父親の背すじ

文字数 1,000文字

 怪我をさせたと聞いて、冷や汗をかいたが、ひざをすりむいただけと聞いて、思わず息を吐いたのがよくなかった。電話越しに安堵を感じた担任の声が昂る。「お父さん! 怪我の程度が問題なのではありません。問題なのは〇?△□■」すみません申し訳ありませんすぐに向かいますのでと電話を切る。やれやれ。
 娘を保育園からピックアップして、小学校までの坂道を電動自転車で登る。おやつ!と後ろから泣き声。前カゴで残暑に溶かされゆくアイス。揺れるたびに軋む卵のパック。額の汗が眼鏡の内側に落ちて視界が滲んだ。
 私は今、まあまあみじめな気持ちだが、さて息子は今どんな気持ちだろうか。

 息子が3歳のころ、わざわざ二人で近くの旅館に泊まった。窓から見える海や、家とは違う畳の匂いに、思いのほかはしゃぐ息子。それらの反応や信頼、甘え、息子のすべてを私は独り占めにした。その報いは夜にきた。息子は母がいないこと、知らない場所で寝ることに気づいて泣き出した。とにかく逃げ出そうと全身の力を駆動して、怒り、泣き叫んだ。今日は私と泊まるが明日には帰って母に会えるのだとなだめすかし、おやつで気を引こうとするも効果はなく、最後の手段の妻とのビデオ通話も、通話が終わればまた泣きじゃくる……私は無力さに打ちのめされた。
「もうかえる! かえる! ママとねる!」
 布団の上で暴れる息子が動きを止めたのは、数珠繋ぎでたまたま開いた電車の動画だった。大阪府南部、なんば駅と関西空港駅をつなぐ、青い鉄仮面じみたフォルムの特急列車ラピート。それを見た息子の目がやっと穏やかになった。就寝予定時刻はとうに過ぎていたが、私と息子はラピートの走る姿を追い続けた。やがて、息子がゆっくりと目をつぶっていき、安らかな寝息が聞こえてきて、私はその横に突っ伏した。眠る前に何とか首をねじり、可哀そうな涙のあとと、そして生まれてからずっと、今でも同じ寝顔がそこにあるのを見た。

 こういう思い出は、私の中の『父親の背すじ』を伸ばす。背すじが伸びると少し大事なものが見えるようになる。疲れや倦怠や嫌気が整理されて脇に置かれ、私は少し高い位置から現状を俯瞰できる。そうすると、もう少しだけ、私は頑張れるとわかる。あの寝顔を守るのが、今の私の一番だとわかる。
「さあ、のぼりなされ~」機嫌を直した娘の声。
「まかせなさい」
妻の選んだコスパ最強電動自転車はこんな坂、屁でもない。楽勝だ。
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