第1話

文字数 2,444文字

初めてバレンタインのチョコレートをもらったのはちょうど50年前の1972年。
中高一貫の男子校の高校一年生の頃であった。

男子校の卒業者の方ならご理解いただけると思うが、「男子校あるある」で最も普遍的な現象は、「同じ年頃の女性に対して自然な応対ができない」じゃないかと思っている。
思春期のデリケートな時期を男だけという歪んだ世界で過ごすと、プレイボーイか女の子の前ではガチガチに緊張する堅物かの大体2派に別れてしまい、バランスの取れた奴は少数だった。

私は「堅物」派のほうであったと思う。
小学校時代の同級生の女子ならともかく、たまに通学の電車の中などで元同級生の女子と偶然会い、その隣に初対面の女の子が一緒にいたりすると、妙に話しにくくなった。

高校一年の6月頃、電車の中で小学校の同級生の慶子に久しぶりに会った。慶子の隣には見知らぬ女の子がいた。制服が同じなので女子高の同級生かなと思った。
「順子、こちらは小学校の同級生の沢木君。彼女は同じクラスの順子、可愛いでしょ。」から始まって慶子が双方をアップテンポで紹介する。
「何か手慣れたオバサン仲人みたいなことを言うなぁ。」と私が言うと、
慶子が「えっホント。 イヤだぁ!」と赤くなる。
隣にいた順子も「私も慶子が何をする気かと心配になった。」と笑い、少し空気が緩んだ。

半月後、学校からの帰り道、発車間際の電車に飛び乗ったところ、偶然目の前に順子がいた。
声を出さずに口の形だけで「やあ。」と小さく挨拶して、近くの網棚にカバンを乗せたあと、つり革を握った。
「この間はどうも。」と言って順子がそばに来た。
「今日は慶子と一緒じゃないの?」と訊くと
「慶子は部活で遅くなるから、今日は一人。」
「そうなんだ。」男子校の悲しさでこれ以上の話題がすぐに思いつかない。
「ところで、君はどこの駅?」ようやく新たな話題を発見し、彼女に尋ねた。
「沢木君の次の駅。家までは駅から少し歩くの。」
とりとめのない話がしばらく続いて、電車が私の降りる駅に到着した。
なんとなくホッとして、「それじゃ」と言って電車を後にした。

順子とはその後も電車でたまに一緒になった。
彼女は慶子とは正反対の控え目なタイプなので、話を自ら盛り上げるようなことはあまりしない。
だから話の内容も、顔見知り同士がたまたま出会った時に交わす挨拶程度のものに終始した。

その年の暮れのある日、今度は慶子と駅のホームで一緒になった。
「ねえ、順子と時々帰りが一緒になることがあるでしょ。?」
「うん。たまに電車で。」
「順子からこの前聞いたけど、いつも挨拶ぐらいしかしてくれないと言っていたわ。可哀そうに。」
「どうして可哀そうなんだよ? 無視しているわけじゃないし、ちゃんと挨拶しているんだから。それが普通だろ。」
「勘が鈍いなあ。昔からその傾向はあったけど、男子校なんかに行くから悪化するのよ。」
「順子は沢木君の事が気になっているの。私は『あんなヤツのどこがいいの?』って言うんだけど、まあ、好みの問題だから。」言いたい放題である。
「だから順子は単なる知り合いじゃ寂しいの。もっと話がしたいし、話しかけてほしいのよ。」
「ふぅん。」虚を突かれていた。
「ねえ、ちゃんと話聞いてる?」
「聞いてるよ。でも、そう言われても、彼女のことは好きでも嫌いでもなくてフラット
なんだよ。」
「そのことは仕方がないと思うけど、もう少し親切に接してあげたら。 」
「あっ、それから、今日私が言ったことは順子には内緒よ。」

駅から自宅への帰り道、何だか気が重くなってきた。
相手が自分に関心を持っているということを知りつつ、自分は相手に特別な感情を持っていない場合、その女性にどう親切に接するべきかなんて、考えるだけで頭が複雑骨折しそうだ。

結局、順子に対する私の態度はあまり変わらなかった。
「親切に」と言われても、たまに電車で偶然に会うだけの相手に何をどう親切にするのか見当がつかなかった。


年が明けてから、突然順子から手紙が来た。
ところどころ、意味がよくわからない箇所もあったが、多分ラブレターである。
人生初の記念すべきラブレターであったが、感情のバランスが少し乱れているような文章だった。
だからすぐに返事を出そうとしたが、思いのほか難航した。
彼女の好意に十分に応えることはできないけれど、できるだけ自分の気持ちを分かってもらうためにはどう表現したらよいか。
また、彼女が少しでも前向きな気持ちになるきっかけになればいいが、何をどう書くべきか。
「せめて誠意ある手紙にしなければ」という思いで書き進んだ。
女の子にこんな手紙を書くのは初めてだったし、推敲を重ねてもなかなかうまく気持ちを表現するのが難しく、思いがけず長文になった。

翌朝、思いを込めてポストに投函した。

順子からの返事は1週間後に意外な形で伝えられた。
慶子から電話で呼び出され、駅前の喫茶店で待ち合わせた。
慶子は「順子に頼まれて電話したの。話は彼女から全部聞いたわ。彼女からの伝言は『ありがとう。沢木君の手紙を読んで心の整理ができたからもう大丈夫。だから心配しないで』だって。それから、『本当は会ってお話しするか手紙を書くか、どちらかにすべきだと思うけれど、まだ、うまく気持ちを伝える自信がないので』と言っていたわ。」と伝えてくれた。
少しだけほっとした。
「順子は手紙を繰り返し読んだみたい。実はその手紙も見せてもらったけど、涙で便箋が変形していたわ。」
「でもね、あの手紙、何ていうかちょっとすごい手紙だった。ああいう手紙、私もいつか貰ってみたいな。でも振られる内容じゃダメだけど。」

喫茶店から出た時に、「男子校に行っても少しはマトモになってきたじゃない。」とありがたいお言葉を賜った。


その直後のバレンタインデーに、順子から短いけど心に響く手紙がチョコレートとともに郵送されて来た。
「兄貴も意外にやるじゃない。」と弟にからかわれながら食べた彼女からの最初で最後のチョコレートのほろ苦さは今でもよく覚えている。
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