第2話

文字数 2,203文字

「いやあ、思ったより早く関を越えられましたな。このままですと次の宿ではゆっくりできそうですぞ、姫様」
 図体の良い方が言った。
「直之、街道で姫と呼ぶなと言ったであろう。幕府の手が入っているとはいえ、辻斬りや窃盗は起こる……」
 水を差したのは細身な方であった。
「秋丸、そんなに怯えるもんじゃねぇさ。なんと言っても俺がいる。」
「出会さなければその方がいい。おまけにこの辺りでは物の怪が出るというではないか。ただでさえ神仏に対する信心のないお前がいるのだ」
 制された直之は臍を曲げた。
 もとよりこの直之は秋丸より年上で、彼とは異なり元服済みである。そんな彼に対して秋丸が大きな口を利くのは単に出自の違いのためであった。
 秋丸はこの姫の家に古くから仕える家人の嫡子であるのに対し、直之は姫の乳母の子に過ぎなかった。この乳母も家にとっては長らく仕える親しい間柄で、姫を始めとして家の誰もが手厚く面倒を見ていた。直之の母の祖父は、家長の祖父と竹馬の友であったが、かの有名な大坂夏の陣を経て浪人とも変わらぬ程の下級武士に身を落とした。不憫に思った当時の家長から代々、家は彼らを賄ってやったものの、彼らは奉公人のそれとはまったく異なり、寧ろどの家人よりも親しく扱われた。
 そんな彼らがなぜ旅路を共にするのかというと話は遡る。はるか昔に関東へ移り住んで以来、前述の通り、この姫の祖先は武士に身分を変え、嘗ての栄華とは異なりお歯黒も十二単もない慎ましい暮らしを送っていた。そして分家に分家を経た戦国においてもこの家の武功は慎ましく、江戸時代に入ってからも下級武士の家系にとどまった。都から運んだ財産は徐々に消え、禄の少ない暮らしの中で出費を削って食いつないできたものの、竹馬の友の家族を賄ったり、古くからの家人も去らぬ限りは変わらず抱えてしまう情の熱い家長たちだったので、何代目かの将軍の時にはその生活にもいよいよ限界が来てしまったのだった。
 更に長らく男児が産まれなかった現家長は、一家の跡取りがいないともなると世間にも先祖にも顔を合わせられぬと言っては二人、三人と子どもを作り、ようやく男児が生まれたときには六人の娘とその男児を含め、七人の子どもを抱えていた。もちろんとても全員を不自由なく育てるのは不可能だった。そこで家長は娘たちを早々に輿入れさせることとなったのだが、昔の婚姻でいえば長女から末っ子まで順に決めていくのが普通のところ、最初に縁談が決まったのは次女であった。もちろん家の者は皆驚いた。さらに家長と長女が平然としていたので周りのものは余計に驚いた。この順を飛ばされた長女こそが、今旅路にある姫であるわけだが、彼女はついにどこへも嫁がなかった。不思議なことに家長の方から催促することもなかったうえ、姫も色恋の噂が立ったためしがない。容姿端麗な長女の元へ縁談話が腐るほど来ていたことを誰もが知っていて、「その瞳を見たものは取り憑かれたように心を乱され姫に釘付けとなる」などという怪奇な話が小さな藩の全土で噂されるまでになってしまった。時には家長の上司や領主の倅までもが縁談話を持ち掛け、家長はとても断り切れずに家に持ち帰るのだが、決まって姫がこれを聞き出す。そしてその家へと伺って面と向かって冷淡に断った。その断りもすんなりと飲み込まれるのだから周りはいよいよ訳が分からなくなった。そうまでして手放さず手放されない父子の間に、よからぬ関係があるのではと憶測されたが、もちろんのこと初めての男児は目に入れても痛くないほど溺愛し、また心もとない家計をやりくりし、教育係をつけようとするほどであったうえ、家長は他の娘たちと別れる度に号泣しては三日寝込んだほどに等しく子どもを愛していたのは明らかだった。
 かくして姫は独り身のまま齢二十も後半にさしかかり、縁談話の数も減っていった。その美貌は決して変わらなかったが、奇々怪々な行動がその数を減らしたのだった。それでも家長は娘を手放さず、また娘も嫁に行かなかったため、この家の家人であった秋丸の父がついに、尼にしてはどうかという提案をした。すると家長はこの案を採り、姫自身もこれを快諾した――それどころか強くそれを望んだ――ので、家長は姫を祖先の代から世話となった京都の寺の紹介で格式の高い尼寺に入れてやることとなった。その拍子抜けするまでの快諾に、家人たちはいよいよ訳が分からなかった。
 こうして姫の京都への旅が決まったわけで、付き人を探そうにも家にはこの直之と秋丸以外に家を空けられるものがいなかった。という訳である。

 臍を曲げていた直之に姫は声をかけた。
「直之、秋丸の配慮もわかってくれ。何事もなければそれが一番よい。何かあったなら、その時は頼みますよ」
 労いの言葉に直之は照れた。この男は生来、素直な性分なのである。直之の先祖は関ヶ原、大坂の役と一貫して主君たる豊臣に就き、一所懸命に戦い抜いた。戦いの後に生還し、身を隠しながら、妻子と離れて生きていた。
「ありがたいお言葉! ようし!
この氏家直之、賊が来ようと物の怪が来ようと姫様に――」
「姫と呼ぶな」
「んなことはわかってるわ! とにかく、何が来ようと姫さまには指一本触れさせはせん!」
「お前は本当に調子がいいやつだな」
 姫は微笑みながら言った。
 楽しい旅路である。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み