存在しない。いつも誰かが苦しめられる。そうやってこの世界は・・・この街は回っている。今はメルが虐げられる番がきただけ。君はそのことによく気がついていると思っていたのだが違うのか?」
クインは何も言わなかった。
Mr.Sは言葉を続ける。
「だが、あそこまでクラス全員が全く同じ共通意識を持つということはかなり珍しい」
「それって、まさか」
「どう考えても仕組まれている。クイン、あの教室の真ん中の席に座っていた少年を知っているか?誰も座っていない席の横に座っていたからメルの隣の席だと思うが」
「真ん中の席・・・メルの隣」
クインは目を見開いた。
教室の真ん中で笑うマットの姿。
でもそこにメルはいなかった。
隣の席には誰も座っていない。
「マットだわ・・・。マットがどうして?何か気になることでもあるの?」
「そいつ、かなり危険な性格をしている」
クインは息を呑んだ。
「そんなことないわよ。マットはメルと小学校から、メルだけじゃない。私もエレナも小学校からの友達なのよ」
「だから何だ?それだけで彼が危険な人間じゃないという証拠にはならない」
クインは言葉に詰まった。
「あいつ・・・私と似たような力を持っている様だ」
「似たような力って?」
「人の才能を見極める力」
「だから危険だっていうの?」
「あくまで危険なのは性格。人の才能を人並み以上に感じとれるから、自分より優れた人間を蹴落としたいと考えている。蹴落として優越感を得たいんだ。才能ある人間を潰すことで自分は優れていると」
「ま、まさか。だってマットはいつもクラスで人気者で優しいし誰からも頼られて」
「それこそ、そうして自分が今までクラスの人気者の地位を守ってきた結果だ。人気のある好感度の高いクラスメイトは潰すことで、自分のクラスでの地位を上げようとしているんだ。君も昔ひどい目にあったことが何度もあっただろう?そのうちの一つでも彼が絡んでいるかもしれない」
クインは俯いて黙りこんだ。
確かに物心つく頃から様々な大ごとに巻き込まれてきたクインだったが、誰かに陥れられたなんて考えたことはなかった。
よりによって友達など疑ったことすらなかった。
「とにかくマットはメルを蹴落とす機会を伺っていた。君が言うように小学校の頃から知っていたのだとしたら、その時から機会を伺っていたのかもしれないな。クラス全員がメルの才能を理解し、羨むようになったところで持ちかける。自分だけ運良く生きていけるなんてずるいなんて言って。そうすればクラスメイトはメルを自然に恨むようになり、目に見えない悪意にメルは不運のジンクスを感じて外に出れなくなる、そうすればメルの人生はめちゃくちゃだ」
(まさか本当にマットがそんなことを?)
「だからエレナは」
「エレナはきっとメルを救うためにゴウに願いごとをするだろう。だが、それはメルを本当に救うことにはならない」
クインは顔を上げた。
「救うことにはならないって?」
「メルはどう思っているのだろうということだよ。エレナはきっとメルを救うためにあの教室から救うだろう。だが本当にそれでいいのか?」
Mr.Sはガラスの向こう側を見つめた。
街を急ぎ足で歩く人々が見える。
「この街は美しい。常に新しく、星よりも月よりも激しく輝いている。それを見続けたいと言うならば、この街のルールから逃げる訳にはいかない。そう思わないか?」
クインはその言葉を聞いてMr.S.に感じていた違和感の謎が解けた気がした。
メルが感じた幸運のジンクスはエレナが学校を休校にしたことだけではなく、やはりMr.sも関わっていたのだ。
(ああ、そうか・・・今わかった。ずっと感じていたMr.Sへの違和感)
クインは、Mr.Sの横顔を見つめた。
「Mr.S」
Mr.Sはクインを見つめる。
「あなたはやっぱり、ただ純粋にエレナを救いたいだけなのね」
その言葉にMr.Sは大きく目を見開いた。
「私もあなたに賛成よ。メルを救う。それがきっとエレナを救うことにもなる」
Mr.Sをクインは見つめた。
「そうでしょ?Mr.S?」
Mr.Sは目を細めて微笑んだ。
「クイン、君とはもう少し話をする必要があるようだ。だが今は」
「エレナのところに行く」
Mr.Sは頷いた。
「この前みたいに止めないの?」
「止める必要はない」
なんでとクインが聞く前にMr.Sが答えていた。
「今のエレナにはクインが必要だからだ」
◆ゴウ◆
人と違う才能を持つ人間を時に人は妬ましく思う。
容姿から器量の良さまで。
どうして私にはあの人のような美しさがないのだろう。
どうして俺にはあいつのような男らしさがないのだろう。
どうして自分にはこんなこともできないのだろう。
どうしてあいつの持っている才能は私にはないのだろう。
どうして?
そんな世の中だからこそメルの才能はかっこうの標的だったのだろう。
そんなことわかりきっていた。
でも、どうして人はそうやって自分の感情にただ流されるんだ?
もっとゆっくり物事を考えればいい。
なぜ答えを急いで出そうとするんだろう。
感情のままに。
「まさかクラス全員がメルを恨んでいるなんて」
部屋で、ゴウからクラスの様子を聞いたエレナは持っていたコーヒーカップをぎゅっと握りしめた。
「エレナ、ひとつ聞いてもいいか」
エレナはゴウを見つめる。
「いいけど、珍しいわね。ゴウが質問をしてくるなんて」
「なんでメルがこんな目に合っているとわかったんだ?」
エレナは、カップを机に置くと腕を組んでから首をかしげた。
「自分でも正直よくわからないのよね。昔からこういう勘が働くっていうか・・・」
じっと真顔で見つめるゴウにエレナは微笑んだ。
「メルにね、前のテストの時にノートを借りたの。その時、メルの顔を見ただけでわかったわ。メルは誰かから、しかも一人じゃなくてたくさんの人に恨まれているって」
「・・・」
ゴウは正直なところ、そんなことで人の危機などわかるものではないだろうと思った。
“ただ一言おはようと言っただけでエレナは私の異変に気がついたのよ。エレナはね、そういう子なの。きっと今回もそう。なんてことないことからメルの危機を察知したのよ”
そう言ったクインの言葉がゴウの中で蘇った。
(ショーンはもちろん、メルにエレナ。この街は、変わった人間ばかりいるな)
「でも半信半疑だったからゴウに学校を休校にしてもらってメルの様子を見てもらった。案の定、メルは学校が休みになると外に出れた。でも学校を再開するとまた外に出なくなった。これで確信したのよ。メルは学校に不運を感じているって。あとは誰がメルを恨んでいるのかが知りたくてゴウに探ってもらったのよ」
「そうか」
エレナはきょとんとした顔をゴウに向けていた。
「何だ?」
「いや、ゴウは信じるの?この話」
「エレナがそう言うならそうなんだろう?」
エレナはその言葉で吹き出した。
「ゴウ、あんたいい性格してる。そうゆうとこクインにそっくり」
「エレナ、クインは?」
「え?」
「クインはメルを恨んでいないのか?」
エレナはにっと笑った。
「クインがメルを恨むわけないでしょ?たしかにクインはいつも何か大変なことに巻き込まれているけど」
ゴウはその言葉に納得した。
(それは今もまさに)
「ゴウはまだわかっていない。クインはいつも大ごとの渦には流されるけど、自分の感情には決して流されないのよ。だから、メルを妬ましく思って勝手に恨んだりしない」
その言葉を聞いてゴウは思い出していた。
初めて会った時、リムジンの中で今何が起こっているのか理解ができずに怒ったクインを。
ショーンの家でショーンに怒りを向けたことクインを。
(感情に流され・・・ない?)
思わずゴウは怪訝そうな顔をしていた。
そんなゴウを見てエレナは笑った。
「そりゃ無感情なわけじゃないから。まあ、クインをこれから見ていればわかるわよ」
エレナは机の上に置いていたコーヒーカップを一口くちに運んだ。
「さてと」
エレナは小さく息を吐くと、ゴウをまっすぐに見つめた。
「じゃあ、ゴウ。私の願いを聞いてくれる?」
ゴウがエレナを見つめ返したその時だった。
ピンポーン。
インターホンの音が家に響いた。
◇エレナ◇
「私の話を聞いて欲しい」
玄関のドアを開けたエレナに対しての第一声がそれだった。
エレナは分かったような気がした。
(もしかして)
「クイン、何で?」
クインは力なく笑った。
「ちょっとしたきっかけでね、エレナが何をしようとしているのかわかったの」
エレナはクインに口を開き掛けたが、止めた。
その代わり優しく微笑んだ。
「とにかく入って。こんなところで立ったまま話すことじゃないし」
エレナはクインを部屋に通した。
部屋の中にいたゴウはクインを見てもいつもどおり真顔のままのノーリアクション。
だが、エレナは正直なところ驚いていた。
クインがエレナの本当の目的に気がついていたことに。
「でも、どうしてクイン?」
「何が?」
「どうやってわかったの?私がメルを救おうとしていること」
「それは」
クインが一瞬ゴウを見つめたのがエレナにはわかった。
(ゴウ?)
クインはエレナに視線を戻した。
「ゴウをつけたの。本当に信用できるかどうか心配になって。そうやってゴウをつけ回していたらゴウはずっとメルを監視していたことがわかって、それでエレナは本当はメルを何かから救おうとして学校を休校にしたりしたのかなって思ったの」
エレナはただまっすぐにクインを見つめた。
嘘か本当か見極める様に。
だが、クインはそんなエレナを堂々と見つめ返す。
「だから私、成り行きでエレナの目的がわかってからずっと引っかかっていた」
クインは力なく笑った。
「どうしてひとりでメルを救おうとしたの?」
◇クイン◇
席から立ち上がったクインにMr.Sは声を掛けた。
「クイン、嘘が下手な君に助言をしよう」
クインはMr,Sに振り返る。
「助言?」
「君は今からエレナの元へ行ってどうして自分がエレナの本当の目的に気がついたのか嘘の話をするだろう?私の存在を知らせないために」
クインはむすっとした顔をした。
「ええ、そうよ。誰かさんのせいで無駄な嘘までつかないといけなくなってるんだから」
「だが、しかし君は嘘がとんでもなく下手だ」
クインが反論する前に、Mr.Sは言葉を続けた。
「聞かなくてもわかる。君を一目見たときから分かっていた。だから助言をしたいんだ」
クインは、不服ではあったが自分に嘘をつくのは無理だということの自覚はあった。
嘘をつくのは確かに苦手だがそのうえに最近のクインの行動はかなり怪しまれているはずだったからだ。
だからクインは黙ってMr.Sの助言を聞くことにした。
なにより詐欺師から聞く嘘のつき方はクインにはかなり興味深かった。
Mr,Sはにっと笑って、まるで講義でもするような口調で話始めた。
「嘘は堂々と短く、しかしゆっくり話せ。そして、嘘をついたあとすぐに自分が相手に対して思っている本当のことを打ち明けろ」
(その通りにしたわよ)
あまりにもまっすぐに見つめてくるエレナの視線は全てを見抜いているのではないかとクインは感じ、心臓が大きな音をたてた。
何より適当に考えた嘘の後に口にしたずっと思っていた疑問。
それはクインがずっと感じていたことだった。
自分はエレナとは長い付き合いで親友だと思っていたからだ。
だからこそクインはずっと疑問に思っていた。
エレナはどうしてクインに対して何も言わなかったのか。
なぜ、ひとりでメルを救おうとしていたのか。
(どうしてわかったかなんてどうでもいい。このことだけをただ聞きたかった)
クインのその気持ちに嘘はない。
◇エレナ◇
“どうしてひとりでメルを救おうとしたの?”
エレナはその言葉になんて説明すればいいかわからなかった。
だからエレナはクインの視線から目をそらした。
全ては父親の虚しい復讐から始まった。
エレナの胸の奥でまだくすぶっている後悔。
全てを打ち明けるべきなのだろうか。
クインはどう思うだろうか。
エレナはクインの視線を受け止めてまっすぐに見つめ返した。
その目に適当な言い訳が通用しないことがエレナにはわかった。
覚悟を決めてエレナは口を開いた。
「クイン、私の父が詐欺師になったいきさつは話したわよね」
クインは頷いた。
「会社をはめた詐欺師・・・Mr.Sを追い詰めるため」
クインは微笑んだ。
「そういう言葉を使ってくれてうれしい。でも、本当はただMr.Sに復讐して満足したかっただけ」
「そんな言い方しなくても。クインのお父さんは騙された被害者なんだから」
エレナは目を伏せて俯いた。
エレナの脳裏にゴウへの初めての願いごとが響く。
“父が、仕事で一体何をしていたのか調べてほしい”
「クイン、違うの。父は罰を受けたのよ。本当の被害者は誰なんだろうね?」
クインはエレナの言葉が全く理解できず、首をかしげた。
「どういうこと?エレナ」
エレナは顔を上げてクインを見つめた。
「父は仕事で悪業を働いていたの」
クインは目を見開いた。
「詳しくはあまり言いたくはないんだけど」
エレナはゴウに初めての願い事を言った時覚悟をしていた。
Mr.Sに復讐をと決めた父の顔はまるで悪魔のような顔をしていた。
しかし、エレナにはそれが父親の本性なのだとなんとなくだがわかってしまった。
もともとの悪魔の姿が詐欺にあったことでむき出しになってしまっただけなのだと。
母親は仕事で家を空けていることが多く、父親の悪魔のような姿に気がつかなかったが
今、思えばそれはそれで幸せだった。
それにもしかしたら、家にいても気がつかなかったかもしれない。
エレナだからこそ気がついただけなのかもしれない。
復讐、それこそが父親の危機だったのだから。
エレナは自分の才能を恨んだ。
このまま気がつかない方が幸せだったに決まっている。
ゴウの口から出てくる言葉は、エレナが覚悟していたこと以上だった。
父親の悪行が次から次へとエレナの耳に流れ込んでいった。
エレナは信じられなかった。
だから、ゴウがそんな簡単に願いを叶えられるわけないと思い込みたかった。
“この街で1番高価なバッグを”
“学校を午前中で終わらせて”
“リムジンで迎えに来て”
どれもやけくそな願いごとだった。
叶わなければゴウの言葉を信用しなくて済むから。
だが、どちらも簡単に叶ってしまった。
そうして、エレナは現実を受け入れた。
受け入れるしかなかった。
だからわかったのだ。
父親の悪行は事実であり、そんなことばかり繰り返していたから世界一の詐欺師なんかに目をつけられたのだと。
「エレナ?」
クインが心配そうな顔をしてエレナを見つめていた。
エレナはまっすぐにクインを見つめた。
「クイン、私わかったことがあるの。Mr.Sは悪業を働いた人間しか騙さない人だって。だから父は狙われた。狙われて当然の人間だったのよ」
「でも」
クインが言葉を発する前にエレナは言葉を続けた。
「私が許せない人間はふたりいる。復讐なんかに走った父と、そんな父を救えなかった私。Mr.Sを恨んだことはないわ」
父親の真実を知ってエレナの中でくすぶっていた後悔が大きく音を立てて燃え盛り始めたのがわかった。
なぜあの時父親を止めることができなかったのだろう。
なぜ父の本性と向き合わなかったのだろう。
なぜ父は復讐なんかに・・・
“エレナの才能は人を救う。俺はそう思うよ”
かつてそう言った父親の言葉がエレナの中に蘇った。
その言葉にエレナは心の中で言い返す。
あなたを救えなかったのに?
そんな時にエレナは知ったのだった。
メルの危機を。
「メルの危機を知って初めに思ったのはやっとこれで誰かを救うことができるだった。理由は、そう、私もMr.Sも同じ。罪滅ぼしだわ。私は父ひとり・・・誰ひとり救えない自分を肯定したかったの。そのためには誰の力も借りたくなかった。自分の力だけで成し遂げたかった。だからクイン、あなたには頼らなかったのよ」
◇クイン◇
クインは何も言わなかった。
エレナは父親を救えなかったことを誰かを救うことで穴埋めをしている。
(エレナはやっぱりずっとお父さんを救えなかったこと、後悔してたんだ)
わかってはいたことだったが、ここまでエレナが悔やんでいるとはクインは思ってはいなかった。
(それにMr.S。あいつもやっぱり)
「だからクイン、もう私には構わないで」
クインが驚いてエレナを見つめるとエレナは悲しそうに笑っていた。
クインはぎゅっと拳を握り締める。
「嫌よ」
そしてエレナをまっすぐに見つめ返した。
「私、エレナを救いたい」
クインは思い出していた。
8年前、ある事件に巻き込まれて身も心もボロボロにされ途方にくれていたクインを救ってくれたエレナの姿を。
“なんでそんなことになっているの?クイン?”
「昔、エレナが私を救ってくれたように。私もあなたを救いたい」
エレナは驚いた顔をしてクインを見つめた。
「私、クインを救ったことなんて・・・。それにさっきも言ったでしょう?これは私がひとりで」
「わかってる」
「じゃあ、なんで」
「勝手にエレナを救いたいと思っているだけ。エレナは忘れているかもしれないけど、私、本当にあなたに救われたことがある。だからエレナが嫌だって言っても私はエレナを救いたい」
「救うって何から?」
「後悔から」
「どうやって?」
「メルを救う。エレナと一緒に」
クインはまっすぐにエレナを見つめてそれ以上は何も言わなかった。
だが、何を言われても絶対に引き下がらない。
クインの中にはそんな強い思いがあった。
ふたりの間をしばらく沈黙が包んだ。
やがてエレナは、わかったわと小さく呟いた。
エレナは、これ以上話してもきっと引き下がらないというクインの気迫を感じ取ったのだろう。
それになによりも、エレナを救うと言ったクインの言葉に嘘はないことがエレナにはわかっていた。
「クイン、ゴウ」
エレナは立ち上がった。
「メルを救いに行こう」
クインはにっと笑い、ゴウは相変わらず真顔のまま頷いた。
メルの家のインターホンを押しても誰も出てこなかった。
「留守かな?」
「メルの両親は共働きでこの時間はいつもいない」
「ゴウ、本物のストーカーになってきたわね」
「じゃあ、メルは家にいるはず。不運のジンクスを感じて部屋からも出たくないってことか」
エレナは、メルの部屋の窓を見つめた。
「強行突破しかないわね」
「強行突破?」
「ゴウ、私とクインを担いであの部屋まで運んでくれる?」
「は?」
「ああ、わかった」
「え?」
ゴウがエレナとクインを担ごうとしたその時、クインがちょっと待ってっと声を上げた。
「ま、まってよ。いくらなんでもそれは」
「でも、そうしないとメルと会えないわよ」
「そういうことじゃなくて、ゴウが私とエレナを担いで飛ぶ?」
「ええ、ゴウならできるのよ?」
「そんなことまで」
「クイン、もういい加減に信じてよ。学校を休校にまでさせたゴウが私たちを担いでメルの部屋まで飛ぶなんて楽勝なんだから」
「それとこれとはまた違うような」
「もう、いいから。ゴウも黙っていないで何か言ったら?」
「さっさと見せた方が早いだろ」
そう言ってゴウはエレナとクインを軽々と担ぎ上げた。
「ちょ、ちょっと」
「行くぞ」
ぐっと膝を折り曲げて、ゴウは飛んだ。
「うわあ!」
クインは必死で相変わらず真顔のゴウに抱きつき、エレナはそんなクインを見て思わず吹き出した。
◇メル◇
暗い部屋、何日ここにいたらいいのだろう。
(外に出たい)
しかし、メルが感じる不運は体を固くする。
立ち上がろうと思っても膝を少し折っただけで立ち上がることの気力が一瞬でなくなる。
自分がどんな行動をとっても何をしてもうまくいかないと断言ができてしまう感覚にメルは襲われていたのだ。
(こんな感覚今まで感じたことない。どうしよう。ずっとこのまま・・・)
ガッシャン!!
その音と同時にメルの髪を風が揺らした。
◇クイン◇
ゴウが窓を割った。
エレナが割ってと言ったから。
(だからって!!)
「だからって!!」
思わずクインは声に出ていた。
「だって、クイン。見てよ。あのメルの姿」
クインは割れた窓の先を見つめた。
クインは大きく目を見開いた。
「メル」
「あんなメルが窓を開けてくれるとは私は思わないわ」
暗い部屋の隅で、メルは頭から毛布を被っていた。
目の下にはおおきな隈ができ、唇も青ざめている。
そんなメルを見てクインの脳裏にマットの笑った顔がよぎった。
(マットはこうなることわかっていた、だから・・・)
「メル!」
クインはゴウの腕から飛び出して、メルに駆け寄った。
メルは甲高い叫び声を上げた。
「いやああ」
毛布で顔を隠して小さくうずくまった。
「何なの!?一体、なんで・・・もうやめて!クインもエレナも!!」
「ご、ごめん。メル、すごい登場の仕方して」
「帰ってよ、帰って!」
「メル」
いつの間にかクインの横にエレナが立っていた。
「窓を割ったのは謝るわ。ごめん。でも、インターホンを押しても出てきてくれないじゃない。だからこうするしかなかったの」
毛布からメルは少しだけ顔をのぞかせた。
「なんで・・・こんなことしてまで私に会いに?」
クインとエレナは顔を見合わせた。
そしてメルに微笑んだ。
「メルを救いにきたの」
◇メル◇
メルはふたりの顔を見つめた。
「私を・・・救いに?」
クインとエレナは頷いた。
「救うってどうやって」
メルは被っていた毛布を脱いだ。
その時、部屋の中にクインとエレナ以外にもうひとりいることにメルは気がついた。
本当は窓からクインたちが登場した時にメルは男の存在を見ていたはずだったのだが、気が動転していて男の存在を認識していなかったのだ。
しかもその男はメルが最後に外出した時にずっとこちらを見ていた男だったものだから
メルはまた、甲高い叫び声を上げた。
「な、なんで!あの男が!」
「え?」
クインとエレナは男を見つめると同時に、忘れてた!と声を上げた。
「メル、落ち着いて!そうよね。ゴウのことも説明しないと」
「ク、クインとエレナはその男と知り合いなの?」
クインはエレナを見つめ、エレナは少し首を傾げた。
「知り合い?そうね、知り合いみたいなものよ。実はこの人にメルの様子を見てもらっていたの」
「私の?」
「ええ。私、ちょっとしたきっかけでメルの危機を知ってしまって」
メルは何も言わずじっとエレナを見上げた。
エレナは、かがみ込むとメルと視線を合わせた。
「もう遠まわしに言っても意味がないから、事実を言うわ。メル、あなたはクラス全員から恨まれている」
◇エレナ◇
エレナの心臓は大きな音をたてていた。
メルをこれ以上は傷つけたくはない。
(でも、本当のことを伝えないとメルはいつまでもこの暗い部屋の中にいる)
メルはエレナの言葉が理解できていないようできょとんとした顔をしてエレナを見つめるだけだった。
「何・・・言ってるの?エレナ?」
エレナはもう一度メルを見つめ返した。
「メルのクラスのみんながメルを羨んでいた」
「私を?」
「正確にはメルの才能を」
メルは、言葉を発しようとしたが止めたようにエレナは感じた。
きっと、なんで?と聞こうとしたのだろう。
だが、メル自身答えは分かっている。
エレナは言葉を続けた。
「人は、他人の優れた才能と自分の才能を比べてひとりで勝手に悲しんだり、怒ったりする時がある。クラスのみんなもそう。メルばかりいつも不運を避けることができて、うまく立ち回れない自分をきっと勝手に哀れにでも感じたのかもしれない。その気持ちが、いつの間にか妬ましさに変わって、そして」
「私を恨むようになったの?」
エレナは頷いた。
「ああ、そうか。だからか」
メルは悲しそうに微笑んだ。
「そんな私のことを恨んでいる人ばかりいる教室なんて不運しか感じないものね」
「メル」
メルは、力なくエレナに笑いかけた。
「エレナ、私、自分のこの才能は自分の進むべき道を教えてくれる才能だって思ってた。不運と幸運を見極めることができれば、この先、生きていくのに不自由しないもの。でも、だからこそずっとわかってた。私の才能は人の役には何にも立たないって」
エレナは思い出した。
昔、自分の才能があまりにも人の役に立たないことで悩んでいたメルの姿を。
「そうやって自分の都合ばかり優先してきたから恨まれて当然よね。自分ばかり得していたんじゃ」
エレナはぎゅっと拳を握り締めた。
(やっぱりメルは恨まれるような人間じゃない。メルを助けたい。私なら・・・なんとかできる。ゴウの力を借りればメルを)
エレナが口を開きかけた時だった。
「メル、私もわかるよ」
エレナは驚いて、後ろを振り向いた。
クインは、まっすぐにメルを見つめていた。
「自分の才能はいいことばかり運んでくるものじゃない。辛いことだって運んでくる時がある。その度にああ、もうだめだって何度も、何度も思ったことがある。才能は生まれ持ったもの、捨てることなんてできない。でも、だから」
クインはにっと笑った。
「だから、どうしようもないじゃない」
メルはきょとんとした顔でクインを見上げていた。
「ねえ、メル。教えてほしいことがあるの」
クインはエレナの横でかがみ込むと、メルの目を優しく微笑みながら見つめた。
「メルは・・・何が好き?」
メルはクインの意図がわからず目を瞬いた。
しかし、エレナはクインの言葉に聞き覚えがあった。
“クイン・・・あなたは何が好き?”
クインは言葉を続ける。
「私ね、朝起きてコーヒーを飲みながら見つめる朝の景色が好き。自分に合った服を来て出かけるのも好き。ダミアンの店でこの街一番のサンドを食べるのが好き」
クインはエレナを見つめた。
「エレナやメルたちとくだらない話をして大笑いするもの好き」
エレナは、目を見開いた。
“私にはね、好きなことがたくさんあるの。本を読むこと、音楽を聴くこと、映画をみること、買い物をすること、友達と大騒ぎすること、美味しいものを食べること、それに歌を歌うことも”
(ああ、思い出した)
「それから心に残る言葉が詰まった本を読むのが好き。お気に入りの音楽を聴きながらこの街を歩くのが好き。そして、なによりこの街が大好き。人も、建物も、全部」
“この街の景色だって好き。こうして公園から見つめる夕日も。ビルとビルの間からみるこの街の夜景も”
クインはメルに微笑んだ。
「好きなことだけじゃない。私たちこれから勉強だってしないといけないし、やらなきゃいけないことだってたくさんあるのよ。メルもそうでしょう?」
“好きなこと。それにしなきゃいけないことだってある。何って?勉強に決まってるじゃない!勉強は嫌いだけどこの街で生きていくには必要だし。私は忙しいのよ。でもそれってクインもそうでしょう?だから”
エレナにはわかっていた。
クインの次の言葉が。
“だからね、クイン。自分から逃げないで”
「だからね、メル。自分から逃げないで」
なぜならそれは、かつてエレナがクインに言った言葉だったからだ。
そして、エレナはわかった。
クインが言っていた“エレナに私は救われた”という意味が。
エレナの言葉は確かにクインを救っていたのだ。
そして、今、メルを救おうとしている。
「私も」
絞り出すような声だった。
エレナとクインはメルをじっと見つめた。
「私も本当はもっと外に出てしたいことがいっぱいある。クインと同じくらい。でも怖くて」
俯いたメルにエレナは微笑んだ。
「メル、こっち見て」
メルは顔を上げてエレナを見つめた。
「メル、みんなね、あなたほどではないけれど不運を感じる時がある。本当に辛い時だって。そしてメルのように幸運がくる時を待つことはできない。そんな才能持ってる人滅多にいないから」
メルは悲しそうに目を伏せた。
「エレナも私が羨ましいの?」
「そうじゃない。メルに教えたいだけ」
「教えるって・・・何を?」
エレナはメルの目をしっかりと見つめた。
微笑みもないまっすぐなその瞳にメルは思わずエレナの目を見つめ返していた。
エレナは言った。
かつてクインに言った言葉と同じ言葉を。
「不安や不運を感じる時は誰にでもある。それでも、どんなに辛くても自分のしたいこと、しなければいけないことができる人間こそこの街では勝ち組だって私は思うよ。優れた才能なんて関係ない。だからね、この街で生きていく私たちに・・・ううん、この街だけじゃない。この世界で生きていく私たちに立ち止まっている暇なんてないのよ」
「メル、これで外に出てきてくれたらいいけど」
クインはオレンジ色に染まった空を見上げながらつぶやく様に言った。
メルの家からの帰り道、夕焼けが並んだ3人の影を映し出している。
メルはエレナの言葉を聞いて少しの間黙ったあと、“帰って”と一言だけそう言った。
だから、大人しく3人は帰ることにしたのだった。
それに、エレナは気がついていた。
メルの目に光が戻っていたことを。
「きっとメルはもう、大丈夫。なんせ私の言葉をそのまんまクインが話してくれたから」
クインは、にやっと笑った。
「バレたか」
「バレるわよ」
「でも、エレナ、直前まで覚えてなかったでしょう?」
「まあね」
「私はずっと覚えてたのに。だって、あの言葉で私本当に救われたの。自分がしたいと
思っていることはたくさんあって、しなきゃいけないことだってたくさんあるって気がつかせてくれた。そのためには、まず自分の才能・・・自分自身から逃げたらダメだってエレナが教えてくれなかったら私、とっくにグレてたかも」
エレナが吹き出した。
「クインが!?まさか」
「本当よ。なんせ私の才能は大ごとばかりに巻き込まれるんだもの。生まれた時からずっと。歳をとればとるほど、大きくなってるような気もするけど」
クインは右端にいるゴウを睨んだがゴウは相変わらずの真顔をくずさない。
「だからこそ、エレナには本当に感謝してるの」
クインはエレナを見つめた。
「エレナ、あなたは自分の才能で誰ひとりとして救えなかったって言ってたけど、私はとっくに救われていたよ。だから今こうしてここにいる。この街で生きていられる」
「何言ってるのよ、クイン」
エレナは笑って、クインを小突いた。
「だからさ、エレナ、もう泣かないで」
「だから・・・何言ってるのよ、クイン。私、泣いてなんかない」
「泣いてるよ、エレナ。ずっと、ずっとエレナは泣いてた。お父さんが死んでから」
エレナは何も言わなかった。
優しく微笑むクインの顔が次第に霞んでいってエレナには見えない。
◆ゴウ◆
「もし、お父さんが復讐に走った時クインに相談していたら何か変わったのかな?」
クインと別れたあと、エレナがポツリと呟いた。
ゴウはエレナをじっと見つめた。
エレナの目はまだ赤い。
「ごめん、ゴウにこんなこと言っても意味ないわよね」
ゴウは前を見た。
「変わらない」
エレナは驚いてゴウを見つめた。
「結局どの道を選んでいてもエレナの父親は死んでいたはずだ。そういうものなんだよ。この世界は」
エレナはきょとんとした顔でゴウを見つめていた。
「何だ?その顔は」
「いや、ゴウがまともに励ましてくれるなんて」
「励ましているつもりはない。俺の経験に基づいて事実を言っているだけだ」
「うん、それが嬉しい」
「嬉しい?」
「うわべだけの適当な言葉じゃないから。ゴウもクインも」
ゴウは思った。
(エレナはずっと自分を、父親を救えなかった自分を責めていたのだろうか。現実から目を背けることで)
エレナはゴウに微笑んだ。
「ありがとう、ゴウ」
夕日に照らされたエレナの微笑みはゴウの知っている誰かに似ていた。
だが、ゴウは思い出せない。
というより、思い出そうとすらしなかった。
◇メル◇
翌朝、玄関の扉を開けたメルをクインとエレナが出迎えた。
メルは不安そうな顔をふたりに向けた。
「メル」
クインとエレナはにっと笑った。
「おはよう!」
メルはそんなふたりを拍子抜けしたような顔をして見つめてから微笑んだ。
「おはよう。クイン、エレナ」
教室に向かう廊下。
メルの足の震えは止まらない。
こんな大きな不運に真っ向から向かうのは初めてだったからだ。
“だからね、メル。自分から逃げないで”
“この街で生きていくのに立ち止まっている暇なんてあなたにも私たちにもないのよ”
ふたりの言葉がメルの中で響き渡る。
(私は自分から逃げない。自分の才能を受け入れる。だって)
「私には逃げている暇なんてない」
少しだけ、気のせいかもしれないがほんの少しだけメルは教室を開ける自分の姿に幸運のジンクスを感じた。
◇クイン◇
クインは廊下を走っていた。
あいつの姿を探していたから。
目当ての姿を見つけると、クインは立ち止まった。
相手もこちらに気がついた様でじっとクインを見つめていた。
「マット」
マットはクインに気が付くと、にっと笑ってクインにゆっくりと近づいてきた。
「クイン、おはよう」
「マット・・・あなたは」
「クイン、君は俺のせっかくのチャンスをなんで潰したんだ?」
クインは驚いてマットを見つめた。
「何を言って」
「シラを切るつもり?メルのことだよ」
クインは黙ってマットを睨みつけた。
「何で私がメルを学校に呼び戻したことわかったの?」
マットは、にっと笑った。
「やっぱり君の仕業か」
クインは、しまったと思わず声をあげた・
「君は単純でバカでわかりやすいな」
クインはそのどこかで聞いたことのあるセリフを聞いてむっとした。
「どうしてメルにあんなことしたの?マットはずっとメルと親友だったじゃない」
「どうして?自分ばかり幸せを味わっているなんてずるいだろう?親友だったのもこうしてメルを学校から追い出すための手段だったのに。まったく君のせいで今までの苦労も水の泡だ」
普通の話をするように淡々と話すマットにクインは寒気を感じた。
「マット。あなたって最低ね」
マットは、にっと笑うとクインの耳元で囁いた。
「クインもそう思っているくせに。偽善者だな。お前は」
クインはマットを睨みつけた。
「あなたにそう言われるなら私は偽善者のままでいい」
マットは、にやにやした笑みを崩さない。
「クイン。君は、優しいからね。きっとメルに俺がこんな目に合わせたこと言ってないんだろう?」
クインは何も言わなかった。
「だったら俺はいつも通り過ごさせてもらうよ」
「待って、もうこれ以上メルを」
「メルを何?言ったろう?俺はいつもどおり過ごすって。安心していいよ。メルには当分何もしない」
「当分って」
「あーあ。クインは俺と同類だと思ってたんだけどなあ」
クインは怪訝そうな顔をしてマットを見つめた。
「同類?何言ってるの?」
「君はいつも大ごとに巻き込まれる才能を持っている」
クインは驚いてマットを見つめた。
(Mr.Sの言うとおりだ。こいつは本当に人の才能がわかるんだ。そのうえ)
「だから俺と同じように優れた才能を持った人間が憎いんだとばかり思っていたよ」
(優れた才能のある人間を潰したがる)
「私はそんなこと一度も思ったことない」
マットはまた、にっと笑った。
「そうか。それも君らしいね」
そのままクインの横をマットは通り過ぎた。
「またね、クイン」
そう呟いて。
◆ゴウ◆
「ゴウはエレナに言わなかったの?マットのこと」
ゴウは隣に座っているクインを見つめた。
ゴウたちは、ウォーキンシティの中心にある『ロロアンドゼグパーク』に来ていた。
ここにはかつて巨大なビルがあった。
あることがきかっけでそのビルは今はもうない。
だからここはビル街のど真ん中でビルの隙間風がゴウたちの間を吹き抜ける。
エレナとメルは飲み物を買いに行っており、ゴウとクインは石でできた四角いだけの椅子に座ってふたりを待っていたのだ。
「言ってない。聞かれていないからだ。エレナはただ単にあの教室での様子を教えてほしいと言ってきただけ。俺はそれに従っただけだ」
「もし、今回のメルのことが誰かに仕組まれたものだとエレナがわかったら、ゴウはマットのことを話すの?」
「それをエレナが望むなら」
「そう」
クインは小さなため息をついた。
「あいつはずっとメルが妬ましかったのね。マットはメルのようにうまく立ち回れなかった。きっと私みたいな立ち位置だったのよ」
その言葉にゴウはある疑問を思った。
「君はマットのように自分の境遇が辛いと感じたことはないのか?」
「ないわ」
クインは即答した。
「自分が辛いとかかわいそうとかそんな単純な感情に流されたことないから」
クインはにっと笑った顔をゴウに向けて言葉を続けた。
「見てよ。この顔にこの体にこの性格。“私”って人間はねえ、わがままだけで生きていけるほどいい人間じゃないの」
ゴウはそんなクインを見て、エレナの言葉を思い出した。
“ゴウはまだわかっていないだけ。クインはいつも大ごとの渦に流されるけど、自分の感情には決して流されないのよ”
「君は君という人間の生き方を知っているんだな」
「ゴウ、ちがうわ」
ゴウはクインを見つめる。
クインもゴウを見つめ返す。
「そこは、君が言うほど君という人間は悪くない。いい女だ・・・って言葉をかけるところなのよ!まったく。本当にあんたは人間ってもんがわかってないんだから」
クインはむっとした顔をした。
「そうか。思ってもいないことを言わないといけない時もあるのか」
クインは思わず吹き出した。
「ちょっと、ゴウ!そんな言い方」
「この街の人間は色んな才能を持っているんだな」
つぶやくようにそして唐突にゴウの口からそんな言葉が勝手に飛び出した。
ぎゃあぎゃあとゴウに文句を言っていたクインはきょとんとした顔をして固まっている。
ゴウはそんなクインを見つめて首を振った。
「いや、なんでもない」
ゴウは内心ずっと思っていたのだ。
クインはともかく、メルやエレナの才能は人間離れしているように感じたからだった。
「ゴウ、それも違うわ」
ゴウはクインを見つめた。
「この街の人間だけじゃない、人間はみんな生まれたときから何かしらの才能を持って生まれるの。ただその才能に苦労が伴うかどうかで変わってくるだけで才能は平等にひとりひとりに与えられているのよ。私の才能は大ごとに巻き込まれること。どう見ても苦労を伴う才能でしょ?でもね、才能に変わりはないから、時としてかけがえのないものを得ることだってできる」
「かけがえのないもの?」
その時、クインとゴウの名前を呼ぶ声が聞こえた。
そんなふたりを見てクインはにっと笑い立ち上がった。
「行こう。ゴウ」
クインがエレナとメルの元へと歩き出そうとしたとき、クインの足がぴたっと止まってゴウに振り向いた。
「あと!ゴウは人間じゃないけど、才能を持っているわね」
クインは、にっと笑って見せた。
「人間を見る目がない」
再びクインとゴウを呼ぶ声がしたので、クインは返事をしてゴウに背を向けて駆け出した。
そんなクインの後ろ姿を見てゴウは思った。
(それはあながち間違っていはいない)
そしてそれが自分の才能というならば自分も何かかけがえのないものを得ることができるのだろうか、なんてゴウは少しだけ思ったがすぐに考えるのを止めた。
◇クイン◇
日が沈み、街はクインの大好きな夜景の姿に変わりつつあった。
エレナ、メル、ゴウと別れてひとりで例のカフェまでやってきた。
いつもどおり、Mr.Sは窓に向いたカウンター席に座っていた。
クインは、カウンターの上にバッグを置いた。
「やあ、クイン」
「今日のエレナの願いごとは、なし」
「そうか、まあそんな日もあるだろう」
クインはそのまま椅子を引いて座った。
「まだ何か話したいことでもあるのか?」
「Mr.S、あなたが言ったんでしょう?君とはもう少し話をする必要があるようだって」
「そんなこと言ったかな」
Mr.Sは置いていたカップを口に運んだ。
「私もあなたに聞きたいことがあるし」
クインはじっとコーヒーを飲むMr.Sの横顔を見つめた。
「あなたは、エレナがゴウにあなたへの復讐を願わないことをわかっていた。そうでしょう?」
Mr.Sは持っていたカップを見つめるだけで何も言わない。
「ずっと違和感があったの。あなたほどの詐欺師ならエレナのことをわからないはずがない。本当はずっとわかっていたのよね。エレナがそんな願いごとするはずがないって」
その時、突然Mr.Sはカップをドンっとカウンターに置いた。
クインは驚いてびくっと体を震わせた。
それはまるで何かのスイッチの様だった。
横にいるMr.SがさっきまでのMr.Sとは違う人間に切り替わった様にクインには感じたからだ。
Mr.Sは、ゆくっりとクインを見つめた。
Mr.Sの目はクインを貫くようにまっすぐに見つめている。
その顔はいつものあの無邪気な笑顔とは違う、真剣な表情だった。
クインは思わず息を呑んだ。
「ここから話すことを信じるか信じないかは君が決めていい」
Mr.Sは話始めた。
あの日のことを。
「エレナを初めて見たのは病院だった。まさか、奴が、エレナの父親がパトカーとのカーチェイス中に死ぬとはさすがに私も予期できなかった」
「何で警察を呼んだの?エレナのお父さんはあなたを詐欺ではめることはできなかったのに」
「エレナの父親は仕事でかなりの悪業をしていた。だから詐欺で騙しはしたが、警察に突き出さなかっただけでも私は慈悲を与えたつもりになっていた。しかし、まさか復讐しにくるとは・・・。世界一の詐欺師に喧嘩を売るとどうなるかを見せつけてやっただけさ」
クインは黙った。
(エレナが言った通りかもしれない。Mr.Sは悪人しか騙さない詐欺師・・・なのかも)
「まんまと罠にハマって私の屋敷まで奴は来た。そこで、少し話をしたよ。自分の悪業を棚に上げて私を騙そうとはいい度胸をしているな、と。そこでやっと自分がまた騙されていたことに気がついた様だった。その瞬間奴の中から復讐への気力が消えていくのがわかった。そこで私は奴にチャンスをやった」
“実はここに警察を呼んだ。捕まりたくなければここから逃げろ。うまくいけば逃げ切ることができるかもしれない。そこでもういちどやり直せ。一から自分の悪業を反省し、やり直せ”
「奴はすぐに私の屋敷を飛び出した。そして、事故に合った」
Mr.Sは窓の向こうで歩く人々をじっと見つめた。
「初めて人を間接的にとはいえ、殺してしまった。殺しだけは今までしてこなかったのに。だから病院へ向かった。何か行動をしないといけない、それだけはわかったから。そこで初めてエレナを見た。エレナの、あの顔」
そこでMr.Sは言葉を止めて、クインを見つめた。
「目に見えない細菌ってこの世の中にたくさんあるだろう?」
クインは目を瞬いた。
いきなり話が細菌の話なんかになったからだ。
(一体何の話を)
えっと、と呟いてからクインはMr,Sの顔色を伺うように見つめた。
「目に見えない・・・細菌?」
「君の服や皮膚を顕微鏡で見てみたら、身の毛もよだつような細菌がうようよいるはずだ。私は思うんだ。その辺を飛んでいるハエ、地を這うゴキブリ、これも細菌と同じでみる必要がないものだと。そんなものが見えなければ、この世の中はとても美しく、素晴らしいものに見える。私はそうやって生きて来た。見なくていいものを今まで見て来はしなかった。私が騙した奴らの顛末など私の完璧な世界には必要ない。だから今まで知ろうともしなかったんだ」
クインは、その言葉に不思議と納得できた。
見なくていいものを見ない、それはただ現実を見ないで生きている人間の言葉だろう。
だが、目の前にいるMr,Sは違う。
何を見て、何を見なくていいのかを知っている、理解している。
(Mr.Sなら選択できるんだ。きっと騙す人間も。だから悪業をしてきた人間しか騙さない。そして)
メルのジンクスの才能とはまた違う才能。
(自分が選ぶべき道を。何が絶対に正しいかがわかる)
そう思ったからこそクインは黙ってMr.Sの言葉を待っていた。
「だが、エレナは違う。あの時、あの病院で見たエレナの顔。あれは、見なかったことになんてできなかった。顔を見て一瞬でわかった。エレナはわかっていたんだよ。復讐はただ虚しいだけだって。復讐に燃える父親をずっと見ていたからね。だからこの悲しみを怒りをどこにぶつけたらいいのかわからない。エレナの中でそんな感情が入り乱れていた。エレナは私にとってしっかりと見る必要のある存在だったんだ。自分が向き合わなければいけないことだと感じた。そんな時、ゴウと知り合った。病院の屋上で空を仰いでいた時だった」
“もし、今たいがいの願いごとが叶うとしたら何を望む?”
Mr,Sは、ふっと笑った。
「あいつのあの言葉、あの言葉を聞いた瞬間にすべてが思いついた。私のエレナへの罪滅ぼし。誰かにエレナの願いごとを教えてもらい、その願い事が間違った方向に向かわないように、私が手助けをする。そのために必要な助っ人を見つけることも」
「それが私ってことね」
Mr.Sは少し俯き、それからクインを見つめた。
その顔はいつものあの無邪気な笑顔にもどっていた。
「この話には嘘もあるかもしれないし、真実もあるかもしれない。君はどう思う?」
そんなMr.Sの笑顔をクインはまっすぐに見つめた。
そして、はっきりと言った。
「信じる」
「詐欺師を?」
クインは頷いた。
「私は、信じる。あなたを」
Mr.Sは少し拍子抜けしたような顔をしてから笑った。
「そう。やっぱりクイン、君は単純でバカなんだな」
クインはむっとした顔をしてMr.Sから顔をそむけた。
その言葉はまぎれもない詐欺師の言葉だとクインは思った。
だから、Mr.Sには見えないところでクインは少し微笑んだ。
クインがMr.Sの真実なのか嘘なのかわからない告白を聞いてから数日がたった。
クインはいつも通りひとりで学校へ行くようになっていた。
メルはもう家まで迎えに行かなくてもひとりで学校へ行けるようになっていたからだ。
相変わらず不運のジンクスを感じ、クラスでもひとりでいることが多いようだったが、
“幸運のジンクスは自分で呼ぶわ。いつまでも家の中で待ってはいられないし”
そう言ってメルは自分の才能から逃げ出さずに立ち向かっている。
クインとエレナに笑顔を向けるようになったメルを見てエレナは少し安心したようだった。
クインは久しぶりにメルの笑顔を見ることができて嬉しかったが、どうしても気になることがあった。
(当分メルに何もしないって言ってたけど・・・マットはまだメルの才能を潰したがってるはず)
クインはメルの教室を訪れる度にマットの様子も伺っていた。
マットはメルやクインに話しかけることはなかったが、いつもどおり教室の真ん中で楽しそうに笑っている。
(Mr.Sは、マットの性格は優れた人の才能を潰したがる危険な性格をしているって言ってた)
“そうして自分が今までクラスの人気者の地位を守ってきたから。
自分よりも人気のある好感度の高いクラスメイトを潰すことで、自分のクラスでの地位を上げようとしている”
(だから今はメルの人気が落ちたから何もしないってこと?)
そんなマットの思惑を知らないメルは、親友だと思っていたマットまでもがメルを恨んでいることに対してとても心を痛めているようだった。
だから今回の首謀者であることはメルには言わなかった、というより言えるはずがなかった。
教室の雰囲気はメルにとって居心地がいいものではないが、今のところメルに対する嫌がらせは特にないようだ。
“彼らはどいつもこいつも平凡な人間の寄せ集め。大した能力も、才能もない。人生の目的もない。ただ毎日をだらだらと生きているだけ。いつもとほんの少し違う日常が起こるとすぐ興奮する。小さい奴らばかりだった”
そう言ったMr.Sの言葉をクインは思い出した。
小さい人間ばかりだからこそ、マットに簡単にそそのかされたのだ。
メルのジンクスを感じることができる才能を利用してメルに不運のジンクスを感じさせる、
ただ思っているだけでメルが学校に来なくなるのだから、小さい人間がやりそうなことだ。
きっとメルのことを疎ましく思ってはいるだろうが、直接嫌がらせをするほどの度胸はない奴らだろうとクインは考えている。
クインは正直なところマットと同じくらいメルのクラスメイトに対しても嫌悪感を抱いていた。
きっとメルが学校に来ないことでいつもと違う日常を楽しんでいたのかもしれないと思ったからだ。
誰かひとりが不幸に合っている、そのことで教室が今までの教室とはまるで変わる。
冷たい対応をして満足しているような奴らに怯えるなんて馬鹿らしい。
メルもきっと、そう思ってきているはずだ。
「クイン、何ぼーっとしてるの?」
クインは驚いて後ろを振り向いた。
エレナがにやにやしながらクインを見つめていた。
「びっくりした。おはよ、エレナ」
「おはよ。こんなところでモタモタ歩いていたら遅刻するわよ」
クインは学校へと続く並木道にいた。
確かに、周りを歩く生徒たちは皆クインの脇を走って通り過ぎていく。
「早く行こう!クイン」
エレナはそう言って走り出した。
クインは首をかしげてエレナの後ろ姿を見つめた。
(今日のエレナ、なんだか上機嫌だわ)
クインは教壇の前に立つその男を見てわかった。
朝からにやついていたエレナの顔の真実が。
(そうゆうことだったのね)
「今日から私たちのクラスの新しいメンバーになった・・・ごめんなさい、名前何だったかしら」
男は低い声で答えた。
「ゴウだ」
クインは笑いをこらえるのに必死だった。
この教室にいるクラスメイトだけではない、先生までもがみんな同じことを思っていることがわかったからだ。
(どう見ても、こんな老けた高校生いないでしょ!)
教壇の前に立つゴウにみんなが釘付けになっていたが斜め前に座っていたエレナだけは後ろを振り向いてクインに、笑顔を作った。
クインはそんなエレナを見て、今日のMr.Sへの報告が待ち遠しくなった。
エレナのこんな楽しそうな顔は久しぶりだったからだ。
(これからきっともっと楽しくなる。きっと)
そうしてクインとエレナがいたずらを楽しむ子供のように笑い合っていた頃、ゴウはひとり教壇の前で小さなため息をついた。
“復讐なんて止めなよ”
どうしても脳裏から離れない。
笑いながらそう言ったエレナの姿が。
あれは軽く言った言葉じゃなかった。
エレナにはわかったのか。
俺の危機が。
なのに、簡単にごまかした俺は・・・父親失格だな。
もう足も手も動かない。
でも、エレナに伝えたい。
うん。もう復讐なんてやめる。エレナの父親にもどるよ。
真面目にこれからは働くよ。
そう伝えたいのに。
もう、それもできない。
ごめん、エレナ。
「罪滅ぼし」
あれ?こいつ
「罪滅ぼし?」
「そう。それが俺の願い」
こいつ、わからない。
こいつの考えていることも性格も今までの生き方も全部。
「どう?気に入らない?」
もしかして、こいつ
「いや」
人間じゃない?
「気に入った」
でも私にはわかる。
これは本当におもしろくなりそうだ。
「俺はゴウ。あんたの名前は?」
エレナ、君の日常を私が変えよう。
きっとこれから楽しくなる。
今はまだ悲しみに暮れていても。
きっと。
「私はショーン。世界一の詐欺師。これからよろしく、ゴウ」
それが私の罪滅ぼしなのだから。
勢いよく扉が閉まった。
あいつの話が本当ならここから早く逃げなければ。
俺にはこんなこと向いていなかった。
あの子の言うとおり、真面目に働いて取り戻せばよかったんだ。
復讐なんて何も残らない。
何も得るものなんてなかった。
でもここからだ。
ここからまた始めるんだ。
聞こえる。
サイレンの音だ。
早く。早く逃げよう。
空、青っ。
ああ。今まで人殺しだけは避けてきたのに。
まさか、こんなことになるなんて。
あの子の顔、あの顔は
「・・・」
なんだ?
「聞きたいことがある」
なんだこいつ?
「もし、今たいがいの願い事が叶うとしたら、何を望む?」
・・・へえ、なんだか
おもしろくなりそうだ。
◇クイン◇
才能・・・それは物事をうまく成し遂げる優れた能力。
この世界で、この国で、この街で生きる人間はみんなそれぞれ才能を持っている。
こんな平凡な私でさえ。
そう。誰にでも才能はあるのだ。
ただ・・・
誰もその才能に苦労がないとは言っていない。
それだけのこと。
(なんてね)
クインは足をブラブラさせながら背の高い椅子に座り、コーヒーをすすりながらそんなことを思った。
カフェテラスを行き交う人々は皆、急ぎ足で通り過ぎていく。
ギターの弦をつま弾く音、その音に合わせて歌う澄んだ声。
その歌声に合わせて歩く人たち。
音楽を聴いているクインはそんな風に思いながら悠長に人々を眺めていた。
「クイン」
後ろから声を掛けられてクインは振り向いた。
「エレナ」
クインが耳につけていたイヤホンをとると、ギターの音も美しい歌声も一瞬で消えてカフェテラスの喧騒がクインの耳に飛び込んできた。
「クイン、耳悪くするよ」
エレナはクインの向かいに座り、机の上にバッグを置いた。
(ん?)
「エレナ、バッグ変えた?」
「うん。変えた」
(んー?)
エレナは怪訝そうにクインを見つめた。
「何よ?」
「このバッグ・・・どっかで見たことあるのよね」
「これ有名なの?」
「有名なの?って自分で買ったんじゃないの?」
「ううん。もらった」
「もらった?」
「ねえ、こんなバッグのことより、今日の課題」
「あ、ああ。そうね」
クインはじっとエレナを見つめた。
「クインが何を言いたいのかよくわかってる」
「本当にこの課題でよかったの?」
「私だからこそいいのよ」
「なんかやけになってない?」
「そう見える?」
「私にはね」
エレナは、微笑んだ。
「詐欺師の娘が歴史上の詐欺師たちを発表する・・・っておもしろいじゃない。ネタになるわ」
「私が言いたいのはそういうことじゃなくて」
「さ、いいから」
クインは小さくため息を吐いてわかったわ、とつぶやいた。
クインとエレナはカバンの中からノートやファイルを取り出すと、机の上で無造作に広げ始めた。
資料には古い白黒の写真から最近の写真まで様々な人物の性別年齢を問わない写真が載っていた。
「あいつの写真はないの?」
「ないわ」
「本当に?」
エレナはにこっと笑った。
「父の話はしないでくれる?」
「でも・・・」
エレナがにこっと微笑んだ顔を崩さないものだからクインは察した。
(あ、これ以上言ったら本気で怒りそうだわ)
「わかった。やめとく」
「ありがと」
クインとエレナの課題。
それは、週に一度ふたりのクラスで行われるプレゼンのことだった。
二人組を組まされて教壇の前に出てクラスメイトに発表をする。
テーマは何でも構わない。
二人が選んだ課題は、“歴史上の詐欺師”だった
「で、私たちが言いたいのは歴史上の詐欺師たちも私たちも同じだということです。
詐欺師たちは自分たちがどんな生き方をしているのか決して人に打ち明けることはなかった。そして、それは私たちも同じ。私たち、ひとりひとりにも秘密があります。それを隠して生きているということ。詐欺師も私たちも同じなのです」
マイクを握ったクインが教壇の前でそう言い終えると、教室はパラパラとした拍手で包まれた。
「えっと、では質問のある人いますか?」
「はい」
「どうぞ、そこのメガネの人」
「俺の名前知ってるだろ」
「いいから。プレゼンの雰囲気よ」
メガネの少年はコホンと咳払いをし、立ち上がった。
「じゃあ俺たちもエレナの親父も同じ生き方をしているってことですか?」
その質問に教室は少しざわついた。
小さな笑い声すら聞こえる。
「それは」
「クイン、代わって」
クインの後ろに立っていたエレナは、教壇の前に出るとクインからマイクを奪い取った。
「その質問ですが、私の父は詐欺師としてはあまりにも未熟です。みなさんご存知の通り、父は詐欺を全うする前に勝手に事故って勝手に死にました。彼は詐欺師ではなくもはやただの一般人なのです。そういう点では私たちと同じです。むしろ、私が言いいのは、みなさんも私の父のようになる可能性があるということ。あんな情けない死に方しないように。気をつけて生きていきましょう。これ、そのための発表なので」
教室にいた全員があっけにとられていた。
ただ、クインだけはこうなることをわかっていた。
最後のまとめの文章は、エレナが考えたのだ。
あんなにも適当に自分たちも詐欺師も同じだと言い切った最後の文章。
あれを聞いてエレナに質問しない人間はいない。
(影でこそこそされるより直接はっきり言えっていうところ、エレナらしい。それに、やっぱり・・・)
「エレナ!さっきの発表かっこよかったよ」
「あそこまでスパッと言えるなんてすごいね、エレナは」
「この課題をふたりが選んだときはドキッとしたけどねえ」
授業が終わり、休憩時間になると教室にいた生徒たちはエレナとクインの元へ集まり、口々にそう言い放った。
エレナは微笑んだ。
「ありがとう」
「エレナは強いねえ」
誰かのその一言にクインは口を開きかけたが、エレナが手でクインを制止した。
エレナは相変わらず微笑みをくずさない。
機械のようにありがとう、ありがとうと繰り返すだけ。
(まったく。私にはそのエレナの顔の方が十分怖いわよ。詐欺師なんかより)
学校の終わりを告げる鐘が鳴って、生徒たちが学校から溢れ出してきた。
クインも教科書やノートをバックに詰めこむと、椅子から立ち上がり肩にかけた。
「エレナ、久しぶりに買い物でも行かない?」
そう言って斜め前の席を見つめると同じように肩にバッグをかけたエレナが眉を少し下げてこちらを見つめていた。
「ごめん、今日ちょっと用事があるの」
「えー。せっかく課題も終わったのに」
「また今度ね。クイン」
そう言って、下校するクラスメイトたちの流れに乗りさっさと教室を後にするエレナの背中をクインは見つめた。
「また明日ね、エレナ」
エレナは、にっと笑ってクインに手を振り返した。
(ありゃ男だな)
ため息をつきつつもクインもその流れに乗って教室を後にした。
ここの生徒たちは皆、まっすぐ家に帰るということが滅多にない。
だから、このまま生徒たちの流れに身を任せているとたどり着く先は街の中心地にあるモールやカフェにレストラン、はたまたクラブであったりするのだ。
なぜならクインとエレナの高校は、巨大な都市の中にある。
それも単なる巨大都市ではない。
ビジネス、ファッション、その他もろもろ全ての中心であり発信地。
この世界を回しているのはこの都市だと言っても過言ではない。
ここは世界最大の都市、ウォーキンシティ。
毎日が真新しく、毎日が退屈とは縁がない。
そんなところに住んでいるものだから、まっすぐ家に帰るなんてとんでもない。
もちろんクインもそのひとり。
(エレナの奴、付き合い悪いんだから。あのバッグもきっと彼氏に買ってもらったってことだったのね。にしてもいつのまに)
そんなことを思いながらクインはこの街で一番大きなショッピングモールに来ていた。
(そうだ、この前Darupa の新作バッグ出たんだった。でも、高すぎて買えないのよね)
そう思いながらもクインの足はDarupaのショップの前に自然と向かっていた。
そこには巨大なショーケースの中で長いスポットライトの光が2つに交差し、たったひとつのバッグを照らしていた。
ショーケースの中に飾られたそのバッグをクインは覗き込んだ。
バッグがスポットライトに当てられているせいか、新作という魅力にあてられただけなのかクインの瞳もきらきらと輝いた。
「やっぱり素敵!誕生日に買ってもらおうかな?でも値段が」
クインはバッグの前に置かれた、値札のゼロの数を数えて、ちいさなため息をついた。
その値段は誕生日のプレゼントに・・・なんて簡単に頼める値段ではないことはあきらかだった。
バッグどころかもしかしたら、それなりの家でも買えるのではないかと思われる値段はしたからだ。
諦めきれないクインはそれからもう一度ライトで照らされたバッグに見とれた。
手に入れることができないのならせめてもう少し見るだけでもなんて思いで。
「ん?」
クインはこのバッグを見つめているとなぜかエレナがさっき教室で手を振り返した姿を思い出す。
記憶の中のエレナの肩から下がるバッグがクインの頭の中で拡大される。
そして目の前のバッグとエレナのバッグが見事に照合した瞬間にクインは叫び声をあげていた。
「これって・・・・エレナのバッグ!!」
クインのそばを歩いていた人たちは、不審者でも見るようにクインを睨みつけた。
「あ、すみません」
クインは顔を赤くしてペコペコと頭を下げたあと、もう一度そのバッグを見つめた。
(エレナ、これを買ったの?いや、ちがう。もらったって・・・)
クインは何度もバッグの前に置かれた値札のゼロを数えた。
そんな簡単に出せる金額ではないことから、どう考えてもかなりの大金持ちがエレナにこのバッグを贈ったことは明らかだった。
クインは目を丸くしてバッグを見つめていたが、ふと脳裏についこの前までのエレナの姿がよぎった。
悲しんだらいいのか怒ったらいいのかわからないそんな顔をして項垂れていたエレナの姿が。
クインは力なく微笑んだ。
「少しは元気になった・・・ってことよね?エレナ」
「ちょっと!エレナ!」
学校の玄関口で声を掛けられたエレナは、後ろを振り向いた。
そこには仁王立ちで、むすっとした顔のクインがいた。
エレナは、にこっと微笑む。
「おはよ。クイン」
クインの態度に全く反応しないエレナにクインは呆れたように息を吐いた。
「おはよ・・・じゃなくて、ちょっと来て」
「え?」
きょとんとした顔のエレナはクインに引っ張られて校舎の裏側へと連れて行かれた。
そこは雑草が伸び放題で特に何の整備もされてはいなかったが登校する生徒たちの声も遠くに聞こえるほど静かな所だった。
「何?どうしたの?」
クインは、満面の笑みで、エレナの両手を握った。
「すごいじゃない!何で言ってくれなかったのよ?」
エレナは相変わらず意味がわからない様子できょとんとした顔のままクインを見つめていた。
「すごいって?何が?」
「そのバッグ」
「これ?」
「そう!それ!Darupaの新作バッグ!」
「へえ、そうなんだ」
「そうなんだって」
「これもしかしてめちゃくちゃ高い?」
「そりゃもう!ゼロがめちゃくちゃたくさんあって・・・って、エレナ、もしかして値段も知らなかったの?」
「ウォーキンシティで一番高い?」
「え?ええ、多分それぐらいはすると思うけど。モールで見た限りではたぶん一番高かったと思うし」
「そう。本当だったのね」
エレナは微笑むと少し目を伏せた。
「本当って?」
「ううん。なんでもない。それより、クイン。そのことが本当なら、今日の授業午前中で終わるわよ」
クインは今言ったエレナの言葉の意味がまったく理解できなかった。
「え?それ、一体どういう」
その時、学校のチャイムが響いた。
「いいから、早く教室行きましょう。遅刻しちゃうわ」
クインはエレナの言葉の意味がわからないまま、午前最後の授業を受けていた。
頬杖をつきながら教壇の前でこの国の歴史を一心不乱に説明する先生を見つめた。
(先生に特に変化はない)
それから教室を見渡した。
熱心にノートをとる子、小さな声で隣の席の子と会話をする子、自分のベッド以上に寝心地が良いのか机の上で熟睡をする子。
(みんなにも変化はない)
クインは、小さなあくびをした。
(授業が本当に午前中で終わるなら、この授業を受ければ今日は帰れるってことよね。でも、まったくそんな感じしないけど。それに、バッグと授業の関係性って何よ)
ふとクインは斜め前のエレナの席を見つめた。
(エレナ?)
エレナは教科書をバッグの中にしまい始めていた。
(なにやってんのよ)
その時だった。
突然、ピンポンパンポンと放送を告げる鐘が鳴った。
「えー、校長室からのお知らせです。校長室からのお知らせです。急遽本日の授業は午前中で終了します。繰り返します。本日の授業は午前中で、今の時間をもって終了とします。以上」
再び、ピンポンパンと鐘が鳴って放送は切れた。
教室は一瞬静寂に包まれた。
先生もチョークを握ったまま固まっている。
「え、午後休みって」
「校長いいのかそれで?」
教室がざわついてきた。
「静かにしなさい~!」
先生は生徒たちに教室で待機するように指示をすると、教室を飛び出していった。
「どうなってるのよ、一体」
戸惑うクインの前に、帰り支度万端のエレナが立っていた。
「帰りましょ。クイン」
「え、でも、先生は待機しろって」
「いいから」
そう言ってエレナはクインに背を向けた。
クインは急いで教科書をバッグに詰め込むと、エレナと一緒にまだ騒然としている教室を飛び出した。
廊下には誰もいなかった。
教室の中でまだ生徒たちがざわついているのがクインにはわかった。
皆、状況がつかめずなかなか行動に移せなかったからだ。
(そりゃそうよ。いきなり午前中で授業が終わりだなんて)
クインは目の前をさっさと歩くエレナを見つめた。
「エレナ、待って、ちょっと待ってよ!」
エレナは立ち止まって、くるっとクインに振り返った。
じっとエレナがクインを見つめる。
「何?クイン。その目は?」
「何か知ってるんじゃないの?こうなることわかっていたみたいだし」
エレナはクインから視線を床に落とした。
何かを考えているようにクインには見えた。
ちらほら教室から生徒が出てきた。
きっと廊下で帰り支度をしているクインとエレナの姿を見て帰ってもいいと判断したのだろう。
エレナは視線をクインに戻してこう言った。
「明日・・・明日話すわ。だから今日はもう帰りましょ」
クインが口を開く前に、エレナはクインに背を向けて再び歩きだした。
クインは、しばらくエレナの背中を見つめ、後を追おうとしたが、足が止まった。
これ以上聞いてもきっとエレナは明日になるまで教えてくれないと長年エレナの友人をやってきたクインにはわかったからだ。
立ち止まったクインの脇を教室から溢れ出してきた生徒たちが通り過ぎて行く。
この街の子どもたちは早く街に繰り出したくて仕方がない。
だから、クイン以外の生徒はもう学校がなぜ午前中で終わったかなんて考えてはいなかった。
翌日、クインはいつもより早く登校していた。
エレナの答えを早く聞きたくて。
学校は何事もなかったように元に戻っていた。
まるで昨日の出来事などなかったように。
だが、実際に昨日の出来事がなくなったわけではない。
クインは自分の教室へ向かう途中、職員室の前を見てぎょっとした。
職員室には大勢の生徒の親が詰めかけていたのだ。
「一体どういう教育方針なんですか!?この学校は!?」
「突然午前中で学校を終わらせるなんて!」
「何とか言ってください!校長先生」
クインは校長がどんな反論をするのか気になって保護者たちの後ろからのぞきこんだ。
校長は困った顔をして首をかしげていた。
(校長・・・)
クインはそんな校長を白い目で見つめていた。
「いやあ、本当のところ私もなんであんな風に放送で午前で授業を中断するように告げたのかよくわらないんですよ」
その言葉に保護者たちはあまりにも呆れたのか、口をぽかんと開けていた。
思わずクインも同じ顔をした。
あまりにも幼稚な校長の言い分に高校生のクインですら呆れたからだ。
やがて我に戻った保護者たちが怒りの声を上げ始めた。
「あんた、それでも校長か!?」
「何言ってんだあんたは!!」
校長はそれでも物怖じせず、まあまあと言いながら保護者をなだめていた。
(うちの校長ってこんなんだったっけ)
クインはちいさなため息をついて教室へと向かった。
教室に入る直前にエレナにばったりと会った。
「エレナ」
「おはよ、クイン」
クインはエレナをじっと見つめた。
「エレナ、昨日のこと」
「わかってるわよ。今日の放課後必ず話すから」
そう言ってエレナは教室へ入っていった。
(今、ここで言ってほしかったんだけど)
クインは小さく息を吐くとエレナの後に続いて教室に入った。
先生たちといえば、まるで昨日の出来事なんてなかったように授業を進めていた。
不思議なことに生徒たちも誰も先生に昨日のことを聞くものはいなかった。
昨日のことは触れてはいけないそんな暗黙のルールがそこにあるようにはクインには見えた。
そしてクインも不思議と先生に昨日のことは問い詰める気にはならなかったのだ。
それにクインはエレナが一体何を知っているのかというこが気になり授業もろくに聞いてはいなかった。
しかし、エレナは放課後に話すという約束を固く守っているのか、授業の合間の休憩も、昼休みの時間も全くその話題には触れず、いつもどおりに振舞っていたのだ。
だから、一日の授業の終わりを告げる鐘が鳴った時、クインは教科書とノートをバッグに詰めると、エレナの席へ直行したのだった。
「エレナ!約束よ!」
真剣な顔で見つめるクインの顔がおかしかったのか、エレナはぽかんとクインを見つめた後、ぷっと吹き出した。
「な、何よ」
「クインってば変な顔」
クインは、むっとした顔をエレナに向けた。
「エレナ、私は真剣に」
「大丈夫。そんなに焦らなくても、今から教えるわよ」
そう言ってエレナは席から立ち上がった。
「どこ行くの?」
「どこって?帰るのよ」
そう言ってエレナはバッグを持ち上げた。
きょとんとするクインを見てエレナは言った。
「心配しなくてもちゃんと教えるから。ついてきて」
クインは言われるがままエレナと一緒に教室を出た。
いつもの放課後よりも学校の外が騒がしいことに気がついたのは、校門の前にふたりが来た時だった。
学校を出てすぐの道路の前に人だかりができている。
「何?何かあったの?」
クインは、人だかりの後ろから背伸びをして覗き込んだ。
「ん?よく見えない、なんだろ・・・くるま?わっ!」
クインはエレナに腕を引っ張られた。
「どうしたの?エレナ?」
「こっち、こっちに来るわ」
「え、来るって?」
ブルンという低いエンジン音がしたかと思うと四方八方に人だかりがバラけた。
クインとエレナに向かってピカピカの巨大な黒い塊がやってくる。
クインはその黒い塊を見て、目を見開いた。
クインとエレナの前で止まったその塊は、車体が異様に長い巨大な車だった。
「エ、エレナこれって」
「リムジンよ」
あまりにもあっさりと答えるエレナをクインは見つめた。
「え」
「今日の帰りに送ってもらおうと思ってリムジンを呼んだの」
「え?」
理解が追いつかないクインの目の前で、リムジンの巨大なドアが開いた。
「クイン、とりあえず帰りながら話しましょ」
「え、乗るの?」
あたりまえでしょと言ってエレナはリムジンに乗り込んだ。
「ちょっと」
「いいから、クイン、早く。また人が集まってきてるわ」
クインはまだ自分の目の前で何が起こっているのかわかってはいなかったが、とりあえずエレナの言うとおりにリムジンに乗り込んだ。
クインが乗り込んだ瞬間、バタンと大きな音をたててドアがしまった。
エレナとクインは向かい合っていた。
普通の車なら、人と向かい合うことなんてできないだろう。
だが、この車では可能なのだ。
更に
「あ、なんか飲む?」
そう言ってエレナが自分の横にあったミニ冷蔵庫を開けた。
「コーラにオレンジジュース、お酒まであるわ。何がいい?」
何も答えないクインに、エレナは振り向いた。
クインは下を向いて俯いていた。
「どうしたのよ、クイン」
どうしたの?じゃないわよ、と小さくつぶやいた声が聞こえた。
「え?何?」
クインは、ばっと勢いよく顔を上げた。
「リムジンよ!!これリムジン!お金持ちとかが乗る車!」
エレナは首をかしげた。
「そうだけど?」
「そうだけど???」
クインはもう訳がわからなさすぎて、驚く感情を通り過ぎて怒りだしていた。
「なんでエレナがリムジン持ってるのよ!?ごく一般的な家庭だったわよね?それに、学校で起こったこと説明するっていうのにリムジンに乗せられるし、わけわかんないわよ!もう疑問ばっかり増えて、ひとつも答えてくれないじゃない!」
そう言って怒鳴り終えたクインは肩で息をしていた。
そんなクインを教室の時と同じようにぽかんとした顔で見つめていたエレナは、ぷっと吹き出した。
(こ、こいつ・・・)
「ちょっとエレナ!私は本気で」
「わかってる。本当に今から説明するから。運転手が」
「運転手?」
「あなたからクインに説明してよ。ゴウ」
(ゴウ?)
ウィィィンと音が鳴ってエレナの後ろにあった壁が吸い込まれるように下がっていった。
クインは驚いて言葉がもう出ないような顔をしてその瞬間を見つめていた。
壁の向こう側は運転席になっていた。
「クイン、紹介するわ。彼はゴウ」
クインは息を呑んだ。
「・・・誰?」
「彼は私の願いをなんでも叶えてくれるらしいの」
クインはエレナの言葉が理解できない。
「えっと、てことはエレナの彼氏?」
「ちがう」
エレナの即答にクインは瞬きをするしかなかった。
「じゃあ、親戚の人?」
「それもちがうわ」
「あ、わかった!家にきたお手伝いさんとか!」
「そんな余裕うちにはないわ」
「じゃあ誰なのよ!」
エレナは、にっと笑った。
「さあ」
エレナのその答えにクインは呆れて言葉がでない。
(さあって)
「ただ分かっているのは、彼はあいつの元から来たってことだけ」
「あいつ?それってまさか」
「Mr.S。あいつはそう名乗ったわ」
「なによそれ、ふざけた名前」
エレナは、ふふっと笑った。
「Mr.Sは帳消しにしたいんだって。私への罪を」
クインはエレナの言葉の意味が理解できていないようで次のエレナの言葉を待っていた。
「Mr.Sは私の願いをゴウが何でも叶えることで、自分の罪を帳消しにしようとしているの」
「何でもって」
クインは運転席を見つめた。
「こんな素性もわからない男に何ができるって言うのよ」
エレナは、にこっと笑ってひざに置いていたバッグを持ち上げた。
クインは、ゆっくりと口を動かした。
「その・・・バッグ、昨日の授業中断・・・・このリムジン」
「そ。全部ゴウに叶えてもらったの」
「エレナまで何言って・・・」
「クイン、本当のことなのよ」
クインは、ぽかんと口を開けたまま運転をしているゴウへ視線を戻した。
「ほ、本当に?この人が?」
「彼が言うには人間じゃないらしいけどね」
クインはもう訳が分からず何と言葉をかけたらいいのかすらわからない。
エレナはバッグを見つめた。
「この街でいちばん高価なバッグ・・・別にほしかったわけじゃないけど、ゴウの力が本当かどうか試すために。次の願いごとは学校を午前中で終わらせてって願い。ちょっと無茶な願いを試してみたくて。で、今。リムジンで迎えに来てって願い。さすがに私ももう信じたわ」
クインはエレナをまっすぐに見つめた。
「全ては・・・Mr,Sの罪滅ぼしなの?」
クインは膝に置いていた拳をぎゅっと握り締めた。
「エレナのお父さんを殺した罪を?」
そんなクインの言葉にエレナは顔を綻ばせた。
「もう、クイン。私はMr.Sに父が殺されたとは思っていないわよ」
「でも」
「本当よ。私が許せない人間は、今も昔も変わらないわ」
それは・・・と言いかけてクインは口をつぐんだ。
「それならエレナ。受け入れるの?Mr.Sの勝手な願いを、こんなおじさんを?」
エレナは笑いながら、ゴウはそんなおじさんじゃないわよなんて呑気に否定した。
「もちろんそのつもりよ。向こうが勝手に罪滅ぼししたいって言ってるなら私は受け入れる。だって何でも願いごとを叶えてくれるのよ?」
エレナの嬉しそうな顔をクインは笑みひとつ浮かべず見つめていた。
「本当に信じて大丈夫なの?だってあいつは」
「いいの。クイン。信じて」
そのときリムジンが急ブレーキをかけて止まったものだからふたりの体は大きく揺れた。
「何?急に」
「ゴウ?」
「家に着いた。エレナ」
エレナは何も言わずじっと運転席を見つめた。
ゴウはエレナとクインに振り向くことなく前を見据えていた。
エレナは小さくため息をついた。
「ゴウって愛想ないでしょ?いつもこんな感じなの」
そう言って、エレナは運転席に身を乗り出した。
「ゴウ、このままクインを家まで送ってあげて」
クインは驚いて、エレナの肩をつかんだ。
「何言ってるのよ、私まだ話が」
エレナはクインに振り向いた。
「話せることは話したし。私の意志は変わらない。クインが気に入らなくてもね。頼んだわよ。ゴウ」
ゴウがエレナに振り向いた。
その時、クインは初めてゴウの顔を見たのだった。
大きな黒い瞳を持ち、すっと高い鼻、それでいて力強くぎゅっと結ばれた口。
ゴウは、クインとエレナよりも5つか6つほど年上に見え、整った顔立ちをしていた。
だから確かにエレナの言うとおりおじさんではないな、と呑気にクインは納得していた。
ゴウはそんなクインを一瞥し、エレナに視線を戻した。
「わかった」
こんなイケメンとならいいかもしれないなんて一瞬クインは思っていたが、すぐにちゃんと我に返った。
「で、でも私」
「いいから、くつろいでいって。じゃあね、クインまた明日」
そう言ってエレナはリムジンを降りた。
「え?」
バタンとドアが閉まってリムジンは再び動き出した。
「え?」
クインを乗せて。
リムジンの中は静かだった。
「あの、ゴウだったっけ?私の家の方向知らないわよね?」
「ああ」
「私の家はこの通りじゃなくて」
「少し寄り道をする」
「もう一つ向こうの・・・え?」
「少し寄り道をすると言ったんだ」
クインは固まってゴウを見つめた。
「寄り道って何よ?私家に帰りたいんだけど」
「すぐ終わる」
「ねえ、あなたはエレナ願いを叶えるんでしょ?だったら私を家まで送らないとだめなんじゃないの?」
「寄り道をするなとは言われていない」
(うん、まあ、そうなんだけども)
クインは大きなため息をついてシートにもたれた。
“あいつは、帳消しにしたいんだって。私への罪を”
(帳消しにねえ)
“Mr.S。あいつはそう名乗ったわ”
(Mr.Sか)
「おい」
唐突にゴウがクインに声をかけた。
「何?」
「お前、どこへ向かうのか気にならないのか?」
「別に。こういうことに巻き込まれるのは慣れてるし。そんなことより、私はまだあなたのこと信じたわけじゃ」
「じゃあどうして抵抗しない?」
あんたが言うか、という言葉が出かけたがクインは飲み込んだ。
「エレナを信じてるから。エレナがあなたを信用しているなら私も信じる」
その一言に納得したのか、ゴウはそれ以上何も聞いてこなかった。
外の景色はだんだんとクインの見慣れない景色へと変わっていく。
(にしてもどうやってこの街一番のバッグやリムジン、それに授業を中断させることができたのかしら)
「俺がどうやってエレナの願いごとを叶えたのか知りたいのか?」
クインは驚いて運転席を見つめた。
「私が考えていることわかったの?」
「エレナから聞いただろ?俺は人間じゃない」
「人間じゃないって言われても、どう見てもあなたは人間じゃない」
「見た目はな。ただ俺は人間と違って勘や運、そして身体能力が極限にまで冴え渡っている」
「それでエレナの願いを叶えてきたっていうの?」
「運が少し変わるだけで、時として欲しいものは簡単に手に入る。勘が冴え渡れば相手の思考が読めて自分の思うままに操れる」
「じゃあ運良く高級バッグとリムジンを手に入れて、思考を読んで校長を操ったってこと?」
「まあ、簡単に言えばそういうことだ。だから、たまに人間の考えていることがなんとなく分かるときがある。単純な人間なら尚更」
(私は単純ってことね)
クインは窓の外の次々と流れていく景色を見つめた。
「なんでMr.Sはあんな願いごとを・・・エレナのための願い」
「エレナへの罪を帳消しにしたい」
「エレナへの罪を帳消しにしたい」
思わずクインとゴウの声がハモった。
だが、クインはもう驚かない。
そして自分が今どこに連れて行かれているのかもなんとなくわかっていた。
「私はこれからMr.Sに会う。そうでしょ?エレナのお父さんを殺したMr.Sに」
「彼は殺しなんてしない。ただ、手違いで死に追いやってしまった」
「同じことじゃない」
その言葉にゴウは口を閉ざした。
クインは再び、窓の景色を見つめた。
いつのまにかウォーキンシティの市街地を離れて郊外のだだっ広い畑のあるのどかそうな田舎町にまで来ていた。
(こんなところにあいつが?)
次第にポツポツと残っていた家も消えて行き、小さな林の中にリムジンが入っていく。
全くもって似合わない。
リムジンに田舎なんて、こんな林なんて。
だが、正面に見えてきた建物はそんな思いを吹き飛ばす。
「何なの?ここ」
思わずクインはそう言って運転席に身を乗り出した。
「ここがMr.Sの屋敷だ」
それは、屋敷というよりも巨大な城だった。
高くそびえ立つ塔をいくつも持ち、大きな扉がいくつもあった。
簡単に人を寄せ付けない荘厳な雰囲気が漂っていて、まるで王様でも住んでいるような。
(いや、ちがう)
「ここに住んでいるの?世界一の詐欺師が」
ゴウは、一瞬クインをルームミラーで見つめてそれからすぐ視線を前に戻した。
リムジンは城の中へと吸い込まれていく。
歩くたびに音が響く。
すこし声を出しただけで反響する。
天井は高く、人が住むにはあまりにも落ち着けない、そんな場所だなんてクインは思った。
「こっちだ」
そう言ってゴウは荘厳すぎる屋敷の奥へと入っていった。
そこはまたもや格調高い廊下だった。
クインはきょろきょろと廊下を見回した。
赤いカーペットが敷かれた廊下にはほこりひとつ落ちていない。
壁にはいくつも大きな絵が飾られていた。
(これもきっとあくどいやり方で手に入れたのね)
クインは前を歩くゴウを見つめた。
ゴウはスタスタと歩いていく。
「ねえ、どこまで行くの?」
そんなクインの問いにゴウは答えない。
クインとゴウは広間に出た。
目の前には2階、3階へと続くであろう巨大な階段があった。
そこから足音が聞こえてくる。
クインは自分の心臓の音が大きくなるのを感じていた。
(あいつが来)
「ねえ、どこ見てんの?」
クインの背筋に寒気が走った。
驚いて後ろを振り返ったクインの瞳にMr.Sの顔が映る。
◆ゴウ◆
初めて出会った時、
ショーンの顔に好感を持てた。
だから俺にはわからなかった。
彼が世界一の詐欺師であることに。
“ゴウは本当に人を見極められないのね”
かつてゴウはそう言われたことを思い出した。
だが、
“私の罪を帳消しにしたい”
ショーンの願いごとはゴウにとって興味深く、そして
純粋で美しいとまで感じた。
世界一の詐欺師であろうが何だろうがゴウには関係がない。
ただ単にショーンの願いごとが気に入った、ただそれだけ。
だから、ショーンの願いごとを叶えることにしたゴウは、
今、ここにいる。
驚いて振り向いたクインの顔を見て、ゴウは思った。
(きっとクインも俺と同じことを思っている。こいつが?って)
◇クイン◇
(このひとが?)
クインは、自分の背後に立っていた男を見つめてそう思った。
男の顔は、羨ましいほど鼻が高く、茶色い瞳に合った凛々しい眉を持っていた。
クインと目があったかと思うと、にっと笑った。
その顔はまるで無邪気な子供のようだった。
そんなMr.Sの顔を見てクインの顔もほころんだが、頭を振った。
(お、落ち着け私!こいつはエレナのお父さんを)
「音の反響であの階段から来るって勘違いした?」
クインは瞬きをした。
(え?)
「君は単純で馬鹿なんだな」
(は?)
Mr.Sは、クインの顔をじっと見つめると一言、へえっと言った。
(へえ?)
「ゴウ、上出来だ」
その言葉にゴウは特に何も反応せずただそこに立っているだけだった。
この時、クインは直感で感じた。
ここで今すぐにでもこのMr.Sよりも先に言葉を発しなければいけないと。
でなければ、きっとMr.Sの言葉に飲み込まれてしまう。
つまり、クインはMr.Sの“上出来だ”という言葉の意味はわからなかったが、これからとんでもないことに巻き込まれると感じたのだ。
クインが口を開こうとした時、目の前にいたMr.Sと目があった。
その目は全て読んでいる目だった。
だから、クインは開きかけた口を閉じた。
そんなクインを見てMr.Sは微笑んだ。
「自己紹介がまだだったね。はじめまして」
そう言ってMr.Sは背筋をまっすぐに伸ばした。
「私の名前はS。Mr.Sとでも呼んでくれ。よろしく」
そう言って右手を差し出してきた。
クインはその手に自分の手を差し出すことはなく、じっとMr.Sの顔を睨みつけ、
次こそはと言葉を発しようとしたが、
「突然だが、君に頼みがある」
という言葉に遮られた。
「え?」
やっと発せれた言葉がそれだけだった。
そんなクインを見て、にやっと笑ったMr.Sは差し出していた手を引っ込めた。
(あ、やばい)
「エレナやゴウから聞いているだろう?私の罪を帳消しのするためにゴウをエレナの元に送ったことを。ゴウは私の願いを叶えるために、私の罪が帳消しになるまでエレナの願いを叶え続ける」
クインはぎゅっと拳を握り締めた。
(これは完全にこいつのペースだ)
そう。クインには分かっていたのだ。
すでにもうMr.Sのペースに乗せられていることを。
だから次のMr.Sの言葉を冷静に受け止めることができた。
「そこで君に友達であるエレナを監視して欲しい。私へ危害を加える願いごとをしないかどうか」
Mr.Sはかつて、エレナの父親が勤めていた会社を潰した男だ。
それも真っ当な方法なんかではない。
それはそれは大掛かりな詐欺でエレナの父親の会社をはめたのだ。
そのことでエレナの父親は責任を問われ、会社を追い出された。
会社を追われたエレナの父親は復讐に囚われた。
自分をはめた人間を自分と同じような目、いや、それ以上にひどい目にあわせてやろうと考えていたのだ。
目には目を、歯には歯を、詐欺には詐欺を。
エレナの父親は詐欺師になった。
Mr.Sをはめるためだけに。
だが、Mr.Sの正体は世界一の詐欺師だったのだ。
それをエレナの父親は死んでから気づいたことだろう。
結局、彼はMr.Sに返り討ちに合い、警察に追われ、パトカーとカーチェイス中に事故に合って崖から落ちて死んでしまった。
間抜けな詐欺師のまま。
「何言ってんの?」
クインはようやくMr.Sに言葉を返せた気がした。
Mr.Sの顔からは笑みが消えた。
クインはMr.Sの顔を睨みつける。
「意味がわからないのよ。あんたはエレナへの罪を帳消しにしたい。なのに自分への危害を加える願いごとをしないかどうか監視しろって。そのうえ私に!エレナは私の友達なのよ」
「君はわかっていないね」
(なんなのよこいつ)
「私は自分がいちばん大切だ。だから自分に危害が加わるようなことは起こって欲しくない。エレナへの罪も帳消しにしたいが、私に危害を加えるようなら全力で阻止するよ。エレナを不幸にしてでもね」
その言葉にクインは寒気を感じた。
「だったらあいつに聞けばいいじゃない」
クインはゴウを指さした。
Mr.Sは、ゴウを見つめて言った。
「ゴウはエレナの願いごとを叶える。だからもし、エレナに口止めされていたら、真の願い主である私にも言わないだろう?」
Mr.Sは再びクインに微笑んだ。
それは無邪気な子供のような顔をやはりしていた。
「本当に馬鹿で単純だ。そんなこともわからないなんて」
発する言葉と顔は全く一致していないが。
「あんたねえ」
クインは、怒りに任せてMr.Sの胸ぐらをつかんだ。
「あんたはエレナのお父さんを殺した。その罪が帳消しになると思ってんの?しかもこんなやり方で」
「君は本当にエレナの友達?」
Mr.Sは、小さくため息をついた。
「まあいい。君はこれからエレナが願いごとをする度に私に報告してくれ」
「エレナが・・・願う度に?」
「もし、君が報告しないというならば、私に対して害を与えようとしている願い事と判断して、エレナを全力で止める。どんな手を使っても」
クインはMr.Sの胸ぐらを掴む手に力がこもった。
「ゴウは人間じゃないのよ。いくらこの街で詐欺を働いてきたあんたでも敵わないに決まってる」
Mr.Sは驚いたように目を見開いてクインを見つめた。
「信じていないのに?」
その言葉にMr.Sの胸ぐらをつかむクインの手が弱まった。
全てを見透かされているような気持ちになったからだ。
「それにゴウは人間じゃないって言っても魔法が使えるわけでもなんでもないんだから」
そう言われたクインはちらりとゴウを見た。
ゴウは表情を変えずまっすぐにクインを見つめ返した。
Mr,Sは胸ぐらをつかまれたまま、そんなクインの耳元に顔を近づけた。
「私を止めることは誰にもできない」
そう囁いたMr.Sの顔は、無邪気な子供の顔でも、詐欺師の顔でもない。
全てを見通している顔、この人の前では何もできない、何一つ太刀打ちできない、そう思わせる顔をしていた。
クインは本能的にMr.Sの胸ぐらから手を離した。
そして自分の手が震えていることに気がついた。
(な、なんで)
クインはMr.Sの顔を見つめたが、またあの無邪気な笑顔に戻っていた。
それが尚更クインには怖かった。
「たのんだよ、クイン。自称エレナの友達さん」
◆ゴウ◆
「大丈夫か?」
思わずゴウは後部座席に座るクインにそう声を掛けた。
クインはその言葉で我に返ったようで、きょろきょろとあたりを見回した。
そこはゴウが運転するリムジンの中だった。
ショーンの城からリムジンに乗り込んだところでクインは疲れが出たのかそのまま眠ってしまったのだ。
景色は少しずつ街の中心地へと戻りつつあった。
「ああ、そっか」
そう言ってクインは大きく息を吐いて、シートにもたれた。
「これまで聞いたこともないぐらい自分勝手な頼みごとを聞いたんだった」
クインは先ほどまでのMr.Sとの会話を思い出しているのだろうとゴウは思った。
「クイン」
クインは運転席を睨んだ。
「何よ?」
「巻き込んで悪かった」
その言葉にクインが拍子抜けしたような顔をしているのがルームミラー越しにわかった。
「え?」
「エレナへの願い事とは別にMr.Sにエレナと近い人間を連れてくるように頼まれていたんだ。まさかあんな頼みごとをするとは思わなかったが。それにあいつと会話をすると普通の人間は大抵くたびれる。お前もそうだろう?」
クインは吹き出した。
「なんで笑う?」
「いや、心配してくれるんだと思って」
クインはゴウに微笑んだ。
「ありがとう。でも、大丈夫よ。言ったでしょう?こういうことには慣れてるって」
ゴウがルームミラー越しに、クインの顔を再び見つめたとき、クインと目が合った。
クインはゴウに、にっと笑いかけた。
「なぜ・・・慣れているんだ?」
思わずゴウの口から疑問がこぼれた。
クインは困ったような笑みを浮かべた。
「それは、私の才能とこの街のおかげ」
ゴウはその言葉の意味が理解できなかった。
「ねえ、ゴウはウォーキンシティは初めて?」
「ああ」
「じゃあこの街のこと全然知らないのね」
「この街のこと?」
クインは運転席に身を乗り出した。
「ゴウ、あなたは私がやっかいなことに巻き込まれた可哀想な女の子とでも思っているでしょ?」
ゴウは何も答えなかったが内心ではそう思っていた。
そんなゴウにクインは言葉を続ける。
「でもそんなこと私にとっては日常茶飯事みたいなもの。だってここは、世界最大の都市ウォーキンシティ。ここに住んでいる人間にはひとりひとり違った生き方がある。容姿も性格も誰ひとりとして同じ人間なんていない。もちろん私もそのひとり。そして誰もが主役なのよ。だから・・・」
クインの言葉が理解できないゴウは車を止めて、後部座席へと振り返った。
「だから何だ?何が言いたい?」
ゴウと目が合ったクインは再びにっと笑いかけた。
「私の愛すべき街、ウォーキンシティへようこそ」
◇メル◇
ジンクス。
それは人が自分の運命を見定める方法のひとつ。
靴ひもが切れたら縁起が悪いだとか。
黒ネコが前を横切ったら、不幸になるだとか、人はジンクスを気にして生きている。
メルはそんなジンクスを無意識に感じ取ることができる少女だった。
目の前で起こったなんともない出来事を自分の幸運、不運の前ぶれとして感じることができるのだ。
例えば今日の朝の出来事。
目覚ましが鳴り、寝ぼけた顔のままベッドからおりて、リビングに向かう。
眠気を少しでも覚まそうとコーヒーを飲み、朝食を食べながら、ふとテレビを見つめるといつも見ているモーニングショーの司会が変わっていた。
司会が変わったくらい特に何の問題もない。
このモーニングショーを見ている大半の人間はこう思うだろう。
ふうん。司会変わったんだ、とか。
前の司会者の方が好きだった、とか。
そんなたわいもないことを思うはずだ。
だがメルは違う。
思わず、スクランブルエッグをフォークで突き刺したまま固まってしまった。
「行かなきゃ」
メルは感じたのだ。
このなんてことのない出来事に幸運のジンクスを。
いつからだろうか。
メルがジンクスを瞬間的に感じることができると気がついたのは。
一番初めに感じたジンクスはなんだったのだろう。
そんなことメルはずっと昔すぎて忘れてしまった。
だが、小学校に入った頃には自然に自分の才能を無意識に理解していたようにも思えるのだ。
メルのジンクスは、はっきりと未来がわかるものではない。
自分にこれから訪れるのは幸運か不運かのどちらかなのかが無意識に感じ取ることができ、自分がすべき行動を判断できる。
例えば、ベッドに入る直前に聞こえた犬の遠吠えに自分の不運のジンクスを感じるとする。
そんな不運を感じながら学校に向かうと、クラスではウイルス性の風邪が流行っていたり、席替えのくじ引きがあって、とんでもないいじめっ子の隣の席になったり、大嫌いな科目の抜き打ちテストがあったり、それはもう踏んだり蹴ったりな一日を送るはめになる。
逆に、早朝に聞いた美しい鳥のさえずりに幸運のジンクスを感じるとする。
そんな幸運を感じながら学校に向かうと、クラスでは発表会の役決めの最中ですんなりと自分がしたかった役に決まったり、つまらない授業を中断して先生がゲームをしてくれたり、勘だけで解いたテストで満点を採ったり、それはもうとにかくいいことづく目な一日が訪れる。
こんな調子で日常を繰り返してきたものだからメルはいつから自分がこんな生活をし始めたのかがわからない。
家族や昔からの友人に聞けばわかるかもしれないが、みんな長い付き合いだ。
メルと同じようにいつからなのかきっと忘れてしまっているだろう。
だが、だからこそメルのことをよく理解している。
メルの両親はもうメルの両親を16年も務めているだけあって、メルのジンクスを感じ取る才能を信用していた。
昔は、外に出たくないと言っても無理やり外出させたりしていたが、そのたびに怪我をしたり、はたまた大きな事故に遭遇したりすることが何度も続いたため、次第にメルの才能の存在に気がついてきたのだ。
だからメルが外出をしたくないと言い出しても、すんなりと受け止めてくれる。
メルの友人も同じだ。
小学校の頃からメルが学校を休む度に、不運なことが起こり、メルが学校にいるときはいつもいいことばかり起こるのだからメルがジンクスの話を打ち明けてもいとも簡単に信用してくれた。
そんな人々に囲まれて高校生になったメルの生活は順風満帆だった。
自分で自分の幸運不運を見定めることができるなんて人生勝ち組である証拠なのだから。
顔に優しく触れる風が気持ち良くてメルは思わず顔をほころばせた。
久しぶりの太陽の光を浴びながら、鼻唄を歌って。
そう。
メルの外出は実に一週間振りだった。
不運のジンクスを感じ取っていたメルは、外出を控えていたのだった。
(ずっと嫌な感じがしていたけど、今朝のあの司会者のおかげでそれもなくなったわ)
一週間前、いつもどおり学校に向かおうと玄関を開けたときだった。
ドアの横に掛けてあった傘が落ちた。
ただそれだけだったがメルにはそれが寒気を感じるほどの不運がこの先に待ち受けていることを感じたのだった。
すぐにドアを閉めて自分の部屋に戻った。
そこから一週間メルは家にこもりっぱなしだったのだ。
とは言ってもここまで外出しなかったのはメル自身も初めてだった。
(一週間もこんな嫌な予感がするなんて、学校で何かあったのかしら)
確かに学校ではちょっとした騒ぎが起こっていたのだった。
メルは学校に着くやいなや校門の前が異様な雰囲気であることに気がついた。
大勢の人だかりが、校門に一枚貼られている張り紙ただ一点を見つめていたからだ。
(なんだろう?)
メルは人だかりをかき分けて張り紙の文字が読める距離まで近づいた。
本日休校に致します
その一言が小さなコピー用紙にでかでかと書かれていた。
「え、休校?」
メルはあまりにも驚きすぎて思わず心で思ったことが口に出ていた。
周りの生徒たちもメルと同じ思いだったのだろう。
口々に文句を言い始めていた。
「いったいいつから再開するんだ?」
「いいかんげにしろよ!」
「校長出てこい!」
メルは呆れて張り紙を見つめた。
(今日は確かにいいことがありそうに感じたのに。これがいいこと?)
しばらくそうして張り紙を見つめていたが、次第に校門の前の人だかりは小さくなっていった。
ここで張り紙を見ていても仕方がない。
肝心の学校が休みならメルがすることはひとつだ。
(私も帰ろ)
来た道を戻ろうと振り向いたメルはふと視線を感じた。
メルが横に振り向くと、そこにはメルより5つか6つは年上に見える男が立っていた。
その男はメルと目が合っても全く表情を変えることなくこちらを見つめている。
男の視線はあまりにもメルだけを見つめていたものだから、メルは知人の誰かなのかもしれないと思い記憶を張り巡らして思い出そうとした。
しかし、どう考えてもこんな男見たこともない。
見れば見るほど見たことのない男。
メルは、そんな男のまっすぐな眼差しが気持ち悪くて、男から視線をそらし、足早に校門の前から去っていった。
(やっぱりおかしい。今日は幸運のジンクスを感じて外に出てきたのに)
メルは足を緩めることはなかった。
あの男が追いかけてきているような気がしてしょうがなかったからだ。
確かにメルの足音ともうひとつ足音が聞こえる。
メルの足音はどんどん早くなる、もうひとつの足音もどんどん早くなる。
曲がり角を曲がろうとしたその時、メルの肩がうしろから勢いよく掴まれた。
「うわあ!」
メルは思わず大きな声で叫んでしまった。
「ちょっと、どうしたのよ。メル」
メルが驚いて後ろを振り向くとそこにはクインが立っていた。
「ク、クイン?」
メルは大きく息を吐いた。
「ああ、なんだ、クインかあ」
「なんだとは何よ。失礼ね」
「ごめんごめん。急に肩なんて掴んでくるからびっくりしちゃって。でもどうしたの?」
クインは、えっと、と小さく呟いてからにこっと笑顔を作った。
「最近メルの姿学校で見ていなかったなと思ってね。ねえ、どっかでお茶しない?久しぶりに」
クインとメルは学校からひと駅離れたビジネス街にある“ダミアンの店”というカフェに来ていた。
暖かな黄色い明かりに包まれた店内はビジネス街の喧騒を全く感じさせない。
ウォーキンシティには数え切れないほどのカフェやレストランが存在するというのに、
仕事に疲れたOLやサラリーマン、遊び疲れた若者、退屈を持て余したお年寄り、老若男女問わずウォーキンシティの住人はここが大好きなのだ。
それは、ここのサンドに秘密がある。
焼きたてのパンにはさまれたサクサクのカツ、カツにかかったソースがパンとレタスに染み込んで、それはそれは口の中に広がるソースの旨み。
ここのサンドを一度食べると他のサンドを食べることなんてできない。
そんなダミアンの店を、生まれたときからウォーキンシティに住んでいるクインやメルは学校帰りによく寄っていた。
だから久しぶりに話をするのならば、ダミアンの店でということになったのだ。
静かなクラッシク音楽がゆっくりと流れ、コーヒーの香りが漂う。
「ここの店久しぶりね、あ、すみません!ホットコーヒーふたつ!あとサンドも」
そう言いながら向かいに座ったクインをメルはまじまじと見つめて思った。
(本当に久しぶりだわ)
クインはメルと小学生の頃からの付き合いだ。
だからもちろんメルの才能のことも理解している。
クラスも今まで何度か同じだったが、女子特有のグループでは同じグループには属していなかった。
(クインは確かエレナと仲が良かったのよね)
だが、何度かこうしてお茶する仲ではあったのだ。
クインとメルはそこまで仲が良い訳でなないのだが、同じグループじゃない女の子というのは、同じグループの女の子よりも何かと相談や本音を言いあえたりするものだ。
(そういえば昔、クインとエレナにここで)
そこでメルは、クインの目を見つめた。
「クイン、エレナの話聞いたわ」
クインの目が悲しそうに光った。
「そっか、そうよね、学校中に知れ渡っているものね」
「エレナは大丈夫なの?」
「う、うん。今のところは」
「そう。私に何かできることがあればよかったんだけど」
メルはぎゅっと拳を握り締めた。
(私のこの力がもっと人の役に立てればいいのに)
「おまたせしました」
クインとメルの前にぽかぽかと湯気が立ち込めるホットコーヒーと熱々のサンドがふたつ置かれた。
メルは両手でカップを包み込むとホットコーヒーを一口くちに運んだ。
「メル、変わってない」
メルは驚いてきょとんとした顔をクインに向けた。
「え?」
「いま、自分に何かできることはないかって考えたでしょ?メルの力で」
メルは、目を瞬きながらカップを置いた。
「私、そんな顔に出てた?」
「ううん。前にここでそんな話したじゃない?エレナと三人で」
「私も。ちょうどそのこと思い出してた」
「あの時のメル、自分の力が誰かの力になれればいいのにって話してたでしょ?その時と同じように思いつめた顔してる」
「結局、顔に出てるんじゃない」
クインは笑った。
「まあ、そうなんだけど。でも私たちがエレナにできることはもうないわ。あんな結末になったのもエレナのお父さんが決めたことだし。エレナにだってどうしようもできなかったのよ。それに、今は学校が大変なことになっているしね」
クインは、サンドをひとつ手に取って一口。
自然に顔が笑顔になって美味しそうに味わっている。
だが、メルはそんなクインを不思議そうに見つめていた。
「学校が?今日の休校のこと?」
クインはサンドを飲み込む。
「今日だけじゃないじゃない。これでもう三日目よ」
メルがきょとんとした顔をクインに向けるものだからクインは首をかしげた。
「メル、知らなかったの?学校はもう三日連続で意味もなく休校になっているのよ」
「三日も!?なんでそんな」
「もしかして、学校を休んでいたの?この二日間」
「ううん。二日どころじゃない。一週間よ。しかも学校というよりは外にすら出ていなかったの」
「一週間!?メル、まさかまた不運の」
「そう。一週間前に不運のジンクスを感じてからずっと嫌な感じが抜けなくて。でも、今朝幸運のジンクスを感じてやっと外に出る気になった。それなのに学校は休校してるし」
「メルのジンクスが外れたってことは・・・ないわね」
メルはうなずいた。
「私が感じるジンクスは絶対に外れないもの。だから今朝のジンクスは一体なんだったのかしら」
クインは腕を組むとうーんと唸った。
メルはそんなクインの考え込む姿を見つめて微笑んだ。
「もしかして、こうしてクインとお茶することだったのかも」
「え?まさか、ただ喋ってるだけじゃない」
「うん。でも、なんだかそんな気がするのよ」
メルはそう言って微笑んだが、心の中に何かモヤがかかっている気持ちになった。
(なんでだろう。せっかく幸運のジンクスを感じたのに)
メルは皿の上に残ったサンドを見つめた。
とっくに冷めてしまったサンドに手を伸ばしたメルの心の中はさらにモヤがかかった様な気持ちになった。
クインとは店の前で別れた。
1週間ぶりに友人と話すことができてメルは嬉しかったが、学校が休校になったことがメルの中で引っかかっていた。
休校の理由が知りたいというわけではない。
メルは家へと戻る道の途中でふと立ち止まりポケットに入っていた携帯を開いた。
受信ボックスを見つめるが、ここ最近メールは誰からも来ていない。
メルはそんな携帯を真顔でじっと見つめた。
(学校が今日まで休校だったこと誰も教えてくれなかった)
メルと同じクラスの同じグループの子たちは、クインと同じで小学校の頃からの友達だ。
もちろん、メルの才能のことも理解しているし、クイン以上にわかり合えている存在とメルは思っている。
だからこそメルが学校を休むたびに最初こそは大丈夫?だとか、連絡をくれたのだがここ最近はメルの行動にも慣れてきたのか連絡をしてくれることは激減していた。
(もう私の行動はあの子たちにとっても当たり前の行動になったってことよね。それは私にとってもありがたいことなのかも)
メルは小さくため息を付いて携帯を閉じた。
(でも少し寂しいな。学校が休校していることぐらい教えてくれてもよかったのに)
そんなモヤモヤとした気持ちをメルいつもこうして振り払う。
自分の才能があるじゃないかと思いうことで。
メルのジンクスを感じ取ることができる才能はいつも自分を正しい道に導いてくれる。
(だから大丈夫。幸運のジンクスを感じた限り、きっとこれからいいことが起きる。きっと)
そんな風に自分にいい聞かせていたメルが再び歩き出そうとした時、
(誰かに見られている・・・)
後ろから視線を感じた。
メルが後ろを振り向くと、そこには今朝、校門の前に立っていたあの男がいた。
あの時と同じようにじっとこちらを見つめている。
顔は整っていたが感情のないその顔はメルにとって恐怖でしかなかった。
しかしメルは、その場から逃げ出すどころか思わず男の顔をじっと見つめ返していた。
怖くて足が動かず、逃げ出すことができなかったのだ。
男は相変わらずこちらを見つめている。
メルの脳裏にひとつの疑問が浮かび上がった。
(もしかしてこの人、私を尾けていた?)
そう思った瞬間メルの足はやっと動き出し、男に背を向けてその場から走り出したのだった。
リビングにいたメルの母親が顔をのぞかせて、メル、学校は?と玄関にいたメルに問う前にメルは自分の部屋に飛び込んで扉を閉めていた。
心臓がバクバクと音をたてて体中にものすごい速さで血を送っている。
だからメルはまだ家に帰っても落ち着くことができなかった。
「何なの。あの男」
あの男の顔がメルの脳裏に焼き付いて離れない。
じっとこちらを見つめる大きな瞳。
ようやくメルは落ち着いてきたのか、小さな息を吐いた。
そんなメルが顔を上げて部屋を見渡した時だった。
本棚に飾っていたぬいぐるみが床に落ちていることに気がついた。
きっと窓を開けていたから、風か何かで落ちたのだろう。
大抵の人間はそう思う。
だがメルは違った。
(嘘でしょ)
メルはその光景に、ただ単に部屋の床にぬいぐるみが落ちているというその光景に不運のジンクスを感じた。
こうしてメルの幸運は終わった。
だから、メルは次の日からまた家に閉じこもった。
その次の日も、またその次の日も。
あの日からメルは幸運のジンクスを感じることができない。
◇クイン◇
“私に危害を加えるようなら全力で阻止するよ。エレナを不幸にしてでもね”
エレナへの罪滅ぼし。
それがMr.Sの願い。
だが、Mr.Sのクインへの頼みごとは全くもって自己中心的なものだった。
「歪んでる」
クインはベッドの上で仰向けになって天井を見つめながらそうつぶやいた。
窓の外からは鳥のさえずりが聞こえる。
無茶な頼みごとを受けてから一夜が明けた。
クインは布団の中に潜り込み、目をぎゅっとつぶった。
Mr.Sのあの無邪気な笑顔がクインの目に焼き付いている。
(あの無駄に可愛い顔した笑顔・・・気持ち悪い)
その時、真っ暗なクインの瞼の裏にあの日のエレナの姿がふいに蘇った。
あの日、父親を亡くした日、エレナは本当に消えてしまうんじゃないかとクインは思った。
涙すら見せなかったあのエレナの姿。
エレナは人前で涙を見せたことがない。
だが、父親が死んで悲しくないわけがない。
エレナはこの悲しみを後悔をどうやって表現すればいいのかがわからなかったのだろう。
(そしてそれは今も。これ以上エレナの苦しむ姿は見たくない)
クインは目を開けて、布団の中から飛び出した。
「やるしかないってことね」
なんてやる気になったクインだったが、学校に着くなり愕然とした。
「ちょっと・・・何よこれ!!」
校門前には、人だかりができており、みんなぽかんとただ一点を見つめていた。
そんな人ごみの僅かな隙間からクインは張り紙の文字を読んだ。
「本日・・・休校に致します?」
周りでざわざわと騒ぎ始める生徒たちの声がクインの中で遠くなっていく。
「まさか」
クインにはわかったのだ。
「エレナの願いだからだ」
びくっと体を震わせてしてクインは振り向いた。
「ゴウ」
クインのすぐ後ろにゴウが立っていた。
「やっぱり。でも、どうやって?」
「言っただろう?俺は、人間じゃないんだ。大概の願い事は朝飯前だ」
(いや、そういうこと聞いているわけじゃないんだけど・・・まあいいや)
「でもなんでエレナがこんな願いごとを?」
「寝坊だ」
「ああ、寝坊したからか」
「エレナ!」
クインはエレナの部屋のドアを蹴破るのではないかと思うぐらいの勢いで開けた。
「クイン、おはよ」
エレナは部屋でコーヒ-を飲みながら本を読んでいた。
学校からエレナの家まで走ってきたものだからクインは肩で息をしていた。
「おはよ・・・じゃないわよ」
「じゃあなに?」
「学校のこと!自分が寝坊して遅刻するのが嫌だからって学校自体を休校にするなんて」
「まずかった?」
「まずいっていうか、そんな自分勝手な願い」
「学校あったほうがよかった?」
「そりゃ、授業うけるよりかは休みの方がうれしいけど」
「なんだ、よかった」
「じゃなくて、願いごとをこんなことに使っていいの?私情で学校のみんなを巻き込むのは」
エレナは、視線をクインから窓へと向けた。
「クインは私の願いごとがくだらないって言いたいのね?」
悲しげな表情をして外を見つめるエレナを見て、クインは言葉に詰まった。
「そ、そんなことは」
「私、今日は本当に起きられなかったの。最近色々ありすぎて疲れていたのかもしれないわ」
まあ、確かに色々起こりすぎてはいるわねとクインは心から思った。
エレナは視線をクインに戻さずに、じっと窓の外を見つめていた。
「エレナ?」
「クイン、今日は帰ってくれる?」
その一言にクインはびくっと体を震わせた。
「え?」
仕方がないからクインは、エレナの部屋を出た。
(あんなエレナ初めて見た。そりゃ確かにお父さんが死んで、その罪の帳消しのためにゴウなんか寄越されて、疲れるのもわかるような)
クインは1階へと続く階段を下り始めた。
エレナの家は、このあたりで一番の豪邸と言っていいほど大きかった。
小さい頃からよく遊びに来ていたこの家をクインはお城の様に感じていた。
(私の家と比べたら、そりゃお城に見えるわよねえ。でも)
昨日のMr.Sの城のような屋敷を見た後だからか、昔ほど大きくは感じることはできなくなっていた。
1階のリビングにはフカフカの真っ白なソファー、大きなテレビ。
だがそこには誰もいない。
(エレナのお母さん、また仕事でどっかの国に行ってるのかな?)
エレナの母親は、元々世界を飛び回る仕事をしていて、あまり家にいることはなく、
父親も生前、会社では重役の仕事をしていて家にいることの方が少なかった。
(それでも、人がひとりいなくなるっていうのは、こういうことなんだ)
クインはため息をついた。
(帰ろう。帰ってテレビでも)
「待て」
その声に驚いて、クインは振り向いた。
ゴウが立っていた。
「ゴウ?何?」
ゴウは相変わらず真顔で、何を考えているのかわからない。
「昨日の約束のことだ」
「Mr.Sの?」
「そこの駅前のカフェにSはいる。そこでコーヒーでも飲みながら待っている、と」
「はあ、呑気なもんね。こっちは友達を怒らせちゃって落ち込んでるのに」
ゴウは何も言わなかった。
そんなゴウをクインはじっと見つめた。
ゴウは表情を変えず、クインを見つめ返した。
「なんだ?」
「ねえ、ゴウはこのことエレナに伝えなかったの?」
「ああ。伝えたところで何の意味もない」
(確かに。こんなこと知らないほうがいいに決まってる。ゴウは思ったより気が利くみたいね)
クインは口を開きかけたが、ゴウはさっきから真顔でじっとクインを見つめている。
いくらイケメンでも真顔で見つめられるのはあまりいい気分にはならない。
「わ、わかったわよ。今から行けばいいんでしょ?」
「ああ、頼んだ」
そう言ってゴウは2階へと戻っていった。
そんなゴウの後ろ姿を見つめてからクインはエレナの家を飛び出した。
駅前のカフェに入った瞬間に、Mr.Sがどこにいるのかがわかった。
昨日は気が動転していてよく分かってはいなかったが、Mr.Sは足がすらっと長くそれに見合った身長の高さの持ち主だったのだ。
だからこそ、店内でも注目を浴びていた。
「ねえ、見てあのひとモデルかなあ?」
「あんなにイケメンなら俳優さんじゃない?」
そんな話声がクインに聞こえてくる。
(残念。どっちもはずれ。こいつの職業は詐欺師よ)
Mr.Sは窓に向いたカウンター席に座って外を眺めていた。
クインはMr.Sの隣に、カバンをわざと叩きつけるように置いた。
Mr.Sがクインに振り向く。
「やあ、エレナの友達さん」
「どうも」
クインはMr.Sの隣に座った。
「機嫌が悪いようだけど?」
「別に。さっさと用件すまして帰りたいだけ」
Mr.Sは、やはり無邪気な子供のような笑顔で微笑んだ。
(でた、この気持ち悪い笑顔)
クインはMr.Sの笑顔から目を背けて窓の外を見つめた。
人々が足早に街を駆け抜けていく。
「クインの今日の願いごとは学校を休校にしたこと」
「休校に?なんで?」
「あんたのせいよ」
「私のせい?」
「ここ最近色々ありすぎて疲れたんだって。それで今日寝坊したみたい」
「寝坊ねえ」
「じゃあ、これでいい?私、帰るわ」
「君は、この願いごとに何か違和感を感じなかったのか?」
クインは、Mr.Sを見つめた。
「え?」
「違和感だよ。寝坊なんかでエレナがそんな下らない願いごとをすると思うのか?」
「あんたに何がわかって」
「だから君に聞いているんだよ、君はエレナと付き合いが長いだろ?だから、感じないのか?違和感を」
「違和感なんて」
(ん?でも)
クインの脳裏に悲しそうにクインから視線をそらしたエレナの姿がよぎった。
「確かに、あんなエレナの姿初めて見たかも」
「そう。それが違和感だ」
「で、でも違和感って言うの?こんなこと」
「この人のこんな姿初めて見た、という言葉は付き合いの浅い人間が言うなら軽く聞こえるが、君は幼稚園の頃からエレナと知り合いなのだろう?しかも家族ぐるみで」
「そうだけど」
(何で知ってるのよ)
「私の情報網を馬鹿にするな」
(心まで読まれてるし)
「とにかく、君のように付き合いの長くそして深い人間がそう感じたということは、それはその人に対して何か違和感を抱いているということ」
「そう・・・なのかな」
「そうなんだよ」
(こいつのペースに乗せられている気もするけど)
「さすがだな」
「え?」
「君は色々とこの街で揉まれただけある。私の話にそう簡単には乗らない。だが、信じてもらわないと。なぜなら、私が言っていることは本当なのだから」
Mr.Sは席から立ち上がった。
「ちょっと!どこ行くの?」
「学校だ」
「なんで?」
「君は、エレナの態度には違和感があると感じた」
それからまたMr.Sはにっと笑ってこう言い放った。
「私はエレナの願いごとには何か意味があると感じる。それを確かめたい。」
Mr.Sは学校の校門に貼られた張り紙を見つめいていた。
クインはそんなMr.Sをため息をつきながら後ろから見つめる。
「朝と特に変化はないわよ。人がいないくらいね」
(それにしてもゴウはどうやって学校を休校にしたんだろう。また校長でも操ったのかしら)
クインは少し校長先生を不憫に感じ始めたがすぐに頭を振った。
(今はそんなことよりも)
「ねえ、Mr.S、もう私帰っても」
「人がいた?その中にエレナはいなかったのか?」
「いるわけないじゃない。エレナは寝坊したんだから。あ、でも、ゴウはここに
いたけど」
その言葉でMr.Sはクインに振り向いた。
「な、何よ」
「それだ」
「ゴウのこと?」
「ああ。ゴウはエレナに言われた。だからここに来たんだ」
「はあ」
クインは呆れた顔をしてMr.Sを見つめた。
「なんだ?その顔は」
「Mr.S、あなたはエレナがあなたに対して害を与える願いをしないように私に報告させてるんでしょう?どう考えてもこの願いは、あなたに対して害のある願いに見えないわ」
「君は本当に単純で馬鹿だな。一見何の接点がなくても突如として繋がりを持つ時がある」
「そんなことある?」
「ああ。私自身がそうだから」
(詐欺師は・・・確かにそうかも)
「それに私にはわかる。エレナはこんなくだらない願いごとなどしないと」
「待って。さっき言ってたわよね?浅い付き合いの人間には違和感なんて感じ取れないって。深い付き合いの人間にしか気づかないって」
「それは、凡人の話だ」
Mr.Sの瞳が光った。
「私は、人の顔を見ればその人がどんな人間なのか瞬時に分かってしまう。私は世界一の詐欺師だから」
(自称ね)
「自称ではない」
(う、また心を)
「とにかく、まだ私に害のない願いだと断定できない」
「断定してもいいように思えるのは私だけなの?」
「物事をそう簡単に単純に捉えない方がいい。ひとつひとつの行動に実は意味が隠されている。それに気がつかないからみんな私に騙されるんだ」
詐欺師の言うことなんて当てにならない。
特にこんな適当な言葉を並べた目の前の男の言葉など。
だが、なぜだろう。
クインはMr.Sの言葉に説得力を感じ始めていた。
じっとクインはMr.Sを見つめる。
「本当にこのエレナの願いには意味があると思う?」
「ああ。思う。エレナを一目見たときから分かっていた。彼女は人の危機を察して手を差し伸べることができる人間だと」
クインは黙ってただMr.Sを見つめながら思い出した。
小さな教室で、クラス全員からいじめられたとき、エレナだけが助けてくれたことを。
(こいつは本当にわかるんだ)
「エレナは誰かを救おうとしている・・・とか?」
(昔、私を助けてくれたように)
Mr.Sは、にっと笑った。
「そう。だから学校を休校にした」
「Mr.S」
「なんだ?」
「もしそうならやっぱりあなたには害のない」
「何度も言わせるな。何がどう繋がるのかはまだわからない。この願いが何と繋がっているのかまだなにひとつ分かっていいない。そこがはっきりするまでは私は安心して眠ることすらできない」
クインは何も言わずにこう思った。
(こいつ、本当は楽しんでるな)
“明日の朝、いつも通り学校へ向かうといい。ただし、ゴウには見つかるな。なぜゴウが来るかわかるだって?私の勘では明日も学校は休校となり、今日と同じようにゴウが校門の前に来るとふんでいるからだ”
そう言われた言葉をクインは思い出しながら校門の前をじっと見つめていた。
ゴウが来ても見つからないように校門前の並木道に植えられている中でも一番の大木の影に隠れながら。
Mr.Sの言葉通りに実行に移すのはあまりいい気はしなかったが、エレナがくだらないことを願わないというMr.Sの言葉にはクインは賛同していた。
だから結局今日も登校したのだった。
校門の前にはたくさんの人だかりが昨日と同じ様に出来上がっている。
みんな、校門の前に貼られた張り紙を見て、またか、いい加減にしろ、ラッキー、など様々な声をあげていた。
(Mr.Sの言うとおり、本当に休校になったわ)
その時、足早に校門の前に歩いてきたどう見ても高校生ではない男の姿が見えた。
「あ」
ゴウが校門の前にやってきたのだ。
ゴウは校門の前で騒ぐ人だかりをじっと見つめていた。
相変わらずの真顔のせいでクインにはゴウが何を考えているかのかわからない。
(どうしてMr.Sはゴウがここに来ることもわかったんだろう)
ゴウはしばらくそうしていたが、そのうちだんだんと人だかりが減っていき誰もいなくなるとゴウもその場を立ち去った。
ゴウの後ろ姿をクインは見送ると、クインもその場から立ち去った。
駅前のカフェに入ると、中にいた女の子たちが窓際のカウンター席を見てきゃあきゃあと騒いでいたが、クインは全く気にすることはなくその女の子たちの視線の先へと向かった。
Mr.Sはクインを見るとにっと笑った。
「やあ、おはよう。自称エレナの友達さん」
その呼び方にむっとしながらもクインはMr.Sの隣に座った。
「Mr.S。あなたの言うとおりだったわ。今日もまた休校になった」
「そうか。では、エレナの今日の願いも学校を休校にしてほしいという願いだったということか」
「どうしてわかったの?今日も休校になること。それにゴウがあの場に現れることだって」
「私の勘だよ」
そう言って子供のような無邪気な笑顔をクインに向けてきた。
ちょうどMr.Sとクインの後ろを通りがかった女性はそんなMr.Sの顔に思わず見とれていたようだったが、クインはもう見とれたりしない。
Mr.Sをじっと睨みつけていた。
「ふざけないで」
「ふざけてなどいない。むしろどうして君にはわからないのかがわからない。やはり、君は自称エレナの友達なんだな」
クインは、むっとしてMr.Sから視線をそらした。
「まあいい。特別に教えてあげよう。昨日も言ったように私にはわかる。エレナは人の危機を察して手を差し伸べることができる人間だと」
「私もそれぐらいわかるわよ。ずっと小さい頃からエレナとは・・・一緒だったんだから」
友達という言葉をクインが使わなかったのは、少しMr.Sの言うとおりかもしれないと納得してしまったからだった。
Mr.Sはそんなクインの気持ちをわかっているくせに気にすることなく話を続けた。
「昨日、学校が休校になった時、君の前にゴウが現れた。ゴウは自分から君に声を掛けた。そうだろう?」
クインは驚いて、Mr.sを見つめた。
「やはり、そうか。そして君とゴウはエレナの元へと向かった。そこでエレナはこの願い事は自分が寝坊したから願ったと言って、君はすんなりと信用して、私のいるこのカフェに来た。そして、今日。昨日と同じように学校は休校になった。そこにゴウは来たが、誰に話し掛けるでもなく去った。そんなゴウを見届けてここに来た自称エレナの友達である君は昨日のエレナの話を信用しきっているため、きっと今こう思っているだろう。今日もエレナは寝坊したのかと」
「そんなことは」
「それは、私が君に助言したからだ。エレナが誰かを救おうとしている、と。もし、君に私が助言も何もしていなかったら、君は、エレナは今日も寝坊したと信じ込んでいたはずだ」
クインは、口をつぐんだ。
Mr.Sは話を続ける。
「つまり、こういうことだ。昨日の休校はエレナが君に寝坊したから休校にしたと思わせるため。そして、今日休校にしたのは、エレナが救いたいと思っている相手の様子を探るため」
「じゃあ、ゴウが校門の前にいたのは」
「エレナに様子を見るように言われていたのだろう。だが、誰にも声を掛けなかったということは、今日は現れなかったということだ」
「エレナが救いたいと思っている人が?一体誰なんだろう」
「これも私の勘だが、エレナはきっと救いたいと思っているその人間が現れるまで学校を休校にし続けるはずだ」
クインは驚いて目を見開いた。
「もし、そうだとしたら大変だわ」
クインはカバンを肩に掛けると椅子から立ち上がった。
「どこに行く気だ?」
「エレナのところに決まってるじゃない。こんな願いごとやめてもらわないと。もっと他にもやり方があったはず」
その時、Mr.Sが大きなため息をついた。
「つくづく思うが、本当に君はエレナの友達なのか?」
クインはむっとした顔でMr.Sを睨みつける。
Mr.Sはそんなクインから視線を逸らして窓の外を見つめた。
「エレナが君にこの願いごとは自分が寝坊したからだと言ったこと、それは本当の願いごとがあることを知られたくなかったから。疲れているからほっといて欲しいとでも言えば、君は引き下がる・・・そう思ったからだろう。つまりこの願いはエレナが誰にも邪魔されず自分で叶えたいと思っているんだよ。なのに君はそんなエレナの邪魔をする気なのかい?」
Mr.Sは視線をクインに戻した。
その目は鋭くクインを睨みつけている。
「私は、自分の罪を帳消しにしたいがためにゴウをエレナの元へ送った。彼女が望むことを何でも叶えるために。だから、エレナの願いを邪魔しようとする奴は許さない。そして、エレナが私に害のある願いごとをすることも」
クインはMr.Sのその力強い瞳の圧力に圧倒され、言葉が出なかった。
だが、今の言葉には昨日から感じるMr.Sの歪んだ自己中心的な思いとは何か別の思いを感じた。
Mr.Sはにっと笑ってさっきまでの表情を消し去るとこう言った。
「まあ、ここまで聞いておいて君がエレナのところに行こうがどうしようが勝手だが」
その顔はいつもの無邪気なあの笑顔に戻っていた。
クインはバッグを肩から下ろして、椅子の上に置いた。
「行かないのか?」
クインは大きく息を吐くと、まっすぐMr.Sを見つめた。
「そこまで言われて行く奴なんて誰もいないわよ。なにより、Mr.S。あなたを敵に回すとかなり面倒なことになりそうだわ」
Mr.Sは一瞬拍子抜けした顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「君はやはりこの街の人間だな、よく分かっているじゃないか」
「でも、これ以上学校が休みになるのは困る」
「それも安心していい。きっと明日には現れる」
どうしてそう思う?とクインが問いかける前にMr.Sは答えていた。
「私の勘だ」
◆ゴウ◆
ゴウはエレナの目的がわからない。
一昨日も昨日も今日も学校を休校にしてほしいだなんて。
だが、エレナの目的なんてゴウは考える必要なんてない。
ただ単にエレナの願いを叶えるだけ。
それがMr.S、ショーンの願いであるから。
ゴウは、校門の前でエレナに言われた人間を待ちながら思い出していた。
初めてエレナと出会った日。
間接的にとはいえ、自分の父親を死に追いやった男の元から来たゴウをエレナはすんなりと受け入れた。
「罪滅ぼしなんて別にいいのに。それで?本当に何でも叶えてくれるの?」
そんなエレナの言葉にゴウは、信じるのか?と思わず問いかけていた。
「だって何だか面白そうじゃない」
エレナの言葉に無感情なゴウもさすがに少し驚いた。
だが、すぐによくあることなのかと納得した。
納得したというよりも、ただ単に考えるのが面倒だったのだ。
目の前の人間はゴウのことを信用してくれているのだから、それでもういいと妥協したにすぎなかった。
そんなゴウを見て、エレナは微笑んだ。
「じゃあ、聞いてよ。私の願いごと」
エレナの初めての願いごとがゴウの中で響く。
ゴウは少し俯けていた顔を上げた。
目の前にいたたくさんの人だかりは一昨日、昨日と同じ展開にもう飽き飽きしているようでまばらになっていた。
そんなまばらな人だかりの中にエレナの言っていた人間が紛れ込んでいた。
ゴウはその人間のそばに近づいた。
◇クイン◇
クインは昨日と同じ様に大木の後ろからゴウの姿をじっと見つめていた。
「これでわかっただろう?」
そんな声を聞いてクインは後ろを振り向いた。
昨日と違ってクインの後ろにはMr.Sが立っている。
カフェで話した後エレナが救おうとしている人物を直に見たいと言い出したMr.Sはこの並木道の大木の前でクインと今朝待ち合わせをしていた。
おかげで大木に隠れている意味はあまりない。
並木道を通り過ぎていく人々、主に女性だが、みんなMr.Sの顔に見とれてその場で立ち止まってしまうからだ。
そんなことMr.Sは全く気にしない。
「ゴウが今見つめている人間こそエレナが救いたいと思っている人間だ」
クインはもう一度視線をゴウに戻した。
そんなクインをMr.Sは見つめる。
「なんだ、君も彼女と知り合いなのか」
「ええ。あの子のこと知ってる。小学校からの友達なのよ。だからなんとなくわかったわ。エレナがあの子を救おうとしていること」
(メルの才能に関係があるのね)
クインはMr.Sに振り向いた。
「あなたこそこれでわかったでしょう?どう考えてもあなたに対して危害を加える願いごとでないことが」
「いいや。まだわからない」
でしょうね、とクインが言う前にMr.Sは言葉を続けた。
「だから、君にはまだしてもらいたいことがある」
クインは大きなため息をついた。
メルはゴウと目が合うと、足早にその場から立ち去り始めた。
きっとあの真顔が怖かったんだろうなとクインは思った。
メルが校門の前から立ち去ったと同時にクインはメルの後を追い掛けるために走った。
ゴウよりも先に声をかける必要があったからだ。
「ひと駅向こうにダミアンの店というカフェがある。そこに君の友人を連れてきてくれ。君は彼女と世間話でもしていればいい。私は彼女の顔が見たいだけだ。顔さえ見ればどんな人間なのかわかる。なぜダミアンの店かって?あそこのサンドは絶品だからだ。この街に住んでいる者なら誰でも知っているだろう。それに私は腹が減った」
そう。つまりはこういうことなのだ。
◆ゴウ◆
ダミアンの店と書かれた建物の中に入っていくクインたちをゴウはじっと見つめていた。
ゴウは分かっていた。
これはきっとショーンの入れ知恵だと。
(クインも彼女と知り合いだったのか)
エレナの願いごと・・・というよりかほとんど頼みごとのようなものだったのだが、ゴウはエレナから友人であるメルの様子を見てきてほしいと言われていた。
「メルがいつ現れるかわからないけど、学校を休校にしたからきっと幸運のジンクスを感じて外にでてくると思うの。メルがもし現れたら明日の朝まで見ていて欲しい。明日の朝、家から出てくるか出てこないかだけを教えて」
エレナの言葉の意味がよくはわからなかったが、エレナがメルという人間に何かをしようとしていることだけはわかった。
だが、ゴウはそこで考えることをやめた。
考えても意味がないからだ。
そもそも興味もない。
自分はショーンの願いごとを叶えるだけ。
つまりエレナの願いごとを叶えるだけ。
ゴウはそこでじっと立ったままクインとメルがダミアンの店から出てくるのを待っていた。
◇クイン◇
ダミアンの店に入ると、端の席にMr.Sが座っている姿がクインの目に映った。
あっちの席にしましょなんて言ってクインはメルをうまく誘導していく。
クインはMr.Sにメルの顔が見えるように、座らせた。
店内には静かなクラッシク音楽がゆっくりと流れている。
「ここの店久しぶりね、あ、すみません!ホットコーヒーふたつ!あとサンドも」
クインは店を見回した。
(この店、本当なつかしい。高校生になる前はここでエレナといろんな話したな)
「クイン、エレナの話聞いたわ」
クインは驚いてメルを見つめた。
一瞬今回の休校のことかと思ったがすぐにエレナの父親のことだと気がついた。
「そっか、そうよね、学校中に知れ渡っているものね」
「エレナは大丈夫なの?」
「う、うん。今のところは」
(大丈夫とは本当は言えないんだけど)
「そう。私に何かできることがあればよかったんだけど」
メルはぎゅっと拳を握り締めた。
そんなメルの姿を見てクインは思い出した。
かつてここで、クインとエレナはメルから相談を受けたことを。
「おまたせしました」
クインとメルの前にぽかぽかと湯気が立ち込めるホットコーヒーと熱々のサンドが置かれた。
メルはホットコーヒーを一口くちに運んだ。
「メル、変わってない」
メルは驚いてきょとんとした顔をクインに向けた。
「え?」
「いま、自分に何かできることはないかって考えたでしょ?メルの力で」
まだ中学生だった頃、メルは悩んでいた。
メルの幸運と不運を感じることができるジンクスの力は自分の役には立つ才能だが、
他人の役には全くと言っていいほど立たないのだ。
自分ばかりがいい目にあっておきながら誰も助けることができないことにメルは嫌気がさしていた。
そんな相談をメルはクインとエレナにここで打ち明けた。
今、目の前にいるメルはあの時と同じ顔をしているとクインは感じたのだった。
メルは、目を瞬きながらカップを置いた。
「私、そんな顔に出てた?」
「ううん。前にここでそんな話したじゃない?エレナと三人で」
「懐かしい。あったわね、そんなこと」
「あの時、自分の力が誰かの力になれればいいのにって話してたでしょ?その時と同じように思いつめた顔してた」
「結局、顔に出てたんじゃない」
クインは微笑んだ。
「まあ、そうなんだけど。でも私たちがエレナにできることはもうないわ。それにこれはエレナのお父さんが決めたことだし。エレナにだってどうしようもできなかったのよ。それに、今は学校が大変なことになっているしね」
クインはサンドに手をのばした。
ここダミアンの店のサンドはMr.Sに言われるまでもなくクインの大好物でもあったのだ。
久しぶりに食べるダミアンのサンドはやっぱり絶品だった。
パンに染み込んだソースの旨みが口いっぱいに広がる。
その言葉にメルは不思議そうな顔を上げた。
「学校が?今日の休校のこと?」
クインはサンドを飲み込んだ。
「今日だけじゃないじゃない。これでもう三日目よ」
メルがきょとんとした顔をクインに向けた。
そんなメルを見てクインは首をかしげた。
「メル、知らなかったの?学校はもう三日連続で意味もなく休校になっているのよ」
「三日も!?なんでそんな」
(まさか、そんなことも知らなかったなんて)
「もしかして、学校を休んでいたの?この二日間」
「ううん。二日どころじゃない。一週間よ。しかも学校というよりは外にすら出ていなかったの」
「一週間!?メル、まさかまた不運の」
「そう。一週間前に不運のジンクスを感じてからずっと嫌な感じが抜けなくて。でも、今朝幸運のジンクスを感じてやっと外に出る気になった。それなのに学校は休校してるし」
「メルのジンクスが外れたってことは・・・ないわね」
メルはうなずいた。
「私が感じるジンクスは絶対に外れないもの。だから今朝のジンクスは一体なんだったのかしら」
クインは腕を組んで考えた。
(エレナが救いたいと思ったのはきっとこのことだったのね。それにしてもメルが一週間も不運のジンクスを感じていたなんて)
「もしかして、こうしてクインとお茶することだったのかも」
その言葉にクインは顔を上げた。
「え?まさか、ただ喋ってるだけじゃない」
メルは微笑んだ。
「うん。でも、なんだかそんな気がするのよ」
再びコーヒーを口に運ぶメルを見つめてからクインは自分の後ろにいる客として振舞うMr.Sを見つめた。
メルのジンクスは決して外れることはない。
学校を休校させたことがメルの幸運のジンクスに関わっていることに間違いはない。
だからこそエレナはゴウに様子を見に行かせたのだから。
しかし、クインにはその幸運にMr.Sも関わっている様になぜか思えてならなかった。
ダミアンの店を出て、クインはメルに尋ねた。
「メル、こんなに長く不運のジンクスを感じたことってあったの?」
メルは首を振った。
「今まで長くても3日とか4日とかそれぐらいしか感じたことはなかったわ。それに私、ちょっとした不運ぐらいなら外に出ていたの」
「え、そうだったの?」
「それぐらいなら外に出てもそんなひどい目に合わないもの。でも一週間前に感じた不運のジンクスは、ちょっとした不運とかじゃなかった。寒気がするほど嫌な予感がしたの」
(メルが感じた不運の正体を・・・エレナは知っている?)
メルはクインに微笑んだ。
「でも、もう大丈夫。幸運のジンクスを私は感じたんだから。ありがとう、クイン。また学校でね!」
そう言ってメルは明るい笑顔をクインに向けた。
クインはメルのそんな顔を見て安心した。
(そうよ。きっと、大丈夫。メルは幸運のジンクスを感じたんだから)
「うん、また学校で!」
メルの後ろ姿が小さくなっていく。
クインはふうっと息を吐いた。
「何を安心しているんだ?」
びくっと体を震わせてクインは後ろを振り向くとMr.Sが立っていた。
「ちょっと驚かせないでよ」
「彼女、変わった才能を持っているんだな」
「え?ああ、メルのジンクスを感じるって才能ね。いいわよね、あんな才能あれば」
「彼女はもう家から出れない」
「え?」
クインは驚いてMr.Sの顔を見つめた。
「今、何て?」
「彼女に降りかかる不運は止まらない。顔を見てはっきりした」
「何が?何がはっきりしたって言うの?」
「彼女は恨まれている。それも1人じゃない。何人もの人間に」
クインは目を見開いた。
「そんなことまでわかるの?」
「顔を見ればどんな人間なのかわかると言っただろう?彼女・・・メルは幸運、不運のジンクスを感じることができ、それを生きてくいための手段にしている。それはつまりメルの周りの人間が、メルの力を信用し、理解しきっているということ」
クインは黙ってMr.Sの言葉を聞いていた。
Mr.Sは言葉を続ける。
「メルが成長すればするほどメルの才能を知る人間は増える。それと同時に増える感情がある」
メルの才能を小学生時代から知っているクインは何度も思った。
メルの才能が羨ましいと。
「それって・・・もしかして、嫉妬?」
そう言ったクインをMr.Sは見つめた。
「メルの才能は誰もが羨む才能。メルへの嫉妬がメルをひどい目に合わせようとしているの?でもそれは所詮嫉妬でしょ?」
「嫉妬も時間を掛ければ憎いという気持ちに成長するものさ」
「そんなの逆恨みじゃない」
(それに何よりも)
「メルを恨んでいる人はメルにとってとても近い人ってことじゃない!」
「そうゆうことになるな。そして、エレナはそれが誰か知っていて学校を休校にした」
「じゃあ、メルを恨んでいる人って」
「学校の人間だ」
◆ゴウ◆
ダミアンの店からクインとメルが出てきた。
クインとメルはそこで少し話をしてから別れ、メルはひとりで駅に向かい始めた。
その一部始終を銅像の様に微動だにせず見つめていたゴウはメルの後を追い始めた。
メルに見つからないように、またクインが追いかけてくることも踏まえて遠すぎない距離をゴウはとっていった。
その時、突然メルは足を止めた。
何か考え事をしている様だったが、ゴウには全くもってわからない。
ショーンの様にゴウは人を見極めることができない。
だからただじっと見つめるだけだった。
たいして距離もとらずにメルを見つめていたものだから携帯から顔を上げたメルが振り向いたその時。
ゴウとメルは勢いよく目と目がぶつかってしまった。
メルはしばらく目の前にいたゴウに驚き言葉が出ないようで固まっていたが、我に返るとその場から逃げるように立ち去った。
“メルがもし現れたら明日の朝まで見ていて欲しい。明日の朝、家から出てくるか出てこないかだけを教えて”
そうエレナから言われていたゴウは逃げるメルを追いかけたくはなかったが、追いかけるしかない。
メルが家へと駆け込んだ様子を見るとゴウはメルの家を見上げた。
2階建ての家で2階の窓が開いている。
メルの部屋かはわからないが、その一点をゴウはそこからただ見つめていた。
もはやそんなゴウの姿はどこからどう見ても立派なストーカーだった。
ゴウはずっとそこに立って2階の窓を見つめていたものだからいつの間にか日が暮れていたことにすら気がついていない。
「ゴウ」
ゴウは何時間ぶりかに視線をメルの部屋の窓からそらした。
「クイン」
クインの肩が小刻みに震えている。
「何してんのよ。こんなところで」
クインが笑いを堪えているのが人を見極めることができないゴウでもわかった。
「ゴウ、あなたがエレナの願いごとを忠実に叶えているのはわかるけどこのままだと警察に捕まるわよ」
ゴウは視線をメルの部屋に戻す。
「俺はエレナの願いごとを叶えるだけ。どんな願いごとでも」
「はいはい。本当にご立派ね」
クインもメルの部屋の窓を見つめた。
「ここに何の用だ?」
クインはその質問には答えなかった。
「メルはもう部屋から出れない。そうMr.Sに言われたの」
ゴウは視線をそらさない。
「エレナがどうやってメルの不運に気がついたかはわからないし、エレナがどうしてこの
願いごとをひとりで叶えようとしているのかも私にはわからない。でも事情を知った以上、私もメルを救いたい」
ゴウは表情を変えずに相変わらずメルの部屋の窓を見つめている。
そんなゴウを見て、クインは瞬きをした。
「ゴウ、もしかしてエレナの目的を知らないの?」
ゴウは相変わらず表情を変えなかった。
クインは吹き出した。
「よく目的を聞かされずにメルを何時間も監視できたわね」
「目的など知ったとところで意味がない。俺がやることは同じだ」
「そうだけど、理由を知って変わることだってあるわ。ゴウがこうしてここにいることにだって大きな意味があるのよ」
ゴウは視線をクインに向けた。
「ごめん、嘘。特にない」
そう言って無邪気な笑顔を向けたクインをゴウは軽く睨みつけた。
「でも、知っていて損はないと思う」
ゴウは何も答えない。
「どうせ今日一日エレナにメルの様子でも見てこいとか言われてんでしょ?だったらここで一人でじっとしているのも退屈そうだし、私の独り言だと思って聞いててよ」
クインは、今日一日でわかったことを話始めた。
メルの才能のこと、メルを恨む人間がいること、そのことでエレナが学校を休校にしたいと願ったこと。
一通り話終えたクインは小さく息を吐いた。
「ってこと全部Mr.Sがいなければわからなかったわ。悔しいけど。それにあいつは」
クインは首を振った
「いや、いいや。とにかくエレナはメルを救おうとしているのよ。そのためにあなたに様子を見てくるように言ったの」
きっとクインは誰かに話を聞いて欲しかったのだろうとゴウは思った。
エレナの親友でありながらもエレナの目的に気が付けなかった自分が悔しくて。
(それにしても)
ゴウはメルの部屋を見つめる。
「エレナはどうしてわかったんだ?メルに不運が来ることを」
「私にもそれはわからない。でも、ただわかるのはエレナは昔から人の危機を察することできる人間だってこと。私も昔救ってもらったことがあったから」
ゴウはクインを見つめる。
クインは少し俯いて悲しそうに笑った。
「私ね、小学生の頃」
クインはそこで言葉を切った。
ゴウはそんなクインを見て昔いじめにでも合っていたのだろうかと思った。
クインは顔をあげてゴウを真っ直ぐに見つめた。
「小学生の頃、私、騙されて、いじめられて、脅されて、殺されかけたことがあったんだけど」
しばらくふたりの間を沈黙が包んだ。
ゴウは聞き直す。
「騙されて?」
「騙されて、いじめられて、脅されて、殺されかけたのよ」
「・・・そうか」
今いち、どうゆう子供時代なのかゴウは想像がつかなかったがとりあえず頷いておいた。
クインも頷き、話を続けた。
「まだ小学生だったからこんなにもひどいことに連続して巻き込まれたことはなかったのよ。だから、その頃はどうしたらいいのかわからなくて」
ゴウは思った。
大人になっても騙されて、いじめられて、脅されて、殺されかけた人間はあまりいないだろうと。
「本当に途方にくれていたわ、あの頃。それでも周りには迷惑を掛けたくなくて誰にも相談しなかったし、何事もなかったように学校にも登校してた。ただ、別のクラスだったエレナだけは違った。エレナと朝、学校で会った時にいつもどおり笑顔でおはようって言ったの。それだけだったのにエレナは」
“クイン、何でそんなことになってるの?”
「エレナにそう言われて私、腰がぬけちゃって。そこからぽつぽつと話始めてエレナは全部ゆっくり聞いてくれたの。そして一緒に解決策を考えてくれた」
クインはゴウを見つめた。
「ただ一言おはようと言っただけでエレナは私の異変に気がついたのよ。エレナはね、そういう子なの。きっと今回もそう。なんてことないことからメルの危機を察知したのよ」
(クインの子供時代の話はともかく・・・エレナは危機を察して、メルを救おうとした。そんな時に何でも願いを叶える俺と出会った訳か)
「俺はメルの危機が去るまで学校を休校にし続けないといけないってことか」
クインは首を振った。
「それはちがうわ。ゴウ、あなたがメルのことを報告したら、明日はきっとエレナはもう休校にするように願わないはずよ」
ゴウはクインを見つめる。
「なぜわかる?」
クインはなぜか怪訝な顔をした。
「Mr.Sの勘よ」
◇クイン◇
翌日、Mr.Sの言うとおり学校は再開していた。
職員室の前はこの前以上の保護者たちでごった返していた。
校長は相変わらずへらへら笑いながら保護者たちに謝っている。
そりゃ校長はゴウに操られてるだけで何も考えていないからどうしようもないわ、なんてクインは思いながら階段を駆け上がった。
教室に入ると、エレナはもう席に着いていた。
クインは、にっと笑顔を作ってエレナの席へと向かった。
「エレナ、おはよ」
クインを見つめたエレナは微笑んだ。
「おはよう。クイン」
「エレナ、大丈夫なの?少しは落ち着いた?」
「ええ。ごめんね。クインにも迷惑掛けて」
「いいのよ。そりゃこれだけ色んなことが重なればエレナだって混乱するわよね」
クインは昨日、ゴウに口止めをしていた。
自分がエレナの本当の目的を知っていることを。
そしてクインはわかっていた。
エレナは人の危機を察する勘は鋭いが、普通の嘘は人並みにしかわからない。
エレナは特にクインを疑うこともなくいつもどおりクインと会話をしていたが、少し元気がないようだった。
やはりメルのことが気になるのだろう。
クインは教室を見渡した。
Mr.Sとの一方的で自己中心的な約束ごとを守るために今日のエレナの願いごとを探る必要があった。
(願いごとに肝心なゴウがいない)
「エレナ、ゴウは留守番?」
「ええ。さすがに学校に連れて来れないもの。どう見ても高校生の顔してないし」
(そりゃそうか)
「ゴウに高校生になってって願いごとをしたらどうなるのかしらね。ここのクラスメイトになったりして」
そう言ってクインがエレナの顔を見るとエレナはきょとんとした顔をクインに向けていた。
「エレナ?」
エレナが口を開きかけたその時だった。
「おーい!エレナ!」
エレナとクインが同時に声がした方を見る。
「マット!?」
クインは驚いて教室の入口へと近づいていった。
「クイン!久しぶりだな」
にっと笑った顔がさわやかなマットを見て、クインも思わず笑顔になった。
マットはクインやエレナそしてメルとも同じで小学校から高校まで同じ学校に通っている幼馴染のような存在だった。
まあ、この高校にいる生徒たちはほとんどみんなそんな関係なのだが。
「本当に久しぶりね!高校になってから全然会わなくなったものね。エレナに用なの?」
マットは、ああと言ってクインの横にいたエレナに手に持っていたノートを差し出した。
「これ、エレナから預かってたメルのノートだけど、あいつずっと休んでてさ。全然学校に来ないんだ」
エレナはノートを受け取った。
「俺に預けてるよりかは直接返した方が早いと思うぜ。どうせまた、不運のジンクスなんて感じてるだろうからな」
その言葉にクインは固まった。
(そうか、マットは今メルと同じクラスだった)
「マットってメルとクラスで一番仲良かったよね」
そう言ったのはエレナだった。
クインは思わずエレナを見つめた。
「メルの家に様子を見に行ったりとかしないの?」
そう聞いたエレナの顔はまるでマットの顔色を伺っているようだった。
マットはエレナに微笑んだ。
「お前らも知ってるだろ?あいつは不運を感じて学校を休んでるだけ。幸運を感じたらまたすぐに学校に来る。小学生の頃は心配で何度も家まで行ったりしてたけど、もう慣れちまったよ。あいつもそんなことわかってるし」
エレナは、力が抜けたように微笑んだ。
「それもそうね。ノートありがと。今日にでもメルの家に行くわ」
「ああ、頼んだ。じゃあな!」
マットはそう言うと自分の教室へと戻っていった。
(もしかしてマットが?)
クインはマットの後ろ姿をじっと見つめていた。
「クイン、どうしたの?」
クインが後ろを振り向くと、エレナが不思議そうな顔をしていた。
エレナの手元にあるノートに視線を移す。
「エレナ」
「何?」
クインはエレナに視線を戻す。
「私、ちょっとトイレ」
教室を飛び出したクインはメルのクラスに向かった。
クインにはわかった。
きっとエレナはあのノートをメルから借りた時にメルの危機を知ったのだと。
(もしかしてマットがメルを?でも、Mr.Sはひとりじゃないって言ってたし)
メルの教室はクインたちの教室とはちょうど反対側にある。
息を切らしたクインは教室の中を見る。
教室にすでに戻っていたマットは教室の真ん中で楽しそうに話している。
マットは小学生の頃からずっとクラスの中心的な存在だった。
(今もそれは変わりないみたいね)
クインとも小学校の頃、何度か同じクラスになっている。
明るくて優しく頼りがいがあり、マットの人気はクラスの中で飛びぬけていた。
現に先ほどのクインもそうだ。
マットが教室に来ただけで嬉しくなり、ついつい駆け寄ってしまうほど。
そしてメルの才能のことも、もちろん理解していたためメルもマットとはかなり仲がよかった。
(だからこそ)
周りの友人たちもマットの笑い声につられて笑う。
クインは首をかしげた。
(いつもどおりの教室に見えるけど)
クインには信じられない。
(この中にメルを恨んでいる人間がいる?それもひとりじゃなくて)
だが、楽しそうに笑うマットの隣の席は誰も座ってはいなかった。
きっとそこがメルの席なのだろう。
クインは顔を俯けて教室から離れた。
(こんなに楽しそうなのにどうしてメルは)
その時クインはドンっと何かにぶつかった。
目の前に帽子を深く被り、ホウキを手に持った掃除のおじさんが突っ立てクインを睨みつけていた。
「あ、すみま」
(いや、ちがう!)
「ゴウ!?」
クインは驚いて、目の前の掃除のおじさんを見つめた。
「何してんの!?」
「エレナの願いごとを叶えているだけだ」
「掃除のおじさんになることが?」
「まあ、そんなところだ」
クインはもう一度まじまじとゴウの姿を見つめ、吹き出した。
「良く似合ってるわよ、ゴウ」
ゴウは相変わらず無表情でそのまま掃除を再開した。
「わかってるわよ。ゴウはエレナにメルのクラスの様子を見てくるようにお願いしたんでしょ?」
「お前もだろ」
「まあね。エレナは私に相談する気ないみたいだし。自分でも頑張って探ろうと思ったんだけど」
クインはもういちどメルの教室を見つめた。
「いつもどおりの教室にしか見えないのよね」
ゴウはクインのその言葉に何も言わなかった。
その様子を見てクインは思った。
「ゴウ、もしかして何か掴んだの?」
ゴウは怪訝そうにクインを見つめた。
「な、何よ」
「エレナはお前に関わらせたくないと思っている。なら、この情報はエレナにしか報告しない」
「ちょっと!少しぐらいいいじゃない。昨日エレナの目的を教えてあげたのに」
「あれは単なる独り言だったんだろ」
クインはむすっとした顔をした。
ゴウは小さく息を吐く。
「クイン、気がついていないのか?こういう人間の感情を読み取ることができる最高の人間がお前の近くにいることに」
クインは、瞬きをしてゴウを見つめた。
「あいつに?」
ゴウは頷いた。
クインは、はあと大きく息を吐いた。
だが、その方法が一番最適であることもわかっていた。
黙々と廊下を掃除しているゴウを残して、クインは学校の裏庭に向かい、ポケットに入っていた携帯を取り出した。
“いちいち待ち合わせをして話を聞くのは面倒だ”
昨日、メルを見送った後、そう言いながらMr.Sはクインの携帯に自分の電話番号とメールアドレスを無理矢理登録した。
登録されたことよりも、いつの間にか自分の携帯が奪われていたことにクインは驚いていた。
そんなことを思い出しながらクインはMr.Sに電話を掛ける。
『なるほど、私がメルの教室を一目見れば何かわかるのではないかと思ったのか。いいだろう。まだエレナの願いごとも正確にはわかった訳ではないからな』
(こいつ、やっぱり楽しんでるな)
Mr.Sは笑い出した。
『しかし、あのゴウが清掃員の振りをしているとは・・・これは見ごたえがありそうだ。あいつが帰ってしまう前に今すぐに学校に向かおう』
「でもどうやって学校に潜入するの?」
『それは愚問だな。君は私を誰だと思っている?』
クインが答える前にMr.Sが答えた。
『世界一の詐欺師に不可能はない。昼休憩に落ち合おう。メルの教室へ案内してくれ』
クインは結果的に1時間目の授業をサボってしまった。
裏庭で電話などしていたものだから。
携帯をポケットにしまって空を見上げた。
(さすがにエレナに怪しまれるわね)
そしてふと思った。
この学校にMr.Sが来るということはエレナと遭遇するかもしれないということを。
◆ショーン◆
詐欺師という存在を間近で見たことがある人間はそうそういない。
なぜなら、気がつかないからだ。
人を騙し、信頼を、財産を、時には愛する人を奪う存在がすぐそばにいることを。
それはある意味幸せなことなのかもしれない。
ショーンは、人を惹きつける容姿を持ちながら、誰にも気がつかれることはない。
それは、彼がどんな人間にでもなれるから。
校門の前。
ショーンはインターホンを押した。
インターホンの向こう側から声がする。
『はい』
ショーンは息を吸って低い声を出した。
「よう、お疲れ」
インターホンの向こうで少し沈黙が流れた。
その沈黙の中でショーンはまた口を開く。
「守衛室、お前以外の誰かいるか?」
また沈黙が流れたが、次はインターホンの向こう側から返事が返ってきた。
『いませんけど』
ショーンは吹き出した。
「お前、なんで敬語なんだよ。まあいいや。聞いてくれよ、ジェシカの話」
『ジェシカ?』
「お前、忘れたのか?この前、クラブで誘ったあの」
インターホンの向こうで、ああ!と思い出したような声が聞こえた。
『何だよ、お前マイクか!あの子がどうしたんだ?マイク?』
「さっきな・・・おっとまずい。人が来た。詳しい話は中で話すよ」
『お、おお。わかった』
「あ、しまった。キーを忘れちまった。ここ開けてくれないか?」
『何やってんだよ』
校門の施錠が外れる音が聞こえた。
『早く、来いよ』
そう言ってインターホンは切れた。
校舎の中は当たり前だが生徒たちで溢れかえっていた。
ショーンは携帯を開く。
メールの受信BOXを見ると、“1階カフェテリア”と件名に入っていた。
視線だけでショーンはカフェテリアを探す。
首を振ったり、あちこち歩き回ると怪しまれるからだ。
カフェテリアの場所を把握すると、腕時計を見つめた。
(昼休みが終わるまであと10分。ちょうどいい)
ショーンはカフェテリアに向かう。
そこに、見慣れた顔がいた。
向こうも気がついた様で、ショーンを見つめた。
驚いたクインの表情に思わず吹き出したくなる衝動を抑えて、ショーンは真面目な顔をすると腕ぐみをして吐き出すように言い放った。
「全く」
クインはきょとんとした顔をしてショーンを見つめる。
腕ぐみを外して、ショーンはクインにずかずかと近づく。
「悠長に昼休みとは、いい度胸だな。クイン」
クインは、ぽかんと口を開けていた。
「私の数学の補習はそんなに嫌か?」
クインは、状況が理解できないようで、目を見開いていた。
「ちょ、ちょっと何言ってんの?Mr」
「お前のサボりぐせには本当に呆れる」
ショーンは大きなため息をついた。
周りにいた生徒たちは足早に通り過ぎながらも、怠惰な生徒と先生のやりとりを見て笑っている。
「職員室まで来なさい」
そう言って背を向けたショーンをクインはしばらく見つめていたが、やっと状況が理解できたのか、ショーンの後を追った。
歩きながら、ショーンは小声でクインに問いかけた。
「どうだ?私の変装は」
クインは怪訝そうな顔でショーンを見つめていた。
ショーンの姿はいつもと全く違ったからだ。
髪はボサボサ、ヨレヨレのスーツを着ており普段よりも倍は老けている様に見える。
「誰なのかわからなかったわ。服や髪型でここまで変わるなんて。でも、どうやってここに?」
ショーンは腕時計を見つめた。
「あとで話そう。今はメルの教室に」
クインは頷くとショーンの前に出て、足早に歩き出した。
メルの教室の前に着くと、またもや見慣れた顔が相変わらずの真顔で掃除をしていた。
(エレナもなかなか面白いことを願うもんだな)
ゴウは掃除をしていた手を止めて、顔を上げた。
だが、もうその時にはショーンはゴウを見てはいなかった。
ショーンは腕時計を見つめていたからだ。
(3、2、1)
チャイムが鳴り響いた。
生徒たちが教室に駆け込んでいく。
ショーンはクインに振り向くと言った。
「ここで待っていてくれ」
クインが言葉を発する前にショーンは教室に入って行った。
「よーし、授業を始めるぞ~」
ショーンはそう言って生徒たちに背を向けて、黒板を消し始めた。
教室の中にいた生徒たちは、いつもどおり席に着き始めたが、見慣れない教師の背中を見てざわつき始めた。
「おい、静かにしろ!」
ショーンが振り向くと、生徒たちは目の前にいる先生が誰なのかを見極めるために静かに座ってじっとこちらを見つめていた。
ショーンはそんな生徒たちをじっと見回す。
ひとり、ひとり見逃さないように。
(ふうん。なるほど)
ふと、真ん中の席に座った少年の目を見つめたショーンはゆっくり瞬きをした。
(へえ。こいつはなかなか面白い)
それから一通り見回した後、ショーンは突然怪訝そうな顔をした。
「ん?もしかして・・・」
それから教壇のすぐ前に座っていた子を指さした。
「おい、君。ここは3年のクラスではないのか?」
「あの、ここは2年のクラスですけど」
ショーンは目を見開いた。
「なんと、教室を間違えてしまった。これは失礼した」
そう言ってショーンは教室を飛び出した。
ショーンは振り返りはしなかったが、教室からは、なんだ、ただの間違いかと安堵の声が漏れていた。
教室の外にいたクインがショーンに駆け寄る。
その後ろにはじっとこちらを見つめるゴウがいた。
「Mr.S。一体どうなって」
ショーンはクインの言葉には答えず、後ろにいたゴウを見て吹き出した。
「よく似合っているよ、ゴウ」
ゴウはショーンを見つめ返す。
「お前もな」
その時、こちらに近づいてくる足音が聞こえた。
「あの、どちら様ですか?」
それは、メルのクラスでこれから授業を行う本当の先生だった。
ショーンはその先生に振り向くやいなや、横にいたクインを引き寄せた。
「ちょっと!うわっ」
そしてクインの頭を手で掴み無理矢理下げさした。
「どうも。この度この学校に娘が転校にすることになりまして。本日は校長先生に許可を頂き、校内の見学をさせて頂いておりまして・・・」
それからちらりと後ろにいたゴウを見つめた。
「ちょうど掃除をされていた方に学校の雰囲気をお伺いしていたんですよ」
怪しそうに見つめていた先生は、ぺらぺらと喋るショーンの顔を見て顔を綻ばせた。
「転校生の子でしたか。よろしければ授業も見学されますか?」
「ありがたいお話ですが、お昼前にいちど授業風景は見学させて頂きましたものでして、校内を一回りしているところなんです」
「そうですか、どうぞごゆっくり見て行ってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
先生はそう言うとショーンとクインに微笑んで教室に入っていった。
クインはショーンの腕を振り払った。
「よく、あんな嘘言えるわね。もし、私があの先生によく知られている生徒だったらどうするつもりだったのよ?」
「それはない。君は先生に覚えられるような問題児でも優等生でもない。どこにでもいる生徒の一人としか思われていない。その確信が私にはあったから、ああしたまで」
クインは、言い返そうとしたが少し考えて納得したような顔をした。
「今まではそうかもしれないけど・・・これから私」
「察しがいいな。君はこれからあの先生と出会ったら転校生として振舞え」
むすっとした顔のクインに向けてショーンは言葉を続ける。
「ところでクイン、次は守衛室まで案内してくれないか?」
クインは首をかしげた。
「守衛室?」
相変わらず意味のわからないことを言い出す男だと言わんばかりのため息をゴウがついたのがショーンにはわかった。
守衛室のそばにあるトイレからひとりの男が出てきた。
ショーンはその男に呼びかけた。
「マイク!」
男はショーンに振り向いたが誰かわかっていないようだった。
ショーンは怒った顔をしてマイクに近づいた。
「お前がマイクだな?」
マイクは一歩あとずさりながら、ああと小さく頷いた。
「昼休憩中か?」
「えっともう戻るところなんですけど、何か?」
ショーンはいきなりマイクの胸ぐらを掴んだ。
「てめえ、よくも俺のジェシカを」
マイクは状況が掴めないようで怯えた顔をしていた。
「ジェ、ジェシカ?」
「てめえとてめえの連れが前にクラブで声を掛けた女だよ」
マイクは少しショーンから視線を逸らしてから思い出したのか、目を見開いた。
ショーンは胸ぐらをつかむ手に力を込める。
「思い出したか?その女は俺の嫁だ。しかも」
ショーンは後ろに立っていたクインを指さす。
「あいつの母親だ」
怯えた顔でクインをマイクは見つめた。
クインはどう反応したらいいのかわからなかった様だが、とりあえず小さく手を振った。
そんなクインを見て、マイクは怯えきった目をショーンに戻す。
「お、俺は何も。あいつが、あいつが声をかけて、それもあんなでかい子供がいるなんて、正直名前もあんまり覚えてなくて」
「どっちでもいい!簡単に俺の嫁に手を出すな。てめえの連れにも伝えとけ」
そう言って胸ぐらを掴んでいた手を離した。
怯えたようにマイクは守衛室に駆け込んだ。
守衛室の中から会話がとぎれとぎれで聞こえる。
「遅かったな・・・さっき・・・話だけど」
「ジェシカ・・・覚えてるか?」
「だから・・・クラブで・・・・」
「そのジェシカ・・・男が・・・・」
そこまでの会話を聞いたショーンは守衛室に背を向けた。
「クイン、放課後いつものカフェで」
そう言ってショーンは学校から立ち去った。
ひとつの痕跡も残さずに。
◇クイン◇
Mr.Sは颯爽とクインの横を通り過ぎた。
杞憂だった。
エレナとMr.Sが学校で出会うかもしれないなんて。
全くの杞憂だった。
目の前にいた詐欺師はその時々で姿を変えた。
教師に保護者に、よくはわからないが因縁をつける男?まで。
ひとりの人間なのにどれも別人に思えた。
堂々と学校に潜入したのに誰もその存在に気がつかない。
(これが詐欺師)
クインは顔を上げたが、Mr.Sの背中はもう小さくなっていた。
その背中をクインはただまっすぐに見つめていた。
その時、守衛室から二人の男が飛び出してきた。
「お、おおい!君がジェシカの娘なのか!?」
「お、お父さんはどこに行った!?」
二人の男の勢いに圧倒されながら、クインは苦笑いを浮かべていた。
「え、えっと」
「俺は知らなかったんだよお。彼女見た目は20前半だし。こんな大きな子供がいるなんて」
「しかもあんな怖い旦那まで」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ男二人に囲まれて、クインは呆れていた。
(Mr.S・・・あんたこの人たちに一体何をしたのよ)
チャイムが鳴って5時間目の授業が終わった。
(結局、今日は授業を2時間もサボっちゃったわ)
クインは小さなため息をつきながら教室に戻った。
「クイン!?」
クラスで仲良くしている女の子たちが駆け寄ってきた。
「どうしたのよ、クイン。体調でも悪いの?」
「あ、うん。ちょっと。でも、大丈夫よ」
クインはぎこちない笑顔を浮かべた。
朝から気分が悪くて、困ったわよ~なんて言い訳しながらふとエレナの席を見つめた。
エレナはいなかった。
なんとなくゴウのところに向かったのだとクインにはわかった。
再びチャイムが鳴って6時間目の始まりを告げる。
エレナも教室に戻ってきた。
席に戻る生徒たちが行き交う教室の中で、エレナはクインと目が合うと口パクで大丈夫?と聞いてきた。
クインが親指を立てて微笑むと、エレナも微笑んだ。
6時間目の授業が終わると、エレナは用事があるからと言ってさっさと帰ってしまった。
エレナはさっきの休憩時間にきっとゴウからメルがクラスの誰かに一方的に憎まれていることを聞いたのだろう。
(そして明日はきっとメルのために願いごとをする気なのかしら)
クインも、まあこれからMr.Sと落ち合う予定だしちょうどいいかなんて思いながら教室を後にした。
クインはMr.Sの言葉が理解できずに聞き返した。
「全員?」
「あの教室にいた全員がメルを恨んでいる」
クインは、きょとんとした顔をしてMr.Sを見つめることしかできなかった。
カフェの喧騒も、カウンターからガラス越しに見える街の景色もどんどんと遠ざかっていく。
(メルがあのクラスの人間全員から恨まれている?)
今朝見たメルの教室の風景からは想像できない。
笑い声に包まれた教室。
その中心で笑うメルの小学校からの友達のマット。
(マットまで、どうして)
「教室でひとりひとり見回してわかった。彼らはどいつもこいつも平凡な人間の寄せ集め。大した能力も、才能もない。人生の目的もない。ただ毎日をだらだらと生きているだけ。いつもとほんの少し違う日常が起こるとすぐ興奮する。小さい奴らばかりだった」
クインは拍子抜けしたような顔をしてMr.Sを見つめた。
「なんでそんな人ばっかりがメルの教室に?」
「何言ってる?メルのクラスだけではないこの世界の人間はほとんどそうやって生きているじゃないか?ただあのクラスで違うことは全員が共通の意識を持っていること」
(メルへの・・・恨み)
クインは息を呑んでMr.Sを見つめた。
「そんな集団の中に特異な才能や才能を持った者がひとりでもいてみろ。一方的に疎まれるに決まっている」
「だから、メルは一方的に疎まれて、恨まれて、それで不運のジンクスしか感じなくなったの?」
「それがこの世界のルールだから。仕方がない」
「ルール?」
「誰ひとりとして虐げられない世界なんて存在しない。いつも誰かが苦しめられる。そうやってこの世界は・・・この街は回っている。今はメルが虐げられる番がきただけ。君はそのことによく気がついていると思っていたのだが違うのか?」
クインは何も言わなかった。
Mr.Sは言葉を続ける。
「だが、あそこまでクラス全員が全く同じ共通意識を持つということはかなり珍しい」
「それって、まさか」
「どう考えても仕組まれている。クイン、あの教室の真ん中の席に座っていた少年を知っているか?誰も座っていない席の横に座っていたからメルの隣の席だと思うが」
「真ん中の席・・・メルの隣」
クインは目を見開いた。
教室の真ん中で笑うマットの姿。
でもそこにメルはいなかった。
隣の席には誰も座っていない。
「マットだわ・・・。マットがどうして?何か気になることでもあるの?」
「そいつ、かなり危険な性格をしている」
クインは息を呑んだ。
「そんなことないわよ。マットはメルと小学校から、メルだけじゃない。私もエレナも小学校からの友達なのよ」
「だから何だ?それだけで彼が危険な人間じゃないという証拠にはならない」
クインは言葉に詰まった。
「あいつ・・・私と似たような力を持っている様だ」
「似たような力って?」
「人の才能を見極める力」
「だから危険だっていうの?」
「あくまで危険なのは性格。人の才能を人並み以上に感じとれるから、自分より優れた人間を蹴落としたいと考えている。蹴落として優越感を得たいんだ。才能ある人間を潰すことで自分は優れていると」
「ま、まさか。だってマットはいつもクラスで人気者で優しいし誰からも頼られて」
「それこそ、そうして自分が今までクラスの人気者の地位を守ってきた結果だ。人気のある好感度の高いクラスメイトは潰すことで、自分のクラスでの地位を上げようとしているんだ。君も昔ひどい目にあったことが何度もあっただろう?そのうちの一つでも彼が絡んでいるかもしれない」
クインは俯いて黙りこんだ。
確かに物心つく頃から様々な大ごとに巻き込まれてきたクインだったが、誰かに陥れられたなんて考えたことはなかった。
よりによって友達など疑ったことすらなかった。
「とにかくマットはメルを蹴落とす機会を伺っていた。君が言うように小学校の頃から知っていたのだとしたら、その時から機会を伺っていたのかもしれないな。クラス全員がメルの才能を理解し、羨むようになったところで持ちかける。自分だけ運良く生きていけるなんてずるいなんて言って。そうすればクラスメイトはメルを自然に恨むようになり、目に見えない悪意にメルは不運のジンクスを感じて外に出れなくなる、そうすればメルの人生はめちゃくちゃだ」
(まさか本当にマットがそんなことを?)
「だからエレナは」
「エレナはきっとメルを救うためにゴウに願いごとをするだろう。だが、それはメルを本当に救うことにはならない」
クインは顔を上げた。
「救うことにはならないって?」
「メルはどう思っているのだろうということだよ。エレナはきっとメルを救うためにあの教室から救うだろう。だが本当にそれでいいのか?」
Mr.Sはガラスの向こう側を見つめた。
街を急ぎ足で歩く人々が見える。
「この街は美しい。常に新しく、星よりも月よりも激しく輝いている。それを見続けたいと言うならば、この街のルールから逃げる訳にはいかない。そう思わないか?」
クインはその言葉を聞いてMr.S.に感じていた違和感の謎が解けた気がした。
メルが感じた幸運のジンクスはエレナが学校を休校にしたことだけではなく、やはりMr.sも関わっていたのだ。
(ああ、そうか・・・今わかった。ずっと感じていたMr.Sへの違和感)
クインは、Mr.Sの横顔を見つめた。
「Mr.S」
Mr.Sはクインを見つめる。
「あなたはやっぱり、ただ純粋にエレナを救いたいだけなのね」
その言葉にMr.Sは大きく目を見開いた。
「私もあなたに賛成よ。メルを救う。それがきっとエレナを救うことにもなる」
Mr.Sをクインは見つめた。
「そうでしょ?Mr.S?」
Mr.Sは目を細めて微笑んだ。
「クイン、君とはもう少し話をする必要があるようだ。だが今は」
「エレナのところに行く」
Mr.Sは頷いた。
「この前みたいに止めないの?」
「止める必要はない」
なんでとクインが聞く前にMr.Sが答えていた。
「今のエレナにはクインが必要だからだ」
◆ゴウ◆
人と違う才能を持つ人間を時に人は妬ましく思う。
容姿から器量の良さまで。
どうして私にはあの人のような美しさがないのだろう。
どうして俺にはあいつのような男らしさがないのだろう。
どうして自分にはこんなこともできないのだろう。
どうしてあいつの持っている才能は私にはないのだろう。
どうして?
そんな世の中だからこそメルの才能はかっこうの標的だったのだろう。
そんなことわかりきっていた。
でも、どうして人はそうやって自分の感情にただ流されるんだ?
もっとゆっくり物事を考えればいい。
なぜ答えを急いで出そうとするんだろう。
感情のままに。
「まさかクラス全員がメルを恨んでいるなんて」
部屋で、ゴウからクラスの様子を聞いたエレナは持っていたコーヒーカップをぎゅっと握りしめた。
「エレナ、ひとつ聞いてもいいか」
エレナはゴウを見つめる。
「いいけど、珍しいわね。ゴウが質問をしてくるなんて」
「なんでメルがこんな目に合っているとわかったんだ?」
エレナは、カップを机に置くと腕を組んでから首をかしげた。
「自分でも正直よくわからないのよね。昔からこういう勘が働くっていうか・・・」
じっと真顔で見つめるゴウにエレナは微笑んだ。
「メルにね、前のテストの時にノートを借りたの。その時、メルの顔を見ただけでわかったわ。メルは誰かから、しかも一人じゃなくてたくさんの人に恨まれているって」
「・・・」
ゴウは正直なところ、そんなことで人の危機などわかるものではないだろうと思った。
“ただ一言おはようと言っただけでエレナは私の異変に気がついたのよ。エレナはね、そういう子なの。きっと今回もそう。なんてことないことからメルの危機を察知したのよ”
そう言ったクインの言葉がゴウの中で蘇った。
(ショーンはもちろん、メルにエレナ。この街は、変わった人間ばかりいるな)
「でも半信半疑だったからゴウに学校を休校にしてもらってメルの様子を見てもらった。案の定、メルは学校が休みになると外に出れた。でも学校を再開するとまた外に出なくなった。これで確信したのよ。メルは学校に不運を感じているって。あとは誰がメルを恨んでいるのかが知りたくてゴウに探ってもらったのよ」
「そうか」
エレナはきょとんとした顔をゴウに向けていた。
「何だ?」
「いや、ゴウは信じるの?この話」
「エレナがそう言うならそうなんだろう?」
エレナはその言葉で吹き出した。
「ゴウ、あんたいい性格してる。そうゆうとこクインにそっくり」
「エレナ、クインは?」
「え?」
「クインはメルを恨んでいないのか?」
エレナはにっと笑った。
「クインがメルを恨むわけないでしょ?たしかにクインはいつも何か大変なことに巻き込まれているけど」
ゴウはその言葉に納得した。
(それは今もまさに)
「ゴウはまだわかっていない。クインはいつも大ごとの渦には流されるけど、自分の感情には決して流されないのよ。だから、メルを妬ましく思って勝手に恨んだりしない」
その言葉を聞いてゴウは思い出していた。
初めて会った時、リムジンの中で今何が起こっているのか理解ができずに怒ったクインを。
ショーンの家でショーンに怒りを向けたことクインを。
(感情に流され・・・ない?)
思わずゴウは怪訝そうな顔をしていた。
そんなゴウを見てエレナは笑った。
「そりゃ無感情なわけじゃないから。まあ、クインをこれから見ていればわかるわよ」
エレナは机の上に置いていたコーヒーカップを一口くちに運んだ。
「さてと」
エレナは小さく息を吐くと、ゴウをまっすぐに見つめた。
「じゃあ、ゴウ。私の願いを聞いてくれる?」
ゴウがエレナを見つめ返したその時だった。
ピンポーン。
インターホンの音が家に響いた。
◇エレナ◇
「私の話を聞いて欲しい」
玄関のドアを開けたエレナに対しての第一声がそれだった。
エレナは分かったような気がした。
(もしかして)
「クイン、何で?」
クインは力なく笑った。
「ちょっとしたきっかけでね、エレナが何をしようとしているのかわかったの」
エレナはクインに口を開き掛けたが、止めた。
その代わり優しく微笑んだ。
「とにかく入って。こんなところで立ったまま話すことじゃないし」
エレナはクインを部屋に通した。
部屋の中にいたゴウはクインを見てもいつもどおり真顔のままのノーリアクション。
だが、エレナは正直なところ驚いていた。
クインがエレナの本当の目的に気がついていたことに。
「でも、どうしてクイン?」
「何が?」
「どうやってわかったの?私がメルを救おうとしていること」
「それは」
クインが一瞬ゴウを見つめたのがエレナにはわかった。
(ゴウ?)
クインはエレナに視線を戻した。
「ゴウをつけたの。本当に信用できるかどうか心配になって。そうやってゴウをつけ回していたらゴウはずっとメルを監視していたことがわかって、それでエレナは本当はメルを何かから救おうとして学校を休校にしたりしたのかなって思ったの」
エレナはただまっすぐにクインを見つめた。
嘘か本当か見極める様に。
だが、クインはそんなエレナを堂々と見つめ返す。
「だから私、成り行きでエレナの目的がわかってからずっと引っかかっていた」
クインは力なく笑った。
「どうしてひとりでメルを救おうとしたの?」
◇クイン◇
席から立ち上がったクインにMr.Sは声を掛けた。
「クイン、嘘が下手な君に助言をしよう」
クインはMr,Sに振り返る。
「助言?」
「君は今からエレナの元へ行ってどうして自分がエレナの本当の目的に気がついたのか嘘の話をするだろう?私の存在を知らせないために」
クインはむすっとした顔をした。
「ええ、そうよ。誰かさんのせいで無駄な嘘までつかないといけなくなってるんだから」
「だが、しかし君は嘘がとんでもなく下手だ」
クインが反論する前に、Mr.Sは言葉を続けた。
「聞かなくてもわかる。君を一目見たときから分かっていた。だから助言をしたいんだ」
クインは、不服ではあったが自分に嘘をつくのは無理だということの自覚はあった。
嘘をつくのは確かに苦手だがそのうえに最近のクインの行動はかなり怪しまれているはずだったからだ。
だからクインは黙ってMr.Sの助言を聞くことにした。
なにより詐欺師から聞く嘘のつき方はクインにはかなり興味深かった。
Mr,Sはにっと笑って、まるで講義でもするような口調で話始めた。
「嘘は堂々と短く、しかしゆっくり話せ。そして、嘘をついたあとすぐに自分が相手に対して思っている本当のことを打ち明けろ」
(その通りにしたわよ)
あまりにもまっすぐに見つめてくるエレナの視線は全てを見抜いているのではないかとクインは感じ、心臓が大きな音をたてた。
何より適当に考えた嘘の後に口にしたずっと思っていた疑問。
それはクインがずっと感じていたことだった。
自分はエレナとは長い付き合いで親友だと思っていたからだ。
だからこそクインはずっと疑問に思っていた。
エレナはどうしてクインに対して何も言わなかったのか。
なぜ、ひとりでメルを救おうとしていたのか。
(どうしてわかったかなんてどうでもいい。このことだけをただ聞きたかった)
クインのその気持ちに嘘はない。
◇エレナ◇
“どうしてひとりでメルを救おうとしたの?”
エレナはその言葉になんて説明すればいいかわからなかった。
だからエレナはクインの視線から目をそらした。
全ては父親の虚しい復讐から始まった。
エレナの胸の奥でまだくすぶっている後悔。
全てを打ち明けるべきなのだろうか。
クインはどう思うだろうか。
エレナはクインの視線を受け止めてまっすぐに見つめ返した。
その目に適当な言い訳が通用しないことがエレナにはわかった。
覚悟を決めてエレナは口を開いた。
「クイン、私の父が詐欺師になったいきさつは話したわよね」
クインは頷いた。
「会社をはめた詐欺師・・・Mr.Sを追い詰めるため」
クインは微笑んだ。
「そういう言葉を使ってくれてうれしい。でも、本当はただMr.Sに復讐して満足したかっただけ」
「そんな言い方しなくても。クインのお父さんは騙された被害者なんだから」
エレナは目を伏せて俯いた。
エレナの脳裏にゴウへの初めての願いごとが響く。
“父が、仕事で一体何をしていたのか調べてほしい”
「クイン、違うの。父は罰を受けたのよ。本当の被害者は誰なんだろうね?」
クインはエレナの言葉が全く理解できず、首をかしげた。
「どういうこと?エレナ」
エレナは顔を上げてクインを見つめた。
「父は仕事で悪業を働いていたの」
クインは目を見開いた。
「詳しくはあまり言いたくはないんだけど」
エレナはゴウに初めての願い事を言った時覚悟をしていた。
Mr.Sに復讐をと決めた父の顔はまるで悪魔のような顔をしていた。
しかし、エレナにはそれが父親の本性なのだとなんとなくだがわかってしまった。
もともとの悪魔の姿が詐欺にあったことでむき出しになってしまっただけなのだと。
母親は仕事で家を空けていることが多く、父親の悪魔のような姿に気がつかなかったが
今、思えばそれはそれで幸せだった。
それにもしかしたら、家にいても気がつかなかったかもしれない。
エレナだからこそ気がついただけなのかもしれない。
復讐、それこそが父親の危機だったのだから。
エレナは自分の才能を恨んだ。
このまま気がつかない方が幸せだったに決まっている。
ゴウの口から出てくる言葉は、エレナが覚悟していたこと以上だった。
父親の悪行が次から次へとエレナの耳に流れ込んでいった。
エレナは信じられなかった。
だから、ゴウがそんな簡単に願いを叶えられるわけないと思い込みたかった。
“この街で1番高価なバッグを”
“学校を午前中で終わらせて”
“リムジンで迎えに来て”
どれもやけくそな願いごとだった。
叶わなければゴウの言葉を信用しなくて済むから。
だが、どちらも簡単に叶ってしまった。
そうして、エレナは現実を受け入れた。
受け入れるしかなかった。
だからわかったのだ。
父親の悪行は事実であり、そんなことばかり繰り返していたから世界一の詐欺師なんかに目をつけられたのだと。
「エレナ?」
クインが心配そうな顔をしてエレナを見つめていた。
エレナはまっすぐにクインを見つめた。
「クイン、私わかったことがあるの。Mr.Sは悪業を働いた人間しか騙さない人だって。だから父は狙われた。狙われて当然の人間だったのよ」
「でも」
クインが言葉を発する前にエレナは言葉を続けた。
「私が許せない人間はふたりいる。復讐なんかに走った父と、そんな父を救えなかった私。Mr.Sを恨んだことはないわ」
父親の真実を知ってエレナの中でくすぶっていた後悔が大きく音を立てて燃え盛り始めたのがわかった。
なぜあの時父親を止めることができなかったのだろう。
なぜ父の本性と向き合わなかったのだろう。
なぜ父は復讐なんかに・・・
“エレナの才能は人を救う。俺はそう思うよ”
かつてそう言った父親の言葉がエレナの中に蘇った。
その言葉にエレナは心の中で言い返す。
あなたを救えなかったのに?
そんな時にエレナは知ったのだった。
メルの危機を。
「メルの危機を知って初めに思ったのはやっとこれで誰かを救うことができるだった。理由は、そう、私もMr.Sも同じ。罪滅ぼしだわ。私は父ひとり・・・誰ひとり救えない自分を肯定したかったの。そのためには誰の力も借りたくなかった。自分の力だけで成し遂げたかった。だからクイン、あなたには頼らなかったのよ」
◇クイン◇
クインは何も言わなかった。
エレナは父親を救えなかったことを誰かを救うことで穴埋めをしている。
(エレナはやっぱりずっとお父さんを救えなかったこと、後悔してたんだ)
わかってはいたことだったが、ここまでエレナが悔やんでいるとはクインは思ってはいなかった。
(それにMr.S。あいつもやっぱり)
「だからクイン、もう私には構わないで」
クインが驚いてエレナを見つめるとエレナは悲しそうに笑っていた。
クインはぎゅっと拳を握り締める。
「嫌よ」
そしてエレナをまっすぐに見つめ返した。
「私、エレナを救いたい」
クインは思い出していた。
8年前、ある事件に巻き込まれて身も心もボロボロにされ途方にくれていたクインを救ってくれたエレナの姿を。
“なんでそんなことになっているの?クイン?”
「昔、エレナが私を救ってくれたように。私もあなたを救いたい」
エレナは驚いた顔をしてクインを見つめた。
「私、クインを救ったことなんて・・・。それにさっきも言ったでしょう?これは私がひとりで」
「わかってる」
「じゃあ、なんで」
「勝手にエレナを救いたいと思っているだけ。エレナは忘れているかもしれないけど、私、本当にあなたに救われたことがある。だからエレナが嫌だって言っても私はエレナを救いたい」
「救うって何から?」
「後悔から」
「どうやって?」
「メルを救う。エレナと一緒に」
クインはまっすぐにエレナを見つめてそれ以上は何も言わなかった。
だが、何を言われても絶対に引き下がらない。
クインの中にはそんな強い思いがあった。
ふたりの間をしばらく沈黙が包んだ。
やがてエレナは、わかったわと小さく呟いた。
エレナは、これ以上話してもきっと引き下がらないというクインの気迫を感じ取ったのだろう。
それになによりも、エレナを救うと言ったクインの言葉に嘘はないことがエレナにはわかっていた。
「クイン、ゴウ」
エレナは立ち上がった。
「メルを救いに行こう」
クインはにっと笑い、ゴウは相変わらず真顔のまま頷いた。
メルの家のインターホンを押しても誰も出てこなかった。
「留守かな?」
「メルの両親は共働きでこの時間はいつもいない」
「ゴウ、本物のストーカーになってきたわね」
「じゃあ、メルは家にいるはず。不運のジンクスを感じて部屋からも出たくないってことか」
エレナは、メルの部屋の窓を見つめた。
「強行突破しかないわね」
「強行突破?」
「ゴウ、私とクインを担いであの部屋まで運んでくれる?」
「は?」
「ああ、わかった」
「え?」
ゴウがエレナとクインを担ごうとしたその時、クインがちょっと待ってっと声を上げた。
「ま、まってよ。いくらなんでもそれは」
「でも、そうしないとメルと会えないわよ」
「そういうことじゃなくて、ゴウが私とエレナを担いで飛ぶ?」
「ええ、ゴウならできるのよ?」
「そんなことまで」
「クイン、もういい加減に信じてよ。学校を休校にまでさせたゴウが私たちを担いでメルの部屋まで飛ぶなんて楽勝なんだから」
「それとこれとはまた違うような」
「もう、いいから。ゴウも黙っていないで何か言ったら?」
「さっさと見せた方が早いだろ」
そう言ってゴウはエレナとクインを軽々と担ぎ上げた。
「ちょ、ちょっと」
「行くぞ」
ぐっと膝を折り曲げて、ゴウは飛んだ。
「うわあ!」
クインは必死で相変わらず真顔のゴウに抱きつき、エレナはそんなクインを見て思わず吹き出した。
◇メル◇
暗い部屋、何日ここにいたらいいのだろう。
(外に出たい)
しかし、メルが感じる不運は体を固くする。
立ち上がろうと思っても膝を少し折っただけで立ち上がることの気力が一瞬でなくなる。
自分がどんな行動をとっても何をしてもうまくいかないと断言ができてしまう感覚にメルは襲われていたのだ。
(こんな感覚今まで感じたことない。どうしよう。ずっとこのまま・・・)
ガッシャン!!
その音と同時にメルの髪を風が揺らした。
◇クイン◇
ゴウが窓を割った。
エレナが割ってと言ったから。
(だからって!!)
「だからって!!」
思わずクインは声に出ていた。
「だって、クイン。見てよ。あのメルの姿」
クインは割れた窓の先を見つめた。
クインは大きく目を見開いた。
「メル」
「あんなメルが窓を開けてくれるとは私は思わないわ」
暗い部屋の隅で、メルは頭から毛布を被っていた。
目の下にはおおきな隈ができ、唇も青ざめている。
そんなメルを見てクインの脳裏にマットの笑った顔がよぎった。
(マットはこうなることわかっていた、だから・・・)
「メル!」
クインはゴウの腕から飛び出して、メルに駆け寄った。
メルは甲高い叫び声を上げた。
「いやああ」
毛布で顔を隠して小さくうずくまった。
「何なの!?一体、なんで・・・もうやめて!クインもエレナも!!」
「ご、ごめん。メル、すごい登場の仕方して」
「帰ってよ、帰って!」
「メル」
いつの間にかクインの横にエレナが立っていた。
「窓を割ったのは謝るわ。ごめん。でも、インターホンを押しても出てきてくれないじゃない。だからこうするしかなかったの」
毛布からメルは少しだけ顔をのぞかせた。
「なんで・・・こんなことしてまで私に会いに?」
クインとエレナは顔を見合わせた。
そしてメルに微笑んだ。
「メルを救いにきたの」
◇メル◇
メルはふたりの顔を見つめた。
「私を・・・救いに?」
クインとエレナは頷いた。
「救うってどうやって」
メルは被っていた毛布を脱いだ。
その時、部屋の中にクインとエレナ以外にもうひとりいることにメルは気がついた。
本当は窓からクインたちが登場した時にメルは男の存在を見ていたはずだったのだが、気が動転していて男の存在を認識していなかったのだ。
しかもその男はメルが最後に外出した時にずっとこちらを見ていた男だったものだから
メルはまた、甲高い叫び声を上げた。
「な、なんで!あの男が!」
「え?」
クインとエレナは男を見つめると同時に、忘れてた!と声を上げた。
「メル、落ち着いて!そうよね。ゴウのことも説明しないと」
「ク、クインとエレナはその男と知り合いなの?」
クインはエレナを見つめ、エレナは少し首を傾げた。
「知り合い?そうね、知り合いみたいなものよ。実はこの人にメルの様子を見てもらっていたの」
「私の?」
「ええ。私、ちょっとしたきっかけでメルの危機を知ってしまって」
メルは何も言わずじっとエレナを見上げた。
エレナは、かがみ込むとメルと視線を合わせた。
「もう遠まわしに言っても意味がないから、事実を言うわ。メル、あなたはクラス全員から恨まれている」
◇エレナ◇
エレナの心臓は大きな音をたてていた。
メルをこれ以上は傷つけたくはない。
(でも、本当のことを伝えないとメルはいつまでもこの暗い部屋の中にいる)
メルはエレナの言葉が理解できていないようできょとんとした顔をしてエレナを見つめるだけだった。
「何・・・言ってるの?エレナ?」
エレナはもう一度メルを見つめ返した。
「メルのクラスのみんながメルを羨んでいた」
「私を?」
「正確にはメルの才能を」
メルは、言葉を発しようとしたが止めたようにエレナは感じた。
きっと、なんで?と聞こうとしたのだろう。
だが、メル自身答えは分かっている。
エレナは言葉を続けた。
「人は、他人の優れた才能と自分の才能を比べてひとりで勝手に悲しんだり、怒ったりする時がある。クラスのみんなもそう。メルばかりいつも不運を避けることができて、うまく立ち回れない自分をきっと勝手に哀れにでも感じたのかもしれない。その気持ちが、いつの間にか妬ましさに変わって、そして」
「私を恨むようになったの?」
エレナは頷いた。
「ああ、そうか。だからか」
メルは悲しそうに微笑んだ。
「そんな私のことを恨んでいる人ばかりいる教室なんて不運しか感じないものね」
「メル」
メルは、力なくエレナに笑いかけた。
「エレナ、私、自分のこの才能は自分の進むべき道を教えてくれる才能だって思ってた。不運と幸運を見極めることができれば、この先、生きていくのに不自由しないもの。でも、だからこそずっとわかってた。私の才能は人の役には何にも立たないって」
エレナは思い出した。
昔、自分の才能があまりにも人の役に立たないことで悩んでいたメルの姿を。
「そうやって自分の都合ばかり優先してきたから恨まれて当然よね。自分ばかり得していたんじゃ」
エレナはぎゅっと拳を握り締めた。
(やっぱりメルは恨まれるような人間じゃない。メルを助けたい。私なら・・・なんとかできる。ゴウの力を借りればメルを)
エレナが口を開きかけた時だった。
「メル、私もわかるよ」
エレナは驚いて、後ろを振り向いた。
クインは、まっすぐにメルを見つめていた。
「自分の才能はいいことばかり運んでくるものじゃない。辛いことだって運んでくる時がある。その度にああ、もうだめだって何度も、何度も思ったことがある。才能は生まれ持ったもの、捨てることなんてできない。でも、だから」
クインはにっと笑った。
「だから、どうしようもないじゃない」
メルはきょとんとした顔でクインを見上げていた。
「ねえ、メル。教えてほしいことがあるの」
クインはエレナの横でかがみ込むと、メルの目を優しく微笑みながら見つめた。
「メルは・・・何が好き?」
メルはクインの意図がわからず目を瞬いた。
しかし、エレナはクインの言葉に聞き覚えがあった。
“クイン・・・あなたは何が好き?”
クインは言葉を続ける。
「私ね、朝起きてコーヒーを飲みながら見つめる朝の景色が好き。自分に合った服を来て出かけるのも好き。ダミアンの店でこの街一番のサンドを食べるのが好き」
クインはエレナを見つめた。
「エレナやメルたちとくだらない話をして大笑いするもの好き」
エレナは、目を見開いた。
“私にはね、好きなことがたくさんあるの。本を読むこと、音楽を聴くこと、映画をみること、買い物をすること、友達と大騒ぎすること、美味しいものを食べること、それに歌を歌うことも”
(ああ、思い出した)
「それから心に残る言葉が詰まった本を読むのが好き。お気に入りの音楽を聴きながらこの街を歩くのが好き。そして、なによりこの街が大好き。人も、建物も、全部」
“この街の景色だって好き。こうして公園から見つめる夕日も。ビルとビルの間からみるこの街の夜景も”
クインはメルに微笑んだ。
「好きなことだけじゃない。私たちこれから勉強だってしないといけないし、やらなきゃいけないことだってたくさんあるのよ。メルもそうでしょう?」
“好きなこと。それにしなきゃいけないことだってある。何って?勉強に決まってるじゃない!勉強は嫌いだけどこの街で生きていくには必要だし。私は忙しいのよ。でもそれってクインもそうでしょう?だから”
エレナにはわかっていた。
クインの次の言葉が。
“だからね、クイン。自分から逃げないで”
「だからね、メル。自分から逃げないで」
なぜならそれは、かつてエレナがクインに言った言葉だったからだ。
そして、エレナはわかった。
クインが言っていた“エレナに私は救われた”という意味が。
エレナの言葉は確かにクインを救っていたのだ。
そして、今、メルを救おうとしている。
「私も」
絞り出すような声だった。
エレナとクインはメルをじっと見つめた。
「私も本当はもっと外に出てしたいことがいっぱいある。クインと同じくらい。でも怖くて」
俯いたメルにエレナは微笑んだ。
「メル、こっち見て」
メルは顔を上げてエレナを見つめた。
「メル、みんなね、あなたほどではないけれど不運を感じる時がある。本当に辛い時だって。そしてメルのように幸運がくる時を待つことはできない。そんな才能持ってる人滅多にいないから」
メルは悲しそうに目を伏せた。
「エレナも私が羨ましいの?」
「そうじゃない。メルに教えたいだけ」
「教えるって・・・何を?」
エレナはメルの目をしっかりと見つめた。
微笑みもないまっすぐなその瞳にメルは思わずエレナの目を見つめ返していた。
エレナは言った。
かつてクインに言った言葉と同じ言葉を。
「不安や不運を感じる時は誰にでもある。それでも、どんなに辛くても自分のしたいこと、しなければいけないことができる人間こそこの街では勝ち組だって私は思うよ。優れた才能なんて関係ない。だからね、この街で生きていく私たちに・・・ううん、この街だけじゃない。この世界で生きていく私たちに立ち止まっている暇なんてないのよ」
「メル、これで外に出てきてくれたらいいけど」
クインはオレンジ色に染まった空を見上げながらつぶやく様に言った。
メルの家からの帰り道、夕焼けが並んだ3人の影を映し出している。
メルはエレナの言葉を聞いて少しの間黙ったあと、“帰って”と一言だけそう言った。
だから、大人しく3人は帰ることにしたのだった。
それに、エレナは気がついていた。
メルの目に光が戻っていたことを。
「きっとメルはもう、大丈夫。なんせ私の言葉をそのまんまクインが話してくれたから」
クインは、にやっと笑った。
「バレたか」
「バレるわよ」
「でも、エレナ、直前まで覚えてなかったでしょう?」
「まあね」
「私はずっと覚えてたのに。だって、あの言葉で私本当に救われたの。自分がしたいと
思っていることはたくさんあって、しなきゃいけないことだってたくさんあるって気がつかせてくれた。そのためには、まず自分の才能・・・自分自身から逃げたらダメだってエレナが教えてくれなかったら私、とっくにグレてたかも」
エレナが吹き出した。
「クインが!?まさか」
「本当よ。なんせ私の才能は大ごとばかりに巻き込まれるんだもの。生まれた時からずっと。歳をとればとるほど、大きくなってるような気もするけど」
クインは右端にいるゴウを睨んだがゴウは相変わらずの真顔をくずさない。
「だからこそ、エレナには本当に感謝してるの」
クインはエレナを見つめた。
「エレナ、あなたは自分の才能で誰ひとりとして救えなかったって言ってたけど、私はとっくに救われていたよ。だから今こうしてここにいる。この街で生きていられる」
「何言ってるのよ、クイン」
エレナは笑って、クインを小突いた。
「だからさ、エレナ、もう泣かないで」
「だから・・・何言ってるのよ、クイン。私、泣いてなんかない」
「泣いてるよ、エレナ。ずっと、ずっとエレナは泣いてた。お父さんが死んでから」
エレナは何も言わなかった。
優しく微笑むクインの顔が次第に霞んでいってエレナには見えない。
◆ゴウ◆
「もし、お父さんが復讐に走った時クインに相談していたら何か変わったのかな?」
クインと別れたあと、エレナがポツリと呟いた。
ゴウはエレナをじっと見つめた。
エレナの目はまだ赤い。
「ごめん、ゴウにこんなこと言っても意味ないわよね」
ゴウは前を見た。
「変わらない」
エレナは驚いてゴウを見つめた。
「結局どの道を選んでいてもエレナの父親は死んでいたはずだ。そういうものなんだよ。この世界は」
エレナはきょとんとした顔でゴウを見つめていた。
「何だ?その顔は」
「いや、ゴウがまともに励ましてくれるなんて」
「励ましているつもりはない。俺の経験に基づいて事実を言っているだけだ」
「うん、それが嬉しい」
「嬉しい?」
「うわべだけの適当な言葉じゃないから。ゴウもクインも」
ゴウは思った。
(エレナはずっと自分を、父親を救えなかった自分を責めていたのだろうか。現実から目を背けることで)
エレナはゴウに微笑んだ。
「ありがとう、ゴウ」
夕日に照らされたエレナの微笑みはゴウの知っている誰かに似ていた。
だが、ゴウは思い出せない。
というより、思い出そうとすらしなかった。
◇メル◇
翌朝、玄関の扉を開けたメルをクインとエレナが出迎えた。
メルは不安そうな顔をふたりに向けた。
「メル」
クインとエレナはにっと笑った。
「おはよう!」
メルはそんなふたりを拍子抜けしたような顔をして見つめてから微笑んだ。
「おはよう。クイン、エレナ」
教室に向かう廊下。
メルの足の震えは止まらない。
こんな大きな不運に真っ向から向かうのは初めてだったからだ。
“だからね、メル。自分から逃げないで”
“この街で生きていくのに立ち止まっている暇なんてあなたにも私たちにもないのよ”
ふたりの言葉がメルの中で響き渡る。
(私は自分から逃げない。自分の才能を受け入れる。だって)
「私には逃げている暇なんてない」
少しだけ、気のせいかもしれないがほんの少しだけメルは教室を開ける自分の姿に幸運のジンクスを感じた。
◇クイン◇
クインは廊下を走っていた。
あいつの姿を探していたから。
目当ての姿を見つけると、クインは立ち止まった。
相手もこちらに気がついた様でじっとクインを見つめていた。
「マット」
マットはクインに気が付くと、にっと笑ってクインにゆっくりと近づいてきた。
「クイン、おはよう」
「マット・・・あなたは」
「クイン、君は俺のせっかくのチャンスをなんで潰したんだ?」
クインは驚いてマットを見つめた。
「何を言って」
「シラを切るつもり?メルのことだよ」
クインは黙ってマットを睨みつけた。
「何で私がメルを学校に呼び戻したことわかったの?」
マットは、にっと笑った。
「やっぱり君の仕業か」
クインは、しまったと思わず声をあげた・
「君は単純でバカでわかりやすいな」
クインはそのどこかで聞いたことのあるセリフを聞いてむっとした。
「どうしてメルにあんなことしたの?マットはずっとメルと親友だったじゃない」
「どうして?自分ばかり幸せを味わっているなんてずるいだろう?親友だったのもこうしてメルを学校から追い出すための手段だったのに。まったく君のせいで今までの苦労も水の泡だ」
普通の話をするように淡々と話すマットにクインは寒気を感じた。
「マット。あなたって最低ね」
マットは、にっと笑うとクインの耳元で囁いた。
「クインもそう思っているくせに。偽善者だな。お前は」
クインはマットを睨みつけた。
「あなたにそう言われるなら私は偽善者のままでいい」
マットは、にやにやした笑みを崩さない。
「クイン。君は、優しいからね。きっとメルに俺がこんな目に合わせたこと言ってないんだろう?」
クインは何も言わなかった。
「だったら俺はいつも通り過ごさせてもらうよ」
「待って、もうこれ以上メルを」
「メルを何?言ったろう?俺はいつもどおり過ごすって。安心していいよ。メルには当分何もしない」
「当分って」
「あーあ。クインは俺と同類だと思ってたんだけどなあ」
クインは怪訝そうな顔をしてマットを見つめた。
「同類?何言ってるの?」
「君はいつも大ごとに巻き込まれる才能を持っている」
クインは驚いてマットを見つめた。
(Mr.Sの言うとおりだ。こいつは本当に人の才能がわかるんだ。そのうえ)
「だから俺と同じように優れた才能を持った人間が憎いんだとばかり思っていたよ」
(優れた才能のある人間を潰したがる)
「私はそんなこと一度も思ったことない」
マットはまた、にっと笑った。
「そうか。それも君らしいね」
そのままクインの横をマットは通り過ぎた。
「またね、クイン」
そう呟いて。
◆ゴウ◆
「ゴウはエレナに言わなかったの?マットのこと」
ゴウは隣に座っているクインを見つめた。
ゴウたちは、ウォーキンシティの中心にある『ロロアンドゼグパーク』に来ていた。
ここにはかつて巨大なビルがあった。
あることがきかっけでそのビルは今はもうない。
だからここはビル街のど真ん中でビルの隙間風がゴウたちの間を吹き抜ける。
エレナとメルは飲み物を買いに行っており、ゴウとクインは石でできた四角いだけの椅子に座ってふたりを待っていたのだ。
「言ってない。聞かれていないからだ。エレナはただ単にあの教室での様子を教えてほしいと言ってきただけ。俺はそれに従っただけだ」
「もし、今回のメルのことが誰かに仕組まれたものだとエレナがわかったら、ゴウはマットのことを話すの?」
「それをエレナが望むなら」
「そう」
クインは小さなため息をついた。
「あいつはずっとメルが妬ましかったのね。マットはメルのようにうまく立ち回れなかった。きっと私みたいな立ち位置だったのよ」
その言葉にゴウはある疑問を思った。
「君はマットのように自分の境遇が辛いと感じたことはないのか?」
「ないわ」
クインは即答した。
「自分が辛いとかかわいそうとかそんな単純な感情に流されたことないから」
クインはにっと笑った顔をゴウに向けて言葉を続けた。
「見てよ。この顔にこの体にこの性格。“私”って人間はねえ、わがままだけで生きていけるほどいい人間じゃないの」
ゴウはそんなクインを見て、エレナの言葉を思い出した。
“ゴウはまだわかっていないだけ。クインはいつも大ごとの渦に流されるけど、自分の感情には決して流されないのよ”
「君は君という人間の生き方を知っているんだな」
「ゴウ、ちがうわ」
ゴウはクインを見つめる。
クインもゴウを見つめ返す。
「そこは、君が言うほど君という人間は悪くない。いい女だ・・・って言葉をかけるところなのよ!まったく。本当にあんたは人間ってもんがわかってないんだから」
クインはむっとした顔をした。
「そうか。思ってもいないことを言わないといけない時もあるのか」
クインは思わず吹き出した。
「ちょっと、ゴウ!そんな言い方」
「この街の人間は色んな才能を持っているんだな」
つぶやくようにそして唐突にゴウの口からそんな言葉が勝手に飛び出した。
ぎゃあぎゃあとゴウに文句を言っていたクインはきょとんとした顔をして固まっている。
ゴウはそんなクインを見つめて首を振った。
「いや、なんでもない」
ゴウは内心ずっと思っていたのだ。
クインはともかく、メルやエレナの才能は人間離れしているように感じたからだった。
「ゴウ、それも違うわ」
ゴウはクインを見つめた。
「この街の人間だけじゃない、人間はみんな生まれたときから何かしらの才能を持って生まれるの。ただその才能に苦労が伴うかどうかで変わってくるだけで才能は平等にひとりひとりに与えられているのよ。私の才能は大ごとに巻き込まれること。どう見ても苦労を伴う才能でしょ?でもね、才能に変わりはないから、時としてかけがえのないものを得ることだってできる」
「かけがえのないもの?」
その時、クインとゴウの名前を呼ぶ声が聞こえた。
そんなふたりを見てクインはにっと笑い立ち上がった。
「行こう。ゴウ」
クインがエレナとメルの元へと歩き出そうとしたとき、クインの足がぴたっと止まってゴウに振り向いた。
「あと!ゴウは人間じゃないけど、才能を持っているわね」
クインは、にっと笑って見せた。
「人間を見る目がない」
再びクインとゴウを呼ぶ声がしたので、クインは返事をしてゴウに背を向けて駆け出した。
そんなクインの後ろ姿を見てゴウは思った。
(それはあながち間違っていはいない)
そしてそれが自分の才能というならば自分も何かかけがえのないものを得ることができるのだろうか、なんてゴウは少しだけ思ったがすぐに考えるのを止めた。
◇クイン◇
日が沈み、街はクインの大好きな夜景の姿に変わりつつあった。
エレナ、メル、ゴウと別れてひとりで例のカフェまでやってきた。
いつもどおり、Mr.Sは窓に向いたカウンター席に座っていた。
クインは、カウンターの上にバッグを置いた。
「やあ、クイン」
「今日のエレナの願いごとは、なし」
「そうか、まあそんな日もあるだろう」
クインはそのまま椅子を引いて座った。
「まだ何か話したいことでもあるのか?」
「Mr.S、あなたが言ったんでしょう?君とはもう少し話をする必要があるようだって」
「そんなこと言ったかな」
Mr.Sは置いていたカップを口に運んだ。
「私もあなたに聞きたいことがあるし」
クインはじっとコーヒーを飲むMr.Sの横顔を見つめた。
「あなたは、エレナがゴウにあなたへの復讐を願わないことをわかっていた。そうでしょう?」
Mr.Sは持っていたカップを見つめるだけで何も言わない。
「ずっと違和感があったの。あなたほどの詐欺師ならエレナのことをわからないはずがない。本当はずっとわかっていたのよね。エレナがそんな願いごとするはずがないって」
その時、突然Mr.Sはカップをドンっとカウンターに置いた。
クインは驚いてびくっと体を震わせた。
それはまるで何かのスイッチの様だった。
横にいるMr.SがさっきまでのMr.Sとは違う人間に切り替わった様にクインには感じたからだ。
Mr.Sは、ゆくっりとクインを見つめた。
Mr.Sの目はクインを貫くようにまっすぐに見つめている。
その顔はいつものあの無邪気な笑顔とは違う、真剣な表情だった。
クインは思わず息を呑んだ。
「ここから話すことを信じるか信じないかは君が決めていい」
Mr.Sは話始めた。
あの日のことを。
「エレナを初めて見たのは病院だった。まさか、奴が、エレナの父親がパトカーとのカーチェイス中に死ぬとはさすがに私も予期できなかった」
「何で警察を呼んだの?エレナのお父さんはあなたを詐欺ではめることはできなかったのに」
「エレナの父親は仕事でかなりの悪業をしていた。だから詐欺で騙しはしたが、警察に突き出さなかっただけでも私は慈悲を与えたつもりになっていた。しかし、まさか復讐しにくるとは・・・。世界一の詐欺師に喧嘩を売るとどうなるかを見せつけてやっただけさ」
クインは黙った。
(エレナが言った通りかもしれない。Mr.Sは悪人しか騙さない詐欺師・・・なのかも)
「まんまと罠にハマって私の屋敷まで奴は来た。そこで、少し話をしたよ。自分の悪業を棚に上げて私を騙そうとはいい度胸をしているな、と。そこでやっと自分がまた騙されていたことに気がついた様だった。その瞬間奴の中から復讐への気力が消えていくのがわかった。そこで私は奴にチャンスをやった」
“実はここに警察を呼んだ。捕まりたくなければここから逃げろ。うまくいけば逃げ切ることができるかもしれない。そこでもういちどやり直せ。一から自分の悪業を反省し、やり直せ”
「奴はすぐに私の屋敷を飛び出した。そして、事故に合った」
Mr.Sは窓の向こうで歩く人々をじっと見つめた。
「初めて人を間接的にとはいえ、殺してしまった。殺しだけは今までしてこなかったのに。だから病院へ向かった。何か行動をしないといけない、それだけはわかったから。そこで初めてエレナを見た。エレナの、あの顔」
そこでMr.Sは言葉を止めて、クインを見つめた。
「目に見えない細菌ってこの世の中にたくさんあるだろう?」
クインは目を瞬いた。
いきなり話が細菌の話なんかになったからだ。
(一体何の話を)
えっと、と呟いてからクインはMr,Sの顔色を伺うように見つめた。
「目に見えない・・・細菌?」
「君の服や皮膚を顕微鏡で見てみたら、身の毛もよだつような細菌がうようよいるはずだ。私は思うんだ。その辺を飛んでいるハエ、地を這うゴキブリ、これも細菌と同じでみる必要がないものだと。そんなものが見えなければ、この世の中はとても美しく、素晴らしいものに見える。私はそうやって生きて来た。見なくていいものを今まで見て来はしなかった。私が騙した奴らの顛末など私の完璧な世界には必要ない。だから今まで知ろうともしなかったんだ」
クインは、その言葉に不思議と納得できた。
見なくていいものを見ない、それはただ現実を見ないで生きている人間の言葉だろう。
だが、目の前にいるMr,Sは違う。
何を見て、何を見なくていいのかを知っている、理解している。
(Mr.Sなら選択できるんだ。きっと騙す人間も。だから悪業をしてきた人間しか騙さない。そして)
メルのジンクスの才能とはまた違う才能。
(自分が選ぶべき道を。何が絶対に正しいかがわかる)
そう思ったからこそクインは黙ってMr.Sの言葉を待っていた。
「だが、エレナは違う。あの時、あの病院で見たエレナの顔。あれは、見なかったことになんてできなかった。顔を見て一瞬でわかった。エレナはわかっていたんだよ。復讐はただ虚しいだけだって。復讐に燃える父親をずっと見ていたからね。だからこの悲しみを怒りをどこにぶつけたらいいのかわからない。エレナの中でそんな感情が入り乱れていた。エレナは私にとってしっかりと見る必要のある存在だったんだ。自分が向き合わなければいけないことだと感じた。そんな時、ゴウと知り合った。病院の屋上で空を仰いでいた時だった」
“もし、今たいがいの願いごとが叶うとしたら何を望む?”
Mr,Sは、ふっと笑った。
「あいつのあの言葉、あの言葉を聞いた瞬間にすべてが思いついた。私のエレナへの罪滅ぼし。誰かにエレナの願いごとを教えてもらい、その願い事が間違った方向に向かわないように、私が手助けをする。そのために必要な助っ人を見つけることも」
「それが私ってことね」
Mr.Sは少し俯き、それからクインを見つめた。
その顔はいつものあの無邪気な笑顔にもどっていた。
「この話には嘘もあるかもしれないし、真実もあるかもしれない。君はどう思う?」
そんなMr.Sの笑顔をクインはまっすぐに見つめた。
そして、はっきりと言った。
「信じる」
「詐欺師を?」
クインは頷いた。
「私は、信じる。あなたを」
Mr.Sは少し拍子抜けしたような顔をしてから笑った。
「そう。やっぱりクイン、君は単純でバカなんだな」
クインはむっとした顔をしてMr.Sから顔をそむけた。
その言葉はまぎれもない詐欺師の言葉だとクインは思った。
だから、Mr.Sには見えないところでクインは少し微笑んだ。
クインがMr.Sの真実なのか嘘なのかわからない告白を聞いてから数日がたった。
クインはいつも通りひとりで学校へ行くようになっていた。
メルはもう家まで迎えに行かなくてもひとりで学校へ行けるようになっていたからだ。
相変わらず不運のジンクスを感じ、クラスでもひとりでいることが多いようだったが、
“幸運のジンクスは自分で呼ぶわ。いつまでも家の中で待ってはいられないし”
そう言ってメルは自分の才能から逃げ出さずに立ち向かっている。
クインとエレナに笑顔を向けるようになったメルを見てエレナは少し安心したようだった。
クインは久しぶりにメルの笑顔を見ることができて嬉しかったが、どうしても気になることがあった。
(当分メルに何もしないって言ってたけど・・・マットはまだメルの才能を潰したがってるはず)
クインはメルの教室を訪れる度にマットの様子も伺っていた。
マットはメルやクインに話しかけることはなかったが、いつもどおり教室の真ん中で楽しそうに笑っている。
(Mr.Sは、マットの性格は優れた人の才能を潰したがる危険な性格をしているって言ってた)
“そうして自分が今までクラスの人気者の地位を守ってきたから。
自分よりも人気のある好感度の高いクラスメイトを潰すことで、自分のクラスでの地位を上げようとしている”
(だから今はメルの人気が落ちたから何もしないってこと?)
そんなマットの思惑を知らないメルは、親友だと思っていたマットまでもがメルを恨んでいることに対してとても心を痛めているようだった。
だから今回の首謀者であることはメルには言わなかった、というより言えるはずがなかった。
教室の雰囲気はメルにとって居心地がいいものではないが、今のところメルに対する嫌がらせは特にないようだ。
“彼らはどいつもこいつも平凡な人間の寄せ集め。大した能力も、才能もない。人生の目的もない。ただ毎日をだらだらと生きているだけ。いつもとほんの少し違う日常が起こるとすぐ興奮する。小さい奴らばかりだった”
そう言ったMr.Sの言葉をクインは思い出した。
小さい人間ばかりだからこそ、マットに簡単にそそのかされたのだ。
メルのジンクスを感じることができる才能を利用してメルに不運のジンクスを感じさせる、
ただ思っているだけでメルが学校に来なくなるのだから、小さい人間がやりそうなことだ。
きっとメルのことを疎ましく思ってはいるだろうが、直接嫌がらせをするほどの度胸はない奴らだろうとクインは考えている。
クインは正直なところマットと同じくらいメルのクラスメイトに対しても嫌悪感を抱いていた。
きっとメルが学校に来ないことでいつもと違う日常を楽しんでいたのかもしれないと思ったからだ。
誰かひとりが不幸に合っている、そのことで教室が今までの教室とはまるで変わる。
冷たい対応をして満足しているような奴らに怯えるなんて馬鹿らしい。
メルもきっと、そう思ってきているはずだ。
「クイン、何ぼーっとしてるの?」
クインは驚いて後ろを振り向いた。
エレナがにやにやしながらクインを見つめていた。
「びっくりした。おはよ、エレナ」
「おはよ。こんなところでモタモタ歩いていたら遅刻するわよ」
クインは学校へと続く並木道にいた。
確かに、周りを歩く生徒たちは皆クインの脇を走って通り過ぎていく。
「早く行こう!クイン」
エレナはそう言って走り出した。
クインは首をかしげてエレナの後ろ姿を見つめた。
(今日のエレナ、なんだか上機嫌だわ)
クインは教壇の前に立つその男を見てわかった。
朝からにやついていたエレナの顔の真実が。
(そうゆうことだったのね)
「今日から私たちのクラスの新しいメンバーになった・・・ごめんなさい、名前何だったかしら」
男は低い声で答えた。
「ゴウだ」
クインは笑いをこらえるのに必死だった。
この教室にいるクラスメイトだけではない、先生までもがみんな同じことを思っていることがわかったからだ。
(どう見ても、こんな老けた高校生いないでしょ!)
教壇の前に立つゴウにみんなが釘付けになっていたが斜め前に座っていたエレナだけは後ろを振り向いてクインに、笑顔を作った。
クインはそんなエレナを見て、今日のMr.Sへの報告が待ち遠しくなった。
エレナのこんな楽しそうな顔は久しぶりだったからだ。
(これからきっともっと楽しくなる。きっと)
そうしてクインとエレナがいたずらを楽しむ子供のように笑い合っていた頃、ゴウはひとり教壇の前で小さなため息をついた。
“復讐なんて止めなよ”
どうしても脳裏から離れない。
笑いながらそう言ったエレナの姿が。
あれは軽く言った言葉じゃなかった。
エレナにはわかったのか。
俺の危機が。
なのに、簡単にごまかした俺は・・・父親失格だな。
もう足も手も動かない。
でも、エレナに伝えたい。
うん。もう復讐なんてやめる。エレナの父親にもどるよ。
真面目にこれからは働くよ。
そう伝えたいのに。
もう、それもできない。
ごめん、エレナ。
「罪滅ぼし」
あれ?こいつ
「罪滅ぼし?」
「そう。それが俺の願い」
こいつ、わからない。
こいつの考えていることも性格も今までの生き方も全部。
「どう?気に入らない?」
もしかして、こいつ
「いや」
人間じゃない?
「気に入った」
でも私にはわかる。
これは本当におもしろくなりそうだ。
「俺はゴウ。あんたの名前は?」
エレナ、君の日常を私が変えよう。
きっとこれから楽しくなる。
今はまだ悲しみに暮れていても。
きっと。
「私はショーン。世界一の詐欺師。これからよろしく、ゴウ」
それが私の罪滅ぼしなのだから。