文字数 1,444文字

 美香子は進学のために故郷を離れ、一人暮らしをはじめて十年になる。
 大学に通いやすいことだけを考えて借りたマンションだったが、就職してからも特別不便を感じることなくずっとここに落ち着いている。
 二ヶ月前、美香子の住む部屋の隣に、同じ年くらいの男性が住むようになった。
 ある朝、玄関ドアを開けて外に出ると、バッタリその男性に会ったのだ。会ったというよりも、隣の男性がドアの鍵を閉めているところに出くわしたのだ。
 とっさに「おはようございます」と挨拶したが、こちらを見向きもせずに歩いて行ってしまった。あっけにとられて見送ったが、無視されたことに少し心が傷ついていた。
 そんなことがあって、毎朝、隣の玄関ドアが開く音が聞こえたら、しばらく待ってから外出するようになった。

 ある夜、いつものように柔軟体操をしていると、隣の部屋からコンコンと音がした。まるでドアをノックするように、壁越しにノックする音だ。
 何かの合図? それとも柔軟体操がうるさかったの?
 その夜は体操もそこそこに、すぐに床についた。
 ところがその後、たびたびノック音が繰り返されるようになった。やはり迷惑行為の警告音なのだろうか。
 初回の挨拶無視といい、隣の男性がストレスに感じるようになっていた。
 ここに長く住んでいてトラブルとは無縁だったのに、今まで通りの生活ができなくなるのではと不安になった。

「三階のあの部屋は空き部屋ですよ」
 マンションの一階管理室の前で、男が荷物を抱えている。
「えっ、そうなんですか? 荷物の宛先はここの住所なんだけどな……」
 運送業者らしい男の困った声が、ホールに響いている。
「あそこはしばらく空き部屋になっています」
 管理人が念押しのように言い放った。
 そのやり取りを横目に、美香子はエレベーターに乗ると妙な気分になった。三階は美香子の住んでいるフロアだ。
 あのフロアに空き部屋なんてあったっけ? 二ヶ月前までは隣が空き部屋だったよね。
 三階の空き部屋って隣のこと? だとしたら、あの男の人は誰? そして、夜になるとどうしてあんな音がするの?
 考えているうちに、おかしな妄想と不安が押し寄せてきた。それらをかき消すかのように、美香子は部屋に駆け込んだ。

 それからしばらく経ったある休日、部屋で昼寝をしていると、玄関ドアがガタガタ鳴る音で目が覚めた。
 施錠した鍵が開けられ、誰かが部屋に入ってきた気配がする。美香子は、恐ろしさから身構えて、壁際でじっとしていた。
 入ってきたのは隣の部屋の男性と作業服の男だった。部屋の鍵を持っているということは、作業服の男は管理会社の人間だろう。
 それにしても、なんの連絡もなく人の部屋に無断で入るなんて許せない。美香子は男たちをにらみつけていた。
 そんな美香子を気にするそぶりもなく、ふたりで部屋の中をぐるりと見回している。
「隣は空き部屋だと聞いていたので不思議だったんですよ」
 隣の部屋の男性が作業服の男に訴えている。
「夜、外から眺めると部屋に薄明かりが見えたり、しばらく前からは、ザーと壁をこする音がするんです」
 作業服の男は、隣の部屋との壁の状態を調べていた。
「浮浪者でも入り込んでいるのかなと思って、壁を叩いてみたんですけど反応はなくて。かといって音が止むわけでもなく気味が悪くて」
 作業服の男は、ふう、とため息をついて男性に向き直ると静かに言った。
「この部屋は、三年前に若い女性が自殺してから借り手がなくてね……。そう、いわゆる事故物件なんですよ」


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