第1話

文字数 622文字

数年前の話
夜、丸ノ内線茗荷谷駅。
人気のないホームで東京駅方面の電車を待っていた。
ぼーっと。ただ待っていた。

少しすると、向かいのホームに若い男が猛ダッシュで駆け込んできた。
数秒遅れて40代サラリーマン風のスーツ姿の男。
鬼のような形相で若い男を追いかけている。

――待てコラ!おいっ!

二人は知り合いという感じではなく、明らかにサラリーマンが若い男にキレていた。

若い男は狭いホームで逃げ場がないと観念したのか、追いかけて来るガチギレ男に向かって両手をあげて苦笑いを浮かべた。

向かいのホームに、電車が到着するアナウンスが流れる。
そのとき、無防備な若者に追いついたサラリーマンは少し頭を下げた。
と、地面を見るようなかたちでリーマンの頭が若者のお腹に突き進んでいく。

頭突きだ。頭突き。

あんなにスローな頭突きを見る機会は二度とないだろう。
向かいのホームにいる私の脳裏に、何故か海ガメの産卵する映像が浮かんだ。

文字通り怒り心頭の攻撃を喰らった若い男は、全く痛そうじゃなかった。
年齢は若いだろうに、慈愛に満ちた親のようにも見えた。

停車した電車が行ってしまった後、向かいのホームに二人の姿はなかった。
程なくしてこちら側のホームに来た電車に乗る。

あれは、ケンカだったのか。あの頭突きからは全く荒々しさを感じなかったが。
いや、むしろあれこそがリアルなケンカなのではないか。
そんなことを思った。

東京駅に着く間際、2006年サッカーW杯の決勝戦で退場したジダンを思い出した。
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