2年後の花見の約束
文字数 1,996文字
「もう、お父さんったら、飲み過ぎだよ!
身体大事にしないと!」
3月中旬の朝、晴れやかで澄み切った青い空だった。
自宅近所の小山の丘の上、見事に桜の花を咲き誇らせる河津桜の木の下、先日の健康診断での肝臓数値が芳しくなかった達也は、1人娘の美香に窘 められていた。
「今日くらい、良いだろ?
今日は、お前の、めでたいお祝いの日なんだから」
そう言って達也は日本酒をグラスに並々と注いだ。
妻亡き後、達也は町工場を経営し、1人娘の美香を育てた。
働きながら父親1人で娘を育てるのは大変だった。町工場が経営難に陥った時期もあった。苦手な家事との両立もなかなか上手くいかなかった。娘の酷い反抗期もあった。
だが、娘が独り立ちするまで、何があっても挫けず、立派に娘を育て上げること。それが、9年前に癌で亡くなった妻との最後の約束だった。
その娘、美香も今日で18歳。今年、念願の青教大学に現役合格し、高校卒業を間近に控え、達也はようやく肩の荷が降りる思いだった。
父娘家庭にも関わらず、なんとか道を大きく踏み外さず、ここまで来れた。
ほとんど手がかからなくなり、真っ直ぐに育った素直な娘を見て、達也は我ながら上出来だと思った。
「そうだ、母さんも一杯どうだ?」
そう言って達也は、亡き妻にプロポーズした思い出の河津桜に日本酒をかけた。
そして、父娘は、共に河津桜の木に両手を合わせ黙祷した。
達也はポケットからおもむろに青い髪飾りを取り出した。
「美香、これやるよ」
達也は青い髪飾りを美香に渡した。
「わぁ、綺麗……」
「昔、俺がお前の母さんにプレゼントしたお下がりだけどな。お前が18歳になったら渡せと、母さんに言われていた。
母さんの形見の品なんだ。大切に扱えよ」
美香は素直に喜んで青い髪飾りを受け取った。
「嬉しい!ありがとう!」
そう言って美香は早速髪飾りを髪に留めた。
「お前も、随分母さんに似てきたな。
面影も性格も。
美香、覚えているか?母さんの顔」
「うん、もちろん!とっても綺麗な人だった。
……ねぇ、お父さんは本当は、町工場の後継者として、息子が欲しかったんでしょ?
それで、息子の二十歳の誕生日に、この桜の木の下で、一緒にお酒飲むのが夢だったって……」
突然、美香が達也に問いかけた。
「あん?
お前、なんでそんなこと知ってるんだ?」
「だって、お母さんが生前言ってたもの。
ごめんねぇ、私が息子じゃなくって」
少し、申し訳なさそうに、美香が笑った。
「ふん、だったら俺の夢、お前が叶えろ。
2年後、お前が二十歳になったら、花見だ。
この桜の木の下で、一緒に飲むぞ。浴びるほどにな。約束だぞ!」
達也が右手の小指を差し出して言った。
「はいはい、それまで身体大事に、元気でいてね」
美香が自身の小指を達也の小指に絡めた。
……その日の夕方、達也は出張のため1人名古屋行きの新幹線に乗った。
そのときは予想だにしなかった。その夜、美香が自宅近くで乗用車にはねられるなんて。
病院からの緊急連絡を受けて、達也は急ぎ東京に戻った。頭の中が真っ白だった。
「お気の毒ですが……」
それが、美香が緊急搬送された大学病院での、担当医からの第一声だった。
鎮痛な面持ちで目を瞑る担当医に達也が問いかけた。
「……お気の……毒?」
案内された霊安室、美香の顔の上には白い布が掛けられていた。
達也がその白い布をゆっくり下ろした。
美香は、綺麗な顔で安らかに、眠るように逝っていた。
「……美香、何をこんな所で眠ってるんだ?
病院のみなさんに迷惑だろ、さあ、帰るぞ?」
達也の呟くような声に、美香が反応することは二度と無かった。
「……これを、あなたに。
娘さんが、最期まで、右手にしっかりと握りしめていたものです」
担当医から、青い髪飾りを渡された。
達也が再び自らの手元に戻ってきた青い髪飾りを手にとった。
青い髪飾りの上に涙がこぼれ落ちた。
身体が震えて嗚咽が止まらなかった。
……それから、長い2年の月日が経った。
3月中旬の朝、晴れやかで澄み切った青い空だった
娘との思い出の河津桜の木の下、達也は1人日本酒の瓶をグラスに傾けた。
「今日でお前も二十歳だな、今日が約束の日だ。
随分待ったよ。
ようやく一緒に酒飲めるな、美香」
達也は青い髪飾りを桜の木の根本に置き、日本酒をその上にかけた。
そのまま河津桜の木の下に腰を下ろし、一息ついた。
達也は、日本酒が並々と注がれたグラスを口に当て、ゆっくりと傾けた。
(もう、お父さんったら、飲み過ぎだよ!
身体大事にしないと!)
美香がそう言って達也を窘 めている声がした。
「今日くらい、良いだろ?
今日は、お前の、めでたいお祝いの日なんだから」
少しの間黙祷した。
そして、達也はグラスを桜の木の下に置き、立ち上がって空を見上げた。
「美香、二十歳の誕生日、おめでとうな」
小山の丘の上に優しい風が吹いた。
その風の声は、美香からの、お父さん、今までありがとう、という感謝の気持ちにも聴こえた。
以 上
身体大事にしないと!」
3月中旬の朝、晴れやかで澄み切った青い空だった。
自宅近所の小山の丘の上、見事に桜の花を咲き誇らせる河津桜の木の下、先日の健康診断での肝臓数値が芳しくなかった達也は、1人娘の美香に
「今日くらい、良いだろ?
今日は、お前の、めでたいお祝いの日なんだから」
そう言って達也は日本酒をグラスに並々と注いだ。
妻亡き後、達也は町工場を経営し、1人娘の美香を育てた。
働きながら父親1人で娘を育てるのは大変だった。町工場が経営難に陥った時期もあった。苦手な家事との両立もなかなか上手くいかなかった。娘の酷い反抗期もあった。
だが、娘が独り立ちするまで、何があっても挫けず、立派に娘を育て上げること。それが、9年前に癌で亡くなった妻との最後の約束だった。
その娘、美香も今日で18歳。今年、念願の青教大学に現役合格し、高校卒業を間近に控え、達也はようやく肩の荷が降りる思いだった。
父娘家庭にも関わらず、なんとか道を大きく踏み外さず、ここまで来れた。
ほとんど手がかからなくなり、真っ直ぐに育った素直な娘を見て、達也は我ながら上出来だと思った。
「そうだ、母さんも一杯どうだ?」
そう言って達也は、亡き妻にプロポーズした思い出の河津桜に日本酒をかけた。
そして、父娘は、共に河津桜の木に両手を合わせ黙祷した。
達也はポケットからおもむろに青い髪飾りを取り出した。
「美香、これやるよ」
達也は青い髪飾りを美香に渡した。
「わぁ、綺麗……」
「昔、俺がお前の母さんにプレゼントしたお下がりだけどな。お前が18歳になったら渡せと、母さんに言われていた。
母さんの形見の品なんだ。大切に扱えよ」
美香は素直に喜んで青い髪飾りを受け取った。
「嬉しい!ありがとう!」
そう言って美香は早速髪飾りを髪に留めた。
「お前も、随分母さんに似てきたな。
面影も性格も。
美香、覚えているか?母さんの顔」
「うん、もちろん!とっても綺麗な人だった。
……ねぇ、お父さんは本当は、町工場の後継者として、息子が欲しかったんでしょ?
それで、息子の二十歳の誕生日に、この桜の木の下で、一緒にお酒飲むのが夢だったって……」
突然、美香が達也に問いかけた。
「あん?
お前、なんでそんなこと知ってるんだ?」
「だって、お母さんが生前言ってたもの。
ごめんねぇ、私が息子じゃなくって」
少し、申し訳なさそうに、美香が笑った。
「ふん、だったら俺の夢、お前が叶えろ。
2年後、お前が二十歳になったら、花見だ。
この桜の木の下で、一緒に飲むぞ。浴びるほどにな。約束だぞ!」
達也が右手の小指を差し出して言った。
「はいはい、それまで身体大事に、元気でいてね」
美香が自身の小指を達也の小指に絡めた。
……その日の夕方、達也は出張のため1人名古屋行きの新幹線に乗った。
そのときは予想だにしなかった。その夜、美香が自宅近くで乗用車にはねられるなんて。
病院からの緊急連絡を受けて、達也は急ぎ東京に戻った。頭の中が真っ白だった。
「お気の毒ですが……」
それが、美香が緊急搬送された大学病院での、担当医からの第一声だった。
鎮痛な面持ちで目を瞑る担当医に達也が問いかけた。
「……お気の……毒?」
案内された霊安室、美香の顔の上には白い布が掛けられていた。
達也がその白い布をゆっくり下ろした。
美香は、綺麗な顔で安らかに、眠るように逝っていた。
「……美香、何をこんな所で眠ってるんだ?
病院のみなさんに迷惑だろ、さあ、帰るぞ?」
達也の呟くような声に、美香が反応することは二度と無かった。
「……これを、あなたに。
娘さんが、最期まで、右手にしっかりと握りしめていたものです」
担当医から、青い髪飾りを渡された。
達也が再び自らの手元に戻ってきた青い髪飾りを手にとった。
青い髪飾りの上に涙がこぼれ落ちた。
身体が震えて嗚咽が止まらなかった。
……それから、長い2年の月日が経った。
3月中旬の朝、晴れやかで澄み切った青い空だった
娘との思い出の河津桜の木の下、達也は1人日本酒の瓶をグラスに傾けた。
「今日でお前も二十歳だな、今日が約束の日だ。
随分待ったよ。
ようやく一緒に酒飲めるな、美香」
達也は青い髪飾りを桜の木の根本に置き、日本酒をその上にかけた。
そのまま河津桜の木の下に腰を下ろし、一息ついた。
達也は、日本酒が並々と注がれたグラスを口に当て、ゆっくりと傾けた。
(もう、お父さんったら、飲み過ぎだよ!
身体大事にしないと!)
美香がそう言って達也を
「今日くらい、良いだろ?
今日は、お前の、めでたいお祝いの日なんだから」
少しの間黙祷した。
そして、達也はグラスを桜の木の下に置き、立ち上がって空を見上げた。
「美香、二十歳の誕生日、おめでとうな」
小山の丘の上に優しい風が吹いた。
その風の声は、美香からの、お父さん、今までありがとう、という感謝の気持ちにも聴こえた。
以 上