運命のティラミス(完)
文字数 3,963文字
「僕が行きつけの喫茶店で彼女の姿を初めて見かけたのはほんの数週間前のことだ。もしかすると、これまでにも視界に入ることくらいはあったのかもしれないけれど、彼女という存在を初めて認識したのはその日に限る。
あの日、店内から外を眺めていると、テラス席に座る彼女の姿が目に留まった。他にもお客さんがいる中で、どうして彼女にだけ僕の意識が向いたのか、明確な理由は自分でもよくわからないけれど、たぶん、彼女の醸し出す雰囲気や空気感といったものが僕のフィーリングとマッチしたのだと思う。
あれ以来、僕は喫茶店を訪れる度に彼女の姿を探すようになった。いや、いつからか僕は彼女を求めて喫茶店に通うようになっていたように思う。
そして今日もまた僕は、大学の講義が終わると、いつものように喫茶店を訪れ、いつもの席からテラス席を眺める。そこに彼女の姿があることは店内に入る前から気付いていた。
僕はすまし顔で手を上げ、店員を呼ぶと、苦くはないものの大人びて見える飲み物を注文した。本当は甘くて濃厚なティラミスを欲望の赴くままに食したかったのだけれど、彼女がいつ僕の方を見てくるかわからなかったし、懐事情が芳しくないから諦めるしかなかった。いくら節約のために自炊してモヤシばかり食べる生活を送るようにしてはいても、こうして毎日喫茶店に通っていてはいくらお金があっても足りやしない。いや、さすがに一億円とかあれば話は別だけれど。
今日もテラス席に座った彼女は、ときおりティーカップに口をつけながら本を読んでいた。カバーが掛けられていてタイトルはわからないけれど、本のサイズからして文庫本だと思う。
喫茶店にいるとき、彼女はいつも物静かに本を読んでいる。読書が好きに違いない。活字を見ただけで睡魔に襲われる僕とは大違いだ。
ページを捲る彼女の姿は、他のお客さんにはない独特な空気をまとっているように見える。人目を気にせず、自分の世界に入り込んでいるとでも言うのだろうか。
僕は喫茶店に一人でいるところを知り合いに目撃されたくない気持ちが強いのだけれど、彼女にはそれがない。彼女はいつだって一人でいる。
そんな彼女を僕は好意的に捉えている。断っておくが、彼女と付き合いたいだとかいう恋愛感情とは違う。もちろん告白をされたらOKの返事を出すことに躊躇いを覚えはしないだろうけれど、ここで言う好意は好感と置き換えても良い。
そう。いつも喫茶店で一人、読書に耽っている彼女に、僕はいつしか好感を抱くようになっていた。
好感を抱いてしまえば、その姿を自然と目で追うようになったのは自然の流れと言えよう。
僕はまた今日も彼女を遠巻きに見つめる。
彼女は読んでいた本を一旦閉じると、小さく手を上げて店員を呼び寄せた。僕は振り向いた彼女と目が合わないように顔を背けることに必死だったけれど、彼女が何かを注文していることはわかった。
焦ることはない。彼女が注文したものをリアルタイムで知ることは叶わずとも、いずれはわかること。だからこそ僕は答え合わせの時間がくるのを冷静に待つことができた。
もっとも、僕が落ち着いていられたのは、店員が注文の品を彼女のテーブルに運んでくるまでの間だけに過ぎない。
正直、驚愕した。心臓がバクバクと鼓動し、音が周りに漏れてしまうのではないかと心配してしまうほどに。
なぜなら、彼女のテーブルに運ばれてきたものは、僕が金銭的な理由で諦めざるを得なかったティラミスだったのである。
これを運命と言わずして何を運命と言うのだろう。少なくとも、僕の中ではベートーベンの交響曲第五番よりもよっぽど運命を感じた。
だけど同時に戸惑いを覚えなかったと言えば嘘になる。だって、さすがに出来過ぎていると思った。
僕の心の内は自分でも気づかない間に表へと露見してしまっていたんじゃないか……。そんなことを考えた。もしその通りだとすると、彼女がティラミスを注文したのは僕へのメッセージと捉えることもできる。
メッセージ……その意味は何だろうか。
僕を誘っているとも考えられるけれど、そうとは限らない。客観的に現状を分析すればむしろ、遠巻きに彼女を見つめる僕に対する牽制のような気がする。
僕は血の気が引いていくような感覚に襲われた。もしも本当に後者であった場合、僕のこのささやかな喫茶店ライフは終わりを迎えるに等しい。
だけどもし、もしも前者であったとするならば……。その可能性を考えると、より一層状況を見極める必要があると感じた。
僕は必死に動揺を隠し、彼女の観察を続行する。
店員が戻って行くと、彼女は手提げカバンの中から小さなカメラを取り出した。そうして僕の不安をよそに、テーブルに置かれたティラミスの撮影を始めたのである。
食べる前に撮影をしてSNSにでもアップするのだろうと思った。彼女がそうした行為をする印象は持っていなかったので、僕は正直なところ失望しかけたのだけれど、よくよく見ていると、見当違いであることに気付いた。
なぜなら、彼女が使用しているカメラが、デジタルではなく、フィルムを用いたアナログな物だったから。
あれではネット上に直接アップすることはできないはずだ。デジタルに変換してアップすることは可能だとしても、そんな手間を掛けるくらいであれば初めからアナログでの撮影などしないだろう。
そうしたことを考慮すると、彼女は撮影したものをネット上にアップして自尊心を満たすことを目的としておらず、あくまで自分が楽しむために撮影を行っているのだと考えることができる。そうであるならば僕が彼女に対して抱いている印象から大きく逸脱することはなく、僕が彼女に対して抱いている好感が薄れることもない。
僕はホッと肩を撫で下ろすと、一息つくため砂糖の入ったレモンティーに手を伸ばした。疲労の回復には糖分の摂取が効果的であるというのが僕の身に着けた確証のない雑学であり、また、そのような効果を実感した経験も持ち合わせている。
あれは僕がまだ中学生であった五年前のことだ。僕がサッカー部に所属していた頃の話であり、当時のことを懐かしく思い出しかけたところで僕はハッと顔を上げた。
観察対象である彼女が立ち上がり、テラス席から店内に移動してきたのである。悠長に思い出に浸っていられるような状況ではなかった。
僕は凝視することは避け、横目で彼女の姿を追った。
初め、僕は彼女がセルフサービスであるコーヒーのおかわりのために店内へ移ったのだと思った。
だけど違った。なぜなら、この喫茶店にはコーヒーのおかわりが自由に受けられるサービスなど存在していない。そして何より、彼女の向かった先がコーヒーメイカーの置かれた場所ではなく、あろうことか、この僕の目の前だったのである。
何かの勘違いなのではないか。そんな儚い希望を抱きながら僕は顔を上げた。
すると、そこにあったのは僕がこの目で観測していた通り、僕を見下ろす彼女の姿だった。
彼女は明らかに僕のことを見ていて、僕という存在を認知した上でそこに立っているようだった。
僕を睨み付けるように見つめる様は、僕がこれまで彼女に対して抱いた印象のどれとも当てはまらない。まるで、僕の知らない別人がそこにいるかのようにさえ思えた──」
昼下がりの喫茶店。ノートPCを広げて大学のレポートを書いていた私の目の前に突如として現れた少女は、長々と続いた一人称による一人語りに一区切りをつけるように溜め息をつくと、甚だしいほどの戸惑いによって身動きが取れずにいる私を見据え、言葉を続ける。
「なーんてことを考えていたんでしょう? だけどそれは大きな間違い。言い換えれば、あなたの勝手な妄想」
少女は吐き捨てるように、あるいは私を軽蔑するかのように言った。
なぜこのような状況になってしまったのかは私にはわからない。
私はただ、喫茶店でレポートの作業をしていたに過ぎない。この少女のことなど一瞥だってした覚えはなく、目の前に立たれたことで初めて存在を認識したくらいなのである。
「ご覧の通り、本当の私はあなたが思っているような人間じゃないの。本なんか読んでも頭が痛くなるだけだし、腹が立てば平気で舌打ちだってする。私はそういう人間なの」
少女は踵を返し、私に背を向ける。
「わかったらもう、私には関わらないで。それが……あなたのためでもあるから」
そう言い残し、立ち去って行く少女の姿を私は目で追いかけた。そして、少女の姿が見えなくなっても尚、だらしなく開け広げた口を閉じることができない。言いたいことは山のようにあったのだが、私には呆然と見ていることしかできなかった。
「ああ、気にしなくて平気ですよ。いつものことなんで」
私が抜け殻のように呆けていると、いつの間にか私の隣に立っていた店員が言った。
顔を上げて彼を見遣ると、彼は状況を全て把握しているのか、私の注文を受けたときとは対照的に苦笑していた。
「あの子、よく来てくれる常連さんなんですけど、たまに、さっきみたいな奇行に走ることがあるんです。まあ悪い子ではないんで、そっとしておいてあげて下さい」
「そそ、そうなんだ……。ふーん……」
店員が持ち場に戻って行ったところで私も作業に戻ることにした。
ただ、あれだけのことがあった後となっては、元のように作業を再開するのは難しい。キーボードを叩きながらも私の頭の中は彼女のことで満たされていた。
私はきっと、明日も、またその次の日も、彼女の姿を求めてこの喫茶店を訪れることになるのだろう。
あの日、店内から外を眺めていると、テラス席に座る彼女の姿が目に留まった。他にもお客さんがいる中で、どうして彼女にだけ僕の意識が向いたのか、明確な理由は自分でもよくわからないけれど、たぶん、彼女の醸し出す雰囲気や空気感といったものが僕のフィーリングとマッチしたのだと思う。
あれ以来、僕は喫茶店を訪れる度に彼女の姿を探すようになった。いや、いつからか僕は彼女を求めて喫茶店に通うようになっていたように思う。
そして今日もまた僕は、大学の講義が終わると、いつものように喫茶店を訪れ、いつもの席からテラス席を眺める。そこに彼女の姿があることは店内に入る前から気付いていた。
僕はすまし顔で手を上げ、店員を呼ぶと、苦くはないものの大人びて見える飲み物を注文した。本当は甘くて濃厚なティラミスを欲望の赴くままに食したかったのだけれど、彼女がいつ僕の方を見てくるかわからなかったし、懐事情が芳しくないから諦めるしかなかった。いくら節約のために自炊してモヤシばかり食べる生活を送るようにしてはいても、こうして毎日喫茶店に通っていてはいくらお金があっても足りやしない。いや、さすがに一億円とかあれば話は別だけれど。
今日もテラス席に座った彼女は、ときおりティーカップに口をつけながら本を読んでいた。カバーが掛けられていてタイトルはわからないけれど、本のサイズからして文庫本だと思う。
喫茶店にいるとき、彼女はいつも物静かに本を読んでいる。読書が好きに違いない。活字を見ただけで睡魔に襲われる僕とは大違いだ。
ページを捲る彼女の姿は、他のお客さんにはない独特な空気をまとっているように見える。人目を気にせず、自分の世界に入り込んでいるとでも言うのだろうか。
僕は喫茶店に一人でいるところを知り合いに目撃されたくない気持ちが強いのだけれど、彼女にはそれがない。彼女はいつだって一人でいる。
そんな彼女を僕は好意的に捉えている。断っておくが、彼女と付き合いたいだとかいう恋愛感情とは違う。もちろん告白をされたらOKの返事を出すことに躊躇いを覚えはしないだろうけれど、ここで言う好意は好感と置き換えても良い。
そう。いつも喫茶店で一人、読書に耽っている彼女に、僕はいつしか好感を抱くようになっていた。
好感を抱いてしまえば、その姿を自然と目で追うようになったのは自然の流れと言えよう。
僕はまた今日も彼女を遠巻きに見つめる。
彼女は読んでいた本を一旦閉じると、小さく手を上げて店員を呼び寄せた。僕は振り向いた彼女と目が合わないように顔を背けることに必死だったけれど、彼女が何かを注文していることはわかった。
焦ることはない。彼女が注文したものをリアルタイムで知ることは叶わずとも、いずれはわかること。だからこそ僕は答え合わせの時間がくるのを冷静に待つことができた。
もっとも、僕が落ち着いていられたのは、店員が注文の品を彼女のテーブルに運んでくるまでの間だけに過ぎない。
正直、驚愕した。心臓がバクバクと鼓動し、音が周りに漏れてしまうのではないかと心配してしまうほどに。
なぜなら、彼女のテーブルに運ばれてきたものは、僕が金銭的な理由で諦めざるを得なかったティラミスだったのである。
これを運命と言わずして何を運命と言うのだろう。少なくとも、僕の中ではベートーベンの交響曲第五番よりもよっぽど運命を感じた。
だけど同時に戸惑いを覚えなかったと言えば嘘になる。だって、さすがに出来過ぎていると思った。
僕の心の内は自分でも気づかない間に表へと露見してしまっていたんじゃないか……。そんなことを考えた。もしその通りだとすると、彼女がティラミスを注文したのは僕へのメッセージと捉えることもできる。
メッセージ……その意味は何だろうか。
僕を誘っているとも考えられるけれど、そうとは限らない。客観的に現状を分析すればむしろ、遠巻きに彼女を見つめる僕に対する牽制のような気がする。
僕は血の気が引いていくような感覚に襲われた。もしも本当に後者であった場合、僕のこのささやかな喫茶店ライフは終わりを迎えるに等しい。
だけどもし、もしも前者であったとするならば……。その可能性を考えると、より一層状況を見極める必要があると感じた。
僕は必死に動揺を隠し、彼女の観察を続行する。
店員が戻って行くと、彼女は手提げカバンの中から小さなカメラを取り出した。そうして僕の不安をよそに、テーブルに置かれたティラミスの撮影を始めたのである。
食べる前に撮影をしてSNSにでもアップするのだろうと思った。彼女がそうした行為をする印象は持っていなかったので、僕は正直なところ失望しかけたのだけれど、よくよく見ていると、見当違いであることに気付いた。
なぜなら、彼女が使用しているカメラが、デジタルではなく、フィルムを用いたアナログな物だったから。
あれではネット上に直接アップすることはできないはずだ。デジタルに変換してアップすることは可能だとしても、そんな手間を掛けるくらいであれば初めからアナログでの撮影などしないだろう。
そうしたことを考慮すると、彼女は撮影したものをネット上にアップして自尊心を満たすことを目的としておらず、あくまで自分が楽しむために撮影を行っているのだと考えることができる。そうであるならば僕が彼女に対して抱いている印象から大きく逸脱することはなく、僕が彼女に対して抱いている好感が薄れることもない。
僕はホッと肩を撫で下ろすと、一息つくため砂糖の入ったレモンティーに手を伸ばした。疲労の回復には糖分の摂取が効果的であるというのが僕の身に着けた確証のない雑学であり、また、そのような効果を実感した経験も持ち合わせている。
あれは僕がまだ中学生であった五年前のことだ。僕がサッカー部に所属していた頃の話であり、当時のことを懐かしく思い出しかけたところで僕はハッと顔を上げた。
観察対象である彼女が立ち上がり、テラス席から店内に移動してきたのである。悠長に思い出に浸っていられるような状況ではなかった。
僕は凝視することは避け、横目で彼女の姿を追った。
初め、僕は彼女がセルフサービスであるコーヒーのおかわりのために店内へ移ったのだと思った。
だけど違った。なぜなら、この喫茶店にはコーヒーのおかわりが自由に受けられるサービスなど存在していない。そして何より、彼女の向かった先がコーヒーメイカーの置かれた場所ではなく、あろうことか、この僕の目の前だったのである。
何かの勘違いなのではないか。そんな儚い希望を抱きながら僕は顔を上げた。
すると、そこにあったのは僕がこの目で観測していた通り、僕を見下ろす彼女の姿だった。
彼女は明らかに僕のことを見ていて、僕という存在を認知した上でそこに立っているようだった。
僕を睨み付けるように見つめる様は、僕がこれまで彼女に対して抱いた印象のどれとも当てはまらない。まるで、僕の知らない別人がそこにいるかのようにさえ思えた──」
昼下がりの喫茶店。ノートPCを広げて大学のレポートを書いていた私の目の前に突如として現れた少女は、長々と続いた一人称による一人語りに一区切りをつけるように溜め息をつくと、甚だしいほどの戸惑いによって身動きが取れずにいる私を見据え、言葉を続ける。
「なーんてことを考えていたんでしょう? だけどそれは大きな間違い。言い換えれば、あなたの勝手な妄想」
少女は吐き捨てるように、あるいは私を軽蔑するかのように言った。
なぜこのような状況になってしまったのかは私にはわからない。
私はただ、喫茶店でレポートの作業をしていたに過ぎない。この少女のことなど一瞥だってした覚えはなく、目の前に立たれたことで初めて存在を認識したくらいなのである。
「ご覧の通り、本当の私はあなたが思っているような人間じゃないの。本なんか読んでも頭が痛くなるだけだし、腹が立てば平気で舌打ちだってする。私はそういう人間なの」
少女は踵を返し、私に背を向ける。
「わかったらもう、私には関わらないで。それが……あなたのためでもあるから」
そう言い残し、立ち去って行く少女の姿を私は目で追いかけた。そして、少女の姿が見えなくなっても尚、だらしなく開け広げた口を閉じることができない。言いたいことは山のようにあったのだが、私には呆然と見ていることしかできなかった。
「ああ、気にしなくて平気ですよ。いつものことなんで」
私が抜け殻のように呆けていると、いつの間にか私の隣に立っていた店員が言った。
顔を上げて彼を見遣ると、彼は状況を全て把握しているのか、私の注文を受けたときとは対照的に苦笑していた。
「あの子、よく来てくれる常連さんなんですけど、たまに、さっきみたいな奇行に走ることがあるんです。まあ悪い子ではないんで、そっとしておいてあげて下さい」
「そそ、そうなんだ……。ふーん……」
店員が持ち場に戻って行ったところで私も作業に戻ることにした。
ただ、あれだけのことがあった後となっては、元のように作業を再開するのは難しい。キーボードを叩きながらも私の頭の中は彼女のことで満たされていた。
私はきっと、明日も、またその次の日も、彼女の姿を求めてこの喫茶店を訪れることになるのだろう。