第1話

文字数 1,722文字

 それにしても遅い。
男はごつごつした岩が波間に見えて、白い波頭がはじかれ、泡立つ海の先に黒い点が現れぬかと今か今かと待っていた。
 この島についてすぐに辺りの砂浜を整地すると、この小さな岩の上で座って待つときめて、緊張して長い刀を腰に差したままにしていたが、なかなか相手が現れないので腰差しは横に立てかけてある。
 申の刻から遅れるのはわかっていた。それでもじりじりしてくる。それが相手の常套手段だ。それでもそろそろ日がかげってきて、日が暮れるのではないかと心配になってくる。
 日が完全に暮れて相手が見えなくなってしまっては決闘もなにもない。どちらが夜目が効くか、相手の気配を察知する能力が高いかになってしまう。それは避けたかった。
 それとこの島の岩場に来たとき、舟底を激しくぶつけ、穴をあけてしまった。これでは沖には出られない。出るとたちまち沈んでしまうだろう。今、その舟は浅瀬の岩に挟まれてゆらゆら揺れているだけ。それゆえになんとしても敵には来てもらわねばならなかった。いや、あの天下に轟く名声の持ち主なら、約束を反故にすることはないだろう。
 それにしても……。
 あまりにも海に変化はなく、暗くなるいっぽうなので、潮風を受けながら、いつしかこれまでの人生をふりかえっていた。
 あまりにもその思索に耽って、舟に乗った者が近づいてきているのを気付くのに遅れた。慌てて刀を腰に差して立ち上がった。
 敵は器用に舟をあやつり、岩の間をぬって、浅瀬の岩の間に停めた。さいわい相手の表情がわからないほどには暗くない。
 それにしても身のこなしは軽快だが、見た目は予想以上に皺が刻まれ、白髪も多い。
 敵は跳び下り、波打ち際に上がってきた。
「たいへん遅れもうした。すまぬ。実は――」
「言い訳問答無用! 日が落ちぬうちに決着を!」男はさっと長剣を抜いた。
そして鞘を腰から抜いて捨てる。
「小次郎、破れたり!」
という声を待った。だが、なかった。
 老侍はうむとうなずくと、腰の刀に両手をかけてさっと引き抜く。それは大小の名刀。これが天下に知れ渡った宮本武蔵の二刀流。
その名刀は妖しい輝きを放っている。
 望むところだ。
 武蔵は海を背にしていたが、右回りに浜辺に上がってきた。
小次郎は逆に海側に足を進める。
 しかしどこにも隙がない。こちらが少しでも刀を出せば、あっというまに斬られそうだ。
 小次郎は海側に回りつつ、武蔵との間をつめていた。海から風を背中に感じる。あとすこし……。今だ! 小次郎は刀を回して砂をかきあげた。
 すると武蔵はさっとよけた。だが足をとられ、よろけた。
 小次郎がこの島へ来てすぐ足元をとられるよう小さな穴を作って大きな葉をかけ、わかりにくいように上から砂をかけておいたのだ。
「親の仇!」
 小次郎は武蔵に素早くつめより、長刀を振り下ろした。手応えはあった。
 倒れた武蔵の着物は裂かれ、老いた肌が見えたかと思うと、紅の潮が噴き出してきた。
 倒れた武蔵の手には刀はなく、胸を押さえていた。
「小次郎殿、見事であった。父君も喜んでいるであろう」
 小次郎は武蔵を抱きかかえた。まさか武蔵に勝てるとは思っていなかった。父の名を継いで武蔵を討つため、仕留めることだけを夢みて修行を積んできたが、勝てる気がしなく、この巌流島で父と同じく剣豪宮本武蔵の手にかかって命果てる所存だった。それが……。
「拙者の舟に生涯をかけて編みだした五輪書がある。あれをお主に託す。どうか収めてほしい」
「そんな……」
「お主のことは気にかけていた。いずれ会いたいと望んでおった。これで思い残すことはない」と言うと武蔵は目を閉じた。
 小次郎の手にはどろどろした液体がまとわりついた。それはもはや赤くはなく、黒く見えていた。武蔵はぐったりとして、もう一寸も動かなかった。小次郎はしばらくそのまま茫然としていた。
 小次郎は武蔵の横に身を投げ出し、夜を明かした。星がぶちまけたようにたくさんあったことだけが残った。
 翌朝、島の中央に穴を掘り、武蔵を埋め、墓を作った。
 小次郎は武蔵が乗ってきた舟の底に五輪書の包みがあるのを確認し、沖に出た。
 巌流島の奥にいる宮本武蔵にむかって手を合わし、涙するのだった。
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