第1話
文字数 2,645文字
逃げるのも、そんなに簡単なことじゃない。
自分で決めたことからだったら、なおさら。
晴れわたった空に手をかかげても、ぼくの血潮は見えなかった。
最寄りの駅のベンチに座り、予備校へ向かう電車を待つ。
音も人影もないホームで、コンクリートの灰色ばかりがぼくの目に映った。
ひざの上には英単語帳を広げていたけど、暑さのせいか、ぼくの視界はゆらゆらと揺れていて、「このままじゃ厳しいぞ」と言ったチューターの眉間のほくろとか、クラス生の蒸気を帯びた背中とか、掲示板に貼りだされた今月の優秀者名の文字列とか母の不安そうな横顔とか、そんなものが次から次へと瞼の裏に浮かんでは消えた。
「……今ごろ、こんな町出てるはずだったのに」
小さくつぶやくと、足のあいだから単語帳がばさりと落ちた。
はあと深く息を吐き、腰をかがめたその時だった。
「雫くんは、このまち嫌い?」
背後から透きとおった声がして、ぼくの心臓がとくんと鳴った。
単語帳をいそいでつまみ上げ振り向くと、雨宮さんが立っていた。
予備校で、同じクラスの雨宮さん。
黒髪のボブに、そろった前髪。その下に、意思のある薄茶色の目がのぞく。
グレーのTシャツに、ひざ下丈のチェックスカート。
雨宮さんがそこに立っているだけで、いつもの駅ではないようだった。
「これ、食べる?」
まばたきばかりするぼくに、雨宮さんは茶色い紙袋を手渡した。反射的に受け取ったそれはしっとりしていて温かく、甘い匂いがただよっていた。
訊く間もなく雨宮さんはぼくの隣にすとんと座り、自分の紙袋を開けはじめた。
顔を出したのは、たい焼きだった。きれいな焼き色のついた肌。
その頭を、雨宮さんはかぷりと食べた。
「雫くんは、たい焼き好き?」
「……いや、あんまり」
正直に答えると、雨宮さんは小さく笑った。
ぼくの名前、おぼえてくれてる。
クラスで話したこともないのに。
動揺に気づかれないように早口でいただきますと言ってから、たい焼きをひと口かじった。しっぽから食べたのに、あんこの甘さが口いっぱいに広がってくる。
雨宮さんがため息をつき、唐突に言った。
「わたしたちの未来ってさ、いったいどこに行っちゃうんだろうね。こんな時代だし、努力してもぜんぶ無駄になるんじゃないかって、毎晩考える」
ぼくは静かに驚いた。いつも成績優秀で、順風しか吹いていないような雨宮さん。
ぼくとは、違うはずなのに。
次の言葉を見つけられないまま、ホームにアナウンスが鳴り響き、電車が勢いよく入ってきた。
「じゃあ、またね」
颯爽と立ち上がり去っていく彼女の後ろ姿を見送っていると、発射ベルが鳴り響いた。ぼくは慌てて食べかけのたい焼きを袋に入れて乗りこんだ。
***
翌日。
ぼくはまた同じ駅の、同じベンチに座っていた。
あの春の日、予備校に通いたいと両親に頼み込んだ熱意は、どこへ行ってしまったのだろう。その代わりに黒々としたものが、たとえば孤独とか、不安とか、恐怖とか、そんなものが頻繁にやってきて、ぼくの心を取り巻いていく。
空に手をかかげてみたけれど、今日も血潮は見えなかった。
少し向こうに高校生が三人、炭酸飲料をふりながら、笑い声をあげている。ぼくも、あんなに白いワイシャツを着ていたのだろうか。もう、あまりよく思い出せない。
「まーた、そんな顔してる」
ハッとして振り向くと、雨宮さんが立っていた。
雨宮さんは、暑い、暑いとつぶやきながら、
「こりゃ昨日と同じ顔だ。はい、どうぞ」
と言いながら、ぼくに紙袋を手渡した。
受け取った瞬間から、甘い匂いを放っている。
「あ、ありがとう。そだ……お金」
急いで財布を取りだしたけれど、雨宮さんは頭をぶんぶん大きく振った。
「それよりさ、雫くんって、どうしていつも暗い顔してるの?」
「え、暗い?」
「うん、暗い」
「そうでもないよ」
「いや、あるよ」
「いつも、ではないよ」
「いや、いつもだよ」
参ったなと、苦笑が漏れる。
「……在りどころ……がないからかな」
「在りどころ?」
「うん、社会のなかで自分だけ住所がない、みたいな。どこからも必要とされていないというか、見られてもいないというか。ただひっそりと潜伏して、いてもいなくても変わらない。そんな現実を今、何をしててもはっきりと見せつけられてるような気持ちになるから……かな」
一気に話した後で、無性に恥ずかしくなってきた。
「ふーん。それで、あんな顔」
ふむふむとうなずく雨宮さんに、ぼくはもう一度苦笑した。
「今日のはさ、白餡なんだって」
雨宮さんはうれしそうな手つきでたい焼きを取り出しほおばった。ぼくもつられてひと口食べた。豆のやさしい風味が、ふわりと鼻を抜けていく。
「おいしい……」
ねえ、と言って、雨宮さんは切れ長の目尻を垂らしている。
「駅前のたい焼き屋さん、知ってる?」
「……いや。家は北口だから、そっちにはあまり行かなくて」
「そっか。わたし毎日、お店の前を通るんだけど、そこのおばあちゃんがね、この紙袋を渡してくれるの。あなたにも持っていってって、いつも二個」
「えっ、なんで?」
驚きのあまり、たい焼きがのどに詰まった。
「雫くんがね、ベンチに座っているところ、ほら、ここ、お店からちょうど見えるんだって」
むせ込むぼくに、雨宮さんはベンチを指しながら笑って言った。言われればたしかに、向かいの商店街の端にある赤い看板が、小さくぎりぎり半分見えた。
「それでね、おばあちゃんが言うには、雫くんがよく、手を振ってくれてる気がするんだって。それがすっごく嬉しくて、元気が出るんだってさ」
ぼくは、手のなかのたい焼きを見た。まだホカホカと温かい。
そんなこと、あるのだろうか。
「都会に私たちと同じ年頃のお孫さんがいて、これまで毎年帰ってきてたんだけど、今はなかなか。もう何年も会えてないみたい。雫くんに雰囲気がよく似てるんだって。だからあなたがベンチに座っているだけで、がんばろうって思うんだって、おばあちゃん、きらきらの目で話してたよ」
そんなことがあるのか、ほんとうに。血潮の見えない手が、さびしくかかげたぼくの手が、だれかに届いていたなんて。
雨宮さんは隣で微笑んでいるようだったけど、ぼやけてよく見えなかった。
ひとすじの、涼しげな風が頬をかすめる。
もうすぐこの夏が終わってしまう。
ぼくはあわててたい焼きを口につめこんで、駅の階段へと走り出した。
了