本編

文字数 9,427文字

 その人は、目を惹くひとだった。彼は灰色の街に立っていた。人混みの中でどこか遠くを見つめている。まるで異邦人のように。
 彼の瞳は冷たい灰色。怒りとも悲しみとも思えるその冷たさに魅せられて、私は彼のことを知りたいと思った。

 二十歳になったばかりの青年・ポリドリは、詩人として有名な貴族・バイロン卿の主治医をしていた。医業を継がせたい家の都合で性別を偽っているが、雇い主は今のところ気付いていない。
 社交界において、容姿が良く、話の上手いバイロン卿は注目の的だった。立ち居振舞いが洗練されており、若い貴族男性の友人も多いが、特に貴婦人がたに好まれており、彼もまた恋愛を好んだ。
 ポリドリは黙って立っていた。自分のような身分の者が会話に入る――でしゃばると、上流階級の人々は白い目を向けるから。
 ロンドンは冬だった。馬車に乗るとバイロン卿は無口になる。友人たちと楽しげに笑っていた先程とは別人だ。彼女には彼が悲しげに見えたが、話の糸口は掴めそうになかった。

 ポリドリはバイロンの館に住み込みで雇われている。ある寒い日、社交場から帰って少し休んだのち、廊下に出ると、遅れて戻っていたバイロンと顔を合わせた。彼は機嫌が悪いようだった。
「別にお前でも良いか……」
 ポリドリは壁に押し付けられた。動揺と同時に、彼の冷たい手が肩に触れ、襟飾りを捲った。しかし、彼は違和感に気付いた。
「……女の子?」
 バイロンはしばらく硬直したまま首を傾げていたが、やがてポリドリから手を離した。
「すまない。驚かせてしまって」
 謝られたことで、ポリドリは落ち着きを取り戻した。とはいえ、傍目にはそれほど動揺していないように見える。なぜなら、それは自分の置かれた状況を理解していないためだった。
「どういうことですか? 何か僕に不満でも?」
 バイロンは虚を突かれた。どうやらこの子は自分に言い寄る多くの女たちとは違うらしい。
「…………いや、何でもないんだ」
 彼は気まずく思いつつも、彼女の素朴さに微笑して立ち去った。

 バイロン卿はよく近郊の街へ出る。街のあらゆる娯楽を一通り楽しむと、たいてい賭場に行った。そこにいる本場のいかさま師には及ばないが、彼はトランプ賭博が得意らしかった。しかし、持ち金を使い果たしそうな弱った男、人の忠告を聞かない若い貴族の青年、貧しいながら家庭を持っている父親などに対しては、容赦なくその金を奪い取った。
 彼は賭場を後にした。暗い空のもと、街灯が橙色の光を照らす通りでは、うずくまっている貧者のそばや家庭の扉の隙間に戦利品の金貨を投げ込んだ。後ろを離れて付いていたポリドリは居ても立ってもいられなかった。彼女は低い声で言った。
「そんなことはやめましょうよ。貴方が何故そんなことをするのか解りません」
 それを聞いて、彼は持ち上げてぶらぶらさせていた杖を降ろし、足を止めた。
 沈黙の後、
「……君が言うのなら止めてあげる」
 振り返った彼は淋しげに笑っていた。

 翌年の春、バイロン卿は異母姉との恋愛と、同性愛の噂を社交界から責められ、イギリスから国外追放されることとなった。表向きは自主的な退去だが、実際には追放といっても過言ではない。ポリドリには仕方のないことではあると思えたが。
 彼女の目にはバイロンが特段気に病んでいるようには見えなかった。彼はポリドリに、
「今回の件だけど、君も付いてくるかい?」
 と同行を持ち掛けた。彼の片足には障害があることをポリドリは知っていた。
 構いませんよ、と彼女が返すと、彼は喜んで支度の終わっていない部屋に戻った。

 当日、バイロンはポリドリの他に友人を二人伴った。空は柔らかな色で、晴れやかだった。ポリドリは彼らの輪に入らず離れて歩く。医者の”彼”がバイロンと詩や人物について親しげに話すと、身分のためか彼らは良い顔をしなかった。
 出発前に著名な風刺家の墓を訪れると、顔色の悪いバイロンは突然墓の上に寝そべった。友人たちは奇行に慌てたが、ポリドリは遠くから騒ぎを眺めていた。
 船に間に合わせるため、友人たちはバイロンの両脇を抱えて歩かせた。船長は、出航時間に間に合わないと怒っている。

 船が帆を張って港を出た。海岸が遠ざかっていく。大陸へ渡り、ライン川を遡って、彼の別荘のあるレマン湖へ向かう予定だ。道中立ち寄った土地ではナポレオンによる戦争の跡が残っていた。
 ライン川の渓谷には古城が建っている。曲がり角や浅瀬に注意して船は進んだ。バイロン卿は曇天に聳える城を眺めていた。

 レマン湖は生憎曇り空を写していた。同船していたスイス人のガイドが湖畔の小さな城を指さし、そこに囚われたある信仰者の話をする。バイロンは後でこの城を訪れることにした。
 友人二人とガイドに別れを告げ、船を降りて別荘へ入った。既に使用人たちが働いている。湖を見渡すことのできる、素晴らしいところだ。

 朝、薄い光が窓からカーテン越しに降り注ぐ。私は寝台の側の椅子に座っていた。バイロンは横になったまま天井を見上げている。口には紙巻き煙草を咥えていた。
「シガレット……ですか?」
「ああ、イギリスじゃ物珍しいだろうがね」
「葉巻にしないんですか」
 当時、イギリスでは葉巻が一般的であり、シガレット――紙巻き煙草は普及していなかった。
「そっちは好みじゃない。味が合わなくてね」
 小鳥の鳴き声がする。窓辺に鳥がとまったようだ。
「……どうして私と付き合おうと思ったの?」
 唐突に淡々と切り出され、彼は動揺して咽せた。彼は慌てて何か話そうとしたが、混乱してうまく話せないようだった。
「ほかの人にはどう言ったんですか?」
 と、口説き方について聞くと、比較的落ち着いて話し始めた。
「ああ、まあ、それは、君に会って初めて生きる気力を感じた――とか、君の声を聞いて長生きしたいと思った――とか、なんとか言うんだよ」
 私は無言で彼の溝尾を押した。ウェストコートを着て、彼の悶絶する声を無視し部屋を後にした。

 今年の夏は寒かった。雨が降り続き、天気が落ち着いても曇り空で、晴れることはほとんどない。暖炉が必要になる程で、雨が止んだ後に湖畔を散策するときバイロンは黒い手袋をしていた。
 彼は詩人として、新しい作品の執筆を続けていた。私は特別することもなく、屋敷にある小説を読んでいた。

 六月、訪問客が現れる。馬車から緑のドレスを着た女性が降りた。彼女は裾を上げて駆け、玄関へ出たバイロンに抱き付いた。
「……クレアモント?」
 彼の知り合いらしい。彼女は笑顔で後ろを振り替える。遅れて二人の若い男女が来た。
「二人とも駈け落ちしてきたの。匿って?」
 男性は詩人のパーシー・シェリー、女性はメアリー・ゴドウィンといった。彼女の義妹であるクレア・クレアモントはバイロンの子を身籠っていた。

 クレアは快活な女性のようで、まだ年齢相応の幼さがあった。バイロンが様々な女性に手を出していたことは知っていたが、頭が痛くなった。
 母体の状態を診たあと、彼女の義姉であるメアリーが遠慮しがちに私を訪ねた。彼女は私の性別がわかっていた。その若さにも関わらず、落ち着いた雰囲気の知的な女性だ。彼女は生後五ヶ月に満たない男の子を連れていた。以前にも出産の経験があり、自身の体調を不安に思っていたようだ。
 私はシェリーに良い印象を持たなかった。

 雨は降り続き、全く止む気配を見せない。日は差さず、まるで夜のようである。ドイツやフランスから取り寄せた幽霊物語を読んで過ごし、バイロンが『クリスタベル』の一節を暗誦すると、シェリーはその物語を聞いて想起した幻覚――胸に目のある女性――に怯えて部屋を飛び出した。
 夕方になると、クレアは赤子と一緒に寝てしまった。その場に残ったのは四人だけだった。
「それぞれ一つずつ怪談を書いてみるのはどうだろう?」
 バイロンの提案に全員が乗った。

 話の思案中、気晴らしに客間へ入ると、バイロンとシェリーが椅子に腰掛けて話し込んでいた。間に机を挟んでおり、バイロンの隣には一つ席が空いていた。私はそこに腰掛けた。
 話の最中、幾度かシェリーに決闘を申し込んだが、彼は理由がわからず怯えていた。
「では僕が引き受けようじゃないか」
 射撃の名手であるバイロンが微笑む。
 彼の目を見て、少し逡巡したあと、私は目線を反らし話を取り下げた。
 メアリーとクレアは空いた扉から様子を見ていたが、メアリーは困惑していた。部屋に残っている私に対して、クレアが裾を上げて駆け寄り耳打ちした。
「メアリーのことでお怒りなら、ちょっと違いますよ。彼女が子供を欲しがっていて、二人とも相談の上で決めていることですから」
 私は懸念が杞憂だったと知り、何も言えなくなった。

 後日、シェリーから、私の在籍していたエディンバラ大学での解剖について質問された。
 態度が少し柔らかかったのは、メアリーかクレアから私の性別について聞いたからかもしれない。
 私はそこで見聞きしたことを話した。講堂で衆目のなか行われる解剖、検体の違法な確保――墓泥棒について。
 いくつか解剖を見学して、人間は皆同じ臓器を持っていることを知った、そう言うと、彼はこんなことを言った。
「そういう話を聞くと――人間とは単なる機械に過ぎないのかもしれない、と思うことが僕にはあるのだけど、君はどうだい?」
 その場で明確な答えは出せなかったが、私は人間には、機械的な人体の働きや理性とは違う別の情動があると思わずにはいられなかった。それは私の経験だった。

 蝋燭の灯っている、暖炉のある部屋に集まっていたとき、シェリーが思い付いた怪談を披露した。
 彼の幼少期の話だ。夕方、草の生い茂る野原を探索していると、小さな湖の畔に白い幽霊が見えた。恐る恐る近づいてみたところ、それは萎れた白い花だった。
 微笑ましい話だが、怪談としてはどうなのだろうか。彼は散文より詩の方が得意らしく、この話を整えた作品として書き残すことはなかった。

 次にバイロンが語り始めた。彼は原稿を持っていない。
 ある青年が年長の男と旅に出る。青年はその男のことに興味を惹かれていたが、近づいても彼の心持ちを知ることはできなかった。
 旅先であるギリシャの遺跡付近の、イスラム教徒の墓場で、男は病に倒れる。青年は瀕死の男に頼まれて約束を交わす。指定の日時に、指環を泉に投げ入れること。そして、彼の死を誰にも言わないこと。
 青年は彼を看取り、国へ帰るが、社交場には死んだはずの男がいた。男は青年の妹に接触する。
 ここまで話して、バイロンはこちらに目配せをしてきた。
 内心、私は激昂した。私には妹がいた。どういうつもりだ? 用意していた原稿はあったが、それを元に即興で意趣返しをすることにした。

 あるところに愛し合い結婚を誓った男女がいた。彼らは結婚当日に同じ館で過ごすが、男は女に、自分の部屋の扉を決して開けてはならない、と言った。
 彼女は悩んだ末、鍵穴から部屋の中を覗いてしまった。そこでは男が着替えをしていて、胸のコルセットを露わにしていたのだ。彼は女性だった。
 約束を破った罰として、女は頭を骸骨に変えられてしまった。

 ここまで語って、私は結末に迷った。少し考えたあと、かの有名なジュリエットと同じように、彼女をキャピュレット家の納骨堂に送ることにした。
 バイロンは無言だったが、結末を聞いて、
「なんとも恐ろしい話だ」
 と笑って言った。
「君は? お話は出来たかい?」
  彼はメアリーに話を振ったが、彼女は難しい顔をして、
「いいえ」
 と言った。突然私たちが話し出すものだから当然だ。クレアも眠そうにしているので、この日はこれで解散した。

 翌日は比較的天気も良かったので、バイロンとシェリーは舟で湖畔の小さな古城へ出掛けることにしたようだ。君も来ないか、とバイロンは言ったが、私は断った。
「なんだ、つれないな……」
 この時から彼はよそよそしくなった気がする。
 メアリーとクレアは、使用人に空けてもらったキッチンで焼き菓子を作っていたので、私も少し手伝いをした。二人とも血は繋がっていないが、幼い頃から仲良くしているそうだ。クレアは出来上がった菓子をよく食べた。

 バイロンとシェリーは度々長時間談義をすることがあったが、この日は生命の本質、生命の原理について論じていた。メアリーは内容にじっと耳を傾けていた。私は医学的な質問について簡潔に答える程度で会話に加わった。

 七月の後半、メアリーがお話を思い付いた、と言うので皆集まった。
 彼女は恐ろしい怪物を生み出した博士の話をした。博士は科学によって怪物に生命を与えた。実験の結果に怯え、疲れて寝ている博士の上に、白いカーテンの隙間から悲しげな怪物の視線が注がれる。
 博士は恐怖のあまり館を飛び出した。街で友人と出会って一時落ち着きを取り戻すも、彼は怪物を想起して青ざめ、震えを抑えられなかった。
「素晴らしい。素晴らしい出来じゃないか」
 バイロンは彼女を褒め称えた。私も同じ気持ちだった。クレアは話の出来に瞳を輝かせている。シェリーは目を手で押えて、誇らしげに微笑していた。

 八月の終わり、彼ら三人はイギリスに帰国した。バイロンはシェリーに出版する原稿を持たせた。馬車に乗る前、メアリーは手を振ってくれた。クレアは少し眠そうだった。
 その後も来客はあったが、彼は私に話しかけることが少なくなった。私は以前と同じように、ほとんど口をきかない医者に戻っていた。
 九月にはバイロンから主治医を解雇されることになった。お互い、合わなかったのだろう。
 給金と交通費を渡され、そのうち少しを旅費に充ててイタリアへ向かった。


 僕は彼女のことを日の沈まない白夜のようだと思っていた。その純朴で無垢な瞳は、幸せを運ぶ青い小鳥のようだとも。僕は彼女が家庭に囚われているのか、もともと自由に生きていたのかは知らなかったが、優しい彼女を自分のもとに捕まえておこうとは思わなかった。

 イギリスから来た友人とアルプスの山を馬で旅をし、イタリアではミラノやヴェローナ、ヴェネチアを訪れた。
 ヴェネチアは衰退期にあるとはいえ、運河と建築物は古典的で美しい。海鳥が飛んでいる。
 友人と橋の上に佇んでいると、ポリドリが階段を上ってくるのが見えた。僕は目を見開いた。
 これは運命だ。僕たちはミラノでも偶然に出会っていたのだから。僕はポリドリに話し掛けた。
 誰だっけ、と友人は呟いていたが無視し、以前訪れたことのあるエフェソスとサルディスの遺跡へ、彼女と旅をする約束を取り付けた。

 遺跡を訪れる前に、エーゲ海に面した町・スミルナへ宿を取った。
 スミルナの海辺には古く傾いた石碑があった。基壇は半ば埋もれており、古代都市の忘れ去られた栄衰を伝えている。
 君はこれを見てどう思う、そう彼女に聞くと、古代の奴隷の苦労が偲ばれますね、と返された。
「そうだな。古代ギリシャの栄光は奴隷たちの犠牲に支えられていた」
 僕は肯定し、彼女へ振替って、
「そして、それは使用人を抱える僕たち貴族も同様だ。医者の君には関係のない話かもしれないがね」
 と言った。

 よく晴れた日、案内人と三人の護衛を雇い、馬車に乗ってエフェソスへ出掛けた。随伴する駱駝が水を運んでいる。空気は乾燥していて、涼しい。
 道中、小さなモスクと、傾き放置されたトルコの墓石たちがあった。
 エフェソスの遺跡は広く、人を連れて隅々まで見て歩くのは難しい。雇った四人と我々の他には誰もいない。馬車から降ろしてもらい、大通りや劇場、ファザードを遺す図書館を眺めた。その上には鳥が巣を作っている。
 彼女は白く壮麗な遺跡を見て物珍しそうにしていた。
 引き返して、近くのモスクで井戸から水を貰った。護衛のスレイマンは駱駝に水を遣っている。これから宿に戻るか思案していると、彼らが”聖母の家”の跡地を知っていると言うので、馬車に乗って山へ向かった。

 馬車はどうにか山の狭い砂利道を通っているように見えた。とんでもないところに来たかもしれない、と二人で話していると、遂に徒歩の山道を案内された。歩きの方が安全だと思っていたので、ひと安心した。
 岩の転がる道を登っていく。彼女は特別困っていないようだ。四人も前方と後方に別れて護衛している。
 すると突然、発砲音がした。盗賊だ。我々は何とか岩影に隠れた。
 拳銃を取り出し、周りに目を向けると、護衛の彼らは何処にもいなかった。
 発砲音はまだ聞こえる。かくなる上は、自分が時間を稼ぐしかない。止める彼女をよそに、撃ち返そうと身を乗り出すと、上から四人のかけ声と格闘の音がした。どうやらいつの間に盗賊の背後へ回り込んでいたらしい。
「……出番、なかったね」
 彼女の前では、少し気まずかった。

 盗賊の三人は縛られていた。彼らに持ち合わせていた金貨をいくつかやり、縄を外してもらって解放した。
 山奥の”聖母の家”はほとんど原型を留めていないようで、小さな建物の壁が半分ほど残っているだけだった。彼女は帰り道で、思ったより大したことなかったね、と言っていたが、手を組んで祈ることはしていた。

 馬車の中で、スレイマンからトルコの短刀――ヤタガンを見せてもらった。柄と鞘に金で草花のような意匠が施されている。彼女は目を輝かせていた。
 日が沈み欠けてきたので、彼らのうち一人の持ち家だという小屋へ泊まることにした。
 我々に用意された部屋には寝台がひとつしかなく、僕は慌てたが、彼女はすぐに床へ敷かれた布団を見つけて寝てしまった。着替えはいいのか、と聞くと、あとで、と返事をして眠った。疲れているのだろうか。

 翌日、宿まで馬車で行き、そこで護衛の彼らと別れた。気の好い人たちだった。我々は窓から手を振った。
 午後、浜辺まで彼女と歩いた。日が傾き、エーゲ海は紺碧から橙色に染められていく。闇が訪れるなか、現れる星々は緩慢に運行していた。
 彼女は僕の横顔を見ていたらしい。何を考えていたのだろう。

 サルディスへ向かう前に、近くの城塞へ散歩をしに彼女を誘った。上り坂で強い雨に降られ、宿へ帰り着くと、彼女は熱を出してしまった。数日寝込み、サルディス行きは中止した。濡れた布で頭を冷やし、林檎を切ってすりつぶしたものを食べさせた。

 回復した彼女とヴェネチアへ帰った。しばらくホテルで別々の部屋を借りて過ごした。
 彼女に会いに行くと、彼女は僕を拒絶した。
「貴方はあるイタリアの侯爵夫人の集まりに出ているでしょう。貴方がほかの女性に手を出していないとは思えない」
 そう告げた声は低く落ち着いていて、口元は微笑を湛えていた。その上、こうも言った。
「それと、私が男性だったら、どうしていましたか?」
 僕は何も答えることができず、部屋を出ていく彼女を止められなかった。
 異常気象を迎えたイタリアは寒く、外に不気味な赤い雪が降り続いていた。

 途中、ポリドリは知り合いのいるスイスに立ち寄り、ある伯爵夫人に励まされて『吸血鬼』を書き上げる。それはバイロンが別荘で語った物語を下地にしていた。彼女は原稿を泊まった夫人の屋敷に残し、その存在を完全に忘れてイギリスへ帰国した。

 『吸血鬼』はバイロン卿の名義で出版された。匿名で原稿が出版社に送付されたのだ。
 編集者はともに送られてきた資料を参考にしてポリドリの元を訪ね、彼に出版の許可を取り、少額の原稿料を約束した。
 しかし、衰退していた出版社を再興するため、編集長が著名なバイロンの小説としてこの短編を発行した。
 ポリドリは手紙を出し、返答を求めて出版社を訪問したが、編集者に謝られるだけだった。
 せめて原稿だけでも手元に戻したいと、所有者となっていた夫妻に掛け合ったが、『吸血鬼』がお前の作品の訳がないだろう、とにべもなく返却を断られた。

 バイロンは『吸血鬼』が自分の作品として出版されたことに怒り、丁寧な文体ながら圧力を込めた抗議の手紙を送ったが、売り上げが好調だったためか無視された。

 彼女はノリッジで貧しい人々に向けた診療所を開いていた。医学を学んだ大学のあるスコットランドとイングランドでは開業に関する法律が違うため、再度試験を受け直して医師免許を取った。近くに住んでいる、孫に付き添われた高齢の男性が初めての患者だった。
 『吸血鬼』の件について、ヴェネチアで会おう、というバイロンの手紙が旅費と共に来たので、ポリドリはイギリスを出た。

「なんであんなもの書いたんだ……」
 バイロンはヴェネチアで、貴族以外の女性――パン屋や服地屋の女性の情夫になるなどして放蕩生活を送っていた。
 彼は船着き場の見える広場で、モニュメントの段に腰掛け、俯いて手を組んでいる。
「あれは僕への嫌味じゃないか」
 ポリドリは黙って立っていた。バイロンは外国での生活に憔悴しているようである。寺院の屋根の上から鳥たちが飛び去った。少しの沈黙の後、
「言いたいことはそれだけですか?」
 わざわざ呼び出したのは何故なのか、彼女は問う。
「……実は、今ある伯爵夫人を口説いているんだが、君に――」
 ポリドリは踵を返した。彼の弱々しい声を聞いて、彼女は一度足を止めかけたが、そのまま歩みを進めた。

 夫人の伴侶である伯爵は先妻を毒殺した疑いがあり、バイロンはイタリアの慣習によって彼女の愛人として認められつつも、厳しい立場に置かれていた。ポリドリはそれを知らない。
 ポリドリが書き上げた次の作品はトラブルもなく出版することができた。

 帰国した彼女は診療を続けた。筒状の聴診器を使い、患者の肺の音を調べる。投薬によって男性の強い咳は鎮まってきたようだ。彼はにこやかにしていた。
 体調が悪いと訴えた女性を診察すると、妊娠していることがわかった。おめでたですよ、と伝えると、彼女は俯いて、再びここを訪れることはなかった。

 ある日突然、患者に押し倒されることがあった。男は彼女の無垢な(そう見える)瞳を直視して、怯えて叫び、走り去った。
 彼女は上半身を起こした。自然と目から涙が流れる。脈絡もなくバイロンのことが思い出された。
 奥にいた文学サークルの仲間が飛び出してきた。彼女は心配をよそに、立ち上がって患者を探しに扉を開けた。
 通りをふらつきながら歩いていると、何かにぶつかって意識を失った。馬車に轢かれたようだ。

 幸い、頭を打っただけで済んだ。仕事に復帰したが、定期的に診療していたお爺さんが亡くなった。急に容態が悪化したのだ。お孫さんに呼ばれて家へ駆けつけたが、出来ることはすでになかった。
 ロンドンの郊外で賭場に入り浸った。意味もなく借金を重ねる。ここに彼がいたら、私から金を巻き上げているだろうか。

 暖炉のある一室で休む。急に『吸血鬼』を読み返したくなった。机の引き出しを探したが、何処にも見つからない。
 ふと思い至った。そうだ、あれは手元にないんだった。
 ポリドリは笑いたくなった。鞄からバイロンの手紙の束を取り出し、暖炉に焚べる。
 調合した青酸カリを見つめて考えた。未だイギリスには、自殺者の心臓に杭を刺しても良い、という法律がある。寝台へ横になって、薬を飲む。
 死んで吸血鬼になれたら、あの人の側に居れるだろうか?

 一八二一年の夏、ポリドリは自殺した。
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