第1話

文字数 5,798文字



1
二藍色(ふたあいいろ)の霧のなかには、白妙の手を無数に伸ばした太陽がくすみ、宙には幾つかの硝子玉のような光りが散らばっていた。足下から遥か先に見えるのは、艶麗(えんれい)な色彩に萌えている花々がひとつの秩序のなかで、自由でまどかな遊戯に散らばり、咲きほころんでいる姿であった。ここかしこからは、ハーブのような音色が聴こえるが、その弦の収縮と弛緩の透きとおる響きに耳を澄ませていくと、泉が湧きいづる音が聴こえてきた。髪の長い青年は、その音に胸が、素直に高鳴り、居ても立ってもいられず、全身全霊で、飛び込んでいった。


その音の湖水を慄(おのの)くほど感じながら、泳いでいくと、不可思議に明滅する霧の向こうに、自分の背丈より、少し高い、一本の木が霞んでみえた。髪の長い青年が、さらに手足を蛙のように動かしたり、海老のように、水を蹴り、すうすうと伸ばして、近づいていった。とうとう一本の木を間近で見えるようになったが、紋様が刻まれた7つの玉が埋め込まれており、その玉が車輪のように回転をして、時々、強く光を放っていた。


この一本の木に、手招きをされているような気がして、青年は、一本の木が生えている、人が七人ほど立てる小さな島に、湖水に濡れて溶かした心身のまま立った。立つと水滴がぽつんぽつんと落ちたり、垂れたりしていくが、落ちたり、垂れたところから、小さな光の粉を漂わす花が咲くので、髪の長い青年は、非常に驚いたが、それにも増して、この一本の木に魅了されており、是非、この一本の木と抱擁したいと思った。そして、いよいよ手が木に触れそうになったときに、どうしたことか、木は、明滅する霧を切り裂いて、離れていくのであった。


再び湖水に浸かった青年は無我夢中で、木を追いかけて、泳いでいき、いよいよ触れそうになると、また、離れていく次第。髪の長い青年は、もう阿呆になってしまって、それをしばらく続けていくと、木が、光の火花のようなものを散らばらせ、それが、一度まあるい形をとってから様々な形や光彩に変幻した。すると、空間が歪みはじめた。その歪みに生じた、極彩色の渦巻きに、自ら、木が、入っていくではないか。青年も、ただ一縷の果敢でなおも果敢な覚悟をして、「行くぞ!」と叫び、飛び込んでいった。それにしても、覚悟というものは、いくら誇り高く果敢な覚悟であったとしても、時々、ほんの僅(わず)かばかりの天然というものに、あっけなく破れてしまうものだ。

2
髪の長い青年は気が付くと、森のなかにいた。木々の隙間から、こぼれてくるあの白妙の光が、青年の頬に集まっていた。髪の長い青年は、意識を取り戻していったが、あの不可思議な体験もそうであるが、それよりも木を見失ってしまったことに、はじめは、無気力になってしまうほどのショックを受けていた。しばらく、息の仕方さえも忘れてしまうほど、身動きが取れなかったが、鳥というべきか、鳳聲(ほうせい)というべきか、とある神秘的な鳴き声によって、青年は、その身体中の神経というものに、再び、力を加えられるようになった。それから、青年はこのように、囁(ささや)いた。


「そう、あの不思議な木…、不思議な木をなんとしても、見つけるんだ!あの木に、あの木にこそ、まったき愛の国にある秘密が隠されているのだから」


それから青年は、手のひらを一度強く握りしめてから、鬱蒼とした森の落ち葉に手をついて、そのあとは、ひょいと、立ち上がった。それから、森の奥へ、奥へと、走っていった。そうして、枝葉をかき分けたり、獣道のような荒れた細い道を通っていくと、不思議な光が目前を一度横切っていき、そのあとは、東の方角へ消えていった。青年は、普段散らばる長髪を、さほど気にしてはいないが、この時だけは、けったいなものだと感じた。青年は、この光から、あの木のような温もりや香りを感じたのだった。そして、さらに、青年は森を東へと進んでいくのであった。


3
森を東に進んでいくと、やがて、白妙の光に包まれた麗らかな草原に出た。そこでは、休んでいる者達もいれば、鳥のように宙を自由自在に飛び合い、楽しんでいる者達もいた。青年はそのうちの休んでいる者達の一人に声をかけた。


「すみません。お伺いしても宜しいですか?」


「はい」


「先ほど、光のような、木のような存在がこの辺りを通過しませんでしたか?」


休んでいる者達の一人がこう言った。


「この辺りでは、よく見かけることなのです。あの森から出られたということは、きっとその存在は、ここから、南東に向かわれたのかも知れません。」


自分の言動を信じきっている青年の表情を見て、さらに、休んでいる者は、こう続けて言った。


「ですが、あくまでもこれは、統計的な推測からきているもの。確かなことは、分かりません。この辺りでは、光のような存在は、よく見かけることですし、あなたの求めている光、その光かどうかは、分かりません」


髪の長い青年は、依然として情熱が冷めない様子で言った。


「ありがとうございます。南東に向かってみます」


確かに、南東の方角から、先程の光の痕跡があることを青年は感じたのである。それから、髪の長い青年はこの場所は一体どこなのか、何なのかということは、気にかけることもないまま、草原を南東に向かっていくと、途中、水晶のように煌めく川や虹色の滑り台などがあるのが、見えた。どうやらここでは、天使達が遊んでいるようだ。しかしながら、青年は寄り道をしようとする心を少しも起こさずに、光の痕跡をたどっていった。すると、七色の山が奥の方に見えてきた。そうして、青年は思った。この山に、きっとあの木の手がかりがあると。


4
青年は山の麓にいた。山はどうやら、おおまかに赤色、橙色、黄色、緑色、青色、紺色、紫色とだんだんと変わっていくようであった。髪の長い青年は、どんどん登っていった。登る度に、それぞれの色のエッセンスが自分自身の内分泌腺に流れ込んでくるのを感じて、みるみるうちに青年は、健やかで元気になっていった。そうして、とうとう山の頂上に登っていったが、そこに、強い光が差し込んでいて、それがタワーのようになっている。青年は、そこに飛び込んでいった。そこははじめ無重力になっていて、身体が浮いたのであるが、脳下垂体を通して力が加わり、そこからいっきに回転しながら、遥かな天空へと吸い込まれていった。あまりの激しさと轟音に、青年は気を失いかけるほどであった。そうして、不可思議な勢いが落ち着いた頃には、クリスタルの城の前に、青年はいた。城のなかには、はっきりとした光があるのが分かり、あの不可思議な木があることが、直ぐに分かった。青年は城の庭園を走っていき、大きな扉まで向かっていき、扉を強い想いと切実な声で叩いた。


「お願いします!この扉を開けて下さい!お願いします!扉を!!」


これをしばらく、続けていくうちに、青年は疲れ果てて眠ってしまった。


5
鳳凰のような存在が、その雅やかな光をこぼしながら、神の全能を讃えるかのように飛翔している。青年は、そのあまりの美しさに我を忘れ昂揚(こうよう)し、涎を垂らしてしまうほどうっとりとしていた。その鳳凰のような存在が近づいてきて、青年に言った。


「我は鳳凰と呼ばれている。若き青年よ、そなたの憧れの力によって、そなたは未だかつてない世界と出会うことだろう。そなたは得難い目標を見つけた。だが、時には、その目標を忘れなければならない」


「鳳凰様、わたしにはもったいない、お言葉をありがとうございます。鳳凰様、少し疑問があります。何故目標を時には、忘れなくちゃならないのですか?」


「青年よ。夢に、囚われてはいけないよ。夢を生きなさい」


髪の長い青年は、分かったような、分からないような気がしたが、薫陶され、元気になってきたのは事実であるから、いつかその理由を知るときがくるだろうと、前向きになった。


「ありがとうございます。夢を生きます。」


そうして、鳳凰は一度、琴のような清廉(せいれん)な声で鳴いたあと、遠い彼方へ、また、飛翔していった。


青年はそれを焼きつけるかのように眺めていたが、ふと、我にかえった。これは、夢だ。


6
青年は、クリスタルの城の扉の前で、目を覚ました。目を覚ましていくときに、夢で鳳凰から言われたことや鳳凰がこぼしたパワーが刻まれているのを感じ、じんじんと噛み締めた。目には太陽のような力が入ったように感じた。青年は起き上がり、再び、言葉を祈るように、言った。それは、小さく、ぼそぼそとしているが、何よりも、透明な声だった。


すると、大きな扉が、開いた。


青年は、城のなかに入っていくと、すぐに、あの木が見えてきた。


今度は不思議な木から話しかけてきた。


「汝よ、何故、我を追いかけた?」


髪の長い青年は言った。


「はじめは、あなたこそ、愛の国の秘密を知っている御方と、思ったからです。ですが、今は違います。あなたは、わたしなのです。そして、わたしは、あなたです。」


「そう、それが愛の国の秘密」


「どうやら、そのようですね」


すると、青年と不思議な木は、突然、磁石のようにくっつき、ひとつに溶け合っていった。そうして、木は、はじめは、青年の七色の翼になって、この天地を自由自在に、飛翔するようになったと思ったら、女神のような天女のような女性に変わり、金粉なるときめきのなかで、青年と抱擁し、青年の額に女神は接吻をした。青年も、その愛に呼応して、手を取り、二人で、閑雅(かんが)な舞いを舞うのであった。二人が舞いを舞えば、世界は余すところなく輝きを増していき、かつてない美しい旋律とハーモニーがこの世からあの世まで包んでいった。


「ああこれこそ私達が求めていた浄福なエクスタシー」


「愛の国が幕を開けました」


「いつまで踊っていようか?」


「いつまでも踊っていようよ」


「うふふ」


「ああもっと感じ合い、違いを分かち合い、もっと高め合おう」


「この平安があらゆる地を埋め尽くすまで」


「あなたの名前はアミス。わたしはソラ」




7
七色の山から南に進んだ、極彩色の噴水のように泉が湧き出ている草原の近くで、髪の長い青年ソラは、女神になったアミスと共に、常日頃という愛の国を過ごすようになった。なんでもないような出来事や言葉が黄金(きん)のように輝いたり、あるいは、翡翠(ひすい)やラピスラズリというものであって、そういうものが分かるでしょう、兎に角、まあ日蝕のメリーゴーランドのように神秘的でもあった。全ては一体となり、ひとつだった。無関係なものや不協和音というものは、なにひとつないことが、沁々、切々と感じる機会が少なくなかった。


たとえば、世界が一篇の詩のように、ひとつひとつの言葉やその語調というものが、繋がり合い、連動したり、モニュメントのようになったり、見事に咲いている花々や木々、小鳥の囀ずりや川のせせらぎのようになり、その極小と極大、交じり合う色彩の変化などを楽しまずにはいられなかった。こんなにも繋り合い、躍動している、これはひとつの体であり、心であり、まさに、一本の木のようだ。あなたが痛むなら、わたしも痛むことであなたの痛みは半減し、わたしが喜ぶなら、あなたも喜び、喜びが大きくなる。なんだ、こんなシンプルなことだったのか、愛というものは。愛は膨らむものである。もしも障壁があるようならば、この二人の愛の力によって、燃やしてしまうだろう。地獄のような困難があるならば、愛の力と知恵によって、その暗闇の真ん中から、煌めいて道を照らしだし、乗り越えて、毒さえも栄養分として変化させ、肥やしにしてしまうであろう。それは、かの英雄のようでもある。この世界では、愛が玉座に座る。愛が王である。王は、同時に、総合に仕えるものである。恐れや不安は賢明さに、悲しみは慈悲に、怒りは秩序に変態(メタモルフォーゼ)していく。もしも地獄の霊が来たとしても、癒されて、天使に変わっていくだろう。本当の錬金術である。絶対なる空間があるとしたならば、それは愛の力でその世界を創造されるであろう。もはや、愛は全てを可能にする最大の秘儀である。


二人の命の音楽には、静謐な泉のような和音と燃えて高鳴る沈黙があり、それらが呼応して、呼吸し、自由にその音階と詩にある黄金の群れを召還し、見事な歌や旋律を奏でられる魔法を有している。もはや、二人が泣けば、天から光のダイヤモンドのような雫が舞い降りて、泣きやむ頃には、虹が架かり、二人が笑えば、太陽の薔薇が輝きを増し、二人が詩を歌えば、それは預言となり、必ず、実現していくのだから。


これから、何が起きるであろうか?
そう、新たな命が産まれようとしている。
愛は、創造力となり、創造からやがて独創が生じる。
もはや、産みの苦しみさえ、可愛らしいものだ。


『二人は太陽と月のよう』


二人は
太陽と月のよう
あなたは朝を告げて
いきとしいけるものたちに
分け隔てなく力を能え
金粉なるあなたに高鳴り
鳥達は囀ずり
閉じていた花びらも
微笑み顔を出す
そうして
薔薇色の黄昏で
皆に手をふり
泰平の祈りを捧げ
神秘な夜には
あなたの愛と
わたしの星の力で
暗闇の世界を優しく照らし
いきとしいけるものたちに
安らぎと憩いを授ける
雲や星達のドレスも着て
子守唄を歌い
皆の夢のなかに
そっと忍びこんで囁(ささや)く
時々、私達は
ひとつに重なり合うように
見えるけれども
本当は
いつもひとつなのですよ




8
髪の長い青年ソラは、少し長い瞑想や観想が、ようやく終わった。明日は、ついにピアノのコンクールである。先程、完成したばかりのオリジナルの楽曲のフレーズが頭の中で流れていくなか、一度、水を飲もうとして、ベッドから起き上がった。背中がムズ痒くなったので、しわや織り目が、定めなく広がっているシャツの上から、ぽりぽりかいた。それから、足を青い絨毯の上に、裸足で乗っけたあと、グゥーっと背伸びをして、あくびをひとつした。こちらの世界とあちらの世界がまどろんでいるなかで、歩き出し、少し散らかった小さな自身の部屋のドアノブに手をかけた。手をかけてみると、不思議な木や鳳凰、女神となったアミスとの体験などが走馬灯のように、頭を駆け巡った。心情が天国のようになって、手には、いつも以上のパワーが加わっているのが分かった。そうして、青年は、ドアを開けた。


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