千夏・2

文字数 3,695文字

 就職して、私は初めて男性と恋愛関係になりました。
 相手は同じ職場の上司で、新入社員の私に一から仕事を教えてくれた人です。とっても面倒見のいい優しい人で、好きになったのはたぶん私の方からだったかな……仕事の相談を兼ねて食事に行ったりしてるうちに、お付き合いをするようになりました。

 でもね、彼には奥さんと子供がいたんです。つまり不倫……ですよね。
 四十代半ばだったから当然といえば当然で……あっ、違います、騙されたんじゃなくて、最初から知ってました。知ってて私、好きになったんです。
 包容力があって、時々厳しくて、一緒にいて安心できる男性だったの。凄く幸せでした。仕事を頑張る気力が湧いたし、彼のために綺麗でいようと努力もしたし、充実した毎日でした。
 変な言い方ですけど、私はもう誰かの娘じゃなくて一人前の女なんだって、生まれて初めて感じました。罪悪感なんてありませんでした。彼から、結婚生活はほとんど破綻してると聞いていて、だったらいつか私と、なんて夢まで見ちゃって。

 幻滅しました、幸司(こうじ)さん? 身勝手で馬鹿な女だと思われて当然ですよね。

 え? あ……そう……かもしれません。私、二回りも年上の彼に父親を見ていたのかもしれません。母に愛されて寂しくなんてないはずなのに、やっぱりないものねだりをしてしまうのかな。
 びっくりした。今幸司さんに言われるまで気づきませんでした。だったら私たちの関係は最初から歪だったんですね。母の心配は当たってたんだわ。

 私と彼が付き合い始めて半年くらい経った頃、母にバレました。
 週末に奥さんと子供がご実家に帰るとかで、珍しく土曜日の夜に彼が泊りに来たんです。それで翌日の日曜日の朝、私たち昼近くまで寝坊をしていたんですけど――そこへ母が入ってきました。
 いつもアポなしでやって来る人でしたが、まさかインターフォンも鳴らさずに踏み込んで来るなんてね……何か予感めいたものがあったのかも。

 ええ、ご想像の通りです。私たちベッドで、他人(ひと)様にはとても見せられないような格好で眠ってました。目が覚めたのは母の金切り声でです。
 母は物凄く動揺してて、次に怒り出して、ちょっと手が付けられないくらいに激高しました。嫌な記憶すぎてあまり覚えてないんですが、人の娘に何てことをするのとか、いやらしいとか、出て行けとか……私に対しては――あんたはお母さんを裏切ったのねと。
 服を着る間もなく、何回かぶたれました。私もうびっくりしてしまって……かわりに彼が何とか(なだ)めようとしてくれましたが、全然駄目でした。
 いい年をして若い女に手を出すなんて頭がおかしい、うちの娘を汚しやがって――そんなふうに喚き散らす母を見て、私も頭に血が上りました。成人した娘の恋愛に対して、あんまりだと思いました。今でもそう思ってます。

 私はもう子供じゃないと言い返しました。いつまでもお母さんの言いなりにはならない。私の人生は私のものだ。邪魔をするんならお母さんなんていらない――子供っぽい罵倒ですよね。母と言い争うのは初めてで、そんな幼稚なセリフしか出てこなかったんです。

 その時の母の顔、きっと一生忘れないと思います。
 怒り狂っていた表情が枯れるみたいに(しぼ)んで、次に泣き出しそうに歪みました。どうして分かってくれないの、お母さんはあんたのために……って、憐れっぽく言うんです。ああお母さん年を取ったなって、妙に冷静に思いました。
 でもやっぱり怒りの方が勝って、私は母を突き放しました。

 本当にあの時、もう少し母の気持ちに寄り添ってあげればよかった。私が憎くてやったことじゃないのに、あんなふうに拒絶してしまって……。
 だから、母はちょっと壊れてしまったんです。

 しばらくして、急に彼の様子がおかしくなりました。しばらく会わないようにしようと言い出したんです。
 問い(ただ)してみたら、自宅に変な電話があったとかで。昼間、彼が留守の時間帯にかかってきて、ご主人が部下の女子社員と浮気してると告げたそうです。一日に何度も。
 ええ……母の仕業でしょうね。どうやったのか、彼の身元を調べ上げたみたいです。彼が既婚者だと知って、私との縁を切る効果的な方法を取ったんだと思います。
 それで彼、奥様に疑われて、このままだと興信所に浮気調査を依頼されかねないからしばらく二人で会うのはよそうって、そう言い始めて。

 不思議なんですけど私、それ聞いて気持ちが冷めてしまいました。こう潮が引くみたいにすーっと。
 だって、夫婦関係が破綻してるんなら浮気がバレたって平気でしょ? むしろ離婚するチャンスだと思うじゃないですか。そりゃ慰謝料の問題とかあるかもしれませんが、こんなに動揺するのは奥さんと別れる気がないってことだと分かりました。
 結局彼は、家庭生活は円満にキープしつつ、ちょっと外で羽を伸ばしてみただけだったんです。私はちょうどいい遊び相手だったんですね。はい……考えればすぐに分かることでした。

 辛くて悲しくて悔しかったけれど、私はそれで納得したんです。勉強になったと思って彼とは別れるつもりだったんですが、それをわざわざ母に報告したりはしませんでした。ほらお母さんの言った通りでしょなんてお説教されるのが嫌だったんです。

 それがいけなかったのね……母の行動はエスカレートしました。
 彼の自宅への電話に加えて、今度は職場の方にも連絡をしてくるようになりました。電話やファックスやメールで……管理職が部下に手を出すなんてセクハラじゃないか、そんな破廉恥をおたくの会社は許すのかって。取引先の銀行にまで告げ口してたらしいです。
 当然会社では大問題になって、私と彼はそれぞれ社内調査を受けました。まあ事実関係があったわけですから潔白を主張してもボロが出て……結局彼は役職を解かれて地方へ左遷、私はいづらくなって退職しました。自業自得とはいえ惨めでしたよ。

 私物を纏めてとぼとぼと会社を出ると、ビルの外で母が待っていました。
 ツイードスーツにコサージュをつけて、まるで幼稚園の卒園式みたいにおめかししてました。満面の笑みなんです。

 お家に帰っていらっしゃい千夏(ちか)、また一緒に暮らしましょうって話しかける母を無視して、私は駅へ向かいました。
 全部自分が蒔いた種だってことは理解してました。自分が馬鹿だったからこんな結末になったんだって。母が何もしなくても、彼との関係はいつか壊れていたでしょう。でもそれは私自身の過ちで、母には関係なく私が受け留めるべきものでした。私は自分の意志で愚かな恋愛をして、傷ついた、それでよかったんです。
 いずれ破綻する恋愛でも、先回りして潰した母が許せなかった。いつまで私を子ども扱いするのかと腹が立って仕方がなかったの。

 でも母は、私の怒りなんてまったく意に介さずに……ねえお母さんの言った通りでしょう、あの男は千夏を騙したでしょう、お母さんの目は確かなんだから、なんて得意げに言いながら一緒に歩きました。
 駅に着いて改札を通っても、母はベラベラ喋りながらついてきて、私は我慢できなくなりました。お母さん千夏を許してあげるわ、って言われたのがきっかけだったかもしれません。

 人の恋愛をめちゃくちゃにしといて何が許すだクソババア、と私は怒鳴りました。クソバアアなんて口にしたの、あれが最初で最後です。
 続けて酷い言葉で母を罵倒しました。ホームで電車を待ってた人たちが全員振り向くくらい……あんたの束縛がずっとウザかったとか、やりたいことを何ひとつやれなかったとか、こんなことならお父さんについて行った方がましだったとか。ほんと、中学生みたい。その時の正直な感情でしたが、本音ではなかった……と思います。本当は母を愛してるのに、ついそう言ってしまったの。

 もうほっといて、お母さんなんかいらない――とまで口走りました。 

 そうしたら母は……母は……ああもう何であんなことを……私が悪いんだわ。私が追い詰めたの。ごめんなさい、ごめんなさい……。

 ……いえ、大丈夫です。最後まで聞いて下さい。

 母は悲しそうな顔をして、父と離婚した時よりも悲しそうな顔をして、そうねお母さんはいらないのねって呟きました。
 それからいきなり……ホーム柵を乗り越えて……ちょうど入ってきた通過の快速列車に飛び込んだんです。
 何のためらいもない動きで、私も、ホームにたくさんいた人たちも、止める暇がありませんでした。

 凄い音がしました。何かが破裂するみたいな……人間の体ってあんな音を立てるんですね。母が潰れて折れてバラバラになる音でした。
 母は大きく跳ね上げられて、体のあちこちがホームまで飛ばされました。血を撒き散らしながら、まるで私の所へ戻って来るみたいに――ひしゃげた顔は笑っているように見えました。お母さんもう怒ってないのよ、家に帰っていらっしゃい……そんな声が聞こえた気がします。
 胸に激しい衝撃を感じて、ええ、拳で殴られたみたいに……私はホームの円柱に叩きつけられました。

 母の首から上が、私の腕の中で笑っていました。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み