完話

文字数 3,642文字

 3本しか足のないピピは、今は4本の足で飛び回っている。3本よりずっといい。それにしてもママが来ないので、4本足で迎えに行った。ママは大きな寝息をかいて寝ている。声をかけると、ママは目を開いて、寝ている体をそのままにピピと約束通り月に向かった。ピピは4本足で宙を走りながら、ママは泳ぐように月に向かった。街は真っ暗になることはない。今夜は星もたくさん出ていて明るい夜だが、誰もこのふたりの姿は見えない。いつもながらにこうやって宙を走るように、泳ぐように空を飛ぶのは本当に気持ちがいい。

 月は暗くない。ほどほどに光があって、ママとピピはお互いよく見える。砂漠のようなところでもない。草も生えている。花も咲いている。うさぎは見かけたことがない。ふたり以外の生物はいないようだ。月に着くと、ママはまず深呼吸する。ここの空気は特別おいしい。胸の中がスッキリする。ふたりでゆっくり月の上を散歩する。地球では見たことのない色の、見たことのない形のかわいい花を見かける。それを見つけるのがママは楽しくてしょうがない。ピピはうさぎも他の動物もいないのに一生懸命匂いを嗅ぐのが好きだ。実は、ピピはここには他にも誰かいるのではと感じている。ピピの感は当たっていた。ふたりはにこやかに笑っているおじさんに出会ったのだ。ママは子供の時に読んだドリトル先生にそっくりだと思った。

「やあ、今日もまた来たね。」

にこやかな笑顔のおじさんはどうしてママとピピが時々ここへやって来るのを知っているのだろうか。ママはどうしても警戒してしまって、体が緊張してしまう。

「ここはリラックスするところ。そんな、体を固くしちゃダメだよ。」

ピピはおじさんのところへシッポを振って挨拶に行ってしまった。

「やあ、ピピ。4本足はやっぱりいいね。」「ワン。」

ピピの名前も、足のことも知っているようなので、ママはさらに体を固めてしまった。でも、どうしても、このおじさんがトップハットを被った優しいドリトル先生に見える。「ここには誰もいないのかと思っていました」とだけ、やっと言えた。「いっぱい魂が遊びに来ているよ。ほら、あそこに白い靄のようなのが見えるでしょ? あれがそうだよ。あそこのはちょっと光がチカチカしてるでしょ? あれも魂だ。向こうには君達も靄のようか、光のようにしか見えてないよ。」確かに靄のようなもの、光のようなものが見える。微かに動いていて、光は揺らいでいるように見える。

「みんな、ここへ癒してもらいに来てるんだよ。君たちと一緒だ。人間はストレスをいっぱい抱えて生きている。動物も餌を探したり、敵に追われたりでストレスを感じているから、時々月へ癒してもらいに来るんだね。」「私たち、海へも泳ぎに行くんですけれど。」「ああ、深い海を泳げば地球の力をもらえる。ここでは月の力がもらえる。どちらもいい癒しだね。」ストレス。その言葉はもちろん知ってるし、確かにストレスを感じて生きているような気はするのだが、どんなストレスを持っているのかよく思い出せない。ピピはどんなストレスを持っているのだろう、とママは思った。足を事故で1本無くしたからか? ピピは嬉しそうにおじさんに撫でてもらっている。やっぱり動物の言葉が話せるドリトル先生かもしれない。

「さあ、せっかく月に力をもらいに来たんだ。遊んでおいで。」

不思議な気持ちを感じながら、ママとピピはまた散歩の続きをした。月は静かだ。でもよく耳を澄ますと、音のような音楽のような、ハイピッチの音が聞こえる。それに気がついた時、天使の歌?とママは瞬間的に思った。トップハットのおじさんに出会って、少し教えてもらって、何だか気持ちがいつもより軽く嬉しく感じる。いろんな魂が来てるのか、私たちだけじゃないんだ。ママは草の上でゴロンと寝転がった。ピピはママの胸の上に乗っかり顔を舐めた。「ピピ。」ママは舐めるのを一瞬やめたピピの顔を見た。ピピの目はママの目を見ている。「ピピがうちに来てくれて本当に幸せ。ママはずっとピピのママだよ。」

「ほら、今夜は特別に月のジュースをもらってきたよ。ピピの分もあるよ。」

またトップハットのおじさんがトレーにストローを刺したコップを二つ持ってきた。手渡されたコップには何も入ってない。「さあ、飲んで」と言われても何もない。ところがピピは、ストローを使って飲んでいた。ママもストローを口に入れ、吸ってみると、オレンジのような、蜂蜜のような、ミルクのような、ミントのような、変わったでもとてもおいしい味がした。体の奥がほわっとする。お酒に酔ったような感じではない。でもとても気持ちが良くなってくる。「おじさんは月の人?」「いいえ、私も今夜は月に来てるだけ。ママたちが海に行く時、そこで会えるかもしれないね。」ママはトップハットのおじさんが好きになってきた。とっても気に入ってきて、また会いたい。いつでも会えるといいのにとさえ感じていた。「また会えるよ。いつでも会えるよ。」初対面のピピとも話ができるおじさんは、言葉がなくても人と話せる、不思議なおじさんだ、とママは思った。

枕元の携帯のアラームが鳴って、スヌーズボタンを押した。その音を聞いて、いつものように3本足のピピがパパの横に来て、パパはピピをベッドに持ち上げた。ピピはパパとママの間でもうひと眠りする。またアラームが鳴って、ママはスヌーズボタンを押すが、今度は半分覚醒している。今日は病院に行かないといけないのだ。乳がん検診でやったマモグラムの結果で怪しいものがあるからもう一回やりましょうと言われ、今日2回目のマモグラムをするのだ。何でもないといいな。不安がママの目を覚ませた。ピピがそれに気がついたのか、ママの顔を舐めて、じっとママの目を見ている。ピピの目を見ていると、心の奥で何かが湧いてくる。何だろう。でも思い出せない。思い出せないけれど、心は何かを覚えているようだ。

2回目のマモグラムでは、特に異常は見られなかった。1年後にまた検査をするということになった。よかった。でも気持ちはそれほど晴れていない。母を乳がんで亡くしているママは自分もそのうちなるのではないかという不安があり、これはただの序章ではないかという気がしてしまう。

ピピとママは、今度は海へ泳ぎに行った。気がつくと海の中だ。息は充分できる。月の光で海の中はキラキラ光っている。さらに深く泳いでいくと、月の光が届かなくなり暗くなってくるのだが、あるところまで潜ると、とても明るくなってくる。熱帯魚のような魚がたくさん泳いでいる。水族館や図鑑では見たことのないような魚や生物が泳いでいる。とてもきれいな色をしている。人魚はいない。ママは向こうに靄のような白いものがふわふわしているのに気がついた。チカチカと光っているものにも気がついた。他にも魂が来てるんだなと思った。

「ほら、ここでも会えたでしょ!」

トップハットのおじさんがいた。ついこの間会ったのに懐かしく感じて、涙が出そうな気がする。

「何を怖がってるの?」

確かに何かを怖がっているとママは思ったが、何が怖いのかわからなかった。ピピは4本足で走るように泳ぐように、おじさんの周りを回っている。

「嫌なこと、悲しいこと、不安なことは悪いことじゃないよ。ほら、ママはキルティングが好きでしょ? いつも、色を気にして、もっとインパクトのある色が欲しいとか、色のバランスをよくしたいとか言って生地を買いに行くでしょ? そうやって選んでできたキルティングの出来はいいなって満足してるでしょ? 嫌なこと、悲しいこと、不安なことはそんなインパクトのある大事な色と思えばいい。ないとつまらない作品になってしまう。出来上がったキルティングは君の人生だ。」

色のバランス、パターンのバランスはとても大事なんだ、キルティングを作っている時は。グラデーションするにもどう色を変えていくかはとても大事なんだ。でも、ところで、どんな嫌なこと、悲しいこと、不安なことを抱えているのかママはよく思い出せない。そんなことよりも、ママはおじさんとずっと一緒にいたいと感じていた。

「私はいつもいるから、心配しない、寂しがらない。おっ、地球が踊り始めているよ。どんどこどんどこ太鼓を叩いているようだよ。」

水の中で太鼓の振動が響いてきて、自然と魚も靄も光も踊り始めていた。もちろん、ママもピピもおじさんも。気持ちのいいリズムだ。まるで全身マッサージをしてもらっているみたい、とママは感じた。

携帯のアラームが鳴り、ピピはパパとママの間にいた。2回目のアラームでママはスヌーズボタンではなくストップボタンを押した。ピピはママの顔を舐めたが、急にママの顔の前でくしゃみした。ピピの鼻水を浴びて一瞬目を閉じ、また目を開けると、羽が宙を飛んでいるのが目に入った。ヒラヒラとゆっくり落ちてきて、その羽はママの胸に降りた。ママとピピはそれを見て微笑みあった。
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