第十一話:八神の魔術師

文字数 3,952文字

 倫子の駆る「アルテッツァ」が八神の下りを疾駆する。
 彼女にとってはまだまだ全開と言えないのかもしれないが、それでもかなりの速度である。
 リアシートに座る眞琴は、身体が転がらないよう姿勢を保つのに必死だ。
 しかし、それでも彼女はフロントガラス越しに見える風景から目を離そうとはしなかった。
 ひょっとしたら、目の前のコーナーを抜けた先で翔一郎の「レガシィ」がクラッシュしているかもしれない。
 そう考えると、とてもではないが余所見をしている暇などありはしなかったからだ。
 だが行程が進むにつれ、眞琴は徐々に違和感を覚え始める。
 いつまでたっても「レガシィ」の姿が見えてこない。
 そのことが、眞琴にとってどこか不自然な現実として認識されだしたのだ。
 体感できる横Gから想像できるとおり、倫子は、かなりのハイペースで峠道を駆け抜けている。
 にもかかわらず、先行している「レガシィ」のテールランプを視界の端にすら捉えられないのは、いったいどういうわけなんだろう?
 確かに加奈子の「アルテッツァ」は、翔一郎の「レガシィB4」と比べると格段に非力だし、足回りもスポーツ走行に振ってあると言い難い。
 だけど、いま「アルテッツァ」を運転しているのは「青い閃光」三澤倫子そのひとだ。
 ド素人の代表格みたいな翔一郎とはドライバーとしての格が違う。
 クルマが持つ多少の性能差など問題にすらならないはずだった。
「やっぱり変だ。何かおかしい」
 加奈子の携帯電話が着信メロディを奏でだしたのは、眞琴がそう呟いてからすぐのことだった。
 純からだわ、と加奈子は告げて電話を取る。
 眞琴はそれを聞くと、緊張の余り、ビクリとその身を震わした。
 バトルの開始地点に現れなかった「ロスヴァイセ」のメンバー長瀬純は、いまギャラリーの面々に混じってコースの中間行程付近に陣取っているはずだった。
 翔一郎による代走が決まった直後、仕事の都合で間に合わなかった彼女に倫子本人が依頼したのだ。
 その純から届いた不意打ちに近い一報は、「アルテッツァ」の車内温度を確実に数度引き下げた。
 つまり、トラブル発生の予感である。
 眞琴は、翔一郎が事故を起こしたのでは、と身体全体を硬直させた。
 そして、会話の途中、加奈子が「えェッ!」っと驚きの声をあげたことで、その悪い予感が的中したものだと思い込んだ。
 コース途中からの緊急連絡なんて、ほかの理由からは考えられない。
「翔兄ぃが事故ったんですね!」
 最悪の状態も想定して、眞琴はその身を乗り出した。
 倫子が二台のあとを追ったのもこうなることを予測してのことだったのか、と自分勝手に納得する。
 しかし、加奈子はそんな眞琴に向かって首を左右に振ってみせた。
 仰天のあまり感情を失ってしまった眼を眼鏡の奥に貼り付けたまま、機械的に彼女は言った。
「レガシィがセブンの後ろを突っついてるって」
 その言葉がいったい何を意味するものなのか、眞琴の頭脳が理解するのにたっぷり数秒の時間がかかった。
 翔一郎の「レガシィ」が芹沢の「RX-7」のすぐ後ろにいる。
 それは、両者の戦いが接戦になっているという事実にほかならない。
「うそォッ!」
 頓狂な叫びが眞琴の口から飛び出した。
 それは、彼女の中では完全無欠に想定外の出来事だったからだ。
 眞琴だけではない。
 両の眼を丸く見開いたままの加奈子もそうなのだろう。
 そして、おそらくは報告を入れてきた純も。
 それほどまでに芹沢対翔一郎という対決の結末は一方的なもの、翔一郎の勝利どころか善戦すら微塵も考えられないものなのだと思われていたのだ。
 その、希望的観測の入る余地などどこにもない、確実に訪れるはずの未来。
 あろうことか、それが覆されたのである。
 たとえ猫がワンと吠えたところで、彼女らの受けたこの衝撃には及ぶまい。
 だが倫子は、彼女だけは違っていた。
「当然よ」
 平然と胸を張り、倫子は言った。
「あのひとは、『ミッドナイトウルブス』のミブローなんだから」
「えッ!」
 少女の喉からさらなる驚きが迸った。
「『ミッドナイトウルブス』って、あの!?」
「そうよ!」
 その感情を倫子がすぐさま肯定する。
「かつて常勝不敗と謳われた伝説の走り屋集団『ミッドナイトウルブス』 そして、その中でもなお別格と言われた男。変幻自在の戦法で『八神の魔術師』と渾名されたチーム最強の参号機が壬生さんよ!」
 興奮気味に彼女は語る。
 隠しきれない喜色が、その表情に溢れかえっていた。
「脚を洗った? もう興味がない? よく言えたものだわ。現役バリバリじゃない! いまの走りがそれを証明してる!」
 伝説の走り屋・ミブロー。
 それが、倫子が知っていて眞琴が知らなかった翔一郎の持つもうひとつの顔だった。
 眞琴にとって、それはあまりに衝撃的な事実だ。
 彼女の知る壬生翔一郎とは、付き合いがあることを他者に自慢できる存在では決してなかった。
 確かに莫迦げた行為に手を染める人物ではないが、その反面、周囲をあっと驚かせる快挙を成し遂げることもまた、これまでにあった試しがなかったからだ。
「信じられない……」
 自失しながら眞琴が呟く。
「あの翔兄ぃが、そんな凄い走り屋だったなんて……」
「誰にだって、知られたくない過去のひとつやふたつはあるものよ。たとえそれが肉親同然に接してきた女の子に対してであってもね」
 壬生翔一郎をほかの誰よりも知っている。
 いやむしろ、知らないことなんて何もない。
 そう自負していたことが実は単なる思い込みに過ぎなかったという現実を突き付けられ、複雑な表情を浮かべる眞琴。
 倫子の発言は、そんな少女に対する一種の慰めにすら近かった。
 だが次の瞬間、彼女の眼差しは遠く前方を疾駆している翔一郎へと向けられる。
 失われたはずの伝説がいまに蘇ったのだ。
 体中の血液が沸騰寸前に思えるほど、おのれの中に闘争心がみなぎってくるのを倫子は感じた。
 知らず知らずのうちに饒舌となる。
「眞琴ちゃん。八神の表コース、いまの区間記録ってどれぐらいだったかおぼえてる?」
 唐突に倫子が話題を切り替えた。
 はっと顔を上げた眞琴が、少し考え込んでからそれに答える。
「え~と、確か四分二十六秒台だったかな」
「そう、去年の夏、ランサー・エボリューションⅨが叩き出した四分二十六秒〇三が公式的な最速記録よ」
 眞琴の回答に大きく頷いて倫子は言った。
「でもね、『ミッドナイトウルブス』のミブローが出した非公式タイムは、四分二十三秒台前半なんですって」
「に、二十三秒台ッ!」
 具体的な数字を示されて、眞琴はあんぐりと口を開けた。
 それも当時のクルマとタイヤでね、という倫子の補足が、たちまちそれに追い打ちをかける。
 当時――つまり新世紀初頭における走り屋グルマの性能は、昨今のモンスターどもとはまるで比べものにならない。
 かつて走り屋どもを熱狂させ、いまでも一部でカリスマ的な人気を誇るトヨタのAE-86型、通称「ハチロク」にしたところで、その心臓部が発揮する実馬力はせいぜい百馬力強がいいところ。
 下手をすれば、現行のファミリーカーにすら劣る代物でしかなかったのである。
 世代が変わるごと進化し続けてきたタイヤについても、似たようなものだ。
 ひとむかし前に現役だった競技用タイヤが、最新の高性能ラジアルタイヤの後塵を拝むようになってもう久しい。
 そんな時代のクルマとタイヤで現在でも一級品の戦闘機を相手に三秒差を付けて勝利するとは、翔一郎が持つテクニックとはいったいどれほどのものなのだろうか。
 何せ、三秒あれば時速六十キロで走るクルマでさえ五十メートルの距離を進むのである。
 疾走するクルマ同士の車間距離に直したなら、その差はまさに「ぶっちぎり」だ。
「『八神の魔術師』……」
 いままで想像もしてこなかった翔一郎のスペックを思い浮かべて、眞琴の喉がゴクリと鳴った。
 加えて、翔一郎の「レガシィB4」が見かけどおりのクルマではないということを、倫子は水山店長から聞いて知っていた。
 彼の愛車は、各所に相応の手が加えられ走行性能の大幅な底上げが図られてあったのだ。
 確かに駆動系こそ純正のトルコンATのままであったが、エキゾーストマニホールドを含めた排気系は効率のいいメタルキャタライザー式の製品へと総交換されており、社外品のスポーツECUとピックアップ重視に調整されたブーストコントローラーによって絞り出される最大出力は、カタログ値を一割以上も上回る三百馬力。
 そして、それを受け止める足回りはラリーで鍛えられたオーリンズ社製のダンパーを仕様変更したもので、ワインディング用、おそらくは八神街道向けのセッティングが完璧に施されてあった。
 車体の各所にもさまざまな補強や軽量化がなされており、サーキットを本気で走るマシンには到底及ばないとはいえ、公道向けのクルマとしてはかなりの戦闘力を発揮するものと予想された。
 少なくともノーマル車の比ではない。
 もちろん、芹沢の「RX-7」に真っ正面から立ち向かえるようなクルマでないことは倫子にもわかっている。
 しかしそのハードウェアとしての実力が、過去に翔一郞が使っていたクルマと比較して勝るとも劣らないレベルにあることもまた、彼女は現実として認識していた。
 ならば、八神で翔一郎を相手に勝利するためには、現在の区間記録を塗り替える覚悟が必要となるであろう。
 いかに芹沢聡が凄腕でその乗機の性能が高かろうとも、それは飛び込みに等しい余所者が容易く成し遂げられる快挙ではありえない。
「あいつの驚く顔が目に浮かぶわ」
 まるで他人事のように倫子は笑った。
 それは、勝利を確信した者だけが見せる余裕の笑顔であった。
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