第1章 エンリカ・カッサーノ巡査部長

文字数 3,398文字

 希望と使命感をもって就いたはずの仕事なのに――エストレミータ市警に入署して七年目、わたしはいつしか失望と幻滅に慣れ始めていた。数か月にわたる地道な捜査の末ようやく逮捕した麻薬売買の元締めA・パリヤーロが、ミネッティ署長の一存であっさり釈放されたと知っても、さほど驚きもしなかった。わたしの同僚のマルコはパリヤーロ逮捕の際の銃撃戦で負傷して、今もまだ入院中だというのに。 


 上層部から末端まで汚職と腐敗が蔓延しきった市警。悪党から賄賂をもらっていない警官を探す方が難しいような組織の中で、それでもわたしは、自分の信じる正義を実現しようとして、無駄なあがきを続けていた。 

 そんな苦い失意の日々が一変してしまうとは、想像もしていなかった。


「聞いてくれ、エンリカ。副署長がもうすぐここに来られることになっている」 


 わたしの直属の上司である特務課のギルラン課長が、仏頂面でそう言い出した。 

 わたしは首をかしげた。


「副署長って確か、先月サント・クレハンス湾に浮かんだんじゃありませんでしたっけ? 賄賂の増額を要求して、タランティーニを怒らせたもので――『あまり調子に乗ると警察官僚でもただじゃ済まないぞ』っていう見せしめのために消された。そぉいう話だったと思いますけど」 


 わたしの席は課長の席のいちばん近くにある。ギルラン課長はどっしりした体型の四十台だ。ぬいぐるみの熊に茶色い太い眉毛と立派な口髭を足したような顔立ちで、いつも、きっちりしているが色柄のセンスが壊滅的な服装をしている。わたしはギルラン課長をけだるく眺めた。派手な縦縞の上着に横縞のシャツを合わせるなんてあり得ない、と内心あきれながら。 


 そんなわたしの気持ちも知らず、しかつめらしい表情で課長は首を横に振った。


「そっちの副署長じゃない。こないだ着任したばかりの、ファルコ副署長代行のほうだ。例の天才少年だよ。ローマから派遣された軍警察の特任警視正」

「……上層部(うえ)の人事にはあまり興味ないんですよぉ。誰が着任したって、同じでしょ?」


 わたしは適当な返事をしておいた。本当に興味がなかったので話に深入りしたくなかったのだ。


 アンドレア・ファルコ副署長代行のことは、知らないわけじゃない。入署当時にずいぶん話題になっていた人だから。見たことはないけど。


 エストレミータ市の治安の悪さは国内でも群を抜いている。地方警察には任せておけないと判断したのか、とうとう軍警察が人を送り込んできた。それがファルコ特任警視正だ。刑法典を隅から隅まで理解し、わずか十三歳で、首都の一流大学で博士号を取ったという天才少年。軍警察にスカウトされ、十五歳なのに警視正の肩書を持っている。


 いくら頭が良くたって、現場で子供に何ができるっていうんだろう。まして、警察の威信が地に落ちきっている、こんな街で。軍警察もずいぶん罪な真似をする。子供一人を送り込んだぐらいで、何かが変わると本気で思ってるんだろうか。それとも単に、この街の惨状を偵察させたいだけだろうか。 


「そんな人が、特務課なんかに、いったい何の用事なんですかぁ?」 


 わたしは尋ねてみた。ギルラン課長はまた首を振った。 


「さっぱりわからん。ひょっとして公務員連合組合に文句を言われずに、合法的にわれわれをクビにする方法をついに見つけ出した、とか……?」

「うわっ。洒落にならないわ、課長」


 わたしたちの前途は常に暗い。明るいニュースなんか、絶えてない。気分を変えようと、わたしは立ち上がった。そう言えば入院中のマルコから頼まれていた事があったのだ。


 マルコの机の下に、小さなブリキのじょうろが押し込まれている。わたしはそれを洗面所へ持っていって、水を汲んだ。かび臭い洗面所の水道は、肺を患った老人のように苦しげに咳き込みながら、じょうろを満たした。


 曇った鏡の中からこちらを見返しているのは、ウェーブのかかった黒髪をきつく後ろで引っつめた、小づくりな顔の女だ。情熱的だといわれる大きな瞳とつやつやした髪は若い頃から変わらないが、三十も近くなってくると、さすがに全体的にくたびれが目立つ。女にしては高すぎる身長も、男受けという点では減点材料だ。

 ぱっとしないな。首に巻くスカーフはもっと明るい色にしなくちゃ。


 湿っぽくてかび臭いのは洗面所だけではない。このフロア全体がそうだ。ここは地下二階。本来なら倉庫に使われていたスペースに、わたしたちの部署は押し込められている。洗面所を出てオフィスへ戻るわたしの頭上で、切れかけの電球がまたたいた。


 薄暗い廊下を進み、オフィスに近づくにつれ、かび臭さはヤニ臭さに取って代わられる。オフィスの入口に立って中を見渡すと、タバコの煙で(もや)がかかったようになっていた。


 総勢十九人が所属する特務課。ほぼ全員がデスクにいて、新聞や過去の捜査記録を読んでいる。仕事を探している(・・・・・・・・)のだ。窓のない部屋で、それだけの人数が一日中タバコをふかすのだから、空気の汚さはトリノの工場街も顔負けだ。


 わたしはマルコのデスクに近づいた。主のいない机の真ん中に、小さな鉢植えが鎮座していた。こんな煙だらけの環境で生きているのは奇跡かもしれない。

 名前はよく知らない。多肉植物だとか何とか、マルコが言っていた。パイナップルの葉をつけ根からもぎ取って土に刺したような形だ。花も咲かない、こんな葉っぱだけの物を育てて何が面白いのかとも思うが、マルコのためにと、わたしは鉢に水を注ぐ。


 そのとき不意に、空気が動いた。狭くてごみごみしたオフィスを、すーっと涼風が吹き抜けていくような感じがした。 

 そんなことあり得ない。ここは地下二階だ、風なんか入ってこない。


 不思議な感覚に戸惑いながら振り返ると、開けっ放しの戸口に立つ、ダークグレーのスーツを着た少年が目に入った。


 その瞬間のわたしは、きっと口をぽかんと開けたひどい阿呆面をしていたことだろう。見とれてしまったのだ、その少年に。びっくりするぐらい、きれいな子だった。色白の顔の中の、涼しげな大きな瞳。通った鼻筋。微笑みの似合う優しげな口元。「貴公子」という言葉がぴったりくる。流行の長さに伸ばした髪は銀色で、彼が動くにつれてさらさらとなびいた。


 その子は、人相の良くないわたしの同僚の並ぶ過密気味のオフィスを恐れげもなく横切って、課長のデスクの正面までやって来た。


「きみがギルランか。……今日はきみに相談したいことがあって来た」


 とても歯切れがよくて、しかも横柄なしゃべり方は、繊細な外見と全然合っていない。


「ジュダ・タランティーニを検挙したい。力を貸してくれないか」

「ふわあ? タランティーニをですか」 


 予想外の展開に度肝を抜かれたのか、ギルラン課長はぼんやりした返答をした。


 これが噂のファルコ特任警視正か。十五歳と聞いていたけど実物はそれよりさらに幼く見える。家で宿題をしたり、マンマの焼き菓子を頬ばったりしているのが似合う感じだ。


 わたしは、開けっぱなしになっていた口を、努力してようやく閉じた。


「タランティーニを検挙したくない人間なんて、いるかしら? もちろんミネッティ署長やその取り巻き連中は別だけど」


 わたしの声は自分が思うより大きく室内に響きわたった。同僚たちの何人かが書類から顔を上げ、「おい、暴走はやめとけ」と言わんばかりに目くばせしてくる。


「あー……着任早々タランティーニに目をつけられたのは、さすがだと思いますよ、副署長。あの男はこのエストレミータ市の諸悪の根源といってもいい」


 ギルラン課長は、わたしの横槍をなかったことにするかのように、如才なくしゃべり始めた。


「市内最大の犯罪組織のボス。殺人、強盗、麻薬売買、売春、賭博、誘拐……あの男が陰で糸を引いている犯罪を数え上げたらきりがありません。末端組織の構成員まで含めると数万人のギャングやちんぴらを傘下に納めていて、その権力たるや実質、市長以上でしょう。タランティーニを検挙できれば、この街が相当きれいになることは間違いないですな。だが、そうもいかんのですよ。犯罪とあの男を直接結びつける、具体的な証拠が何ひとつないんでね」

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