トンネル・エフェクト

文字数 1,898文字

私は甘いものが苦手だ。

クライアント先の近くにあるカフェ。
暇そうにスマホをいじる女子大生、新聞を広げた老人、客は常連しかおらず、いつも程よくすいている。クライアントとの定例ミーティング前の時間潰しには助かっている。

気に入らないのは店の主人が決まって人気1位の黒糖ラテを勧めてくることだ。断れずに毎回それを頼んでしまう自分のことはもっと気に食わない。

甘いな。

苦手な甘いコーヒーを飲みながら、ふと店内を見渡す。薄暗い照明の下、木製のテーブルと革張りの椅子が、どこか懐かしい昭和の香りを漂わせていた。壁には、ひび割れた絵の具が味わい深い、古びたトンネルの絵が飾られていた。その絵は、まるで暗く深い洞窟の入り口のように、見る者を吸い込むような不思議な魅力を持っていた。

眼鏡を外し、目頭を押さえて深いため息をつく。あと数ヶ月で締め切りを迎えるこの案件は、まるで崖っぷちに立たされているようだ。クライアントとの関係は悪くはないが、上司からのプレッシャーは日に日に増している。「自分の殻にこもらずに、もっとクライアントに情熱をささげろ。クライアントを好きになれ。」

正直勘弁してほしい。

残ったコーヒーを胃に流し込み、店を出た。

***

仕事でクタクタになって帰り、泥のように床についた。

気が付くと目の前に広がる光景はカフェでみた絵画のそれだった。

「黒糖眼鏡さん。」

自分のことを呼ばれたと理解するのに一瞬かかったが、よくよく考えると自分は黒糖眼鏡以外の何者でもないのではないか。
振り返ると件のカフェで見かける女子大生が立っていた。

「ごめんなさい。勝手にそう呼んでました。夢だから許してね。甘いもの好きなんですか?」

「甘いものは苦手だ。」

「じゃあなんでいつも黒糖ラテ頼んでるんです?!」

「店主が強引に勧めてくるんだ。」

「そうなんだ。私はあのカフェ気に入ってるんですよ。いつも3限の空きコマの時に勉強してて。」

「スマホばかりいじってて勉強している所など見たことないが。」

「真面目そうな顔して、私の事結構見てるんですね!」

真面目なことは取り柄だ。仕事も卒なくこなすし、同期よりも成績も良い。新しいプロジェクトも任された。しかし周りから真面目と言われる自分は嫌いだった。

「このトンネルの先はどこにつながってるんでしょう?」

女子大生はトンネルを覗き込む。石造りのトンネルには苔がはえ、いかにもな雰囲気を醸し出している。中は真っ暗でトンネルの出口は見えない。

「あまり近づくな。今にも崩れそうだ。」

「慎重なんですね。夢の中くらい冒険してみたらいいのに。」

確かに高いハードルはくぐって通り抜けるタイプだ。

「黒糖眼鏡さんは、トンネル効果ってご存じですか?」

「トンネル効果?」

「トンネル効果は、量子力学の世界で起こる不思議な現象のことで、粒子が波の性質をもっているので、本来超えられない壁をまるでトンネルを掘ったようにすり抜けてしまうものなんですよ。」

「なるほど、さっぱりわからん。」

「太陽が核融合で輝いているのもこのトンネル効果のおかげなんですよ!」

「小難しい話だ・・・。」

「こう見えて一応理系なんですよ?黒糖眼鏡さんは眼鏡のくせに意外と物分かりが悪いんですね。」

大きなお世話だ。

「人間も一緒。案外高く見える壁も、するっと確率でうまく通り抜けることができるかも。」

「私には到底できる気がしないけどな。その量子力学とやらの世界では、人間そんなに簡単に変われるものなのか?」

「量子力学では説明できないですが、人間の一生程度の長さでは人間を本質は変わらないと思いますよ。三つ子の魂百までって言うでしょ?ただ、人間の行動は変えられます。」

「行動?」

「人は何者にもなれないし、何者かになる必要もない。何をしてもいいし、何もしなくてもいい。でも、私はトンネルの先が気になるので行きますね!」

そういって彼女はトンネルの中へと走って行ってしまった。
私は夢の中でさえも、ただただ立ちつくすことしかできなかった。

***

1週間後、私はいつものカフェに来ていた。

「いらっしゃい。ご注文は、いつもの黒糖ラテかな?」

ふと心に引っかかるものがあり、私はそれを注文した。

「今日は暑いのでアイスコーヒーを。」

アイスコーヒーを待ちながら、もはや自分の席と化している窓際のソファーに腰掛ける。
よくよく考えると暑いからアイスコーヒーを注文するとは、理由になっているようでなっていない。
そもそも好きなコーヒーを頼むのに理由なんて必要ない。

「今日は黒眼鏡さんですね。」

振り返ると笑顔の彼女がそこにいた。

「甘いものは苦手だからな。」

初めて飲むその店のアイスコーヒーはほろ苦い味がした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み