あなたの色
文字数 3,499文字
あれから数日、夏休みの課題は終わって一日中受験の為に問題集とにらめっこをするようになった。
でもまだ梅雨ちゃんのことが忘れられず十分に一回はあの日の夜を思い浮かべる。
気持ちを落ち着かせるのにかかった三日で、私の何がいけなかったのか考えた。
多分、気を使ってくれたんだ、と思った。
私が彼女を好きなことがバレていたから、彼女は、私がいつか離れなきゃと思っている事を、でもぐだぐだと先延ばしにしている事を、知っていたから、きっかけを作ってくれたんだ。
そう思うことにした。
「やさしいな……」
相手が心の中で思っている事なんて分からない。
幾ら自分の質を高めても、相手がそれを求めていなければ棄てられるし、自分の質が低くても、私の何かが必要なら、きっと手元に置いてくれる。それが人間の質なんだと、そう思ってきた。
でもそれが今は、私が梅雨ちゃんにとって、もう要らない粗大ゴミだったという事を静かに伝える。
「要らなかったかぁー」
悲しみを振り払うように明るく叫ぶ。
集中出来ないから、場所を変えるために灼熱のを自転車で飛んだ。
自転車置き場に同じ高校の自転車があってもさほど気にならない位には大人になって来たと自負していたが、その考えが裏目に出た。
私がコーヒーと申し訳程度のハンバーガーを買って席に着いた後で、聞き覚えのある声がする、と思い視線をやると、居た。
そこには梅雨ちゃんが居た。
ばくんばくんと音を立てて動く心臓を落ち着かせて、コーヒーを飲む。
いつもは苦く美味しいコーヒーも、淹れたての癖に酸化したような酸っぱさを孕んでいる。
彼女の向かいに座って居るのは学校で有名なバスケ部の部長だった。
美形で、誰が見てもイケメンだと分かる彼が、梅雨ちゃんと楽しそうに喋っている。
そうか、彼だったのか、と気付いた。彼を私に見せて私が傷つかないように、私と離れてくれたんだ……。
勉強もしないで店を出た。
河川敷はいつものどかで、時間が長くなる。
三十分たったかな、と思っても十五分くらいの時がほとんどで、考え事をする時は大体ここに来る。
今日もゆっくりと流れる雲を見て、本を読んで、アイスを食べる。
燃えるような朱色が広がる雲を眺めていると頬に涙が伝う。
洒落っ気の無いシャツの袖で拭って染みを見下ろす。
だんだん乾いていく袖を見ながら笑った。
===
あれからなんの連絡もせずに夏休みが終わった。
夏休み明け初日のホームルーム、ある拍子にふっと振り返ると、梅雨ちゃんと目が合った。彼女は何もなかったかの様に強引に目線を移して彼女の友人達と歩いて行ってしまった。
本当に嫌いなんだな、と心に微かに灯っていた希望の蝋燭が消えた。
そんな出来事からかれこれ二週間。
テストの点数が前より五十点上がった。
嬉しい筈なのにどこか物足りなさを覚えている自分が怨めしい。
私を求めてくれる人は誰も居ない。
今日は、学校裏の花壇に人影を感じる。
いつも私が下校前に寄る花壇に、誰かいる。
咄嗟に物陰に隠れて、誰かを確認する。
ハンバーガーショップでの記憶がフラッシュバックした。
「伴野さん……あの、俺、伴野さんの事が好きです。俺と……その、付き合ってください」
あの時の人だ、バスケ部の、あの人が、今――。
「――良い、ですよ」
===
二人の関係はすぐに学校中に広がった。
「ヤバくない!?」
「最強カップルじゃん!」
「もはや尊い」
クラス中が一定期間こんな囁きで溢れた。
想像通りだった。私は彼女から少しずつ離れていく。もう目が合うことも無くなった。
私は彼女の素敵な彼氏を目の当たりにして、彼はやっぱり優しく、イケメンで、友人曰く完璧な男性らしかった。
私が彼女と離れてから初めてできた友人、時雨梨央は言う。
「切ないよねぇ、さっちゃんは好きな訳でしょ?」
「うん……」
「まあ、あたしはあんたの気持ちわかんないけど、失恋くらいしたことあるから何でも言ってよ、サンドバッグになるよ?」
「ありがとう」
彼女は優しい。私の事を打ち明けても、侵しちゃいけない領域だぁ……。なんて思わないですっと私と関わってくれる。
私はまた人に頼っていることに気付いた。
「ダメ人間だ」
顔の赤らみが誰にも見えないように机に伏せて囁いた。
痛みで顔が歪むくらいに唇を噛んだ。
===
寝てしまっていたようだ。
教室内は誰もおらず、周りは茜に染まっている。
起き上がって窓の外を見ると運動部が一生懸命走っているのが見える。
机の中を整理して、リュックのファスナーを閉めると、周りが薄暗くなっているのに気付いた。
青紫の空に輝く一番星と夜景があの日の記憶を思い出させる。
急に悲しくなったからあの娘の写真を開く。
スマホの画面だけがてらてらと光っている。
やがてそれすらも歪んだ。画面に大粒の涙が一粒。
画面が割れそうなほど強く握った。
私の愛は何なんだ。私の恋は何なんだ。私の心は何なんだ。
駄目なのか? 駄目な心なのか? イカれているのか?
あの娘の笑顔が見たいと思った。あの子の人生が見たいと思った。あの子のこの先に私が居てはいけないから、あの子から離れた。
これでも駄目なのか? これでも許されないのか? これでも……。
「だめじゃんか……」
そう想って、強く、強く握った。
その時、教室の後方ドアが開いた。
長い黒髪、華奢なあしどり。
春の風のような優しい動きで入ってきた。
私と目が合うと、
「あ」
と言ってすぐに目を逸らしてしまったけれど。
ロッカーを探る背中は今にも崩れ落ちそうな儚さがあり、若干くせ毛気味な私には真似出来ない滑らかな髪が流れていた。
さがしものが見つかると優しく扉を閉め、彼女は私を視線の端に停めながら教室のドアに手を掛ける。
「すき」
ぴたりと空気が止まる。
「貴女が好きなの」
貴女の顎にかけて汗が動く。
ゆっくりこちらに顔を向けると、やがて流れた雫が汗では無かった事に気付いた。
===
まだ暑い。なるべく直射日光を避けながら待つ。時計の針は十一時を指している。
夏は冬よりも香りがするらしい。湿気を多く含んだアスファルトの匂いが鼻腔を擽っている。
今、貴女の髪から薄くレモンが薫る。
そうだ、今日はレモネードが飲みたい。
===
「美味しい! 彩月凄い! なんでこんなお店知ってるの?」
「いやぁ……、ただちょっと調べただけだよ」
「あんな一瞬で? さすがうちの彩月なだけある」
「そんなに褒めても何にも出てこないよ」
やっぱり梅雨ちゃんは綺麗だ。私なんて最近ビューラーという単語を知ったのに、彼女はもう使いこなしているようだし、少し引け目を感じる。
柔らかな形をした硝子容器の中にあるグラデーションをかき混ぜながら彼女は話し始める。
「彩月、一回かってに縁切ってごめん。私、怖かったの。だから彩月がどこか遠くに行っちゃう前に、自分から離れておこうと思って。でもやっぱり忘れられないし、自分が決めたことだからってずっと話しかけなかった。強がって迷惑かけてごめん。でも、いや、だからこそ、三日前に彩月が話かけてくれた時、めっちゃ嬉しくて、泣いちゃったし……」
「大丈夫、好きだから」
「きゃー、真顔で言われると恥ずかしいな、あれ? なんかここ暑い?」
「いや、寒いくらい」
見惚れていた。タコみたいに顔を赤らめてはしゃぐ貴女をずっと見ていたかった。
「そういえば、梅雨ちゃんが付き合ってた彼は?」
「別れた。あの人と付き合い始めたのも、彩月との縁切りの為。私ってバイだから」
「バイ?」
「男の人も女の人も好きになるの。そういう人のこと」
「ほぉ……。でもめっちゃ仲良さそうだったけどなんで別れたの?」
「最近私に対して当たるの。テストの点が悪かったり、バスケの調子が良くなかったりしてさ」
「うわ……最低」
「でしょ? だから困ってたんだけど、彩月に声かけて貰って、私は彩月のこと好きでいていいんだって思えたから、別れた」
「お疲れ様です」
「本当、良かった。でも今こうやって考えるとさ、やっぱ奇跡だよね」
「何が?」
――私たちが両想いってこと。
その言葉を聞いて、ぼっと両耳が熱くなるのを感じた。
「なんか熱くない?」
「いや? ……それにしても彩月ってばタコみたい、めっちゃ赤いよ?」
二人で笑っていると今この瞬間がやはり奇跡なのだと体感した。今まで私が生きてきた中で一番満たされた瞬間だった。
あまりにも長く笑っていたからグラスはすっかり汗をかいていて、最後の一口は水の味しかしなかった。でも底からはほんのり春の味がした。――夏なのに。
でもまだ梅雨ちゃんのことが忘れられず十分に一回はあの日の夜を思い浮かべる。
気持ちを落ち着かせるのにかかった三日で、私の何がいけなかったのか考えた。
多分、気を使ってくれたんだ、と思った。
私が彼女を好きなことがバレていたから、彼女は、私がいつか離れなきゃと思っている事を、でもぐだぐだと先延ばしにしている事を、知っていたから、きっかけを作ってくれたんだ。
そう思うことにした。
「やさしいな……」
相手が心の中で思っている事なんて分からない。
幾ら自分の質を高めても、相手がそれを求めていなければ棄てられるし、自分の質が低くても、私の何かが必要なら、きっと手元に置いてくれる。それが人間の質なんだと、そう思ってきた。
でもそれが今は、私が梅雨ちゃんにとって、もう要らない粗大ゴミだったという事を静かに伝える。
「要らなかったかぁー」
悲しみを振り払うように明るく叫ぶ。
集中出来ないから、場所を変えるために灼熱のを自転車で飛んだ。
自転車置き場に同じ高校の自転車があってもさほど気にならない位には大人になって来たと自負していたが、その考えが裏目に出た。
私がコーヒーと申し訳程度のハンバーガーを買って席に着いた後で、聞き覚えのある声がする、と思い視線をやると、居た。
そこには梅雨ちゃんが居た。
ばくんばくんと音を立てて動く心臓を落ち着かせて、コーヒーを飲む。
いつもは苦く美味しいコーヒーも、淹れたての癖に酸化したような酸っぱさを孕んでいる。
彼女の向かいに座って居るのは学校で有名なバスケ部の部長だった。
美形で、誰が見てもイケメンだと分かる彼が、梅雨ちゃんと楽しそうに喋っている。
そうか、彼だったのか、と気付いた。彼を私に見せて私が傷つかないように、私と離れてくれたんだ……。
勉強もしないで店を出た。
河川敷はいつものどかで、時間が長くなる。
三十分たったかな、と思っても十五分くらいの時がほとんどで、考え事をする時は大体ここに来る。
今日もゆっくりと流れる雲を見て、本を読んで、アイスを食べる。
燃えるような朱色が広がる雲を眺めていると頬に涙が伝う。
洒落っ気の無いシャツの袖で拭って染みを見下ろす。
だんだん乾いていく袖を見ながら笑った。
===
あれからなんの連絡もせずに夏休みが終わった。
夏休み明け初日のホームルーム、ある拍子にふっと振り返ると、梅雨ちゃんと目が合った。彼女は何もなかったかの様に強引に目線を移して彼女の友人達と歩いて行ってしまった。
本当に嫌いなんだな、と心に微かに灯っていた希望の蝋燭が消えた。
そんな出来事からかれこれ二週間。
テストの点数が前より五十点上がった。
嬉しい筈なのにどこか物足りなさを覚えている自分が怨めしい。
私を求めてくれる人は誰も居ない。
今日は、学校裏の花壇に人影を感じる。
いつも私が下校前に寄る花壇に、誰かいる。
咄嗟に物陰に隠れて、誰かを確認する。
ハンバーガーショップでの記憶がフラッシュバックした。
「伴野さん……あの、俺、伴野さんの事が好きです。俺と……その、付き合ってください」
あの時の人だ、バスケ部の、あの人が、今――。
「――良い、ですよ」
===
二人の関係はすぐに学校中に広がった。
「ヤバくない!?」
「最強カップルじゃん!」
「もはや尊い」
クラス中が一定期間こんな囁きで溢れた。
想像通りだった。私は彼女から少しずつ離れていく。もう目が合うことも無くなった。
私は彼女の素敵な彼氏を目の当たりにして、彼はやっぱり優しく、イケメンで、友人曰く完璧な男性らしかった。
私が彼女と離れてから初めてできた友人、時雨梨央は言う。
「切ないよねぇ、さっちゃんは好きな訳でしょ?」
「うん……」
「まあ、あたしはあんたの気持ちわかんないけど、失恋くらいしたことあるから何でも言ってよ、サンドバッグになるよ?」
「ありがとう」
彼女は優しい。私の事を打ち明けても、侵しちゃいけない領域だぁ……。なんて思わないですっと私と関わってくれる。
私はまた人に頼っていることに気付いた。
「ダメ人間だ」
顔の赤らみが誰にも見えないように机に伏せて囁いた。
痛みで顔が歪むくらいに唇を噛んだ。
===
寝てしまっていたようだ。
教室内は誰もおらず、周りは茜に染まっている。
起き上がって窓の外を見ると運動部が一生懸命走っているのが見える。
机の中を整理して、リュックのファスナーを閉めると、周りが薄暗くなっているのに気付いた。
青紫の空に輝く一番星と夜景があの日の記憶を思い出させる。
急に悲しくなったからあの娘の写真を開く。
スマホの画面だけがてらてらと光っている。
やがてそれすらも歪んだ。画面に大粒の涙が一粒。
画面が割れそうなほど強く握った。
私の愛は何なんだ。私の恋は何なんだ。私の心は何なんだ。
駄目なのか? 駄目な心なのか? イカれているのか?
あの娘の笑顔が見たいと思った。あの子の人生が見たいと思った。あの子のこの先に私が居てはいけないから、あの子から離れた。
これでも駄目なのか? これでも許されないのか? これでも……。
「だめじゃんか……」
そう想って、強く、強く握った。
その時、教室の後方ドアが開いた。
長い黒髪、華奢なあしどり。
春の風のような優しい動きで入ってきた。
私と目が合うと、
「あ」
と言ってすぐに目を逸らしてしまったけれど。
ロッカーを探る背中は今にも崩れ落ちそうな儚さがあり、若干くせ毛気味な私には真似出来ない滑らかな髪が流れていた。
さがしものが見つかると優しく扉を閉め、彼女は私を視線の端に停めながら教室のドアに手を掛ける。
「すき」
ぴたりと空気が止まる。
「貴女が好きなの」
貴女の顎にかけて汗が動く。
ゆっくりこちらに顔を向けると、やがて流れた雫が汗では無かった事に気付いた。
===
まだ暑い。なるべく直射日光を避けながら待つ。時計の針は十一時を指している。
夏は冬よりも香りがするらしい。湿気を多く含んだアスファルトの匂いが鼻腔を擽っている。
今、貴女の髪から薄くレモンが薫る。
そうだ、今日はレモネードが飲みたい。
===
「美味しい! 彩月凄い! なんでこんなお店知ってるの?」
「いやぁ……、ただちょっと調べただけだよ」
「あんな一瞬で? さすがうちの彩月なだけある」
「そんなに褒めても何にも出てこないよ」
やっぱり梅雨ちゃんは綺麗だ。私なんて最近ビューラーという単語を知ったのに、彼女はもう使いこなしているようだし、少し引け目を感じる。
柔らかな形をした硝子容器の中にあるグラデーションをかき混ぜながら彼女は話し始める。
「彩月、一回かってに縁切ってごめん。私、怖かったの。だから彩月がどこか遠くに行っちゃう前に、自分から離れておこうと思って。でもやっぱり忘れられないし、自分が決めたことだからってずっと話しかけなかった。強がって迷惑かけてごめん。でも、いや、だからこそ、三日前に彩月が話かけてくれた時、めっちゃ嬉しくて、泣いちゃったし……」
「大丈夫、好きだから」
「きゃー、真顔で言われると恥ずかしいな、あれ? なんかここ暑い?」
「いや、寒いくらい」
見惚れていた。タコみたいに顔を赤らめてはしゃぐ貴女をずっと見ていたかった。
「そういえば、梅雨ちゃんが付き合ってた彼は?」
「別れた。あの人と付き合い始めたのも、彩月との縁切りの為。私ってバイだから」
「バイ?」
「男の人も女の人も好きになるの。そういう人のこと」
「ほぉ……。でもめっちゃ仲良さそうだったけどなんで別れたの?」
「最近私に対して当たるの。テストの点が悪かったり、バスケの調子が良くなかったりしてさ」
「うわ……最低」
「でしょ? だから困ってたんだけど、彩月に声かけて貰って、私は彩月のこと好きでいていいんだって思えたから、別れた」
「お疲れ様です」
「本当、良かった。でも今こうやって考えるとさ、やっぱ奇跡だよね」
「何が?」
――私たちが両想いってこと。
その言葉を聞いて、ぼっと両耳が熱くなるのを感じた。
「なんか熱くない?」
「いや? ……それにしても彩月ってばタコみたい、めっちゃ赤いよ?」
二人で笑っていると今この瞬間がやはり奇跡なのだと体感した。今まで私が生きてきた中で一番満たされた瞬間だった。
あまりにも長く笑っていたからグラスはすっかり汗をかいていて、最後の一口は水の味しかしなかった。でも底からはほんのり春の味がした。――夏なのに。