自転車の荷台

文字数 1,868文字

 高校に入学してまもない頃、佐久間が帰宅しようと駐輪場に向かうと、佐久間の自転車の隣に停っている自転車に女子が座っていた。彼女は自転車の荷台に横向きで座り、その隣の自転車にまたがっている女子と話し込んでいた。
 佐久間が近寄ると彼女は「ごめんなさい」と言い、慌てて荷台から飛び降りた。座っていた自転車を佐久間のものと勘違いしているであろう彼女に向かって佐久間は「いや」と無愛想に応え、自転車の鍵を手早く外すとその場から走りさった。
 佐久間が彼女を見たのはその時が初めてで、その後も彼女と出会うことはなかった。それでも、遠くにいる彼女を見かけることはまれにあって、そんな機会を佐久間は望むようになっていた。

 佐久間は本屋の棚に並んでいる文庫や新書の背表紙を眺めるのが好きだった。真新しい本が整然と並んでいるのを眺めていると時間が過ぎるのを忘れた。図書館へもよく通った。棚から選びだした本を日当たりの良いベンチで読み、時間が来るときっちり元の棚に戻して帰った。本を借りて帰ることはなかった。誰が触ったのかわからない本をカバンの中に入れることに抵抗があった。持ち帰ったこともあるにはあったが、借りてきた本を自分の部屋で開くことはできなかった。佐久間はそんな自分を変わり者と自覚していて、人との関わりを諦めているところがあった。


***


 何かしていないと「もったいない」と言われる高校生活は、佐久間にとって居心地のわるい時間だった。
 二年生に進級すると、佐久間と彼女は同じクラスになった。
 彼女は学校の行事を楽しそうにこなした。その上、成績も良かった。
 夏休みが明けると学校中が学園祭の準備に追われはじめた。学園祭は体育祭、文化祭、展示会の三部構成になっていて、彼女は体育祭の応援団に入って忙しそうにしていた。
 雑用係の佐久間が展示会の材料を買いに行くよう頼まれたときだった。
「あたしも一緒に行く」と言って彼女が佐久間についてきた。
「たいした量じゃないから一人で行ってくるよ」佐久間がとっさに応えた。
「迷惑?」
「そんなことはないけど」
「じゃ、一緒に行きましょ」笑顔の彼女に佐久間はそれ以上何も言えなかった。
「自転車は乗れない」という彼女の横を佐久間は自転車を押して歩いた。買い物をすませた帰り道、間がもたなくなった佐久間は「二人乗りしちゃう?」と彼女に声をかけた。
「ほんと? ありがとう」
 嬉しそうに言う彼女を見て安心した佐久間がサドルにまたがると、彼女は荷台に横向きに座った。
 自転車は勢いよく進み、学校の前を通るバス通りに出た。歩道が狭いので佐久間は彼女を乗せたまま車道に出た。
「ええっ! 普通、女の子を乗せて車道に出ないよ」
「わるい、ほんのちょっとだから」
 怒るというより笑っている彼女につられて佐久間も笑顔になって、二人を乗せた自転車は校門までの短い距離をあっという間に走り抜けた。
 結局、佐久間と彼女がまともに会話をしたのはこのときだけだった。高校卒業後、彼女は国立大学の理系学部に進み、佐久間は文系私大に進んだ。


***


 大学を卒業した佐久間は就職を機に一人暮らしをはじめていた。社会人になって一年が経つ頃には、春の陽気は身体をだるくさせるものなのだと気づいたり、冷蔵庫の余った食材を使い切ってはホッとするような生活を送っていた。毎日がたんたんと進んでいった。それは佐久間が望む生活であった。そんな佐久間の頭の中に、自転車の荷台に座る彼女の姿だけは残りつづけた。
 暑い夏も終わりがみえてきた頃、佐久間はどうしても我慢ができなくなり、彼女にメッセージを送った。

 待ち合わせの日、午後から降り出した雨がなかなか上がらず、佐久間は大きめの傘をさして出かけた。
 再会した二人は食事をしながらお酒も飲んだ。会話がはずんで今までほとんど会話をしてこなかったことを二人して不思議がった。
 店を出ると雨は上がっていた。彼女の最寄り駅から彼女の家まで二人して歩いた。信号待ちをしているとき、ふと目があってそのままキスをした。何でこんな自然なことに八年もかかってしまったのだろう、そう佐久間は思った。
「ごめん」佐久間は謝った。
「謝らないでよ」
「ごめん、いや、傘が当たってなかったかな、と思って」
「だいじょぶ」彼女は安心したような顔をして佐久間の腕に自分の腕をまわした。彼女の自宅につくと佐久間は簡単な挨拶だけして駅へともどった。

 その日以来、佐久間は彼女に連絡をしなかった。それでも、自転車の荷台で驚いた顔をしていた彼女の顔をいつまでも忘れることはなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み