第1話 譲れない約束

文字数 4,046文字

 公園の方から子供の泣き声が聞こえてきた、余りにも異様な泣き方にスーパーの入り口に向かっていた足が止まる。

 最近、この近くで幼い女児が連れ去られる事件があったのを思い出す。変質者による犯行じゃないかと近所で噂になっていた。

 少し悩んでから、念のため確認に行く事を決めた。

 公園はスーパーの目の前に併設されているし、年老いた私には先を急ぐべき用事など何も無かったからだ。

 公園内に入ると、ジャングルジムの横で泣いている女の子が見えた。隣には派手な見た目の若い女が立っていた。

 女がヒステリックな声を上げる。

「それならずっとここにいればいいでしょ、お腹空かして死んでも知らないからね!」

 余りにも乱暴な言葉に耳を塞ぎたくなる。

 公園内にいた子供達は立ち止まり、様子を伺っている。

 女は周りの目を気にする事もなく、腕を組みながら女の子をさらに怒鳴り続ける。

 周りを見渡したが他に大人の姿は見当たらない。おそらくスーパーで買い物中なのだろう。

 痛む腰に手を当てながら、出来るだけ急いで二人の元に向かった。

「あの、すみません」

 女は驚いたように振り返る。目の奥にどこか不安を感じているようにも見えた。

「何ですか?」

 笑顔を作り、出来るだけ優しい声を出すよう心掛ける。

「ごめんなさいね、なんだか子供の泣き方が少し異常だなって思って。お節介な年寄りは嫌われるって分かっているんだけどね。つい我慢できなくて」

 女は眉を吊り上げ、舌打をした。

「うちの教育方針に口出ししないで下さい、あなたみたいな老婆に何が分かるんですか!」

「実はね、私は少し前まで幼稚園の園長をしていたのよ。子供の扱いには慣れてるから、何かお手伝い出来るかなって思ったの、老い先短い年寄りの我儘だから許してね」

 女の子の前にしゃがむとハンカチを鞄から取り出し、汗だくになったおでこと涙を拭いてあげた。

 女の子にゆっくりとした口調で話し掛ける。

「お名前は何て言うの?」

 女の子は鼻をすすりながら「ゆかり」と答えた。

「ゆかりちゃんって言うんだ、何歳?」

 今度は答えずに、指を四本立てた。

「四歳なのね、ちゃんと答えられて偉いわね」

 女は周りをきょろきょろと見渡しながら、苛立たしげに片足を小刻みに動かしている。

「すみません、急いでいるのでもう行きます」

 再び女は子供の手を強引に引いた。

 その瞬間、女の子は大きく口を開けて、金属を引っ掻いた様な泣き声を上げた。

「バアバ来るまで公園にいる!」

 泣きながらも女の子は必死な顔で訴える。

 女はヒステリックに叫び返す。

「バアバは来ないって言ってるでしょ! 何度言ったら分かるの、馬鹿なんじゃないの!」

 立ち上がり、二人の間に割って入る。

「まあまあ、落ち着いて。ねっ、良かったら、揉めてる理由を教えて下さらない? こんな老婆にでも話せば気持ちが落ち着くかもしれないわよ」

 女は口元に指を置いて少し考える素振りを見せた。大きなため息を吐いてから早口で事情を話し始める。

「昨日、母が、この子にとってのお婆ちゃんが、この公園で一緒に遊ぶ約束をしたんです。でも、急用で来れなくなって、私はスーパーに買い物をしに来ただけなのに公園で遊ぶって駄々をこねられて、アイスを買ったから早く帰らなきゃいけないのに。それで怒ったんです」

「なるほどね、そういう事情だったのね。話してくれてありがとう。大変だったわね、あなたの気持ちよく分かるわ」

 その時、女の手を振りほどいて女の子が足にしがみついてきた。衝撃で後ろに倒れそうになるのを何とか堪えた。

 女の子の汗で濡れた頭を優しく撫でてあげる。

「大丈夫よ、ゆかりちゃんの気持ちもよく分かるわ。バアバと約束したものね」

 女の子は何度も頷く、足にしがみついている腕にさらに力が加わった。

「バアバ来るまでどこにも行かない! バアバと約束したもん!」

「そうよね、約束したものね。でも、アイスも溶けたら大変だわ。さあ、どうしたらいいかしらね」

 微笑みながら女に視線を向ける。

「今日は車で来たのかしら?」

 女は困惑した表情を浮かべる。

「はい、そうですけど。なぜですか?」

「それじゃあ、車までゆかりちゃんを抱っこさせて貰えないかしら?」

「いえ、そんな、悪いですよ」

「私が抱っこしたいだけなの。ねっ、お願い」

 少し悩んだ後に女は小さく頭を下げた。

「じゃあ、すみません。お願いします」

 もう一度しゃがみ込み、女の子と視線の高さを合わせる。

「私もバアバなんだけど、ゆかりちゃんのこと抱っこしちゃダメかな? 偽物のバアバじゃ、やっぱりダメかな?」

 女の子は真剣な顔で見つめてくる。きっと小さな頭で必死に考えているのだろう、少し間が空いてから小さく呟いた。

「バアバなら、いいよ」

「ありがとうね、少しだけ偽物のバアバで我慢してね」

 女の子をゆっくり抱き上げて、駐車場に向かって歩き始める。久しぶりに感じる子供の重みに懐かしさを覚えた。

 女はすぐ横を歩きながら、急に頭を下げてきた。

「さっきは失礼な事を言ってしまい、すみませんでした。言う事を聞かなくて苛々してしまって」

「いいのよ、全然気にしてないわ。子育て中は気が張ってストレスが溜まりやすいのは良く分かってるから」

 女の声が次第に震え始めた。

「あの、やっぱり、私には無理です。母親になる資格なんてありません。上手くこの子を育てる自信が無いんです。だから、公園に」

 女の声に被せるように優しく声を掛ける。

「もうあなたは立派な母親よ、私が保証するわ。それだけ悩むって事は、この子の事を大事に思ってる証拠なんだから」

 横から嗚咽が聞こえてくる。

「そうなんでしょうか。そう言ってもらえると、なんだかほんの少しだけ自信が持てました。ありがとうございます。あなたの言葉で決意が固まりました、やっぱりもう一度子育て頑張ってみようかと思います」

「頑張って、あなたならきっと出来るわ」

 女は一台の車の前で止まると、後部座席のドアを開けた。女の子をそっと中に入れる。

 なかなか体から離れてくれなかったので、優しく女の子の手を解いた。

 少し心配そうな顔でこちらを見つめる。

 最後にもう一度だけ、頭を撫でる。

「本物のバアバに会えるから、偽物のバアバとはここでお別れね」

「バアバに会える? 約束できる?」

「もちろん、すぐに会えるわよ。じゃあ、偽物のバアバとも約束しようね」

 小指を絡めてゆびきりげんまんをした、女の子は初めて笑顔を見せてくれた。

 車の後部座席のドアをゆっくりと閉める。運転席の横に立っていた女の肩に手を置く。

「上手くいかない事や失敗する事もあるだろうけど、あなたなら絶対に乗り越えられるわ。さあ、早く帰らないとアイスが溶けちゃうわよ」

「ありがとうございます。もし、失敗しても何度でもやり直せば良いだけですよね」

「そうよ、その調子で頑張ってね!」

 女は深々と頭を下げると車に乗り込んだ、後部座席の窓からこっちを見ている女の子に手を振る。

 遠ざかって行く車を見送り、再びスーパーへと向かった。

 久しぶりに子供と触れ合って、何だか元気を貰った気がした。

 しばらく顔を見ていない孫にも久し振りに会いたくなってきた。

 家に帰ったら息子夫婦に電話をして、今週末に会えるか聞いてみよう。

 多少の我儘は年寄りの特権だろう、孫の好物である天ぷらを振る舞うのも良いかもしれない。

 何だか年甲斐も無くワクワクとしてきた。

 公園の横を通り過ぎる際に、またしても女性のヒステリックな声が聞こえてきた。

 珍しい日もあるものだなと、思わず笑ってしまった。

 どの母親もみんな悩みながら子育てをしているのだろう、その過程で自分も成長していくのだ。

 子育ての先輩である私には、話を聞いてあげて励ます事ぐらいしか出来ないけど、理解してくれる人がいるって分かるだけでも気持ちが楽になるものだ。

 もう一度、公園の入り口に向かって歩き始める。

 ジャングルジムが見えてきた、その横で同年代ぐらいに見える老婆が大声を上げていた。

 てっきり若い母親が子供を叱っているのかと思っていたのに、面食らってしまった。

 周りにいる子供たちは怯えた目で老婆を見ている。

 老婆がこちらに顔を向けた、白髪頭を振り乱しながら猛然と走ってくる。

 逃げ出したかったが、先程子供を抱っこした影響で膝が震えてしまい思い通りに動かなかった。

 真っ直ぐ向かってきた老婆に腕を掴まれた。

 皺だらけの顔に付いた両目は大きく開かれており、口からは涎が垂れ落ちていた。

「女の子を見ませんでしたか! 四歳の女の子で、ゆかりという名前なんです!」

「あぁ、ゆかりちゃんですね。落ち着いて下さい、その子なら大丈夫ですよ。あぁ、そうか、もしかしてゆかりちゃんのお婆様ですか?」

「そうです、ゆかりの祖母です。それでゆかりは、ゆかりはどこにいるんですか?」

 にっこりと笑顔を返す。

「安心して下さい。ついさっき、お母様と一緒に車で家に帰りましたよ。せっかく公園まで来たのに入れ違いになっちゃいましたね。ゆかりちゃんはお婆様に会えるのをとても楽しみにしていましたよ」

 老婆は膝から崩れ落ちた。顔を上げたかと思うと小さな体から出たとは思えない声で叫んだ。

「誰か警察を呼んで!」

 慌てて横にしゃがみ込む。

「どうしたの? ちょっと落ち着いた方がいいわよ。母親が迎えに来ただけじゃないの」

「娘は今の時間まだ仕事をしているし、車の運転免許を持ってないのよ。その女は誘拐犯よ!」

 全身が一気に冷たくなる、足に力が入らず尻餅をついた。

 老婆は子供のように泣き叫んだ、その顔には微かにゆかりちゃんの面影があった。

「絶対にバアバ以外の人と公園の外に出ちゃダメって、あの子と約束したのに!」

 女の子は知らない人に連れ去られる恐怖の中で、最後までバアバとの約束を守っていたのだ。

 その努力を無意味なものに変えたのは私だった。

 女の子と約束を交わした小指を見つめる、痩せ細った指は小さく震えていた。
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