どうか聞いてくださいませんか

文字数 1,181文字

 わたくしはあの方を愛しております。ええ、愛しているのです。お疑いになるのもまた当然のことであるのやもしれません。けれどもええ、ええ。あなたがたがわたくしの思いの丈をどう断じようとも、わたくしには全く関わりのないことなのです。わたくしがあの方を愛している。その事実を揺らがすことは、仮令あのひとにだとてできぬことなのです。
 あのひとは誰にでも平等でありました。乞食にもお貴族さまにも分け隔てなく、わたくしのような者にまで労りの言葉をくださいました。そういうあの方をわたくしは慕い、敬い、そうして心底憎んでおりました。そのすべてが正しく愛であったのでした。
 あのひとは誰にでも平等でありました。いつも薄く穏やかな笑みを浮かべ、皆に心底愛おしいという表情と口ぶりで話しかけました。けれども、ええ。わたくしは知っております。その実あのひとは誰一人としてそのお心の裡には立ち入らせなかったのです。誰にも興味がないだけであったのです。そうであればどうして人の子が、毎日同じ顔をして生きていられましょう。あのひとの心は、ずうっと死んでいたのです。あなたがた皆が、あのひとが、ただそれを知らないでいただけなのです。
 そうなのです。ええ、そうなのです。あのひとのお心は、もうずっと前に死に絶えてしまっていたのでした。わたくしが小さいころに向けてくださった、あの嫌悪に歪んだ表情を、もう二度と見せてくださらないのはそういうわけです。後にも先にも、あのお顔を見たのはあの時きりでした。わたくしだけ。そう、あのひとにお仕えするかたわら、わたくしはずっとあのひとを見ておりました。行儀のよいことではなかったのかもしれません。わたくしには出過ぎた振舞いだったのかもしれません。けれども、そのようなことは些事でした。あのひとがわたくしにくださる愛を確かめることができるという、何事にも代えがたい至福の前では、些事に過ぎなかったのです。
 ええ、間違いなく愛でございました。あのひとが、どのような人間にもひとしく同じものをお与えになるあのひとが、わたくしだけにくださったものが、愛以外の一体何であったでしょう。
 あの歪んだ顔。ずくりと胸が刃で貫かれたような心地がいたしました。それほどの愛をわたくしに与えたこともすっかり忘れて、あのひとはわたくしに毎日わらいかけるのです。あの顔で。誰にでも与えている、まったくもって価値のないあの笑顔で!
 ですから。そうです。ですからわたくしは、あのひとにも同じ愛を返して差し上げたのでした。穢れなきあのひとですから錆びついた刃で、その心の臓までわたくしの愛を届けて差し上げたのでした。
 そのときのあのひとの顔、ですか。ああ、なんて厭なことをお聞きになるのでしょうね。
 あのひとは、あのひとは結局最期の最期まで、わたくしにあの愛をくださることはなかったのです。
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