第1話

文字数 1,976文字

 「別れてほしいの。」
 彼氏の家に遊びに行った数日後に私は別れを告げた。

 「観葉植物あるのオシャレだね。」
 「部屋に何か飾りになるもの欲しくて買っちゃった。」
 彼氏の部屋は綺麗に整頓されていた。特に興味があるとかそういうわけではないが、会話がないのも少々物寂しかったため、たまたま目を引いた観葉植物を話題にした。
 私の彼氏は真面目で誠実で世間一般的に言われる良い人だった。そんな良い人にたまたま私が好かれ、今は恋人関係に至っている。
 そういえば、前に知り合いの先輩が「観葉植物は天然の空気清浄機と言われている」と教えてくれたのを思い出した。その記憶のせいか今いる部屋の空気が日当たりの良さも相まって清らかに感じた。しかし、万人が好ましく思うであろうその清らかな空間を私はどうしても好きになれなかった。
 やっぱり忘れたくない―。
 そんな気持ちでいっぱいになった私は彼氏と何を話していたかはもうほとんど覚えていない。
 
 社会人になりたての頃、私は先輩の家に遊びに行ったことがある。
 「優ちゃん飲み会でも甘めのお酒飲んでいたよね?これでいい?」
 「わ!これ好きなんですよ。いただきます。」
 先輩が冷蔵庫から取り出したお酒は私の好きな味のものだった。ただ先輩がくれるなら味なんてどうでもいい。ただ私のために用意してくれた優しさが嬉しかった。
 先輩とは大学のゼミで一緒になり、その後も仲良くさせてもらっている。先輩はゼミで分からないことがあれば、自ら進んで色々と私に教えてくれた。それだけでなく、先輩の出身地や好きな音楽、映画、本、異性のタイプ。そして、人は恋をするとその人以外どうでも良くなることも私に教えてくれた。
 「今更だけど就職おめでと。仕事のほうはどう?」
 「まぁ、なんとかやれてます。」
  先輩がくれた酒缶とビールの缶同士で乾杯し、お酒を口に含む。浮遊感を感じさせる甘さが口の中に広がった。その浮遊感が身体を巡り、私に本音を吐かせた。
 「ただ周りの人はすごいです。」
 「ん?」
 「正直今の場所でやっていけるかどうか不安です。」
 暗い雰囲気にならないように笑いながら言ったが、この時の私の心は不安定だった。
 社会人になったばかりで、自分の不出来な部分に嫌でも向き合わなければならなかった。元々自分に自信のない私の自尊心は低くなっていた。
 「はぁ…。嫌になっちゃう。」
 ついポツリと本音が出た。いけない、こんな暗い女なんて先輩に嫌われてしまう。そう思っていると先輩は私の頭に手を置いた。
 「優ちゃんはえらいよ。」
 先輩の手が私の頭を撫でる。心地の良い感触が頭に伝わる。
 「就活頑張って、行きたい業界に行けて。優ちゃんが内定とったって聞いて俺も嬉しかったもん。」
 先輩の言葉と仕草は先輩に長らく会えなかった寂しさで心の隙間が出来た私を満たすのに充分過ぎるものだった。
  「先輩…。」
  「ん?」
 先輩の手が私の頭から肩に移る。
 「会えなくて寂しかったです。」
 そう言った私を先輩は微笑みながら見ていた。いつの間にか天井を背景にまるで愛しい者を見るような目をした先輩の顔が目の前にあった。少し目を閉じた隙に口の中はほんのりビールのような苦い味がした。

 私は先輩のベッドにあった毛布にくるまり、ただ呆然としていた。男女の間違いはこういう風に起こるということを身をもって教わったからだ。
 そんな私を横目に先輩は一仕事終えたように煙草を吸っていた。大学時代から先輩が喫煙者であることも持ち歩いている煙草の銘柄も当然知っている。他の男が私の近くで煙草を吸うのは不愉快だが、先輩は特別で、むしろ先輩が煙草を吸う姿を見るのも煙草の香りが鼻に運ばれるのも大好きである。
  しかも、その日はカーテンの隙間から漏れる月明かりが先輩の姿を照らし、その姿が今まで以上にとても綺麗だったのを今でも鮮明に覚えている。
  「辛い時はまた来なよ。優ちゃんなら歓迎するから。」
 煙草を吸い終わった先輩は私の横に寝転がり、まるで小さい子をあやすように私の頭を優しく撫でた。先輩から香る煙草の匂いが私を安堵させた。その日はそのまま目を閉じて、緩やかに夜が終わっていった。

 本当は先輩が私を好きじゃないことは薄々分かっている。本当に好きなら、あの後きっと連絡なりなんなりするだろう。でも、それがない。
 もういい大人なんだから先輩のことを忘れようと思った私はネットで知り合った男と付き合った。でも、好きになれなかった。
 先輩に愛されなかったという事実は悲しくて仕方がない。でも、他の男に愛おしい思い出を潰されるのはやっぱり嫌だった。先輩との日々、あの日月光に照らされ、煙草の香りを纏った先輩を今もこれからも忘れたくない。
  私は自分の心に埋まらない隙間があることを幸せと勘違いしながら生きていく。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

私。先輩からは「優ちゃん」と呼ばれている。

先輩。私の好きな人。

私の彼氏。真面目で誠実な人。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み