花束

文字数 13,214文字

 僕はまた花束を夢中になって踏みつけていた。鮮やかな花々は踏まれるたびにくすんでいき、青々とした匂いが漂ってくる。熱を帯びていく肉体とは裏腹に心が冷たいもので満たされていくのがわかる。そして思う、この瞬間があるから僕はまだ大丈夫でいられるのだと。
 今日は日直だからいつもより一本早い電車に乗った。いつもより10分早いだけなのに余裕をもって座ることが出来た。毎朝疲れたサラリーマンと椅子取り合戦をしていたことが少し馬鹿らしく思えてきた。しかし10分とはいえ二度寝の時間を削ってまで席に座りたいかといわれれば答えはノーであることは言うまでもない。むしろ偶に座れることに価値がある。そんなくだらないことを考えながら僕は窓の外に目を向けた。
 「あれ、大島君?」
 僕は突然名前を呼ばれたことに驚き、顔を上げた。目の前には同じクラスの結城花が元より大きな目をさらに大きく広げて僕の顔を覗き込んでいた。
「あ、おう」
 僕はとっさに目をそらし、もごもごと言った。
 「大島君もこっち方面だったんだ。いつもこの電車?」
 彼女は引き続き僕の顔を覗き込みながら、さも当たり前のように僕の左隣に座った。
 「いや、いつもは一本後に乗ってる。今日は日直だから」
 僕は右斜め上のつり広告を眺めているふりをして、動揺を悟られないようにできるだけ素っ気なく返した。
 「ふーん。そういえばさ、今日の英語の課題やってきた?」
 「うん」
 「学校着いたら見せてもらってもいい? 昨日学校に教科書置いて帰っちゃって……」
 「いいよ。でも、字、結構汚いからそれでもいいなら」
 「ありがとう! 全然大丈夫。ほんとに助かります」
 彼女は手を胸の前で合わせて、大きな瞳が見えなくなるくらいくしゃっと笑った。なぜか満足げな彼女の表情を視界の左端で捉えつつ、僕はできるだけ何事もないような顔を作り、小さくうなづいた。
 少しの間沈黙が流れた。彼女は気まずそうな素振りを見せることもなく、窓の外の景色を遠い目で眺めていた。僕はそんな彼女に気づかれないように視界の片隅で彼女を見ていた。同じクラスになって半年程経ったが彼女の顔をちゃんと見るのは初めてな気がした。きれいな顔だと素直に思った。餅のような白い肌に大きな目、鼻は少し高めで、血色のいい唇に吸い込まれるほど黒くて長い髪。左目の下にあるほくろが彼女の顔に親しみやすさを与えていた。静かに外を眺める彼女はどこか楽しげで、そんな彼女から僕は目が離せなくなった。僕は気まずさと自らの鼓動が加速していくのを感じながらも、この時間が終わらなければいいのにと柄にもなくそんなことを思っていた。
 電車が学校の最寄り駅に到着すると彼女は軽やかに立ち上がり、僕もそのあとを追った。改札を抜けたところで彼女は友人の上村明里を見つけた。すると彼女は、またあとでねと言って駆けていってしまった。一人になった僕は少しの疲労と体全体が熱くなっていくのを感じていた。昨日までとは違う一日が始まりそうな気配を僕は感じ取っていた。
 「あ、課題」
 ふと、思い出し口に出た。しかしすぐに、教室につけば会えると思いなおし、学校にむけて歩き始めた。
 学校に着いたらまず、花瓶の水を変え、短くなったチョークがないか点検し、ぶるぉーとうるさい黒板けしクリーナーに黒板消しを押し付け、一通り日直の仕事を終わらせた。僕は教室全体がよく見える左端の自分の席に戻り10分の早起きを取り返そうと机に突っ伏した。始業20分前の教室は静かだった。グラウンドのほうからは朝練に励むサッカー部員の声がする。今から約15分間はこの静かな朝が続くだろう。
黒板の上の時計を見た、席についてからまだ5分と経っていない。なにかを忘れている気がした。視線を時計から腕の中に戻すその瞬間、違和感に気が付いた。右斜め前の席に、自分より先に学校に向けて歩いて行った結城花の姿がなかった。僕は無意識に彼女を意識していたことに気付き顔が熱くなった。その時教室前方のドアが開いた。結城花だった。彼女は僕のほうを見ると軽く右手を挙げて足早に僕の右斜め前にやってきた。
 「さっきぶり!」
 彼女は笑顔で僕に言った。
 「おう」
 僕は彼女ではなく、彼女の左の空間に向けて、返事をした。
 「課題、これ、英語の」
 僕は、彼女の顔を見られないまま、ノートを差し出した。
 「あ、忘れてた、ありがとう!」
 彼女はノートを受け取ると、そっこーで返すからと言って、自分のノートに課題を急いで写し始めた。僕は彼女の背中に向けてそんなに急がなくていいよと遠慮気味に言った。彼女はこちらを振り返らずに左手の親指を上げた。
 昼休みになった。彼女は3限の英語までに課題を終わらせることが出来たようだった。僕はいつも通り、弁当を取り出し、なんとなく席の近い男子同士で固まって弁当を食べていた。僕の好きなのり弁だった。弁当を半分ほど食べ進めたころに、一番に弁当を食べ終わらせたバスケ部の山崎がトランプを持ってきた。
 「昨日、俺が大富豪で終わって、まこっちゃんが富豪だっけ?」
 「そう、で、赤井が大貧民で、良太が貧民、平民どっちだっけ?」
 ぼーっとしていた僕は誠に話しかけられていることに一瞬気が付かず、少し間が開いた。
 「……ん?あぁ、平民だよ」
 「じゃあ、勇人が貧民か。んじゃ、大貧民の赤井君お願いします」
 山崎はにやにやしながら、大貧民の赤井にトランプを渡した。
 「へいへい、今に都落ちさせるからな」
 憎まれ口をたたきながら、こちらもにやにやしながらトランプを配り始めた。
 僕たちは毎日昼休みになると、席の近い5人で弁当を片手に大富豪をしていた。しかしだからと言って、普段から特別親しいわけでもなく、それぞれバスケにサッカーにテニスに卓球、僕は現在帰宅部と部活も同じわけでもない。しかし、毎日行われる大富豪大会は大いに盛り上がり、革命が起きれば大富豪の人が声を荒げ、都落ちをすればみんなが大いに笑いあう。僕はこんな時間が楽しかった。
 左肩を3回、リズミカルに叩かれた。振り向いた先にいたのは片手にパックのミルクティーを持った結城花だった。
 「課題のお礼! いつも飲んでるよね!」
 僕は不意打ちの笑顔に面食らってしまい、あいまいな返事しかできず、彼女はすぐにその場でターンをして、女子グループのほうへ戻っていってしまった。僕は彼女が言った〝いつも〟という言葉を噛みしめていた。彼女が自分のことを見ていた事実だけで表情が自然ととろけていくのを抑えるので必死だった。
 「え、なになに、どーゆー関係?」
 赤井が教室中に聞こえる声量で、意地の悪い表情を浮かべながら言った。クラス中の視線が集まってくるのを感じた。サッカー部で2年生ながらレギュラーを張る赤井はクラスでも注目されるオーラを持っていた。そして今度は、大富豪をしている4人にしか聞こえない音量で新しいおもちゃを見つけた子供のような顔をして言った。
 「で、まじで、どーゆー感じ」
 「いや、別に、そーゆーのじゃないから……」
 僕は急激に居心地の悪さを感じていた。全方位から好奇の視線を感じ、顔を上げられなくなった。そして、強烈な恥ずかしさが全身を覆った。しかし、その一方で腹の奥でふつふつとした怒りが湧き上がってくることも同時に感じていた。僕は今日という日に感じていた特別なわくわく感に水を差された気がして強くイラついた。
 僕は結局上手く返すこともできず、その場に微妙な空気が流れ始めたその時、昼休みの終わりを告げるチャイムが学校中に響いた。チャイムと同時に凍っていた空気が溶けていくようにみなそそくさと弁当をかたづけ、山崎は散らばったトランプをかき集め、それぞれの席へ戻っていった。僕は誰もいなくなった自分の席で、机の中心をじっと見つめていた。ほどなくして5限の始まりのチャイムと同時に現代文の木村がやってきた。僕は我に返り、いそいそと教科書を取り出した。
 6限が終わると同時に僕はカバンを持ち、突風のように教室を出た。僕はおそらくこの日誰よりも早く、校門を通過した生徒だった。駅まで徒歩約15分の道のりを、競歩の要領ですたすたと進んだ。駅まで残り数分のあたりで本来、左に曲がらなければならないところを慣れた足取りで右に曲がり、商店街の小さな花屋に入った。
 「あ、いらっしゃーい」
 黒縁メガネをかけた店主の安田さんが笑顔で迎えてくれた。この店によく立ち寄るようになった僕をいつも優しい表情で迎え入れてくれる。おしゃべりなタイプではない人だが、男子高校生の常連客は珍しいのだろう、いつも僕によくしてくれている。

 僕が初めてこの花屋に入ったのは去年の夏だった。当時僕は剣道部に所属していた。剣道部には上級生が絶対的な存在であるという前時代的な価値観が色濃く残っていた。指導に当たるのも顧問ではなく、学校の近くで剣道道場を開く50代後半の昭和の残党のような男だった。それでいて、強い部活というわけでもなかった。
 僕が剣道を始めたのは小学校1年生の時だった。始めた動機はごく単純なもので兄がやっていたからそこについていった。それだけだった。そんな軽い理由で始めた剣道だったけれど、僕は剣道に夢中になった。僕は周りに比べて成長が早く、同じ道場の同学年の子たちにはすぐに負けなくなった。小学3年生で地区の大会で優勝もした。勝てることが楽しくて、強い男という小学生心くすぐる称号を手に入れて僕は舞い上がった。自分は強い、才能がある。確信していた。今思えばそれはただ単に僕が4月生まれだったからということに過ぎないのかもしれない、しかしそんなこと当時の自分は思いもしていなかった。
 小学5年生になったころ、僕は数年ぶりに同じ道場の同級生に負けた。地区の大会の決勝戦だった。僕は恥ずかしかった。僕はこの敗戦に正面から向き合うことをしなかった。できなかったという方が表現としては正しいかもしれない。最近塾に通いだして忙しかったから、負けたのは仕方がない、次やったら勝てるし、何よりまだ本気出してないだけだし。僕はいじけながらぶつぶつと言い訳を並べた。
 中学受験も考えていたが、結局地元の中学校に進学した。特に深く考えることなく剣道部に入った。この頃から薄々気が付いていた。自分はたいして強くないし、すべてを剣道に捧げてやれるほどの情熱も持ち合わせていないことに。それでも剣道をやめようとはならなかった。別に強くなくても、部活動としてそれなりにこなす剣道もそれなりには楽しかった。中学3年になるころには、僕を小学校時代に負かした同級生は県内有数の選手に成長し、剣道の強豪校から声がかかるほどになっていた。部員5人で4番手に甘んじていた僕はそんな彼の姿を、すげーなーと口に出しながら無感情に眺めていた。
 それでも、勉強がそこそこできた僕は県内でも優秀と言われる学校の中から剣道部のある高校を選んだ。今から新しい何かを始めることのほうが大変だろうと思った。うちの学校の剣道部は高校から剣道を始める初心者と経験者が半々くらいで、実力も一番強い人で地区3回戦レベルだった。僕は部内では剣道歴も長くそこそこやれるほうだった。剣道をするだけなら苦しい空間ではなかった。しかし、入部して一か月ほど過ぎたころから、先輩たちからかわいがりを受けるになった。それはどうやら剣道部に脈々と受け継がれている伝統のようなものだった。毎年だいたい1人、先輩方からありがたい指導を受けられる。社会の厳しさを教えてやると、理由もわからず竹刀で殴られた。同期のみんなは大丈夫かと声を掛けてくることはあっても、先輩に異議を申し立てたり、僕を守ろうと行動してくれるものは1人もいなかった。だからと言って同期を恨んでいるわけではない。僕もきっと自分以外が同じ扱いを受けていたら、間違いなく見て見ぬふりをするだろう。そして、自分の罪悪感を消すためにやられている本人の前では君の味方だと、まっすぐにその誰かに向かって言うだろうから。
 人間とは恐ろしいもので、1か月経った頃にはそんな環境に慣れ切っていた。僕は、殴られても痛くない殴られ方を発明したり、先輩に何をされても、やめてくださいよーと冗談めかしくうことで彼らを満たした。このことが異常であると誰も気が付かなくなっていた。こんな中でも、僕は傍から見れば何ら平常な日常を過ごしていた。教室では注目されることも良くも悪くもなく、教室で笑いが起こればともに笑い教室が静かなときはともに静かだった。輪の中心にはいないものの輪から外れることもない。同級生たちは僕が部活で受けている扱いに気が付きすらしなかっただろう。
 夏休みも終わりに近づくころ、剣道部では学校から一時間半ほどにある避暑地で夏合宿が行われた。連日竹刀をくたくたになるまで振り続けた。僕は合宿中も変わらず繰り返される、言葉と物理による暴力をヘラヘラと受け止め続けていた。そんな合宿の最後の夜、練習を終えて大浴場で汗を流していた時だった。僕は唐突に先輩の一人から羽交い絞めにされ、次々に手足を押さえつけられた。そして、先輩の一人が僕の陰毛を数本掴むとそのまま勢いよく引っこ抜いた。
 「うぇーい、3本!!」
 3本の陰毛を高らかに掲げて叫んだ。
 「一発で何本抜けるか勝負しよーぜ」
 僕の陰毛が抜き去られる様を爆笑しながら見ていた先輩のうち一人がそう言った。この一言をきっかけに、先輩たちは順番によってたかって僕の陰毛を抜き続けた。僕の顔にこびりついていた愛想笑いが消えた。徐々に音が聞こえなくなった、僕を取り囲んで大爆笑している先輩たちの映像は僕の目を通して確かに流れているのに、音が一切しなくなった。次第に、痛みを感じなくなっていた。はじめは抜かれるたびに体がビクッと反応していたが、徐々にそれもなくなっていった。匂いもしなくなった。そして徐々に自分に起きていることが分からなくなり始めた。目の前で10人の裸の男が僕を取り囲んで笑っていた。僕が見ていた映像の片隅から、できるだけこちらを見ないように同期たちがフレームアウトしていった。視界がぼやけていった。そして暗闇になった。
 気が付くと天井があった。僕は合宿所の硬い敷布団にあおむけになって、天井の一点を見つめていた。そして瞳から静かに液体が耳の上に流れていった。
 朝になるまで、天井を見つめ続けた僕はいまだに音がよく聞こえなかった。朝食からは匂いも味もしなかった。
 バスに揺られること1時間半、夕方手前に学校に到着し、合宿は終了し解散となった。僕はどでかいボストンバッグを引きずりながらとぼとぼと駅に向かって歩き出した。歩く僕の前に、先輩たちの集団がいた。同じ駅に向かっているのだから当然のことだ。僕は少し遠回りをして駅に向かうことにした。僕は方角を頼りに初めて通る道を進んでいた。そして駅も近くなってきたころ、商店街の小さな花屋を見つけた。僕はなぜか店の前で足を止めた。視界いっぱいの花々を目の前にしてもなお、そこから本来漂ってくるであろう香りを僕は感じることが出来なかった。目の前の花々はそれぞれがそれぞれ一本一本違う個性を持って咲いていた。それは同じ種類の花同士でもそれぞれ違っていた。一つとして同じ花はなく、人間もまた一人として同じ人はいない。一本一本は美しい花であっても、それらが集まり束になった時、集団としてより美しく価値のあるものになることもあれば、調和がとれない醜く不快なものになることもある。そしてそれは人間もまたそうなのだと思った。
店に入ると、狭い店内にはぎっしりと大量の花々が並べられていた。僕はその中から10本の花を選び花束にしてもらった。店員さんは僕の選んだ花束をよりきれいに見せてくれようと、相性のいい花を勧めてくれたが、僕はこの10本がいいと伝えた。僕は花束をもって店を出ると、駅とは逆の方向に向かって歩き出した。心臓の音が大きくなっていった。歩くスピードがどんどん速くなっていった。商店街を抜けて大きな橋の上から、剣道着が入ったボストンバックを夕日が反射する川に向かって投げ捨てた。僕は花束だけを抱えて走り出した。僕はただ走った、まっすぐ走った。次第にあたりは暗くなり、じめじめした空気が少しずつ澄んでいくのを感じた。くたくたになるまで走り続けた末に、僕は人気のない古びたトンネルにたどり着いた。僕は汗だくになり、のども乾ききって、意識が朦朧としてきた。僕は乾いたのどが切り裂かれるほどの奇声を上げながら、抱え続けてぐしゃぐしゃになりかけていた花束を地面に叩きつけ、一心不乱に踏み続けた。めちゃくちゃになっていく花束から、青々とした匂いが漂ってきた。笑い声が聞こえた、鮮明に聞こえた。それは自分の中から聞こえてくる聞きなじんだ声とトンネルを反響して聞こえる僕の知らない僕の声だった。僕はしばらく踏みつけ続けて、力尽きるように座り込んで、トンネルの外を見た。笑っていた、高揚感と悲壮感がその笑顔の中に同居していた。道路上のミラーに映し出された自分の顔を見て、ひどいもんだと笑いが込み上げてきた。熱い涙が頬を伝った。
 その日以来、僕は部活に行っていない。そして僕は自分の感情の制御を失いそうになると、この小さな花屋を訪れるようになった。店主の安田さんは花好きの子としていつも僕を歓迎してくれた。いつも優しい笑顔を向けてくれる彼に僕は少し罪悪感を覚えながらいつもの調子で花束を頼んだ。
 「今日は、赤い花を中心に全体的に華やかな感じでお願いします」
 「かしこまりました。」
 安田さんは丁寧な口調と素敵な笑顔で親指でグットサインを作った。安井さんはいつも僕が抽象的に伝えたイメージ通りの花束をいつも作ってくれる。安井さんは鼻歌交じりに花を選び、ものの数分で花束を仕上げた。
 「はい、いつも通り3,000円で大丈夫だよね?」
 「はい、ありがとうございます」
 僕は満足げな顔を見せ、3,000円を払い店を出た。僕は出来上がった花束を見て心の中で、赤井のイメージにぴったりだと思いひきつった笑みがこぼれた。
 僕は駅から電車には乗らず線路の高架下をしばらく歩いたところのある、いつもの場所へ向かった。そこは住宅地からも外れたフェンスに囲まれた高架下の変電所の裏で、行き止まりになっているためほとんど人の通ることのない場所だった。僕はカバンを道の端に投げ置き、目の前のコンクリートの壁に向かって出来立ての花束を投げつけた。花束がぶつかった場所に少し緑色が付き、地面に軽く崩れた花束が落ちた。そして僕はその花束めがけて、勢いつけて踏みつけ、2、3回足の裏でグリグリ地面に擦り付けた。花束は緑と赤と茶色い汁を出し、地面に色を付けた。そして青々とした匂いが漂ってくることに僕は気持ちよさを覚えた。
 「クソが、黙れよ、あああああああああ、っざっけんな、クソ」
 僕は、昼休みに起きた出来事でため込んだ感情をすべて、足の裏に集中させて、踏み続けた。その時、背後でドサッというもの音がして、僕は咄嗟に振り返った。
 「かわいそう」
 結城花はおびえたような声でそう言った。
 「いやっ、これは、」
 僕は突然現れた彼女にパニックに陥り、何も言葉が出てこなかった。急に心臓の音が大きく聞こえてきた。足元から猛烈な熱気が脳天まで駆け上った。彼女は落としたカバンを拾い上げ、逃げるようにその場から走り去っていってしまった。僕は追いかけることもできず、その場に立ち尽くした。
 僕は彼女が走り去るのを見送ると、次第に呼吸が浅くなっていくのを感じた。
 「終わった」
 僕は小さく言った。言葉にしたとたん、現実的な恐怖が目の前に広がりだした。明日、学校に行けば僕は奇異の目に晒され、腫物のように誰からも避けられることは火を見るより明らかだった。明日だけなら仮病でもなんでも使って学校をさぼることはできるだろうが、それももって3日だろう。今度は両親から学校に行かない理由を問いただされ、僕が答えなくても、じきに僕がしでかしたことを聞きつけ、僕という人間は家族からも居場所を失うだろう。何より、新しく僕の中に芽生えていた結城花に対する甘さと酸っぱさが入り混じった感情の終わりでもあった。僕は呼吸が苦しくなり、強烈な吐き気に耐えかねて、ぐちゃぐちゃになった花束の上に、その日食べたものすべてをぶちまけた。しばらく激しくえずいて、呼吸を取り戻した僕の頭の中で彼女の言った言葉が何度も響き続けていた。あの言葉は花束ではなく僕に向けられていた気がした。
 僕は次の日学校に行かなかった。母には体調が悪いと言って、一日中ベットに寝転んで天井をぼーっと眺めていた。次の日も同じように過ごした。母は心配して病院に行くように何度も言ってきたが、僕は大丈夫だからと答え、部屋で寝ていた。土日を挟み、もう仮病も通用しなくなる月曜日、僕は学校に行くことにした。これ以上母親に無用な心配をかけるわけにはいかなかったし、もしかしたら、彼女が誰にも話さないでくれた可能性もあることをこの4日間で信じてみる気になったからだった。きっと彼女ならとそう思うようになっていた。
 僕はこの日いつもより二本早い電車で学校に向かった。僕は、通いなれたはずの駅からの道を恐る恐る、初めて学校に向かった時の何倍も心臓をバクつかせながら歩いた。まだ時間が早かったからか、学校まで生徒にほとんど会うことなくたどり着いた。校門を抜けて、下駄箱で靴を履き替え、階段を上り教室の前まで来た、僕は扉の前で一度大きく息を吸い込み、扉を開けた。教室には部活の朝練で早く来た生徒のカバンがあるだけで、誰もいなかった。僕は誰もいない教室をゆっくり進みドアから一番遠い教室の左端の自分の席に座った。5分ほど経ち、一人の女子が教室に入ってきた。クラスメイトの佐々木さんだった。僕はできるだけ自然に佐々木さんを視界に入れた。彼女は教室に入り僕を見るなり、少し怪訝な表情を浮かべた気がした。僕はやっぱり、僕の行った奇行がすでにみんなに知れ渡っているんだと、確信し猛烈な恥ずかしさと絶望感に襲われ下を向いた。すると、教室に入った彼女の足音がどんどん僕のほうへ近づいてくるのが分かった。僕は今すぐにも声を上げて逃げだしそうになることを必死で抑えていた。
 「あのー、大島君、休んでる間に席替えしたから、そこ私の席」
 下を向いてしまった僕に向かって、彼女はそう言った。
 「え、あ、うん」
 「だから、うんじゃなくて、そこ私の席だから」
 「あ、ごめん」
 僕は彼女の言葉をやっと理解し、慌ててカバンをもって立ち上がった。
 「新しい席教卓に貼ってあるよ」
 そう教えてくれた彼女に、軽くお礼を伝えて、新しい席を確認しに教卓に向かった。僕の新しい席は真ん中の列の右側後ろから二番目だった。そして僕はひとつ前の席に結城花と書かれていることに気が付いた。あんな出来事がなければ手放しに喜んでいただろうなと、自嘲気味に笑った。新しい自分の席についた。佐々木さんは僕のことを避けている感じでも、攻撃的でもなかった。僕の心のざわつきが少しずつ静まっていくのを感じた。始業時間が近づくにつれて徐々に教室には人が増え始めた。僕が恐れていたことは何一つ起こらなかった。いつもと何ら変わらない日常が教室にはあった。僕は普通にクラスメイトと言葉を交わした。仮病まで使って家でおびえていたことが馬鹿らしくも思えてきた。
 僕は正常な心を取り戻しつつあるとき、結城花は教室に入ってきた。僕は彼女を視界にとらえ、彼女が僕の前に来るのを待ち構えた。
 「おはよう」
 僕は、できるだけ心の揺らめきを悟られないように言った。
 「……あ、うん……」
 少し間が開いて、彼女は僕のほうをほとんど見ずに答え、僕に背を向け座った。僕は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
 その日は一度も結城花は僕と目も合わせてくれる気配もなく、プリントを後ろに回す時ですら、顔をこちらに向けることなく手だけを後ろに向けてきた。苦しかった、ほんの一週間前までなら彼女にどんな態度をとられていても、僕の日常は滞りなく過ぎていったはずだった。たった5日前にたまたま日直だった僕が、一本早く乗った電車で彼女に話しかけられていなければ、彼女は僕にとって、ただのクラスメイトのままでいたはずで、あの電車で朝日が彼女を照らさなければ僕はこんなにも苦しむことはなかった。僕が人知れず花束をめちゃくちゃにすることで、自分の心を守り続けたことも誰にも知られることはなく、僕自身もあの行動に依存したままでいられたはずだった。僕はこうして自分の運命的な何かを恨んでいるこのときも、刻々と自分の中で彼女の存在が大きくなっていることを感じまたそれを恨めしく思っていた。
 それから、一週間教室内の日常は以前と何ら変化なく、滞りなく進んでいた。昼休みの大富豪もこれまでと変わらず続いていたし、僕と赤井の関係が悪くなるなんてこともなく良くも悪くも変化しない日常がそこにあった。ただ一つ、僕と結城花との間、実寸たった数十センチの距離が途方もなく遠く何かが始まる気配は気配だけで、何も始まらず終わったのだと僕は悟った。
 それから、一週間がたった。僕は相変わらず、新しい色も匂いもしない日常を淡々とこなすように過ごしていた。僕は掃除当番の仕事を済ませ、念入りにアップをする野球部を尻目に校門を出た。今日まで丸二週間結城花とは一言も話せていなかった。話せないどころか、僕のことを避けるように、授業が終わるとすぐに教室からいなくなり、授業が始まる直前に戻ってくるほどに徹底的に避けられていた。
 「仕方ないよな、あんなん見られたら」
 僕はため息交じりに独り言を言った。この二週間毎日この調子で、もう終わっているのに結城花のことばかり考えてしまっていた。駅につき改札を抜けたと同時に、電車がホームに入ってくる音がした。僕はぎりぎり間に合うと階段を駆け上がった。ドアが閉まるのとほぼ同時に電車内に飛び込んだ。突然の全力階段ダッシュは帰宅部になって一年以上経つ僕には厳しく、膝に手をついて、肩で息をしながらゆっくりと呼吸を整えた。呼吸が少し楽になり、顔を上げると向かい側のドアと座席の角に寄りかかっていた、結城花と目が合った。
 彼女は一瞬固まって、視線を手に持っていたスマホに戻し、僕のほうに向いた体の向きを外に変えた。僕の静まりかけた心拍数がまた上昇に転じた。心拍数と比例するように脳の回転数も猛烈に上がっていく。ここで、僕のとるべき行動はなんだ。脳内では一瞬の間に思いつく限りのシミュレーションが行われた。どのルートを辿ろうとしても自分に都合のいい結末に勝手にもっていきそうになる。それらを猛スピードで打ち消していくと、もう脳内は真っ白になってしまった。僕は空気を大きく吸い込んだ。覚悟を決めたのだ。空気を多めに吐いて、僕は彼女のほうへ一歩近づき言った。
 「あの日、なんで、あそこにいたの」
 僕は、振り絞るように言った。
 「ごめんなさい」
 彼女はそう答えた。僕はそのごめんが何に対する謝罪なのか、今日まで避けてきたことへの謝罪なのか、あの日見てしまったことへの謝罪なのかわからなかった。そして彼女は少し間をおいて言った。
 「謝ろうと思ってたの、昼休み、私のせいで微妙な空気になっちゃって。大島君嫌そうな顔してたから」
 僕は黙って彼女の言葉を聞いていた。
 「それで、謝ろうと思って、放課後、でも大島君すぐ帰っちゃったから、急いで追いかけようと思って駅に向かったら、花束を抱えて歩いてるの見つけて、声かけようと思ったんだけどなんか怖くて、でも気になって……」
 彼女は言葉を区切りながら、絞り出すように、ゆっくりと話した。
 「あれを、見ようと思ったわけじゃなくて、そのあと、学校で会っても、どうやって接したらいいのかわかんなくて、ごめんね、避けてるみたいになって」
 彼女は僕のほうを向いて、まっすぐに僕の目を見た。
 「ううん、俺こそ、ごめん、変だよね、俺」
 彼女は首を横に振った。
 「いや、変だよ、結城は優しさでそんな風に言ってくれるけど、自分でもわかってる、普通に考えて、花束買って、それ自分で踏みつけて、いかれてるよ」
 僕は自嘲気味に吐き捨てるように言った。
 「ねえ、どうして、あんなことしてたの」
 彼女は僕の顔を覗き込むように少し困った顔をして聞いた。
 「どうして……」
 僕は考え込んでしまった。きっかけは確かにあの夏合宿だった。でもそれはきっかけに過ぎない。根本的にどうしてあんなことをするようになったのだろうか。

 僕は、まあまあ恵まれて育ってきたと思う。食べることに困ったことは無く、生活する上で不自由に思うことなど一つもなく育ってきた。両親からも愛されているのだと思う。兄は勉強は苦手だったが剣道の実力をめきめき伸ばし全国区の選手として、剣道で大学の推薦を得るほどになっていた。僕は小学生から塾に通わせてくれたおかげか勉強もそこそこできた。僕は大人たちからは常に真面目で手のかからないいい子といった評価を受けていた。僕はこのことに特段不満はなかったし、むしろその方が楽で生きやすいから自らその役割を背負っていた。ただいつからか、そんな自分がいたくつまらない人間であるような気がしてならなくなった。夜になると夜闇と一緒に巨大な不安が僕を襲うようになった。テレビをつければ、成功者と言われる人々の挫折や不遇の経験がはやしたてられそれを乗り越えた経験を美談として語る。紆余曲折のない人生に価値なんてないように思えてくる。大人たちは従順であることを幼心に押し付けたと思えば、反抗する青年にあいつは大物になるなんて言い始める始末だ。話が違うじゃないか。ちゃんと勉強して、ちゃんと部活動に励んで、ちゃんとした大人になれば安定して幸せな人生を送れるからね。母はそう言ったがそんなのは自分の人生を肯定したいがための言い訳だ。だったら今からでも遅くないそこから飛び出してみればいい。まだ高校生なのだから。そんな声が自分の内側から聞こえてくる。飛び出そうと心が叫ぶ。ただもう既に調教されきった僕の体はそこから動き出すことが出来なくなっていた。昼間の僕は調教された体が、世の中に都合の良いように勝手に動く。夜になると心が叫びだす。こんな体を滅ぼしてしまえと。僕の心は何度となく自分の肉体を滅ぼそうとした。しかし、調教された体は、その事さえも、社会にとって都合が悪いと許してくれなかった。僕は調教された体のコントロール権をとっくに失っていた。僕にとってあの夏合宿の出来事は僕を強く縛り付けていた体の調教を強く上回る心の衝動だったんだ。そして僕は花束を踏みつけることで、僕の体を社会からの調教から取り戻そうとしていたのだ。そのことに気が付くと僕は体が軽くなるのを感じた。

 しばらく、黙り込んでしまった僕に彼女は何も言わなかった。ただ僕の次の言葉を待ち続けてくれた。しかし、電車は進み僕の最寄り駅のホームに入った。すると彼女は言った。
 「ねえ、私はいつもこの時間の電車にいるから、だから、また明日」
 僕は、何も言えずに、静かにうなずき電車を降りた。
 その日の夜、僕はベッドで独り、天井を見つめていた。不思議な感覚に陥っていた。夜なのに怖くないことに驚いていた。僕の心から叫ぶ声がしなくなった。僕は心と体が一体になる感覚を感じていた。僕が感じていた、自分自身が社会という大きな波に飲み込まれていくような漠然とした不安感はもうない。僕は調教から解放されたのだと思った。久しぶりに夢もみないでよく眠れた。
 朝になり、いつものように学校へ向かう。足どりは軽い。空気が清々しく感じた。空気に清々しさを感じたのはいつ以来だろうか。学校に着いて授業が始まると、その面白さに驚きを覚えた。将来のために、テストで点を取るために聞いていた授業とは中身は変わっていないのにも関わらずこんなに違うものなのかと思えた。これまでと変わらない生活なのに、自分を縛っていた普通から離れたとたんこんなに世界は違うものに見えるのかと感嘆した。きっと教室にいる誰も僕が変わったなんて一つも思わないだろう。でも、僕の見えている世界は確かに変わっていた。吐いてばかりいた息を吸い込みたいと思わせてくれる世界だった。今の僕には、縛るものは一つもなかった。
 僕は彼女に似合う、とっておきの花束をもってあの電車に乗ろうと決めた。
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